活躍する同窓生

Clark's Spirit

竹鶴 威氏
たけつるたけし
村山 紀昭氏
むらやまのりあき
1949年工(応用化学)卒
ニッカウヰスキー株式会社
取締役相談役
1965年文(西洋哲学)卒
69年院文(博)修了
北海道教育大学学長



贅沢な学び舎

竹鶴 威氏

 北海道にあこがれ、北大にあこがれて本州からわざわざ北大に進んだ人も多い。
 海道のイメージは、広々とした、清々しい、何処か違う新天地の雰囲気がある。寮歌『都ぞ弥生』にも、「星影冴かに光れる北を 人の世の 清き国ぞと あこがれぬ」とある。
 は広島県に生まれ、縁あって戦後北大工学部応用化学科に入学した。当時は旧制大学であり、しかも入学した時は帝国大学であった。
 は応用化学科に入学して大変幸せであったと思う。応用化学科は戦時中の昭和十三年、燃料工学科として発足、戦後応用化学となり、一学年定員十人、三学年合せて学生わずか三十人、新しい学科であった。五講座の教授五人は全員東大出身の方であり、古い学制の象牙の塔にこもった雰囲気は全くなく、先生と学生が和気あいあいとおつき合い出来た。卒論も一教授に学生二人ずつ、教授室に勝手に入り込んで駄弁ったりしたこともあった。学生三十人に職員が教授以下五十人おられ、誠に贅沢な学び舎であったといえる。

神威岬では一晩中つりをしたこともありました

 時、学生運動で授業料値上反対を唱えたことがあったが、その理由が振るっている。学生の払う授業料は大学の総経費の僅か二%にしかならない、それを値上げしてもしれている、その僅かなことで学生を苦しめるなという理屈であった。長い人生の中で、僅か三年間のことであるが、懐かしい思い出は尽きない。
 
 
中島みゆき「異国」

村山 紀昭氏

 語では「母校」という日本語の語感にぴったりとしたことばはないようだ。私自身、母校とか同窓とかとは意識的に遠いところで生きてきたと思う。勝田守一の言だったろうか、日本の近代化と教育は、故郷や母校から離れるところで成立ってきたのだ。
 学を出て三十年近く、学生時代には思いもよらなかった教師養成の世界に生きてきた。そして、無我夢中で生きているうちに、中島みゆきの歌ではないが、母校はまさに「忘れたふりを装う『異国』」となっていた。
 るさと(母校)に、「帰り支度」をしようとは思わないし、ましてそこに「靴をぬぐ場所があけてある」とも思わない。ただ、無性に何かを語りたい気持ちが年とともに増す、みゆきの歌とは違った形で。

最初の留学生(ロンドン大学日本語学科)
10人と北海道教育大学正面にて
(1987年,右端が筆者)
 大って何なんだ、 everything or nothing? あるいはひょっとすると something?
 ま、大学とくに国立大学が揺れに揺れている。その中で、各人が各人なりの something を見つけ主張するときではないだろうか。果たして something があるかないか、という問いかけさえも根底において。
 海道という地べたにがっちりと根っこをおいてこの問いを問い続けたい。そのかぎり、母校はやはり「異国」のままであり続けるのかもしれない。たしかに、シベリア街道の中頃にあった暗い文学部図書室での司書さんとの語らいのように、時に「ふるさとの話はあたたかい」にしても・・・。