活躍する同窓生

Clark's Spirit

門田 元
かどた はじめ
遠藤 昭雄
えんどう あきお
1944 年農(農業化学)卒
1948 年院特研生中退
京都大学名誉教授
1970 年法(法律)卒
文部省体育局長
 



雑  感

門田 元

 京都一中の生徒であった1930年代の中頃は、京都北山や比良・鈴鹿の山々をネットを持って歩きまわる昆虫少年であった。昆虫を追ってのその行動半径は次第に広がり、日本アルプスの高い山々へも足をのばすようになり、高学年では山そのものへの関心が急速に深まっていった。
 当時の京都の昆虫少年にとっては、「北」という言葉には「高い山」と共通する響きがあった。進学の対象として北大予科を選んだのは、ごく自然ななりゆきであった。1939年北大予科農類に入学すると山岳部に入部し、大雪山周辺や日高山脈などの山登りに青春の生き甲斐を見いだすようになった。自然のきびしさや自然とともに存在することの喜びを実感するようになったのもこの頃のことである。時代は次第に太平洋戦争へとつき進んでいたが、尊敬する師や生涯の友にもめぐり会え、充実した学生生活を過ごすことができた。学部では農芸化学科に進んだ。戦争は大学にも暗い影をおとし、多くの友は召集され、学部は2年半に短縮された。卒業研究には応用菌学教室を選んだが、これが私の微生物学との関わりの始まりである。
淡路島太平洋岸の藻場フィールド
調査で左から筆者、中原紘之:京
都大学大学院農学研究科教授・
理博(北海道大学理学部昭和41
年卒)、村田武一郎:NPO 大阪湾
沿岸域環境創造研究センター専務
理事・工博
 やがて戦争は終わったが、1948年までの4年間は大学院特別研究生として嫌気性細菌の研究を続けた。その頃大学は戦後の流動期にあり、私は舞鶴の海軍基地の跡に創設されたばかりの京都大学農学部水産学科へ赴任した。ここでは、当時未知の領域であった海洋微生物の研究を始めた。
 京都大学は1989年に退官し、その後は近畿大学などさまざまな場所で研究・教育を続けた。研究のテーマは、海洋セルロース分解細菌、高抵抗性胞子形成細菌、硫酸還元細菌、淡水赤潮微細藻類、沿岸海域生態系、深海底生態系と、変遷していったが、現場から問題を拾い出し、フィールドワークを通じて研究を深めてゆく道筋はどの場合も共通であった。フィールドを原点として思考を展開させてゆく方法論の形成には、北大での学生・研究生活と北海道の自然や山での体験が大きい影響を及ぼしたことは確かである。
 時、学生運動で授業料値上反対を唱えたことがあったが、その理由が振るっている。学生の払う授業料は大学の総経費の僅か二%にしかならない、それを値上げしてもしれている、その僅かなことで学生を苦しめるなという理屈であった。長い人生の中で、僅か三年間のことであるが、懐かしい思い出は尽きない。
 
 
北大でのんびりと

遠藤 昭雄

 北大に入学したのは、昭和41年4月。生まれも、育ちも北海道。一人で生活をしたくて道外の大学を内心希望していたが、親からは自宅から通えるところといわれ、それならばと北大を受験した。

現在の中央ローン
 4年間、思いおこすといろいろな場面が浮かんでくる。教養部では、冬の体育の授業で体育館前に氷が張られ、スケートをしたこと、教養部からクラーク会館まで、途中の歯学部前の銀杏並木をながめながらブラブラしたこと、生協も入っていた狭い簡易建物で昼飯を食べたこと。法学部に移ってからは、中央ローンでよく寝っころがっていたこと、学生運動の波が次第に押し寄せ、法学部も封鎖され、やむなく医学部の階段状の古い教室で講義を受けたこと、また、本部事務局に機動隊が導入され、寒い日にホースから激しく放水され封鎖が解除されていく姿を外から見つめていたこと、卒業式はなく学部で証書を受け取ったこと等々。今思うと、ゆったりとした環境で、のんびり、好きなことをやらせてもらった心地良い感覚が残っている。
 最近、独立行政法人化との関係で大学のあり方が議論になっている。これまでも北大は、教育・研究組織の改革等に先進的に努力されてきているが、将来を考えるとなお一層の自己変革が求められると予想される。存在感や特色ある、しかも、のびやかさを失わない大学を目指して頂きたいものと願っている。