解説:自然食品への理解

食うものと
食われるものと
世にありて


葛西 隆則


 タイトルの句は「食われてしまえばそれまでのこと」と続きます。大岡博という方の句です。確かにその通り、と共鳴した私は、今年の年賀状に同句を引用させて頂きました。でも、自然の中に食うものと食われるもの、という役割分担があるわけではありません。食われるものも同時に食うものなのです。当たり前ですね。自然の生物は、食われるために存在しているのではなく、むしろ、進化の歴史の中で、食われない方法を身につけてきたと言う方が正しいのです。
 ところが最近、「この食べ物は自然のものだから体に良い」という主張、「自然食品=健康食品」という等式が当たり前のようにまかり通っています。これは近年、人工的な食品添加物や薬剤が増えたことに対する反動と言えるでしょう。もちろん、有害物質を排斥するのは当然なのですが、自然の生物を食べるということの意味も、きちんと考えておく必要があります。

生物とは?
 あるものを見て、それが生物か無生物かは直観的にわかりますし、その判断はほとんどの場合、正しいものでしょう。しかし、生物とは何かを定義するのはとても難しいものです。ただ少なくとも、生物は新陳代謝などの動的恒常性を持つ、ということは言えます。生物は絶えず自分の一部を分解しながら同じものを新しく合成して、同じ自分を保っています。その合成材料を取り込む作業が食うという行為であり、食う対象、すなわち食われる側も同様に動的恒常性を保っている生物です。食われるために存在している生物など、いる筈もありません。生物とは、食われずに食おうと努力している存在、ということもできるでしょう。食われないためには自分を防御し、食うためには相手の防御を打ち破る武器を絶えず進化させ続けなくてはいけません。そのどちらかの努力を怠った生物は食われてしまうか、食うものがなくなるか、で絶滅することになりましょう。
 ヒトによる環境汚染によって多くの生物種が絶滅あるいはその寸前になっている、と警告されています。確かにその一面はありますが、しかし、生物が誕生した38億年前から、ヒトという生物種が現れた500万年前の間に出現した生物種の大部分は絶滅しているのです。現在の食う、食われるという関係は、食われる側の抵抗と食う側の攻撃の力関係を示す動的なものであり、決して固定した静的なものではありません。多数の著書があり影響力も強いという某評論家氏が「…それくらい自然というものは人類の生存のためにうまくできているのである」と書いていますが、自然がある種の生物のためにデザインされているという傲慢とも言える思い込み、ヒトは善意の自然に囲まれて生きているという楽観はどこから出てくるのでしょうか。
 生物が食べられないために獲得した防御方法は多数ありますが、自らは動くことのできない植物では、捕食者にとって有毒な物質を、捕食されやすい部分に蓄積するという方法が一般的です。

一例として青酸
 毒、と聞いて通常思い浮かべるのは青酸ではないでしょうか。そしてそのような毒物は厳重に管理保管されていると信じられているでしょうし、事実、研究室での青酸化合物の管理は厳重です。ところが、その猛毒の青酸が2000種以上の植物に含まれており、捕食者の攻撃に対する防御に役立っているのです。ただし、青酸は植物の中では糖と結合した不活性な形で存在しています。
 反応性の高い物質を使用時まで不活性な形で保存しておく方法は色々ありますが、糖と結合する方法が最も一般的で、そのような化合物を配糖体と呼びます。青酸配糖体を含む植物が攻撃されると、細胞が傷つけられ、配糖体とは別の場所に貯蔵されていた配糖体分解酵素と配糖体が混ざり合い反応して青酸を発生し、捕食者を致死あるいは撃退させる、という見事な機構を持っているのです。例として、梅の実の核に含まれるアミグダリンという青酸配糖体とその分解による青酸の発生を挙げておきます。
 バラ科植物の核果の核には青酸配糖体が、そして果実にはその分解酵素が含まれている場合が多く、特に未熟な果実では核が柔らかく容易に噛み砕かれてしまうため、今でも未熟の杏(アンズ)による中毒事故が報告されておりますし、かつては日本でも未熟の梅による青酸中毒
が発生しておりました。
 ラジオでの梅干しの宣伝で「梅干しの果肉にはもう酵素活性がないので、核を割ってその中身も食べてほしい、そこに含まれているアミグダリンという物質は米国では制ガン剤として使われているほどの良いもの」と言っていました。私も度々の二日酔いでは梅干しのお世話になっていますが、上記の宣伝には誤りがあります。確かに米国では1960〜70年代にアミグダリンはレアトリルという名で制ガン剤として販売されていましたが、その後「レアトリルは毒物であり、制ガン効果はない」との公式表明が出されています。また、梅干しの果肉には酵素活性が残っていないかもしれませんが、私たちの消化管内に共生している膨大な数と量の腸内細菌の中には配糖体分解酵素を持つものもいるのです。

毒か否かは量で決まる
 いかに青酸の毒性が強いと思われているか、を示す例があります。ある推理作家が、口紅に青酸カリを塗り付けて殺人を行う、というトリックを考えました。私はこのトリックが成り立つのかが気になり、化粧品会社に就職している卒業生に口紅の使用量を問い合わせたところ、平均使用量は一回15〜30rとのことでした。青酸は確かに猛毒ですが、致死量は青酸で約60r、有名な青酸カリで約200rです。とても無理なトリックです。青酸カリというものは見るだけで死ぬ程の猛毒、と信じきっていたのでしょう。また先日、あるドキュメンタリーを立ち読みしていたところ「解剖の結果、…は隠し持っていた青酸カリ2〜3rを飲み自殺したことが分かった」という記載がありました。
 それでは、多くの場合、捕食者にとって有毒な物質を含んでいる他の生物を取り込んでも生きていけるのは何故なのか、ということになります。初めに記したように、生物は他の生物を取り込んで自己を再生産し続けていくのですが、その間に当然、不必要なもの、さらには有害なものも同時に取り込まれます。有害なものがわずかでも入ってきた時、直ちに機能停止になるようではその生物は生存できません。生物はどのような物質でも、ある量以下ならそのまま、あるいは形を変えて排出することができ、その場合、害作用は受けません。その害作用を受けずに排出できる限界の量を閾値といいます(下図)。毒物の量と害作用が比例するのは閾値以上の量であり、強い毒とは閾値が低い物質、ということになります。すなわち、完全に無害なもの、一分子でも毒のもの、等というものはなく、毒か否かは量によって決まるのです。まさに、かつて中世スイスの医師パラケルススが言ったように「量が毒をなす」のです。
図:毒物摂取量の危険度


情緒的にうのみせず排斥せず、正しく怖がる
 毒キノコやフグの毒のように誤って食べてしまうものだけでなく、私達が食べようとして食べているものの中にも、青酸に限らず多くの毒物(閾値の低い物質)が含まれているのです。決して、自然食品=健康食品、ではありません。「食べる」ということは、人間が自然界の一員として毒とつきあっていくことでもあるのです。