執 筆 者
飯田 順一郎
いいだ じゅんいちろ
歯学研究科
専門は歯科矯正学
これまで歯並びを治す矯正歯科治療は子供を対象としたものと考えられていましたが、最近は成人の患者が多くなってきています。オリンピックでも矯正装置をつけた選手が記者会見に臨んでいることが珍しくはありません。最近の調査では、矯正治療を開始する年齢が十八歳以上の患者さんが半数を超えている病院もあり、成人に留まらず高齢者の患者さんも矯正治療をするようになってきています。

【歯並びは見た目の問題だけではない】
 これまで矯正科といえば、前歯のでこぼこ(乱杭歯)や出っ歯、受け口といった一見して歯並びが悪い状態が嫌で、美しくありたいという審美性の向上を目的として来院される患者さんが多かったのですが、最近は、よくものが噛めないといったような機能的な不具合を主な訴えとして矯正科を訪れる患者さんも多くなっております。このように歯並びの不正がもたらす障害は外見だけの問題ではありません。

【よく噛めることの重要性】
 きちんとした歯並びで上あご、下あごの歯がしっかりと噛み合っていることは、食べ物をよく噛むことができるだけではありません。正しい噛みあわせをしていると物を噛むときのあごの動きもスムーズで、あごを動かす筋肉や、下あごを支えているあごの関節も無理のない動きができます。歯並びや上下の歯の噛み合わせが悪いことを不正咬合といいますが、これが原因で安定したあごの動きの機能が異常になると、あごの関節が痛くなったり、咀嚼筋と呼ばれるあごの筋肉に痛みが生じたりすることがあります。また、まだはっきりとした証拠は得られていませんが、この不正咬合は口やあごの周囲に留まらず、肩こりなどの原因となっている可能性もあると言われています。
 著者らのこれまでの研究においては、歯並びが悪くあごの位置が左あるいは右にずれて成長した人においては、起立した姿勢の時に全身の揺れが大きいという傾向がわかっており、正しい噛み合わせをしている人と比べると全身の筋肉の使い方に違いがある可能性があります。さらに上下の歯の噛み合わせが悪い場合には、噛み締める力(咬合力)が弱くなります。また同時に、腕の筋肉など全身の筋肉が最大に発揮できる力を計ってみるとそれが弱い傾向にあることが明らかにされています。このようなことから一流のスポーツ選手の間では、積極的に歯並びを治そうとする動きが出てきています。

【成人・高齢者になっても歯は動く】
 矯正治療は子供のころに始めるものであるという考えが一般的のようですが、成人、高齢者になっても矯正治療ができないことはありません。確かに成長期の子供の時期に治療を開始する方が有利な面が多いですが、けっして大人になってしまうと歯が動かないということはありません。
 矯正治療は装置を使って歯に弱い力を加えて歯を動かすことにより、不正咬合を正しい噛み合わせにする治療です。力を加えると歯が位置を変える現象の本質は、子供であろうが成人、高齢者であろうが同じです。歯は歯ぐきの下にある歯槽骨という骨に突き刺さって存在します。歯と歯槽骨の間には厚みが〇・二ミリほどの歯根膜と呼ばれる薄い膜があります。その膜に力が加わるとそこにある細胞が骨を壊し、反対側の細胞で骨を作るということを繰り返します。このようにして歯根膜の細胞が歯の周りの骨の形を変え、歯が位置を変えていくわけです。
 このような力に対する歯根膜の反応にはそこに多く存在する血管の働きが重要とされています。この血管の反応が加齢によってどのように変化するかを、我々がハムスターを使って調べてみたところ、高齢になるとその反応性が若干劣ってはくるものの、けっして無くなることはありませんでした。六十歳七十歳になったとしても矯正治療は可能と考えられるわけです。実際に六十歳になって矯正治療をはじめた患者さんもいます。

写真1:59歳で矯正治療を始めた患者さんの口腔内写真
です。治療前(上段)では下あごの歯並びが悪く、前歯
の噛み合わせがよくないのがわかります。
矯正治療後(下段)には前歯・奥歯ともにきちんとした
噛み合わせになり、機能的な回復もなされています。

【協力診療体制の重要性】
 このような背景からか、最近は成人また高齢者と呼ばれる年齢になってから矯正治療を希望される患者さんが増えてきています。しかしながら先にも触れましたが、やはり成長期それも小学校の高学年の時期に矯正治療を開始する方が有利といえます。何故かというと、上あごと下あごの歯がしっかりと噛み合うためには上あごの骨(上顎骨)と下あごの骨(下顎骨)が調和の取れた位置と大きさをしていることが必要です。そこで顔の骨格が形を変えながら大きくなっている成長期の患者の矯正治療では、このような骨の位置や大きさの不調和を調整し成長をコントロールしながら噛み合わせを作っていきます。このような背景があるために、成長の止まった成人よりも成長期の子供の方が治療には有利であるというわけです。
▲歯学部附属病院

 また成人あるいは高齢の患者さんの中には、虫歯ですでに歯が抜かれていたり、また歯槽膿漏のような病気で歯を支えている歯槽骨が減ってしまい歯の健康が損なわれているような場合が子供よりも多くなってきます。矯正治療で歯を移動する場合は、先にも述べたように、歯を取り巻く歯根膜での細胞が元気に働かなければいけないので、歯槽膿漏のような病気があるとまずその治療を完全に行わなければなりません。また、顎関節や咀嚼筋などに異常を訴える患者さんも子供よりは多くなります。
 このように成人や高齢者においては矯正治療はできるといっても、やはり子供を治療するとき以上に細心の注意が必要となることは事実です。従って成人あるいは高齢者の歯並びを治す矯正治療をする場合には、矯正治療を専門とする診療科だけでなく歯槽膿漏を専門とする診療科、顎関節の治療を専門とする診療科、顎骨の位置の不正を手術で治す口腔外科、また歯の欠損部位を補填する入れ歯を専門とする診療科などと協力診療体制のもとで、その患者さんにとって最も適した治療方法を考え、協力して診療にあたることが重要です。このような協力診療体制の重要性は高齢者の不正咬合だけではなく、全ての疾患に通ずることでもあります。北大歯学部附属病院においては昨年末より五つの専門外来がさらに増設され、多方面の専門家が集まって一人の患者さんに対して協力して診療にあたる体制に一層の充実がはかられました。期待していただければ幸いです。