山 岸 俊 男

◆世界が 100 人の村だったら
 『世界がもし 100 人の村だったら』(池田香代子、C・ダグラス・ラミス、マガジンハウス刊)という本が、ベストセラーとなっています。世界全体を一つの村にたとえることで、世界で起きているさまざまな出来事や世界の様子を、私たちに直感的に理解させてくれる本です。
 この本に出てくる人口 100 人の「世界村」は、地球上のどこかに現実に存在しているわけではありません。ところが、北大の行動システム科学研究室では、地球を本当に一つの村にする研究をしているのです。
 もちろん、地球の人口を本当に 100 人に減らすための研究をしているわけではありません。私たちが「村」として考えているのは、情報が秩序を支える場としての村なのです。
 私たちが生活している現代社会は、さまざまな組織が秩序を生み出しています。その最大のものは国家で、私たちの社会における秩序は、国家の存在なしには考えることができません。国家は法律にもとづき私たち一人ひとりの行動をコントロールすることで、私たちの社会に安定した秩序を与えています。
 これに対して、人口が 100 人の小さな村では、秩序を生み出して維持するために、強力な権力は必要でありません。それは、村人たちの平和な暮らしや秩序を乱す人――共同作業に加わらない人や、人に迷惑をかけてばかりいる人――は、他の人たちからすぐに気づかれてしまうからです。そういった人たちは他の多くの村人たちから相手にされなくなって、結局は村を去るか、秩序を乱すのをやめるようになるでしょう。
 つまり、村の平和と秩序は、一人ひとりの行動についての情報が全員に共有されることで、生み出され維持されているのです。
 北大の行動システム科学研究が作り出そうとしているのは、この意味での「村」、つまり権力によるコントロールではなく、情報の共有が秩序を生み出している社会のことです。
 

[実験社会科学の国際的発信基地]
 実験研究に裏打ちされた科学的な人間性理解を基盤とする社会科学構築の試みは、いまや、社会科学は自然科学とは違うのだという常識(タブララサ神話についてのコラム参照)に対する根本的な挑戦を開始しています。北大行動システム科学研究室は、この試みの国際的発信基地の一つなのです。
 また、北大の行動システム科学研究室は、社会科学の基盤を提供するための実験研究を積極的に推進しているだけではなく、これまで実験心理学者と実験経済学者によって独立に行われてきた二つの実験研究の流れを統合し、人間性理解を制度設計に生かすことを目的とした実験研究を推進している点で、国際的にも高い評価を獲得しています。
 北大での実験社会科学研究が国際的に高く評価されていることの一つの表れは、私たちの実験研究が、多様な分野で国際的研究誌に幅広く引用されている点に見られます。心理学の内部のみではなく、経済学、経営学、社会学、政治学、法学などの社会科学の様々な分野、更には生物学、医学、情報科学、情報工学、環境科学などの自然科学や工学の分野においても、国外の主要な研究誌に千を越える引用を受けています。このように幅広い分野で多様な研究者から引用されている研究は、いわゆる「文系」の研究としては異例だといえるでしょう。
◆情報にもとづく秩序の基盤を探る
 私たちは現在、社会秩序のあり方に関して、根本的な変革の時期を迎えつつあります。
 数百万年の進化の歴史を通して、私たち人類は現在にいたるまで、社会秩序の形成を一つの原理に頼ってきました。それは、お互いの行動をコントロールするという方法です。この極端な場合が、国家権力による国民のコントロールだといえます。
 しかし現代では、人々の行動を拘束しコントロールすることが、大きなコストと非効率を生み出します。その理由は、人々の自由な機会追求行動を阻害することになるためです。そのため、人々の行動を直接的にコントロールするやりかた以外の方法で、社会秩序を生み出し維持することが求められるようになっているのです。
 このような現実に直面する現代の社会科学者に求められているのは、人々が互いの行動を拘束しあうことによってではなく、情報に従って行動することで社会秩序を産み出す可能性を探ることです。
 そんな夢のようなことが可能なのか?皆さんは疑問に思うでしょう。先ほどの例では、小さな村の中ならそれが可能でした。しかし、全員が顔見知りで、誰が何をしているかがすぐに分かってしまう小さな集落で可能なことが、膨大な数の人間が一緒に暮らしている現代社会で可能だとは思えません。
 それに、村の中で情報にもとづく秩序が可能だったのは、それが、逃げ隠れのできない「閉ざされた」社会だったからです。しかし、集団の扉を外部に対して閉ざしてしまえば、集団の外部にあるさまざまな機会を有効に利用できなくなってしまうので、これからの社会では、失うものが大きくなりすぎます。
 権力によって人々の行動を直接コントロールするのでもなく、また集団や関係を外部に対して閉ざし、その内部で互いの行動を拘束しあうのでもないやりかたで、情報にもとづく秩序を生み出すことがはたして可能なのだろうか? 私たちはそれが可能だと考えています。しかし、この目標を実現するためには、人間性についての科学的で正確な知識が必要とされるのです。

 
[タブララサ神話の終焉]
 私たちはふだん、社会科学は自然科学とは違うと考えています。柔軟な心と自由意志をもつ人間が作り出す世界は、自然の世界とは比べものにならないほど複雑である。だから、社会科学に自然科学と同じような成果を期待するのは無理なのだと、私たちはこれまで考えてきました。
 しかし、20世紀の終わりになって、事情が大きく変わってきました。変化を産み出した大きなきっかけは、私たち人間の心が身体と同じように、適応のための道具として進化してきたのだという事実が、認知科学を中心に、心理学や人類学などの広い範囲で受け入れられるようになったことにあります。人間の心が環境への適応のために進化した道具であることを示す研究の蓄積は、人間の心が文化の鋳型にあわせてどのようにでも形成できるという、タブララサ(白紙の心)の考え方が誤りであることを明らかにしています。
 タブララサというのは、人間は白紙の心をもって文化の中に産み落とされ、その後、文化の鋳型によって「人間性」が形成されるという人間観です。この人間観は、文化人類学者によって文化の多様性が報告されるにつれ、20世紀の後半には社会科学で広く受け入れられるに至り、ついには、科学的な検証を拒否する「神話」となってしまいました。そして、人間性についての――とくに、社会科学において人間性の理解が果たすべき役割についての――科学的研究の発展を阻害する結果を生み出してしまいました。タブララサの観点からは、人間性の内容そのものは(文化の)鋳型に入れる前の粘土の塊のようなものであり、それ自身の形状には意味がないと考えられていたからです。そのため、タブララサ神話が支配していたこれまでの社会科学は、人間性についての科学的理解を基盤としない砂上の楼閣となってしまったのです。
◆ヴァーチャル実験室
 左のコラムに書いたように、21世紀にはいり、社会科学に対するタブララサ神話の支配が終わりを迎えつつあります。そして、社会科学の発展のためには、人間性についての科学的研究が必要不可欠であることが次第に認識されるようになってきました。
 それと同時に、社会科学の基盤となるべき人間性の理解を進めるために、実験研究を行う必要性があることが認識されるようになってきました。
 北大行動システム科学では、この流れの先端に立って、社会科学における実験研究を推進しています(前ページのコラム参照)。
 これから紹介するのは、そういった私たちの実験研究の一つである、レモン市場実験です。「レモン市場」については、次ページのコラムを参照してください。
 この実験は、権力にたよらないで秩序を生み出すための、正確な評判情報の生成伝達システムの構築を目的としたものです。通常は不正直な行動が蔓延するはずの、情報非対称性が存在するネットワーク市場を実験室に再現し、どのような評判システムを導入すれば、非効率な「レモン市場」の発生を回避可能とするかが研究されているのです。
 そのために、実験室の中にインターネット取引用のサイトを作って、実験参加者に情報の非対称性の存在するネット市場の実験に参加してもらいました。
 その結果、匿名の実験参加者の間でのネット・オークション取引では、理論どおり、すぐにレモン市場問題が生じることが明らかにされました。つまり、この実験ネット市場では、ほとんど全員が最低の品質の商品を売り出し、誰もすすんでそのような商品を買おうとしなくなってしまったのです。
 このレモン市場問題の解決に必要なのは、評判情報を集約し伝達するための「評判システム」です。不正直な商売に対する制裁措置をとることでレモン市場問題を解決しようとするのは、従来のやり方で社会秩序を生み出そうとするのと同じです。それに対して、もし評判情報を適切に集約し伝達することでレモン市場問題の解決が可能であるとすれば、そのことは、より一般的には、行動への拘束を必要としない自生的秩序の形成が可能であることを意味します。
 それでは、レモン市場問題解決のために、評判システムはどの程度有効なのでしょう。このことを調べるために、私たちは前述の実験ネット市場に、まず、単純な評判システムを導入してみました。
 その結果、現在のネット・オークションなどで用いられている単純な評判を導入するだけでも、取引される商品の品質が飛躍的に向上することが明らかにされました。しかし同時に、単純な評判システムを導入するだけでは回避できない問題もいろいろ存在することが、これまでの実験結果によって明らかにされています。
 この結果を受けて、現在では、レモン市場問題解決に有効な評判システムを開発し、その有効性を評価するための実験が開始されています。また、これまで私たちが実施してきた実験では、実験室の制約によって、市場のサイズは最大十数名に限られていましたが、現在ではNTTと共同で、インターネット上にヴァーチャル実験室を設置し、千人規模の実験市場を用いた実験を行うGRIT(Generating Reputation in Internet Trades)プロジェクトを開始しています。
 このネットワーク市場実験は、情報非対称性が存在する場面で有効に機能する評判システムを設計し、そのシステムのパフォーマンスを評価することにあります。そのような目的のためには、従来の実験室の制約は大きな足枷になります。私たちが現在NTTと共同で開発中のヴァーチャル実験室は、この意味での実験研究の足枷をはずすにあたって、大きな役割を果たすことになると期待されています。

[レモン市場の実験]
 ここでレモンというのは果物のレモンのことではなく、アメリカの俗語で、隠された問題のある中古車のことです。中古車の売買に際しては売り手と買い手との間に情報の非対称性があって、売り手にはわかっている故障も買い手にはわかりません。そのため、売り手にとっては仕入れ値の高い高品質の中古車を売りたくても、そのことを買い手にわかってもらえません。そうなると、高品質の中古車だからといって高価格で売れるわけでなく、仕入れ値の高い高品質の中古車を売っていては儲けがなくなってしまいます。その結果、中古車市場には故障の多いレモンがはびこることになってしまいます。
 ノーベル経済学賞受賞者アカロフによって取り上げられ有名になったこのレモン市場問題は、中古車市場の問題に限られているわけではなく、情報の非対称性のある市場すべてに生じる問題です。情報の非対称性がある市場では、いくら正直な商売をしたいと思っていても、そういった正直な人が利益をあげることができず、市場から駆逐されてしまうからです。つまり、レモン市場は人々が不正直に行動するよう「強制」する場なのです。
 情報革命の結果生まれたインターネット取引は、一方では市場の効率を飛躍的に高めますが、その一方では、深刻なレモン市場問題を生み出します。通常の固定した関係を通しての取引では、関係の継続性そのものが担保となって不正直な行動の発生を抑制しますが、インターネット取引では関係の継続を担保に取ることができないからです。
 私たちは、インターネット取引の「レモン市場化」を防ぐためには、適切な「評判システム」を導入することが効果的だろうと考えています。さらには、情報の非対称性によって特徴づけられるインターネット取引で正直に行動する人間が報われるための適切な評判システムを設計できれば、より一般的な場面で、情報にもとづく秩序を生み出す原理が明らかになるはずです。


◆国際実験ネットワークの中核
 ヴァーチャル実験室の構築は、実験参加者の範囲を飛躍的に拡大し、国境による制約を超えた実験研究を可能とします。
 現在のところは、その前段階として、北大の実験室を中心に、アメリカやオーストラリアなどの大学や研究所に存在する実験室をインターネットで結んだかたちで、国際共同実験が行われています。
 この現在の国際実験ネットワークを使った実験でさえ、これまでは不可能と考えられてきた国際共同実験が可能となり、大きな成果をあげています。
 これまでの国際比較実験では、同じ実験デザインを用いた実験を、異なった国の実験室で行うというかたちがとられてきました。比較文化心理学で行われてきた実験は、ほとんどがこのかたちをとっています。
 それに対して、北大を中心として現在実施されている実験は、同じデザインの実験を異なった文化で繰り返すという従来の方法を越え、同じ実験に異なった文化からの参加者が同時に参加するという方法が導入されている点で、極めてユニークなのです。
 この方法を導入することで、可能な研究の範囲が飛躍的に拡大されます。この可能性をさらに追求したのが現在開発中のヴァーチャル実験室です。この方法を用いれば、異文化に属する人々が直接に関係を持つ場を提供し、しかも同時にそこに存在する関係の性質を自由に変化させることで、集団間の関係を生み出すにあたって文化が果たす役割とその限界とについて、科学的な理解を私たちに与えてくれるものと期待されています。

[幅広い研究分野]
 私たちの研究は、ここで紹介したレモン市場の実験を含めて、「心」と社会との間にどのようなダイナミックな関係が存在しているかを明らかにすることをめざす、幅広いテーマを含んでいます。一般には社会心理学と呼ばれる分野を中心としていますが、心理学の中にとどまるのではなく、社会科学を含む隣接分野と接点をもちながら研究を進めています。具体的な研究テーマとしては、次のようなものがあります。
 共感:他人の心がわかるって、どういうことなんだろう。
 社会的知性:本当のかしこさとはなんだろう。
 信頼:信頼関係を作るためにはリスクテイキングが必要?
 文化と心:心のはたらきは文化によってどう違うの?
 社会的アイデンティティー:集団に属することの意味とは?
 文化の心理的基盤:文化を可能とする心
◆弱さの強さを生かすために
 世界を 100 人の村にするためには、私たちの一人ひとりが正しい情報を発信し、その情報がみんなに正しく伝達される必要があります。
 いまのままでは、正しい情報を発信した人間は、他人につけ込まれてしまうかもしれません。また、いくら正しい情報が発信されても、情報の大海のなかに埋没して、みんなに効率的に伝達されません。つまり、いまのままでは、正しい情報を発信することは、自分の身をわざわざ危険な立場にさらすだけで終わってしまいます。
 しかし、みんながそういった「弱い」立場に身をおかないかぎり、情報が秩序を支える「世界村」は実現できないでしょう。
 ここで紹介した北大行動システム科学研究室での研究は、みんなが安心して正しい情報を発信することができ、そういった情報がみんなに有効に利用されるための「しくみ」を作ることを目的としているのです。

研究者紹介

山岸 俊男
やまぎし としお
文学部行動システム科学
専門は社会心理学