・・・・【 火 山 】・・・・ 災害をいかに予知し防ぐか,
災害からいかに復興するか,人類は知恵をしぼってきた。

人類とはそうして災害から生き延びてきた生物にほかならない。
いま大学が,災害と闘う人知の到達点を発信する。

ぎりぎりのセーフ:
2000年有珠山噴火と
減少災害の科学
岡田 弘
Okada Hiromu

(1) 2000年有珠山噴火と減災の基礎:科学者の危機意識
 2000年有珠山噴火がいかに危険であったかを物語るビデオ映像が残っている。その映像を目にすると,身の毛がよだつ衝撃を覚える。噴火前に人々が避難を完了していたことが,どんなに価値があったか心底から体感するのである。
 多量の岩塊が避難道路となるはずの町道や国道230号線,高速道路に次々と降り注いでいた。テレビ画面で見慣れた無差別爆撃のように,土砂や積雪を次々と噴き上げている。幼稚園も民家も穴だらけ,畑地にも無数のインパクトクレーター(噴石孔)が残された。避難で渋滞の車列も逃げまどう人影もそこになかった。1万545人の住民は既に避難を済ませていた。
 この減災が可能となった背景には,科学者達の危機意識があった。1977年の噴火を経験した北大のグループが,困難のただ中で粘り強く研究と減災に取り組んできた原動力,それは「再び1977年の噴火対応を繰り返したら」という危機感に他ならなかった。
(2) きらわれたハザードマップが評価されるまで
 火山のハザードマップはかつて嫌われものだった。火山の恵みを享受しようというのに,もう一つの本質を見ようとせず,覆い隠してきた時代が,日本各地でつい最近まで長く続いていた。
 火山災害という切り口で見ると,意外にも20世紀の日本は最も平和な世紀だった。最大の災害であるプレー山噴火で科学者は火山学を誕生させ,火山観測所を組織し教訓とした。1985年ルイス山の大災害は,噴火が始まり観測も開始し,間に合って作成されたハザードマップが予測した通りの災害に直面した。科学者は衝撃を受けた。いずれも「予知」の失敗ではなかった。警戒避難がすっぽりと欠けていた。
 観測も研究もない時代,減災は不可能だった。観測と研究があっても,次の一手である警戒避難がなければ,減災には至らない。ルイス火山の悲劇は,世界の火山学者に自然の理解に留まらず,住民や行政が必要な行動をとれるよう支援する責務を明示した。
 ルイス火山や雲仙岳の悲劇は,有珠山の麓に減災へのチャンスを与えた。ハザードマップ拒絶の時代から,受け入れ活用の時代へ入ることとなった。当時の勝井北大教授の指導による先例が手本となり,国も作成指針を打ち出す。北大の観測所が収集した450枚の世界の実例も言葉以上を物語った。観光地を抱える有珠山でもようやく火山との共生時代に入った。ぎりぎりのセーフへの舵取りだったといえる。
(3) 有珠山噴火と減災への連携機構の構築
 明治の有珠山噴火は,始めて地震計で研究がなされ,世界の噴火予知の原点となった。専門家の知識も住民1万5000人の事前避難に活用された。昭和新山の活動では,世界で始めて震源が決められ,溶岩ドームの成長が記録された。1977年噴火では,発足したての北大有珠火山観測所が中核となり,マグマの透視図や隆起メカニズムなどが解明された。
 しかし,当時1万メートルを越える噴火が繰り返す中,科学者たちは危険地帯に3晩も留まっていた。もちろん専門家さえ十分な知識を持っていなかった。洞爺湖温泉の路上で至近距離から大噴煙をただぼうぜんと見上げている人々の写真がある。再度同じことを繰り返すならば,火砕流災害は避けられないはずだった。
 住民がその時行動できるためには住民の理解が必要である。それを自己責任として突き放すのではなく,それを育てて支援する能力を持っている行政・マスメディアと科学者がチームワークを組むことが,減災の要であった。災害が起こってからではなく,山が静かな時にどれだけ準備ができているかに,そのときの安全がかかってくる。ルイス山の悲劇から,国際火山学会は減災指針を打ち出し,日本では鹿児島国際火山会議(1988年)や昭和新山生成50周年記念国際火山ワークショップ(1955年)と,減災への取り組みが本格化した。地元のマスメディアの協力も大きかった。
(4) 2000年有珠山噴火における科学者の役割:自然災害の軽減を求めて
 2000年有珠山噴火では,科学者は火山活動の総合判断と,コミュニティーへの減災助言に積極的に取り組んだ。3首長を招き当事者全てが揃った北海道防災会議は,噴火前の避難指示をタイムリーに出す基礎となった。噴火発生時には,噴火地点の確認,火砕流発生なしなど,噴火の実態把握とその結果必要な危険域の拡大や避難列車活用などの助言に取り組んだ。国も非常災害現地対策本部を組織し地元支援で活躍した。観測所の緊急移転と研究観測網の再構築,共同研究のための総合観測班,噴火予知連有珠山部会による火山活動総合評価,行政への助言活動等,現場は戦場だった。中でも噴火の推移予測は最も困難な課題だった。山頂下のマグマは幸い早期に活動を停止し,避難域の大幅縮小への判断材料を提示できた。警戒は火口事故に限定されていった。
 活動が低下傾向をたどる中で,リスク管理の考えを提案した。それまでは,オールクリアの情報を待つか,伊豆大島のように行政判断を先行させるのが普通だった。雲仙岳での当時の太田九大教授のぎりぎりの助言例も参考になった。小爆発は継続したが,地震やGPSの観測でマグマ活動は5ヶ月で終息したことが確認され,洞爺湖温泉も早期の復興・再開が可能となった。復興期は最も重要な次期対策期である。土地利用の難題や新しい観光の発展についても専門的助言を行った。
 この地球上,どこにもそれなりのリスクはある。問題はそのリスクを正確に理解し,リスクをより軽減できる条件を考え,更に相手が自然の場合はその不確定性と安全志向を明示することが原則であろう。災害や事故現場では専門家の助言がますます重要な役割を果たしている。

北海道大学は,創立以来フィールドサイエンスの幅広い分野で大きな貢献を築いてきた。自然に立ち入り,身をもって感じ,じっくりと自然から学びつづけてきた北大らしい研究の特色を,現在当面する大学改革の中でどう引継ぎ発展させていくことができるのか,困難な課題に直面している。目先に踊らされず,若者達には古典や自然に親しみ,先人達が築いてきた本質的な科学史の潮流を見極める力を養い,どう生き抜いていくのか悩みぬいて欲しい。
理学研究科教授

2000年噴火で有珠山の西山麓に形成された「2000年新山」。国道(右)が断層で階段になり,民家や工場も地盤変動で破壊された。現在遊歩道が整備され,多くの人々が訪れ,自然の驚異を学ぶ地となっている。(2000年6月11日,陸上自衛隊監視ヘリコプターより岡田弘撮影) 2000年有珠山噴火における科学者の解説活動。北大理地震火山センターの岡田,笠原,同地球惑星専攻の中川,およびかつての北大有珠火山観測所員である渡辺東大地震研教授と有珠山部会事務局の気象庁西出氏が,総合観測班による研究結果などを解説公表している。
(2000年4月6日,伊達市役所内の有珠山非常災害現地対策本部にて,岡田純撮影)
地震学会・火山学会共催の子供サマースクール「有珠山ウオッチング」で解説する宇井忠英北大教授。噴火の十数年前から有珠山山麓では様々な子供企画が取り組まれた。噴火後もこのような取り組みに科学者は積極的に参加した。(2000年8月26日,珍古島にて,岡田弘撮影)




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