プロフィール
日本の近代文学研究や日本語研究の理論的な精度を高めて、世界的な文学理論の動向と対応させることを課題とし、直輸入的な理論と一線を画しながら、対話を重ねてきた。現在は、江戸時代末期のかわら版作者が捏造した「あめりかことば」や、横浜浮世絵に描かれた「異国ことば」、焼尻島に漂着したアメリカ人漂流民の日本語体験などに注目し、異国語の表象の仕方や、異言語交渉の実相を探っている。代表的な著書は、コーネル大学の講義に基づく『明治文学史』(岩波書店)のほか、『「小説」論―『小説神髄』と近代』(岩波書店)、『感性の変革』(講談社)、『身体・表現のはじまり』(れんが書房新社)など。現在、小樽文学館館長。
北海道大学名誉教授
亀井 秀雄
Kamei Hideo

 今年の春、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で、大学院のゼミと、学部の日本文学講読を担当してきた。私の『感性の変革』の翻訳が出版されることになり、UCLAがそれを記念する国際学会を開いてくれたからである。

 講読のテーマがジェンダー・イシューだったので、坪内逍遥の『細君』(明治二二年)と、樋口一葉の『十三夜』(明治二八年)という短編小説を選び、江戸時代以来の「女大学」的な言説と関連させながら、読み解くことにした。ところが実際に読み始めてみると、「気が沈む」や「気がとがめる」など、「気」を含む熟語がむやみに多い。数えてみると三五種類(三五回ではない)を超えた。「気」は「機」に通ずる、と考えれば「機嫌」「機転」など、もっと関連語彙は増える。準備の段階で、「気を置く」や「気がいらつ」の説明は必要だと考えていたが、こんなに多いとは思わなかった。ジェンダー・イシューに「気を取られて」いたからであろう。

 こんなに沢山の熟語を作り出す「気」とは何か。学生に関心を促し、私自身も改めて「気」をジェンダーや、家政論と関連させてみることにした。

 命は眼に見えず、手に取ることもできない。ただ、身体の温みと関係するらしいことは、死体から温みが去っていることから分かる。死の端的な標識は、息が絶えることだが、してみれば、温みと息、つまり空気とは密接なつながりがある。

 江戸時代までの人たちは、この事実から命の観念を作ってきたわけだが、明治になって、新しい見方が入ってきた。ガラス器の中でローソクを灯し、空気を抜くと火は消えてしまう。鈴を入れて、空気を抜くと、音がしない。空気は火を燃やし、熱を伝播するだけでなく、音を耳に届けて、音楽や言語の活動を可能にしてくれる。空気は眼に見えないが、そのなかに雲や霞という実体の定かでないものを浮かべ、そこへ陽が射すと、さまざまな色彩が現出し、自然の景観を華麗に演出する。雲も光線も色彩も手に取ってみることはできないが、それらが作り出す光景が人間の美観を養い、それを眺め暮らす人たちの間に共通の「気風」を育ててきた。

地球を包む、このような「気体」の現象を、地理学的にとらえた学問を、当時は地文学と呼んだ。天文学や人文学を念頭に置いた学問名だったことは、言うまでもない。

地文学という学問は現在、顧みられないが、日本の文学における自然観察の仕方に大きな影響を与えた。それだけでなく、江戸期以来の気質という考えと習合して、ナショナリズムの形成にもかかわった。「気質」は「気形」「偏気」とも書き、特定の集団の成員に共通して見られる、性格や感情生活の特徴を指す。

 これと先の考えとが習合すれば、どうなるか。人間は自然の根源である空気を呼吸することによって生命の火を燃やし続ける。と共に、自然の根源的な生命力を享けた「元気」を養ってゆく。「国民の元気」を称揚する国民性論が、この考え方から起こった。

 ただし、『細君』の「気」はそれとは異なっている。右の自然観察論や「気風」論は、戸外の行動にかかわり、男性的表徴が強い。だが、『細君』は焦点を屋内に合わせ、家庭・家族の問題を浮き彫りにして、その点でも画期的な小説だった。そのヒロインは「気難しい」亭主が不在の時でさえ、その「気配」に怯え、身内に対する「気配り」に疲れ果ててゆく。なぜか。明治の女子教育における家政学は、主婦の「気配り」を無限に要求するものだった。ヒロインは、口さがない女たちの、新女大学的な言説によっても追い詰められ、「生気」を失ってしまう。『細君』は屋内に閉ざされた女たちの、欝屈した「気」がせめぎ合う物語だった。



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