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| 「大地」というテーマを聞いたとき、私の思いはどうしても北海道へ向かってしまう。本棚には『静かな大地―――松浦武四郎とアイヌ民族』という本がある。花崎皋平の著で「静かな大地」の回復が人類史のはるかなヴィジョンであるべきだという言葉で結ばれている。 数年前に、北海道が自らのキャッチフレーズとロゴマークを募集した。五万点以上の応募作品の中から選び出されたキャッチフレーズが「試される大地」だった。横浜の若いデザイナーである作者は、北海道らしい前向きの姿勢をイメージしたと言い、審査委員長の倉本總は、国民の熱い視線を感ずると言った。北海道という大地への期待や可能性を感じさせる言葉である。学生に聞いてみてもまず好評だった。 道東の内陸に標茶という町がある。町の歴史の編集を手伝っている関係から二、三ヶ月に一度は訪れるのだが、東京都の半ば近くの面積を町域とし、南は釧路湿原、北は酪農を主産業とする草原の町である。「湿原を守り、酪農に生きる」という町のスローガンどおりなのだが、釧路川のカヌー下りやバードウォッチング、ホーストレッキングやオオカミと暮らす青年など、テレビを賑わすことも多いので、ご存知の人もあるかも知れない。新来者を支援し、新しい試みを歓迎する気配りのよい町で、いわば、「住んでみたい町」の一つなのである。 しかし、標茶の歴史は単純ではなかった。樺戸・空知につづく釧路集治監が、一八八五年に設置されたことによって始まった村である。集治監の廃止によって廃村寸前のところで、軍馬補充部川上支部がここに置かれたことで息をついた。馬産を発展させたのである。移住民も少しずつふえた。昭和初年の移民保護時代には多数の許可移民を受け入れたが、大凶作によって潰滅的な打撃を受けた。この町が本格的な酪農地帯に変身したのは一九五〇年代以降のことであり、釧路湿原の価値が認識されるようになったのは一九七〇年代以降である。道東の大地への取組みはさまざまな試みの連続であり、そうした試みはいまも進行中である。 北海道全体を見ても、この数世紀日本人はこの大地の上に多くの試行錯誤を繰り返してきた。先住民族への対処もそうである。強剛な相手と見た時期にはもっぱら力で対抗した。交易の場ではあざとい手管を弄した。その労働力を活用する段階になると、かなりの部分の先住民の生活を破壊した。近代化の時期に入ると一転して画一的な同化政策に転じ、同化と差別の重い霧に包んだ。どんなに同化が進んでも、その伝統的な文化は尊重されねばならず、民族の誇りは消し去れないということを日本国が認めたのは、近年の「アイヌ文化振興法」(略称、一九九七年)に至ってである。長い道のりだったが、これは解決ではないにしても前進であり、どのような成果を生み出すか、新しい試みの出発点と考えられる。 開拓と近代化の歴史の中にはいくつもの流れがあった。札幌農学校に象徴されるような洋式農法と近代思想の流れ、水田稲作農業を極限まで押し拡げようとする伝統的な力、移植と在来、革新と伝統のさまざまな流れが織り合っていまの北海道をつくってきた。そこには本州府県にはないような新しい経験もあった。北海道は今後の試みに耐えられるだろうか。 NHK一九九六年の県民意識調査を手に取って思った事がある。道民の開放性とか自立性とか女性尊重とかは、これまでも言われてきたことである。しかし、自然がきびしいと感ずる点で上位にありながら居住地(北海道)が「好きだ」と答えた比率が全国一位であることと、道内では都市部と農村部に意識差がないとされたことにはいささかの感銘を受けた。まだまだ期待を持ってよさそうである。 |
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