南太平洋のソロモン諸島。その島の一つ、マライタ島では、ぶらぶら歩くことを、「リリウ」と呼んでいる。「リリウ」は意味の広い言葉で、何を目的とするでもなく、村の中を歩いて、誰かの家でだべったりするのも、「リリウ」だ。町に出て、ウィンドウ・ショッピングをするのも「リリウ」。
私も、村人といっしょに村の周辺の雑木林をリリウした。村人は、ふと竹の群生の前で立ち止まり、山刀を取り出して、竹の一本を切りはじめた。切って、細く裂いた竹は、あとで家で屋根材を作るときに使う。「この竹はおじいさんが植えた竹で、今は自分のものだ」。黄色いこの竹(Bambusa
blumeana)はこの地でカオアシと呼ばれる。切った竹はとりあえずその場に置いておいて、またリリウが始まる。今度はカオと呼ばれる青い竹(Nastus
obtusus)に出会う。「これは自然に生えているから、誰のものでもない。自然に生えているカオを移植することもよくあるよ」と村人は教えてくれる。移植した場合は、移植した人およびその子孫のものである。この青い竹は、以前料理用具としてよく使われていたが、今は金属製の鍋にとって代わられた。村人は、リリウを続けながら、そうした、雑木林の中のさまざまな植物を私に説明してくれた。
黄色い竹(カオアシ)も青い竹(カオ)も、野生なのか栽培なのかと問われると、ちょっと困ってしまう。黄色い竹は、植えたといっても、植えたあとは、ときどき手入れをすることもあるものの、ほぼ放置したままだ。青い竹のほうは、自然に生えているものもあれば、植えたものもある。
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| 川を渡る。川ともまた、人間は多様な関係を取り組んでいる。 |
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マライタ島の雑木林を歩いていると、そうした、野生とも栽培ともつかない、ちょうどその中間に位置する植物によく出会う。たとえば、村人がよくその葉を食用に採取するアマウ(Ficus
copiosa)という植物は、人里近くにしか生えない。人為の加わった二次的自然の中で生き延びてきた植物だ。
竹やアマウのような、いわば”半栽培“とでも言うべきものが、村人とのリリウの途中には数多く登場する。そして、その”半栽培“のありようもまた、さまざまだ。ほぼ野生と言っていいのだけれど人間の手が若干加わっているものから、かなり人間の手が加わっているのだが栽培植物とは言えないものまで、さまざまなレベルのものがある。人間と自然の関係は、手を加えるかそのままの姿で守るか、栽培か野生か、という二分法ではなく、実に多様な関係がある、ということだ。
そして、もう一つ、マライタ島を歩いていて気がつくことは、そうした人間と自然との間の多様な相互関係が、社会の側のしくみとも関係しあっているということだ。
マライタ島においては、土地は氏族(同じ祖先を有すると信じる父系の親族グループ)が共同所有している。氏族が全体として土地を所有していて、個人個人には分割されていない。さまざまなレベルの半栽培植物が、それぞれの植生に合わせてあちこちにあるとき、人の利用もそのあちこちに広がる。土地が個人個人に分割されていては都合が悪いのだ。
一方、その土地の上で畑を開いたら、その収穫物は自分のものだ。その土地の上に竹を植えたら、それも自分のものだ。熱帯林の中に生えている大木は、家を作るときの建材にちょうどいいが、これは氏族のメンバーならば、誰が切ってもよい。いや、氏族のメンバーでなくても、許される場合が多い。しかし、家を作るためではなく、売るために切るのは、勝手にやってはならない。そのような、所有や利用をめぐる多様なしくみやルールが、マライタ島にはある。私たちには一見ただの自然と見えるものの中に、そうしたさまざまなレベルの社会関係が”埋め込まれて“いるのである。
社会が自然をつくり、自然が社会をつくる。そして、人間と自然の関係の多様性、人間と人間の関係の多様性、という二つの多様性が、また相互に関係しあっている。 環境を守るとは、実はそうした、関係の多様性を守ることかもしれない。村人とリリウしながら、私はそんなことを考えた。 |