多くの人が、環境問題に関する名著として、レイチェル・カーソン『沈黙の春』(一九六二年)をあげる。同書は、農薬の有害性を指摘するとともに、生態系という考えを広めた著書として名高い。その際、著者がたえず強調したのが「自然のバランス」という考えである(とくに第六章)。すなわち、自然は人間が干渉しなければ、自己コントロール能力によって安定した状態を維持するというのである。
この考えに立つと、環境保護制度を設計するのは、それほど難しくない。水質保全であれば、法令で排水基準を定め、それを企業に守らせ、違反があれば是正を命じ、あるいは処罰する。また、貴重な生態系があれば保護区に指定し、立入りや開発行為を規制する。あとは、自然の自己コントロールに委せればよいということになる。さらに法学的に重要なことは、このシステムのもとでは、明確な基準や客観的な証拠に基づかなければ、むやみに命令されたり、処罰されたりはしないということである。また、行政活動に厳しい法的な制約をかし、裁判を通してそれを守らせることもできる。ある事業が環境に与える影響を事前に評価(アセスメント)し、悪影響を排除できれば完璧である。アメリカや日本で一九六〇年代・七〇年代に制定された公害・環境法規は、ほとんどすべてが、自然のバランスという考えを前提にしているといってよい。
しかし、自然の秩序や生態系の安定性なるものは本当に存在するのだろうか。川や森が昔の姿(相観)にもどれば、自然が回復したといえるのか。一九八〇年代後半に発達したニューエコロジーは、こうした伝統的な見解を否定し、生態系は人間を含む外部の影響をうけて絶えず変化しており、したがって生態系の変化は不可逆的であり、修復不可能であることを指摘する。この見解をさらに押し進め、自然と人間との関係を再措定したのが、Daniel
B.Botkin, Discordant Harmonies(1990) である。同書は、人間の活動が生態系の変化をもたらす主たる要因であり、人間と自然の相関関係が加速された結果、もはや自然が理想状態に復帰することはありえないという。生態系を復元したり、保存したりすることはできず、我々は、せいぜい自然を管理できるだけである。しかし、その管理も、リスクをはらんだ実験の連続である。自然は移行し、変化し、リスクや不確実さを内包するが故に、何をすべきかの判断もこの移動する標的にあわせてなされる必要がある。すなわち、生態系の管理は試行錯誤の積み重ねであり、成功したかどうかも、最後まで分からないのである。
しかし、そうなると、困るのは法律学者や行政担当者である。管理の目標や基準がたえず変化し、成果も不確定だとすると、法律を適正に執行し、あるいは行政責任を問うことができなくなる。結局、法的安定性、予測可能性、客観的な証拠に基づく立証などを大前提とする既存の法制度で刻々変化する生態系を適正に管理するのは不可能に近いといえる。生態系を切り刻み、法制度にあわせてそれを管理するのではなく、生態系の特徴や変化に法制度を合わせる工夫が必要だ。それがどのような制度になるのかは、未だ分からない。しかし、環境法研究者にも、従来の思考にとらわれない新しい発想が求められていることは確かである。環境法の研究をはじめて二〇年近くがたつが、さらに模索の日々が続きそうである。
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