大倉山ジャンプ競技場の大野精七博士顕彰碑(2002年10月、筆者撮影)

テイネパラダイスヒュッテ
(1930年代前後)

テイネパラダイスヒュッテ
(1989年1月、阿部幹雄氏撮影)
 東京帝国大学副手大野精七は一九二一年五月に北海道帝国大学医学部創設期のスタッフとして助教授に任じられ、そのまま二年間ドイツに留学した。二四年四月、産婦人科学講座教授として北海道帝国大学に赴任し、子宮癌の臨床研究や、卵巣の乳腺下移植の研究などを進めた。三五年一二月から二年間医学部長、五〇年四月から一一年間にわたり札幌医科大学学長を務め、医学研究・教育に尽くした。
 一方、大野はスキーの普及にも大きな足跡を残している。赴任後まもなく北大スキー部部長に就任し、一九二六年には手稲山にスイス式のテイネパラダイスヒュッテを建設したほか、空沼小屋(二八年)や、「無意根小屋」(三一年)の建設にも携わった。また秩父宮、高松宮の来道を記念して宮様スキー大会を創設した(三〇年)ほか、「札幌にオリンピック用大シャンツェを」という秩父宮の言がきっかけとなった大倉シャンツェ(現在の大倉山ジャンプ競技場)の建設(三一年)にも中心的に関わった。
 一九三六年、第一二回夏季オリンピック大会(四〇年)が東京で開催されることに決まった。当時、冬季オリンピック開催地は、まず夏季大会開催国に選択権が与えられていた。国内では大野らの奔走により冬季大会札幌開催の準備が進められた。三八年三月、四〇年の第五回冬季オリンピック開催地が札幌に決定した。しかし、前月に国際スキー連盟はアマチュア問題をめぐって国際オリンピック委員会(IOC)と
大野精七博士と
令嬢、令息(1935年頃)
対立してIOCから脱退していたため、札幌大会ではスキー競技が除外されることになってしまった。大野らは次善の策として国際スキー大会の同時期開催を検討していたが、三八年七月、満州事変や日中戦争による国際関係の悪化から、日本は一九四〇年の東京・札幌でのオリンピック開催自体を返上せざるを得なくなってしまった。
 戦後、「札幌でオリンピックを」との気運が高まり、一九七二年の第一一回大会の札幌誘致に成功した。幻の大会から三十数年、ついに札幌オリンピックが実現したのである。八六歳になっていた大野は大会組織委員会顧問や外国選手団歓迎委員長を務めた。




北海道大学百二十五年史編集室編集員
井上高聡




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