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一方、大野はスキーの普及にも大きな足跡を残している。赴任後まもなく北大スキー部部長に就任し、一九二六年には手稲山にスイス式のテイネパラダイスヒュッテを建設したほか、空沼小屋(二八年)や、「無意根小屋」(三一年)の建設にも携わった。また秩父宮、高松宮の来道を記念して宮様スキー大会を創設した(三〇年)ほか、「札幌にオリンピック用大シャンツェを」という秩父宮の言がきっかけとなった大倉シャンツェ(現在の大倉山ジャンプ競技場)の建設(三一年)にも中心的に関わった。 一九三六年、第一二回夏季オリンピック大会(四〇年)が東京で開催されることに決まった。当時、冬季オリンピック開催地は、まず夏季大会開催国に選択権が与えられていた。国内では大野らの奔走により冬季大会札幌開催の準備が進められた。三八年三月、四〇年の第五回冬季オリンピック開催地が札幌に決定した。しかし、前月に国際スキー連盟はアマチュア問題をめぐって国際オリンピック委員会(IOC)と
戦後、「札幌でオリンピックを」との気運が高まり、一九七二年の第一一回大会の札幌誘致に成功した。幻の大会から三十数年、ついに札幌オリンピックが実現したのである。八六歳になっていた大野は大会組織委員会顧問や外国選手団歓迎委員長を務めた。 |
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北海道大学百二十五年史編集室編集員 井上高聡 |
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