1872年3月、開拓使によって東京芝の増上寺に開拓使仮学校が開設され、学校の責任者として開拓使官吏の荒井郁之助が校長心得に就任した。開拓使仮学校は札幌農学校の前身にあたり、荒井郁之助は現在まで21名に及ぶ北大の校長・学長・総長の初代に当たるのである。 1836年に幕臣の家に生まれた荒井は、昌平坂学問所で学んだほか、西洋砲術・蘭学・高等数学などを修め、58年からは軍艦操練所で世話心得・教授・頭取などを務めて測量にも従事し始めた。68年の戊辰戦争に当たっては、幕府海軍副総裁榎本武揚の指揮の下、榎本艦隊の司令官である軍艦頭として品川沖から北走し、宮古湾や函館五稜郭で新政府軍に抵抗したが敗れて囚われ、2年半の獄中生活を送った。 赦されて後、1872年から開拓使に出仕し、開拓使仮学校校長心得となった。この間、仮学校で使用するために、日本最初期の英和辞典として有名な「薩摩辞書」を模倣した開拓使版『英和対訳辞書』の作成に携わって「序」を書している。しかし、仮学校は軌道に乗らず1年後に一旦閉校となり、荒井は仮学校を離れた。その後、札幌在勤となり北海道の測量に従事して、お雇い外国人と共に「北海道実測図」など多くの測量図を作成した。76年には開拓使を辞して東京に移り、さらに内務省地理局で測量や気象観測に従事し、90年には初代中央気象台長となった。 箱館戦争時に新政府軍指揮官でありその後は開拓使の次官・長官を務めた黒田清隆は、榎本武揚や大鳥圭介など旧幕府軍に加わった西洋科学に優れた見識と技術を持つ人物を開拓使に出仕させて重用した。荒井もそうした1人であった。幕末の激動期にあって荒井が習得した西洋科学に基づく軍事的な知識・技術は、測量・気象観測といった分野の発展に大きな足跡を残したのである。 こうした功績を讃えて、荒井の没後6年目の1915年、菩提寺にあたる祥雲寺(東京都渋谷区広尾)に「荒井君碑」が建てられた。 北海道大学125年史編集室編集員
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