ハナバチの社会進化を探る
ハナバチとはその全生活を花粉と蜜に依存する一群のハチ、英語のbeeに相当する昆虫を指す(ちなみに、スズメバチやアシナガバチはwaspと呼ばれる)。おなじみのミツバチも北国の春を彩るマルハナバチもハナバチの仲間である。よく知られているように、ミツバチはもっぱら産卵を受け持つ母親(女王)と不妊で育児と巣の維持に専念する娘(働きバチ)の二つのカストからなる巨大なコロニーを作る。その家族(社会)は統合された複雑なシステムで動き、数年にわたって継続する。一方、ハナバチ類の多くは母親が子供のために餌を用意するだけの単純な独居生活を営み、親子が顔を合わせることはない。単純な独居生活を行うハナバチ類から複雑な家族集団を維持するミツバチにいたる社会性の進化、これが坂上昭一の終生の研究テーマだった。
昭和2年(1927年)生まれの坂上は、北大農学部昆虫学教室を卒業後、理学部の大学院に進み、理学部動物学教室において講師、助教授をつとめたのちに低温科学研究所の教授に転じた。観察巣箱の中のミツバチ1個体ずつにペイントで個体識別のマークを施し、その行動を徹底的に追求するという手法でミツバチの社会と行動に新しい知見をもたらして高い評価を得た彼は、やがてマルハナバチやコハナバチなどの野生ハナバチ類の社会へと興味をひろげた。活躍の場も日本のみならずブラジル、東南アジアへと広がった。ミツバチと同じように高度な社会を進化させながらも熱帯に分布するためにその生態がほとんど知られていなかったハリナシバチの比較社会学的研究を軌道に乗せ、発展させたのも彼の業績である。後年には本来独居性のツヤハナバチを実験的に共存させ、等能(に近い)複数個体からなる「社会」を生じさせるという離れ業を演じて再び学会を驚嘆させることになる。その研究の概要は「ミツバチのたどったみち(1970年)」、「私のブラジルとそのハチたち(1975年)」、「独居から不平等へ(前田泰生と共著、1986年)」、「ハチとフィールドと(1987年)」によってたどることが出来る。これらの業績によって1992年度の朝日賞を受賞した。
ハチ・アリ類の社会進化
ハチ・アリ類の社会性の進化は、利他性の進化(自身を犠牲にして他の個体を助けるような性質がどのようにして進化するか:極端な例として、もっぱら他人の世話をして一生を終える不妊のハタラキバチが示す子孫を残さないという性質がどのようにして子孫に伝わるのか?)という現代進化学の中心的課題とも深く結びついた複雑な問題である。それはW. D. Hamiltonによる血縁選択理論(自分の持つ遺伝子は血縁者を経由しても次世代に伝えられる可能性がある:各々の個体の適応度は、その個体の繁殖成功度と血縁の度合いに応じて計算される血縁者経由の繁殖成功度を加えたものになる:特定の条件下では自分で繁殖しなくとも十分に進化上の採算がとれる)の誕生を促し、アリ・ハチ類に特有の半倍数性(二倍体である受精卵は雌に、一倍体の未受精卵は雄になる)という性決定様式も絡んでいるのだが、その解説は筆者の手に余る。ここでは、社会進化の道筋に関する仮説を紹介するにとどめる。ハチ類の社会進化に関しては二つのルートが想定されている。
1)母娘共存(subsocial route):母親の寿命がのびることによる親子世代の共存が生じ、ついで娘が母親の巣にとどまり仕事を手伝うようになり、やがて母娘にカスト分化が生じる。
2)同世代個体共存(semisocial
route):同世代の複数の個体による一つの巣内での共同育児が始まり、同世代個体間のカスト分化をへて世代間のカスト分化にいたる。
いずれの仮説にもそれを支持する観察事実と対立する観察事実がある。また、血縁淘汰理論は第一の仮説に有利である。当時は、母娘共存から真社会性が進化すること、およびこのルート経由のカスト分化に母親による娘への栄養供給のコントロールが関与していることは広く認められつつあった。そのような中で坂上が問題としたのは、同世代複数個体の共存から始まる社会性の進化がどの程度の役割を果たし、またそれは対等な個体による共同育児(quasisocialな状態)からスタートしたのか、という点であった。前述のツヤハナバチの共存実験は、こうした問題に対する解答を求めての画期的な試みである。彼は、ハナバチの社会性の出現は多機構多起源的であり、subsocialルートもsemisocialルートもあったとするN. LinとC. D. Michenerの意見に与しており、さらにカストの分化には個体間の優劣関係による順位が重要な役割を果たしているだろうという考えを述べている。(この問題はその後曲折をたどったようだ。当初、血縁選択説とよく合致する母娘共存説が支持を受けたが、調査が進むにつれて血縁者とは限らない個体が集合して営巣する例など母娘共存説や血縁選択説に不利な事例が多く発見され、防御機能の強化などの集団営巣をすることによる利点に対する評価が高まった。現在では、能力にそれほど差のない個体の集合が先行することがアリ・ハチの社会性進化の第一歩として重要、と考える研究者が多いようである。)
簡素な道具立てから生まれた
独創的で世界的な研究
坂上の研究は研究の当初から真の意味で独創的であり、世界的であった。そのことを如実に示す数字がある。1971年にアリ類研究の大家であるハーバード大学のE. O. Wilsonが一冊の本を出版した。「The Insect Societies(昆虫の社会)」と銘打たれたこの本は、同じ著者によって数年後に出版され生物学のパラダイムを変換させた「Sociobiology(社会生物学)」の先駆けとなる重要な著作であり、当時の昆虫社会学の最新の知見を網羅したものであった。巻末の索引を見ると坂上の研究の引用は26カ所、アリ学の泰斗で前記subsocial routeの提唱者であるW. M. Wheelerと著者であるWilsonに次ぐ第3位の引用回数で、坂上の長年にわたる研究上の師であり友人であったMichenerをわずかに上回る。文献表には坂上が第一著者のものだけでも25編の論文がリストアップされている。こちらは第6位。1971年といえば、坂上はまだ40歳台の半ば、コハナバチの主要な成果がすでに世に出ており、ブラジルで行ったハリナシバチの研究成果が次々に論文となって出版されていた時期にあたる。後年高い評価を得ることになるアジア熱帯のハリナシバチ、ハラボソバチや日本のツヤハナバチの研究は未だ始まっていない。
これらの坂上の研究の大半は、実に簡単な道具立てで成し遂げられた。彼自身の言葉を引用しよう:「私の……研究の多くは、双眼実体顕微鏡以外たいして高価な器具なしにおこなえる。紙と鉛筆、物差し、ガラス板に移植ごて。もちろんさらに立ち入った研究には、別のより高価な装置を必要とするであろう。しかし上に述べたような道具立てだけで、未だ開拓すべき無限の分野が残されている。そして道具の不自由な場所は、たいていそれを補ってあまりある豊穣なフィールドを約束するものである。」(「ミツバチのたどったみち」あとがきより)
もう一つ、坂上の自由な研究を支えたものがある。どのような研究も、成果が公表されなければ意味がない。坂上の場合、研究のインプットもすごかったがアウトプットもすごかった。退官時に弟子たちがまとめた業績リストには、日、英、独、仏、ポルトガル語で書かれた300編を超える論文・総説等と10編の著書があげられている。亡くなるまでにさらに数十編が追加されたはずである。こうした成果の公表に大きな役割を果たしたのが当時の北大理学部紀要(動物学)(現在は休刊中)をはじめとする大学紀要だった。実際、上記「昆虫の社会」に引用された25編のうちの9編は北大理学部紀要に発表されている。当時年2回発行されていた紀要を、ページ制限なしに研究成果を発表できる場として坂上は大いに活用したのだった。なにかというとジャーナルのインパクトファクターを気にする現代の風潮を聞いたら坂上は嗤い飛ばすに違いない。評価を決めるのは雑誌の格ではなくて論文自体の内容だ、といいきれるだけの実績が彼にはあった。
独自の研究世界
どこの高校の生物実験室にもありそうな簡素な道具立てと自由に成果を発表できる大学紀要を武器に、坂上昭一はその独創的なハナバチ研究を展開し世界の頂点を極めた。もちろん、比類のない頭脳があってこそのことである。彼の研究活動は生理学、行動学、動物社会学、生態学、分類学、系統学といった生物学の諸分野にわたっており、一つの分野にはとても収まりきれない広がりと深みを持っていた。茅野春雄(北大名誉教授)の表現を借りれば、「坂上学」とでも呼ぶべき独自の広大な研究領域を作りあげたのである。こうした坂上の研究スタイル、独特な研究哲学に裏打ちされたフィールド生物学、は昆虫社会学のみならず幅広い分野、様々な生物群の研究者に多大な影響を与えてきた。その遺伝子は現在の北大にも脈々と受け継がれ、北大のフィールド研究の発展を支える原動力の一つとなっている。21世紀cоeプログラムに採択された「新・自然史科学創成」もそのような流れの中に位置している。
1990年に北大を退官して後も自宅で研究を続けていた坂上は1996年に心筋梗塞で急逝した。69歳の早すぎる死であった。書斎には、実体顕微鏡の下に置かれたコハナバチの標本と描きかけのスケッチが残されていたという。
研究三昧だった坂上には逸話も多い。学会にはほとんど出席しなかった。1967年に動物学会賞を受賞したときに出席しなかったというのも実話である。学会講演の準備をする間に論文が一編書ける、と述べたこともある。しかし、こういったことから彼が気むずかしい偏屈な学者人間だという印象を受けたとしたら、それは誤解である。研究以外の雑務を嫌ったのは間違いないが、極端に照れ屋で人見知りをする性格が学会から遠ざかっていた真の理由であろう。実際の坂上は座談の名手であり親しい研究者や学生院生との小さな会合では博覧強記にして談論風発、人を飽きさせることがなかった。また院生の指導も懇切を極めた。その指導を受ける幸運に浴したものは日本のみならず、ブラジルにもインドネシアにもオランダにもいる。
名著「ミツバチのたどったみち」の中で、坂上は彼が最初に手がけ、もっとも詳細に研究したコハナバチの一種Lasioglossum duplexにホクダイコハナバチと命名し、長年にわたって彼に研究の場を与えてくれた北大に報いた。彼が1950年代に観察をしたコロニーの子孫は、今も北大植物園内の灌木園でむかしのままの生活を繰り返しているはずである。
北大大学院理学研究科 片倉 晴雄