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「リテラ・ポプリ」 とは 「ポプラからの手紙」 と 「人々の手紙」 の二重の意味を持っています。 |
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「これは当然なことであった。彼自身早くから言っているように、彼個人の内部の問題が、外部世界の問題と無関係に存在するなどということは到底あり得ないことだから。問題発生の当初から、さきのものはあとのものと離れがたく結びついている、否、二つが互に複雑にからみあっている関係そのものが、生き方の問題というような形で、彼に向って迫って来ていたのであったから。 そして人間が社会的存在である以上、何時の時代にもそれはさうであろう。ただ彼等の問題の立て方、もしくは受け取り方にその時代時代の特徴がある。今からわづか数年前の青年であったならば、彼等の眼はひたすらに外部世界にだけ注がれたであろう。そしてその行動もまたそれに応じたものであっただろう。しかし駿介はちがった。彼はつねに自分を離れることが出来なかった。だから出発も、自分の生き方というような、見様によってはやや古風なにおいのする問題の立て方から始まったのであった。かつての青年に比べて、内省的であり、個人的であり、停滞的であると言えた。そしてそれはいいとかわるいとかいえることではなかった。 個人的なようには見えても、政治や社会や民衆やの問題についての関心は、その認識の深浅の程度を一応措(お)くならば、かつてそれらの問題を声高く言った人々に比して、別に薄らいでいるとは言えぬのであった。そして駿介の転換にも、それらの問題が圧力として加わっていることは、彼が意識するとせぬとにかかわらず事実であった。ただ彼の場合には、そういう関心の呼号から始めて行くことが出来なかっただけだ。「社会のために。民衆のために。」ということを叫ぶことから始めて行くことが出来なかった。それだけ、内と外との統一を強く欲していたとも言える。 その彼が、今や細々とした声ながら、「人々のために。」ということを言い始めたのである。」 (「生活の探求」『武田麟太郎 織田作之助 島木健作 檀一雄集』現代日本文學体系70 筑摩書房 191ページ) 「我々は新しいものに対しては敏感であった。我々を酔わすような古い伝統は周囲の生活のなかにはなかったし、新しさに向って動くことを阻む古い諸関係からもかなり自由であった。そのような新しさと自由とは全体として北海道そのものの生命の特質であったのだから。」 (「北海道及北海道人」、国書刊行会『島木健作全集』第12巻 313ページ) 「図書館から、同大学農業経済学研究室に転じた。研究室の仕事は、図書の整理が主で、自分の時間がたっぷり許された。経済や政治に関する本を熱心によんだ。教授の好意によって、学生と一緒に講義を聴く自由をも与えられた。 (自撰年譜、1924年、『島木健作全集』第15巻 489ページ) 「札幌と札幌農学校とを切り離して考えることはできない。札幌が特色のある町だということが言われていたのには、単に市街がゴバンの目のように区画整然とつくられている、などということのほかに、またアカシヤの町とかエルムの木陰とか鈴らんの花とかいうことのほかに、もっと精神的な意味があった。そしてそれの多くの部分は札幌農学校、あるひは東北帝國大学農科大学に帰すべきものであった。札幌と大学との間には、他の多くの都市において見られる以上に、緊密な精神的なつながりがあった。たしかに札幌の精神生活が、大学の強い影響の下にあったという時代はあるのだと思う。札幌にもし多少でも他の地方都市から区別される特色ある文化的雰囲気があるならば、それは疑いもなく北大の前身が長年の間に培ったものなのである。 (「北海道及北海道人」、『島木健作全集』第12巻 320ページ) ●
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