space.gif(43 byte) 「リテラ・ポプリ」 とは
「ポプラからの手紙」 と 「人々の手紙」 の二重の意味を持っています。


島木健作の手紙(4242 byte)




島木健作(6457 byte)

1923年10月から25年3月まで、北大で事務補助者(雇員)として働いた島木健作(1903〜1945)のベストセラー小説「生活の探求」(1937年)は、当時の青年たちの心を捉えました。彼の言葉を紹介します。




  「これは当然なことであった。彼自身早くから言っているように、彼個人の内部の問題が、外部世界の問題と無関係に存在するなどということは到底あり得ないことだから。問題発生の当初から、さきのものはあとのものと離れがたく結びついている、否、二つが互に複雑にからみあっている関係そのものが、生き方の問題というような形で、彼に向って迫って来ていたのであったから。
  そして人間が社会的存在である以上、何時の時代にもそれはさうであろう。ただ彼等の問題の立て方、もしくは受け取り方にその時代時代の特徴がある。今からわづか数年前の青年であったならば、彼等の眼はひたすらに外部世界にだけ注がれたであろう。そしてその行動もまたそれに応じたものであっただろう。しかし駿介はちがった。彼はつねに自分を離れることが出来なかった。だから出発も、自分の生き方というような、見様によってはやや古風なにおいのする問題の立て方から始まったのであった。かつての青年に比べて、内省的であり、個人的であり、停滞的であると言えた。そしてそれはいいとかわるいとかいえることではなかった。
  個人的なようには見えても、政治や社会や民衆やの問題についての関心は、その認識の深浅の程度を一応措(お)くならば、かつてそれらの問題を声高く言った人々に比して、別に薄らいでいるとは言えぬのであった。そして駿介の転換にも、それらの問題が圧力として加わっていることは、彼が意識するとせぬとにかかわらず事実であった。ただ彼の場合には、そういう関心の呼号から始めて行くことが出来なかっただけだ。「社会のために。民衆のために。」ということを叫ぶことから始めて行くことが出来なかった。それだけ、内と外との統一を強く欲していたとも言える。
  その彼が、今や細々とした声ながら、「人々のために。」ということを言い始めたのである。」
(「生活の探求」『武田麟太郎 織田作之助 島木健作 檀一雄集』現代日本文學体系70 筑摩書房 191ページ)


  「我々は新しいものに対しては敏感であった。我々を酔わすような古い伝統は周囲の生活のなかにはなかったし、新しさに向って動くことを阻む古い諸関係からもかなり自由であった。そのような新しさと自由とは全体として北海道そのものの生命の特質であったのだから。」
(「北海道及北海道人」、国書刊行会『島木健作全集』第12巻 313ページ)


  「図書館から、同大学農業経済学研究室に転じた。研究室の仕事は、図書の整理が主で、自分の時間がたっぷり許された。経済や政治に関する本を熱心によんだ。教授の好意によって、学生と一緒に講義を聴く自由をも与えられた。
(自撰年譜、1924年、『島木健作全集』第15巻 489ページ)


  「札幌と札幌農学校とを切り離して考えることはできない。札幌が特色のある町だということが言われていたのには、単に市街がゴバンの目のように区画整然とつくられている、などということのほかに、またアカシヤの町とかエルムの木陰とか鈴らんの花とかいうことのほかに、もっと精神的な意味があった。そしてそれの多くの部分は札幌農学校、あるひは東北帝國大学農科大学に帰すべきものであった。札幌と大学との間には、他の多くの都市において見られる以上に、緊密な精神的なつながりがあった。たしかに札幌の精神生活が、大学の強い影響の下にあったという時代はあるのだと思う。札幌にもし多少でも他の地方都市から区別される特色ある文化的雰囲気があるならば、それは疑いもなく北大の前身が長年の間に培ったものなのである。
(「北海道及北海道人」、『島木健作全集』第12巻 320ページ)




島木健作は14歳で北海道拓殖銀行給仕となり、上京してからも弁護士宅で玄関番をしながら夜学に通った。結核に罹って帰郷し、北海中学を卒業して再び上京。働き学ぶ生活は、関東大震災で負傷して札幌にもどるまで続いた。北大図書館で事務補助員(雇員)に就いたときは、社会科学に関心をもつ20歳の青年になっていた。この年、北大に社会科学研究会が結成された。

農業経済学科の高岡熊雄教授の目に留まり、島木は図書館から農業経済学の研究室に移った。仕事は図書の出納であった。農業経済学科の学生が中心となっていた北大社研にも参加しており、図書の整理についてしばしば書庫で大声で言い争う姿とともに、研究会では寡黙だった様子も語り伝えられている。今も農学部図書室には彼が元気のよい字で書いた図書カードが沢山残っている。

島木はさらなる学問を求め、蓄えた500円をもって東北帝国大学法文学部の選科に入学し、ただちに学生運動に身を投じた。さらに農民運動に参加、3・15事件で検挙、獄中で結核が再発して法廷で転向を表明したが、北大雇員時代は、彼が次のステップへ踏み出す力を育てた大事な場所であった。

保釈後、病の快復も思わしくない中で湧き上がったのが、文学への欲求だった。獄中体験にもとづいた「癩」が処女作となった。北大農業経済学科が舞台の「30年代一面」では、友の転向を前に生き方を模索する学生群像を描き、「生活の探求」では帰農によって生き方を探る主人公を描いた。いつも野にあって踏んづけられ通してきたもの、その「北方人の血と運命」(「文学的自叙伝」)を島木は身をもって生き抜いたのだった。

(樋口今日子)



次のページへ


広報誌のページへ 北海道大学のホームページへ 目次に戻る
広報誌のページへ 北海道大学のホームページへ 目次に戻る