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知床岬のオホーツク文化の人たち 北大大学院文学研究科 菊池 俊彦 知床半島の岬近くの遺跡の発掘に参加したのは、もう40年前の学生時代のことだった。 1965(昭和40)年7月中旬に、北海道文化財保護委員会と北海道教育委員会の主催で知床半島特別調査隊が組織され、知床半島の動物・植物・地質・先住民族の遺跡などの総合調査が行なわれた。この調査が実施されたのは、その前年に知床半島が国立公園に指定されたものの、その大半の地域は学術的に未知であり、自然保護の立場からも学術調査の必要があったからである。 遺跡は知床岬から北岸を南に1・1キロメートル、文吉湾と慶吉湾の間の無名の小さな湾の段丘上にある。知床半島を訪れたことのある人なら、誰もが知っているように、知床岬は近付き難い。特に半島の北岸には切り立った崖が続き、今日もなお、岬までは船で行くしかない。先住民族の遺跡はそのような岬近くにあった。
オホーツク文化の遺跡はサハリン、北海道のオホーツク海沿岸、千島列島に分布している。そのほとんどの遺跡は海岸から百メートル以内にあり、オホーツク文化の人たちはもっぱら沿海の漁撈と海獣狩猟を生業としていた。オホーツク文化の土器、石器、骨角器とよく似た遺物はオホーツク海北西岸の初期鉄器時代の遺跡(1〜10世紀)、オホーツク海北岸のトカレフ文化(紀元前五〜後五世紀)と古コリャーク文化(5〜17世紀)の遺跡から見出されている(図1)。 オホーツク文化の遺跡は、千島列島では、最北端の占守(シュムシュ)島に至るまで遺跡が発見されている。そのことはオホーツク文化の人たちが如何に船を得意としていたか、を物語っている(図2)。最近、日本海側の奥尻島でも遺跡が発見されて話題を呼んでいるが、これも船を移動手段とする人たちだからこそ、道北から奥尻島に南下できたのであろう。 このようなオホーツク文化の遺跡からセイウチの牙を素材にして女性を表現した彫刻品(図3)が、これまでに三点発見されている。それらのうち、二例は礼文島の遺跡から、一例は網走のモヨロ貝塚から出土した(図4)。そのほか、セイウチの牙から作られたクマやシャチの動物像の彫刻品が礼文島と、網走に近い湧別町の遺跡から出土している(図5)。また礼文島の遺跡からセイウチの牙で作られた釣針、銛先の未製品、円盤状の装飾品が出土している。また根室半島の遺跡からセイウチの牙が出土している(図6)。
カムチャツカ半島では南端部のロパトカ岬のロパトカ3遺跡からセイウチの牙製の装飾品が、またその近くのリャブーヒナ遺跡からはセイウチの牙が二点出土している。しかしながら、これらの遺跡はタリヤ文化(4000〜3000年前)に属する遺跡であるから、オホーツク文化よりずっと古い年代である。 他方、オホーツク海北岸に遺跡が分布している古コリャーク文化のナヤハン遺跡からセイウチの牙製の銛先が出土している。またオホーツク海北西岸の初期鉄器時代のクフトゥイ8遺跡からはセイウチの骨が出土している(図9)。
ナヤハン遺跡のセイウチの牙はどこから手に入ったのだろうか? これについて私は、セイウチの生息域であるカムチャツカ半島北東岸で捕獲されたセイウチの牙が半島を横切って西に運ばれたのであろう、と考えている。この北東岸には古コリャーク文化の遺跡が分布している。またこの北東岸には現在もコリャーク民族が居住している。おそらく、セイウチの牙はカムチャツカ半島北東岸からオホーツク海北岸へ、そしてそこから北西岸を経由してサハリンのオホーツク文化の人たちのところにもたらされ、ついで北海道に運ばれて来たのではないだろうか。 知床岬の遺跡のオホーツク文化の人たちも、もしかすると、オホーツク海の北の彼方からもたられたセイウチの牙を持っていたかも知れない。オホーツク文化の人たちは沿海を舞台に広範囲な活動をしていたのである。
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