この授業では生物統計学を教えています。生物系の学生にとって,統計的手法(主に統計的検定)の習得は必須です。しかし多くの学生は数学が苦手で,統計の勉強は大きな悩みです。統計学の授業は,数学がハードルとなりほとんど理解できません。教科書も難し過ぎます。しかし一般読者向けの入門書はレベルが低過ぎて,十分な力が付きません。毎年,多くの生物系の学生が同じ悩みを抱き,統計を理解したいのに挫折して終わります。機械的な計算で試験を乗り切るのが精一杯...。これが実情です。
この授業の目的は,彼らに統計的手法の基本的な考え方を理解してもらう事です。このレベルでは,t検定と分散分析の理解が最大の目標となります。変数tも変数Fも四則演算と平方根の計算だけで定義されている以上,説明次第では,高校数学の範囲内でかなりの内容を解説できるはずです。このレベルなら,受験戦争を戦い抜いてきた彼らの力で十分に理解できます。しかしアメリカと比べた場合,日本はこのレベルの教科書や指導法の開拓が完全に立ち後れています。生物系の学生達は「数学が苦手なら,統計の理解は諦めなさい」と宣告された状況にあります。
この授業を準備する際,アメリカの生物統計学の教科書を十数冊読み比べ,「なるほど!」と思える説明のアイディアは全て頂きました。これを授業作成の出発点にしています。アメリカ流の分散分析の解説は,私自身,感動しました。t検定は独自の方法を模索しています。簡単な仮定をおくと,変数tの定義式は極めてシンプルになります。この式の内容をそのまま図にして説明すると,学生達はt検定の基本的なアイディアを,あっという間に理解します。t検定の原理が,きわめて直感的で視覚的だからです。
統計のユーザーの立場にある学生にとって,大切なのは数学的な厳密さではありません。学生自身が「なるほど!」と実感できるレベルの範囲内での直感的な説明です。授業では,学生が理解できる範囲を見極め,その範囲内で最大限の知的刺激を与えられる説明を構築する事が最も重要だと考えます。
授業の準備は,まず,数学のハードルを下げた説明の仕組みを,図中心で絵コンテを作りながら考えます(裏紙の落書き程度です)。この作業が一番大変ですが,一番興奮します。絵コンテを作ると,論理の構造が確認しやすくなります。次に,図をドローソフトで作成し,Power Pointに移し,アニメーションを適用して講義用ファイルを完成させます。次に,要所要所の図を使い,欠席した学生でも読んだだけで最低限の内容を理解できる程度に書き込んだプリントを作成します。こうすれば,数年後に卒論で統計を使う時,授業の内容をある程度は思い返せるはずです。一回の授業で,以上の作業に30〜40時間費やしました。授業の進行は,説明と簡単な演習を小刻みに繰り返すだけです。宿題は毎回与えます。授業で学んだ内容を自分自身の手で再確認してもらうためです。
「誰を相手にするにせよ,もし君が自然科学の概念を説明した時に相手が理解できなかったら,それは君自身が理解できていない事の証拠なんだ」というのは,アメリカの物理学者Richard P. Feynmanの残した有名なメッセージです。どんな学問も,学生のレベルに応じて,彼らの知的好奇心を最大限に刺激する説明の仕方が必ずあると信じています。学生達がスクリーンを食い入るように見つめながら説明を聞く姿を目にした瞬間,達成感を感じます。もちろん,試みが失敗する事も多々あります。私の授業はまだまだ課題が多いです。また,このやりがいのある挑戦に取り組む機会を与えてくれた本授業に対し,私自身,感謝しています。