教育方法いわゆる教授法の有効性なるものは、クラスや年度によっていくらでも高下し、瞬時に失速、論外となる極めて偶然的な幻影である。その意味で、私たち初習外国語を教える者は、学生という魔物を前にして常時五里霧中、暗中模索の中にいて、その反応にいわば一喜一憂し、多くは落涙させられている。最大の難題は学習動機の不在という、今や自明のぶ厚い壁である。だが、今の学生たちは、実践的レベルで自分ができるようになったと身体で感じ得た時には、学習の喜びと動機とを獲得する傾向が強い。それゆえ、壁突破の鍵は、徹底した訓練にある。とはいえ、その徹底した訓練なるものは、私の場合は、ゆったりとくつろいだ場と、基礎の基礎への限定を大前提とするものである。のんびりした安心とくつろぎの中で、基礎的な訓練のみを執拗に行うのである。
学生たちは、予習はもちろん、実をいうと復習すらおぼつかないことが多い。ひとつには、自宅でどのように復習したらよいのか、その方法がよくわからないでいるからである。それゆえ、予習や復習をすら前提にせずに、従来は自宅での自主的自習に付託されていた訓練を授業の中でこそ行い、さらには、そのドリルがそのまま自宅での気楽な(これが肝要!)復習としても可能となりうる落涙ものの方式が必要となる。かくして、教室での授業は、説明は簡明に圧縮され、実践的に訓練ばかりを行う教師疲労困憊の場そのものとなる。訓練は、主に口頭と記述との2面に集中してなされるが、その際の基本原理とキイワードは、(1)体育会系的ノリでの身体運動と、(2)同一主題を反復する変奏曲である。
例えば、変化形基礎訓練の記述式ドリルは、左右裏表すべて同じものをコピーして配付し、授業の説明時に書かせ、説明後基礎的訓練として記述させ、口頭によるその変形訓練後にまた記述させる、を繰り返す。それはそのまま自宅でも簡単に、気楽に復習することが可能であり、学生は迷わずそれだけをすればいい。そして、次回にはその最も基礎的なことにのみ限定して確認の平易なミニテストを行い、その後にももう一度記述させる。要するに変奏曲のように、基礎中の基礎を手で何度も繰り返し書かせるのである。
発音練習においてもその変奏曲原理を乱用する。手を変え品を変え繰り返し重要な文を問いと答えの形式で発音させる。教師の後について、隣や前後の学生と対話の形で、あるいは個人攻撃的に、教師について全員でと、学生が退屈しないように教師のほとんど気まぐれと直感に従いながら、こじつけ的に、めくらましながら反復させる。教室の中でこそできるだけ多く発音すること、それだけが重要なので、ひねりはできるだけ避ける。しかも、「あなた」と「私」との単純な対話にのみ限定する。シンプル・イズ・ベストで、実はそれ以外は二次的で、基礎的な文や変化が容易に口をついてでるようになると、不思議なことに聴き取りや平易な文の読解にも、比較的応用がきくようでもある。
今の学生はなかなか興味と緊張とが持続しない傾向にあり、基礎項目を主題として多様な変奏を構成する必要がある。話す・聞く・書く・説明をモザイクのように配置し、口頭訓練ひとつにしても柔軟に変化をつけなくてはならない。息抜きとなる時間帯も欠かせない。その上で口と耳と指を体育会系的に身体運動させる。対話訓練においては実際に場所を移動させもする。学生の精神と身体をくつろがせつつ、変奏曲原理で動的状態におき訓練する。だが、そうした方法が効き目をもつかにみえるのも瞬時のこと、偶然の賜にすぎない。次年度になれば、無力に陥り嘆きの壁に祈る私がいるに違いないのである。