北海道大学歴史ノート 第二頁

  北大は最初の「大学祭」を敗戦の翌年1946年に開催した。
  それ以前にも類似の行事として、札幌農学校時代から「遊戯会」という運動会を1922年まで開催していた。1929年からは全北大生が加盟する「文武会」が「文武会デー」を設けて運動会や講演会を開いた。しかし、1941年文部省の強い意向によって「文武会」は解散させられ、こうした行事も行なえなくなった。代わって、学生・教職員を戦時総動員するための錬成団体「報国会」が組織され、大学を挙げて戦争協力することとなった。
  敗戦後の1945年11月に「報国会」は解散した。翌1946年7月には、大学の民主化と自治を旗印として、学生・教職員が自主参加する「学友会」を結成した。工学部生大橋智は委員長就任に当たり、「昨年8月敗戦という歴史的悲劇の痛棒は私を悪夢から現実によみがえらせた。寂しい反省と、胸をえぐる様な混迷とが激しく私を責めさいなむ日が続いた。我々は過去をおおってはいけない。しかして、過去の反省を基礎としてもう一度始めから築き上げる権利を放棄してはいけない。これが日本に残された唯一つの生きる道であると私は信じる」と述べ、大学が戦争協力したことへの反省を踏まえ、新たな出発への決意を示した。
第1回「大学祭」の教室・研究室の一般公開
第1回「大学祭」の教室・研究室の一般公開
  この「学友会」が最初に企画した行事が「大学祭」であった。新聞記事は「建設の歩みを踏み出した学友会はその第一着手事業として、学内の親睦並びに一般との交流を目的として来る10月17日より27日に到る間総合的文化祭典たる大学祭を鋭意準備しつつある。頽廃たいはいよりそして孤立より人民の中に身をていし広く大衆より愛される大学として、その持つところのあらゆる機能と業績を呈示せんとするのである」と伝えている。
  現在は各学部の市民講座や企画展示などを通じ、大学における研究の成果を学外の人々に伝え、共有していくことは当然のことのように行なわれている。

しかし、戦前までの大学ではほとんど例がなかった。大学はまさに「象牙の塔」であった。「学友会」は「大学祭」を通じて、こうした古い大学像を打ち破り、大学新生への意気込みを示そうとした。
  「大学祭」の目玉であった教室・研究室の一般開放は、10月19、20日に実施され、多くの市民が殺到した。各学部は表のような内容の催しを行なった。見学者は、「日頃家にいて遊んでばかりいる学生さんが白い上っぱりを着て真面目な顔で難しいことをしゃべっているのを見て感心するやら可笑おかしいやらで家へ帰ってから大笑いになりました」(下宿の小母さん)、「大学開放双手をあげて賛成です。しかし単に2日間のお祭さわぎだけではなしに本当の意味で大学を開放してくれるように思ひました」(若い労働者)と、好評であった。このほかに運動部の競技大会、文化部の催し、教員の講演会、農村青年を招いた弁論大会・座談会などもあった。
クラーク胸像再建除幕式
クラーク胸像再建除幕式
(1948年10月8日撮影、大学文書館蔵)
  しかし、翌1947年は「大学祭」を実施できなかった。大学制度の改編、民主化運動とその反動など戦後の大学には様々な問題が山積し、学内の意思統一を図ることが難しかった。
  さらに一年後の1948年には、一部の学部や団体が参加する「体育祭及び文化祭」という形式で実施した。初日10月8日にはクラーク胸像の再建除幕式を行なった。クラーク胸像は1926年に創基50周年を記念して設置したが、戦時の金属回収令により1943年に撤収され、台座だけが寂しく残っていた。クラーク胸像再建は、戦後の新しい出発の象徴でもあった。一般開放では、現在は総合博物館のシンボルとなっているデスモスチルスの骨格が理学部で初公開されたほか、医学部法医学のウソ発見器実験、工学部のロボット実験などが話題となった。
  翌1949年以降も「体育祭及び文化祭」を実施した。全学統一による2回目の「大学祭」は1952年に至ってようやく実現した 。



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