北海道大学歴史ノート


 

 一九四五年敗戦後、北大では食料不足以上に石炭不足が深刻な問題となった。石炭は暖房用燃料として不可欠であり、北大ではひと冬に二万トン近くが必要であった。この年の冬、敗戦による疲弊と生産力低下のために石炭は大幅に不足し、北大では暖房用石炭を確保できず、三ヶ月の長期にわたる休暇措置をとらざるを得なかった。翌四六年秋には学生が石炭の配給を受ける条件で、三笠・美唄などの炭坑で出炭作業に従事した。しかし、石炭不足は解消せず、大学はその後も数年にわたり長期冬期休暇の措置を取った。
 石炭不足が一段落した後、一九五二年には北大で使用する石炭を運搬のため「北海道大学構内鉄道引込線」が敷設された。一〇両前後に編成された石炭車の最後尾から、SLがバック走行で推進運転をする。国鉄(現JR)桑園駅から札幌駅方向へ本線と平行し、農場の苗圃(現在の石山通と北八条通の交差点付近)に差し掛かったとき、左に半円を描くような急カーブを切り、北大キャンパス内へ入る。農学部裏手を北上し、左手に果樹園、右手に理学部本館西側の試験園(現在の理学部六、八号館付近)を眺めながら直行すると、左手前方にポプラ並木が見えてくる。さらに工学部を過ぎたところで右(東側)に九〇度の扇形を描いて曲がり、メインストリートの手前まで直進すると、終点の貯炭場である(現在の工学部北側の駐車場付近)。石炭を下ろした後、復路はSLが通常の牽引運転をし、ポプラ並木を白煙で霞ませながら桑園駅に向かって走り去って行く。

貯炭場での石炭積み下ろし風景(1960年ころ撮影、大学文書館蔵)

 石炭運搬を担ったのは、石狩地方の炭坑からの石炭輸送に活躍した9600形や、札幌・旭川と宗谷地方を結ぶ旅客の主力であったC55形などのSLであった。八月中旬から一〇月初旬にかけて、石炭列車を担ったSLが北大キャンパス内を幾十回と往復した。写真は一九六〇年ころの貯炭場の情景である。C55形50号機が運び込んだ石炭を下ろし、ここからは馬車やオート三輪などに移し替えて運んでいく。近所の子どもたちがSLを間近で眺め、運転台に上がり込む様子も見られた。
 大学キャンパスをSLが走るという秋の佳景は、一九六三年を境に見ることができなくなった。石炭の時代は終わろうとしていた。
 現在のキャンパスには農学部裏からポプラ並木付近にかけて、メインストリートに平行する道路が走っている。半世紀前の「北海道大学構内鉄道引込線」の廃線跡である。また、写真に写っているC55形50号機は、小樽市総合博物館が静態保存し野外展示をしている。
 
 
 

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