負けない心でつながろう。
先々代の首相から教わった言葉だが「未曾有」の出来事が起きた。学生の無事を祈りながら安否を確認するも宮城県出身の学生一名の悲報を受けた。志半ばで亡くなった彼女は自分の将来にどんな夢を描いていたのだろう。被災地出身の学生の中には、親が生活基盤を失ったり、故郷の友人を亡くしたり、深い悲しみを負った学生が多い。そんな中、困難を乗り越えようと頑張っている二人の学生に話を聴いた。
(K)
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法学部2年 菅原大樹
菅原君の実家は、老舗の造り酒屋。昭和6年建築の「男山本店」の建物は、平成15年に国登録有形文化財に指定された。昭和初期の景観を現代まで伝えてきたが、無残にも倒壊してしまった。
菅原君は、持ち前の明るさで家族を元気づけました。「もうすぐ二十歳。実家のお酒を飲んでみておいしかったら跡を継ぎます!?」
2011年3月11日。私は実家のある宮城県気仙沼市に帰省していました。そこで私は日本中にかつてない被害をもたらした東日本大震災を経験することとなったのです。気仙沼市のような海に面した地域において、最も怖いのは地震そのものではなく地震による津波です。幸い私や私の家族は皆、地震が起きた時点で津波を想定しそれぞれ高台へと避難したので命は助かりましたが、津波は私たちからありとあらゆるものを奪っていったのです。知人の命、長年住み続けた我が家、大好きだった町の景観……失ったものは本当に多く、数えきれません。そんな激しい絶望の中、私は平和な日常の中では見いだせなかった大切なものを見つけました。それこそが人と人との繋がり〈絆〉です。私たち家族は普段一緒に過ごしていても、それぞれが自分のことを優先して行動していたように思えます。しかし、震災後はそれぞれが自分のためにではなく、家族のために行動するようになったのです。また、震災前それほど交流のなかった地域の人々ともコミュニケーションをとるようになり、さまざまな人と気持ちを一つに震災直後の悲惨な生活を乗り越えることができました。……この絶望の中で見つけた〈絆〉という希望が、今後の被災地復興の道しるべとなっていくのではないでしょうか。
学生相談でつながろう。
水産学部1年 渡辺結香
保健センター 講師 学生相談室相談員 斉藤美香
「総長から温かいご支援と励ましの言葉をいただき緊張しましたが、これからの学生生活をしっかり頑張ろうと思いました。」と渡辺さん。
東日本大震災により、被害に遭われた皆様、そのご家族の方々に対して、心よりお見舞い申し上げます。大切なものを失い、これまで経験したことのないほどの心の痛みや悲しみを抱いておられる方、震災前とは違う生活を余儀なくされ、慣れない環境に苦心している方もおられるかと思います。
震災から4カ月ほどになりました。災害直後の混乱した時期から少し時間が経ち、心身の不調が出てくる時期とも言われています。ここでちょっとひと休みアクセルを緩めてみてください。そして、「ここまでよく頑張ったね」と自分を労わってください。
あれだけの大災害から立ち直るには時間がかかります。「ゆっくり」「できることから少しずつ」「大丈夫」と自分に声をかけてあげてください。それでも「思い出したくない記憶がよみがえる」「誰とも話す気にならない」など毎日がしんどく感じたら、学生相談室にいらしてください。カウンセラーはあなたがあなたらしく回復していくためのお手伝いをしたいと思っています。被災地ボランティアに行ったカウンセラーもおりますので、「相談というほどでもないけど、ちょっと話したい」という感じでも気軽に利用してみてください。
震災から4カ月ほどになりました。災害直後の混乱した時期から少し時間が経ち、心身の不調が出てくる時期とも言われています。ここでちょっとひと休みアクセルを緩めてみてください。そして、「ここまでよく頑張ったね」と自分を労わってください。
あれだけの大災害から立ち直るには時間がかかります。「ゆっくり」「できることから少しずつ」「大丈夫」と自分に声をかけてあげてください。それでも「思い出したくない記憶がよみがえる」「誰とも話す気にならない」など毎日がしんどく感じたら、学生相談室にいらしてください。カウンセラーはあなたがあなたらしく回復していくためのお手伝いをしたいと思っています。被災地ボランティアに行ったカウンセラーもおりますので、「相談というほどでもないけど、ちょっと話したい」という感じでも気軽に利用してみてください。
渡辺さんのお父さんが長く家業に使われていた船も津波で座礁した。
2011年3月11日に起こった東日本大震災で、東北をはじめとした多くの地域が地震や津波により壊滅的な被害を受けました。私の実家である宮城県亘理町もその一つで、15mを超える津波が到達したといわれています。木も電信柱も民家も車も船も、何もかも押し流されて、私が震災後に地元に帰ることができた時は辺り一面瓦礫の山でした。家族と一緒に家や蔵の後片付けをしていて、思い出の品を見つける度にうれしい反面、悲しいような、何とも言えない複雑な気持ちになったのを覚えています。
私が住んでいた地域は港町だったこともあり、父親を含めて多くの漁師さんが職を失いました。漁港も流され、漁業が再開するのはもう少し先の話かもしれません。しかし、全国からの支援やボランティアのおかげで、少しずつではありますが復興し始めています。私自身、地元の未来を担う世代の一人として勉学に励み、将来は少しでも地域の復興に役立てればと思います。
私は大学や両親、クラスや部活動での友達などのたくさんの方々の支えがあって、ここ北海道で充実した大学生活を過ごせています。日々私を支えてくれている方々、楽しい時間を過ごさせてくれている方々に心の底からありがとうと言いたいです。
震災は多くのものを奪いました。しかしそこから学べることも多いです。家族との絆、人との繋がり、一日一日の大切さ、感謝の気持ち。挙げようと思えばまだまだあると思います。それらを忘れずに心にとめて、毎日を精一杯過ごして行きたいです。
私が住んでいた地域は港町だったこともあり、父親を含めて多くの漁師さんが職を失いました。漁港も流され、漁業が再開するのはもう少し先の話かもしれません。しかし、全国からの支援やボランティアのおかげで、少しずつではありますが復興し始めています。私自身、地元の未来を担う世代の一人として勉学に励み、将来は少しでも地域の復興に役立てればと思います。
私は大学や両親、クラスや部活動での友達などのたくさんの方々の支えがあって、ここ北海道で充実した大学生活を過ごせています。日々私を支えてくれている方々、楽しい時間を過ごさせてくれている方々に心の底からありがとうと言いたいです。
震災は多くのものを奪いました。しかしそこから学べることも多いです。家族との絆、人との繋がり、一日一日の大切さ、感謝の気持ち。挙げようと思えばまだまだあると思います。それらを忘れずに心にとめて、毎日を精一杯過ごして行きたいです。
渡辺さんの実家のある亘理町荒浜・阿武隈川沿いの被災の様子