北海道大学歴史ノート N o.8

国木田独歩と札幌農学校の交錯(二)
――有島武郎「或る女」
大学文書館 井上高聡

▲札幌農学校在学時代の有島武郎(中央)と森廣(右)。大学文書館蔵


  1895年、札幌農学校を卒業して研究生をしていた高岡熊雄(1871〜1961)の元を、山口中学校時代の級友で新進作家となっていた国木田独歩(1871〜1908)が訪れた。このとき、独歩は駆け落ち同然で結ばれた佐々城信子と北海道に移住する計画を立て、その下見にやって来たのだった。しかし、移住は叶うことはなく、信子は間もなく独歩から離れていった。

  1901年、独歩と別れた信子は新たな婚約者のいるアメリカへ向かった。相手は札幌農学校を卒業し留学していた森廣(1876?1915)であった。しかし、信子は船中で出会った男と恋に落ち、そのまま帰国してしまう。自由奔放な信子の言動は当時格好のゴシップネタとなった。

  森廣の親友として札幌農学校を同期卒業して予科教授を務めていた有島武郎は、1911年から足かけ3年にわたり雑誌『白樺』に独歩と別れた後の信子をモデルに「或る女のグリンプス」を連載した。その後間もなく、有島は職を辞し、東京で執筆活動に専念するようになった。後に有島は「或る女のグリンプス」を「或る女」と改題し、後編を加えて刊行した。独歩をモデルにした記者木部を形容した「或る女」の一節は、そのまま有島の独歩評であった。

雑誌『白樺』表紙。大学文書館蔵

  「木部の記者としての評判は破天荒といってもよかった。いやしくも文学を解するものは木部を知らないものはなかった。人々は木部が成熟した思想をひっさげて世の中に出て来る時の華々しさをうわさし合った。ことに日清戦役という、その当時の日本にしては絶大な背景を背負っているので、この年少記者はある人々からは英雄の一人とさえして崇拝された。」

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