北海道大学歴史ノート No.10
北大最初の大学入試と萩原朔太郎
大学文書館 井上高聡
一九〇七年、札幌農学校は帝国大学への昇格を果たし、東北帝国大学農科大学となった。東京・京都帝国大学と、後に九州帝国大学となる京都帝国大学福岡医科大学に次ぐ、事実上四校目の大学の誕生であった。当時の大学は九月入学であったから、この年七月に大学となって初
めての入学試験を実施した。受験資格は中学校卒業生で、合格すると高等学校に相当する大学予科で三年間学び、学部へと進学する。大学は三年制であったから、北大生は六年間の学生生活を送った。
この年、東北帝国大学農科大学は、七月十五〜十八日、数学、英語、国語漢文、物理化学、植物学、動物学の六科目の大学予科入学試験を札幌と東京で実施した。志願者四百八十八名中、四百十七名が受験し、百名が合格した。
この入学試験志願者の中に、二十歳の萩原朔太郎の名前を見ることができる。朔太郎は、前橋中学校時代から短歌を詠うなど文学を志したが、病院の跡取りという立場もあり、夢と現実の岐路で懊悩し始めていた。結局、朔太郎は大学予科入学試験を欠席してしまったが、高等学校入学試験には合格し、九月から第五高等学校(熊本)に進学した。しかし、この後、落第・退学・転学を繰り返し、朔太郎の焦燥と憂鬱と懈怠に憑かれたような青春の彷徨は続く。
めての入学試験を実施した。受験資格は中学校卒業生で、合格すると高等学校に相当する大学予科で三年間学び、学部へと進学する。大学は三年制であったから、北大生は六年間の学生生活を送った。
この年、東北帝国大学農科大学は、七月十五〜十八日、数学、英語、国語漢文、物理化学、植物学、動物学の六科目の大学予科入学試験を札幌と東京で実施した。志願者四百八十八名中、四百十七名が受験し、百名が合格した。
この入学試験志願者の中に、二十歳の萩原朔太郎の名前を見ることができる。朔太郎は、前橋中学校時代から短歌を詠うなど文学を志したが、病院の跡取りという立場もあり、夢と現実の岐路で懊悩し始めていた。結局、朔太郎は大学予科入学試験を欠席してしまったが、高等学校入学試験には合格し、九月から第五高等学校(熊本)に進学した。しかし、この後、落第・退学・転学を繰り返し、朔太郎の焦燥と憂鬱と懈怠に憑かれたような青春の彷徨は続く。
夏の日や日陰もとむる
唐獅子の渇きせまると
胸やく心地
驚きぬ日輪見れば
紅熱して向日葵花と
くちづけするに
唐獅子の渇きせまると
胸やく心地
驚きぬ日輪見れば
紅熱して向日葵花と
くちづけするに
朔太郎が、北原白秋の知己を得、終生の友となる室生犀星と出会い、口語自由詩を確立する詩人としての道を歩み始めるのは、まだ六年先のことである。