がんばれ北大!

ポーランドから北大へ留学

スワボミル・シュルツさん

(Slawomir SZULC) 1953年ポーランド・ポズナニ市生まれ。高校時代から日本語の勉強をはじめ,ワルシャワ大学日本学科を卒業。77年に北大に留学(ポーランドからは2人め),81年文学研究科日本史学専攻修士課程修了。現在はワルシャワ大学東洋学研究所日本学科で日本語,日本史を教えるほか,日本語通訳としても活躍している。


 北大留学に来たのはちょうど20年前の11月。身を刺すような寒い風,晩秋の冷たい雨――札幌の人々がいちばん嫌がるような天候だった。でも私の目には,街は輝かしい「北の京(みやこ)」と映った。その後世界中の美しい都市をいくつも回ったし,相当の年月も過ぎたが,その強烈な印象は変わらない。
 これは決して北大の宣伝ではない。はじめてポーランドを出た,当時の私の気持ちは説明がむずかしい。キプリングの『ジャングル・ブック』で,狼の巣育ちの主人公が,原始林を出てはじめて見たインドの寒村の文明度に圧倒されたときのような感じ……だろうか。華やかで,騒がしく,すべて異質のルールが働く社会――この感じは,70年代の東欧(ポーランド)と,90年代の中欧(ポーランド),両方の経験を持たない人には,どうにも説明のしようがない。別に日本人に限らない。うちの子供だって,70年代のポーランド映画は,はるかな外国のことのように見ているのだから。
 北大では,研究室の雰囲気が好きで,朝早くから顔を出し,雑談をしたり,勉強したりしていたので,割とスムーズに日本人の仲間に溶け込んでしまった。最後までうまく行かなかったのはソフト・ボール――でかい棒で小さな球をいじめるようなスポーツはどうもなじめないところがある。文学部の大会では研究室の第二軍にも入れてもらえなかったが,研究室内の大会で,女子学生,井上先生,私まで特に参加を許されたことがある。二軍の一番上手でもない投手がわけの分からない球を投げ込んできて,目をつぶってバットを振ったら,奇跡が起こった(奇跡は,神風の国日本と黒聖母の国ポーランドの数多くの共通点の一つ)。空高く飛んでゆくその球の記憶は,はじめて目にした札幌の印象と並んで,私の日本留学の最も鮮やかな思い出として残っている。
 留学の4年間は,全体として,とても幸せな時期だった。友情もあったし,ロマンもあったし,北大附属病院で長男が生まれた。研究の面でも,自分なりに努力して,日本史の修士号をおくられた。本当なら最初に述べるべきことだが,ここで,留学中終始お世話をいただいた多くの方々に感謝の念を述べるとともに,数限りなきご迷惑をおかけした皆様にお詫びを申し上げたい(「シュルツお世話人名簿」は「シュルツ被迷惑者名簿」だと意識しています)。
 81年の秋ポーランドに帰り,翌年からワルシャワ大学で日本語と日本史を教えてきた。はじめは受験者の80%を落とすようなこともあり,「鬼の伍長」などとあだ名をつけられたが,時とともに,そういう切れ味はとれてしまった。教育の他に,大学改革にも関心を持ち,改革運動にかかわってきた。89年に共産党政権が崩れてから,ポーランドの大学のシステムは非常によくなった。今はポーランドのEU加盟を目前にして,西ヨーロッパの大学との交流の仕組みの準備にもたずさわっている。大学の外で日本語の通訳を努めることもある。批判もあろうが,研究者を志す私には視野を拡大する大切な方法である。おかげで大統領訪日の際の通訳など貴重な機会にも恵まれた。
 後輩の皆様へ――こういうことは一番苦手だが,敢えてひと言――学校は,質問を打ち出せる能力を養う場で,唯一の正しい解答を教え込む場ではない。それを活かして,あらゆる内容を冷静に分折する力を育ててください。
 それから,今も将来も,正しい解答を知っていると主張する人間には距離を置き,思い切って生きてください。

 


シュルツさんと恩師・河内教授

 

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