MESSAGE

 今号は、札幌市内中学校全98校に送付しました。

 

もうすぐ「大人」になる
中学生の皆さんへ

佐 藤 良 子


 手首にナイフをあてて「死のう」と思いつめたり,「切ったらホントに死ぬのかなあ,切ってみようかなあ」「生きてたってしょうがないなあ,死のうか,でも親は悲しむだろうなあ」などというふうに,中学生(あるいは小学生)の頃一度も考えない人はいないのではないでしょうか。私はいま30才,というとずいぶん年上に感じるでしょうが,つい10数年前はまぎれもなく中学生で,その当時「死にたい」と,時々はなんとなく時々は本気で考えていました。たぶん,そう考えることは現代の中学生にとってさして特別のことではないのでしょう。残念ですがそういう気がします。中学生の私にとってそれはとても切実な問題でした。
 私が通っていた中学校は楽しいこともあったけれど,いろんな意味でとても窮屈でした。当時の私は,あまり積極的に人と接するのは得意でなかったけれどそれなりに友人もおり,目の前には勉強や部活動などの「すること(垂竄轤ウれていること)」がありました。でも毎日が単調な生活で,自分のことを「学校」という工場のなかで決められたことだけをやるロボットのようだ,と感じていました。誰も自分の気持ちの奥底を分かってくれないという孤独感もありました。また,生きていて自分が何の役に立つのかがわかりませんでした。今考えてみると,「死のうか」と考えたのはたぶん生きている実感が欲しかったからだろう,と思います。
 その後,いろんな体験を通して(頭で考えるのではなく),生きていく上でいつも孤独を抱え,死と隣り合わせでいることはごく当たり前だということを知りました。また,自分のほうから何かを伝える努力なしには,世代の違う人々(まして異文化をもつ人々)と理解し合えるはずがないということなども自覚しました。そうしていつのまにか30才になりました。今後私がどんな職につくかということとは関係なく,ただの一人の「大人」として,学校や教育にかかわる問題を考え続けようと思っています。
 自分では気づいていない人もいると思うけど,皆さんはもう他人(身近なところから外国人まで)や広く地球のために自分の力を役立てることができます。弱いものやこわれやすいものを守るために役に立つことができます。体も大人になってきたし,視野も広く考えることも深くなってきているということは,そういうことを意味しています。あとは気持ちを行動に移す力を出すだけです。
 そこで私から一つのお願いがあります。皆さんが中学・高校を卒業したとき「やっと奴隷生活から解放された」と喜ぶだけで,窮屈だった日々を過去の出来事にしてしまうのではなく,それをなんとかしようと思っている私やその他の大人たちの仲間としての「大人」となり,共に考えてください。「自分にとってはもう終わったことで,関係ない」といってしまうなら,それは自分がかつて批判していた「無責任な大人」に自分も仲間入りすることになります。自分の力を自覚し,立派に育った体や頭をそういうことに使ってほしい。どんな立場にいても,教育について考えたり発言することはできますから。そして,これから中学生になる人たちが少しでも生きる実感をもって生活を送れるように,私や皆さんと同じ苦労をしなくて済むように,問題を少しずつ改善していけたら素晴らしいと思います。
 いろんな矛盾の中でも前向きに生きようとする種類の大人たちの仲間に,そういう「大人」になってください。困難な問題ですが「大人」の責任として一緒に考えていきましょう。

少し前に中学生だった私より

(さとう りょうこ,教育学研究科修士2年)

 

学校教育を考える

西 川 直 哉


 ナイフによる傷害事件,もはや中学生を考える際のキーワードとも言える現象です。このような問題に関して全国の中学校ではこう言われているでしょう。「自分の将来のことを考えなさい。(犯罪者になってしまっては)将来が台無しです。」まさにこのことこそ,この問題の本質ではないでしょうか。
 確かに自分の将来を考えるなら誰もその将来にマイナスになるようなことはしません。一時の気の迷いだけで他人を死にも至らしめるようなことはしません。「ちょっとしたことでキレやすくなった中学生」最近そのような見方が強いように感じます。しかし本当にそうなのでしょうか。そんなに簡単に情緒の安定性は損なわれるものなのでしょうか。ちょっとしたことでナイフを突き出すという行為は僕たちが中学校の頃目にした漫画やテレビにも今と変わらず存在していました。決してナイフで人を傷つけることが5年やそこらで軽い行為になってしまったとは思えません。又,ナイフを取り出して傷つけねばならないほどその対象が陰湿になったわけでもありません。衝動的に何かしたくなるときの歯止めとして働いていた自分の将来が大切なものでなくなりつつあることこそ,些細なことで重大な罪を犯してしまう背景にある問題なのではないでしょうか。
 まじめに勉強し,「一流」大学を出て「一流」企業に就職することで人生の成功を得られるかのような教育を受けて育った若者にとって,昨今の,両親の世代の相次ぐリストラ,倒産による失業はあまりに冷酷な現実です。
 教えられてきた将来に期待を持てない。そして,それ以外の人生に幸せを見いだせない。教師も「標準コース」以外の人生設計は手伝ってあげられない。そんな状態に陥ってはいないでしょうか。現代の義務教育は(高等学校も含めて)自発性を求めるような教育とは思えません。多様性を認める教育でもありません。そんな中で先に挙げたような人生の成功法以外を探せなくなっているのではないでしょうか。
 今日の中学生の動機の不可解な傷害事件は,テストで点を取れる者,教えたことに忠実な者を良しとする教育,そして,生徒をそうさせようとする管理教育,を見直すべき時期に来ている事を告げているかのように感じます。「良い」高校にはいるための中学校,「良い」大学に入るための高校が果たして教育の場と言えるのでしょうか。教育基本法では教育の目的をこう定めます。「教育は人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」決して優秀な学習塾たらんとする学校教育を行おうとするものではありません。今一度原点に立ち返って教育の在り方を考え直す時期に来ているのではないでしょうか。
 最後に悩める同世代あるいは次世代の若者に一言。自分に誠実であれ。今いる大人たちが自分の未来の姿とは限りません。一般に言われる偉い人,立派な人が必ずしも立派な人であるとは限りません。親や先生の言うことが全てではありません。未来はどうにでもなります。夢を持ち,夢を語り合える友を持ちましょう。「くそ」がつくようなまじめさは要りません。内申書などに囚われるのはあまりにつまらないことです。自分に誠実に,そして「自分」を持つ他人に誠実に……

(にしかわ なおや,農学部4年, 社会科学研究会所属)

 

プラス思考で前向きに

荒 関 沙 織


 経済が破たんし,就職難が騒がれる今日,努力が必ずしも実を結ぶとは限らない現実と,大人のモラルが低下した社会を子供はどう見ているだろうか。
 私なら,周囲と同じように勉強を続けながらも,何のために勉強しているんだろうと悩み,ジレンマに陥ってしまう。
 今,学校のあり方が社会全体で問いなおされている。これからの社会を担う子供が学ばなければならないことは何であろうか。少年犯罪が多発し,国は「心の教育が必要だと言う。だが,具体的に今の学校制度の下でいったい何ができるだろうか。一般に,教育が問題視されると,その原因をすぐさま学校に求めがちであるが,教育は何も学校でのみなされるものではない。私は青少年の野外活動に興味があって,夏,冬2回にわたって開催された野外活動指導員養成の研修に参加したことがある。野外活動では,指導員も子供といっしょになって体を使って働き遊ぶ。指導員は子供に先まわりして手とり足とりやってやるのではなしに,前もって何度も下見をし安全を確保しながらも,ある程度の危険なこともやらせてみる。活動と活動の間には,必ず十分な時間をとり子供達どうしがお互いにコミュニケーションをとることができるようにする。そうした様々な活動を通して,ひとりひとりが個性豊かに存在感を持ちはじめるのだ。みなそれぞれよいものをもっているのに普段の学校生活では勉強以外で評価されることが少ない。
 「心の教育」は教師が言葉でどうこう教えられる性質のものではない。
 教師の生きざま,子供に対する姿勢そのものが間接的にその役割を果たしたり,子供どうしのコミュニケーションの中で自然となされるものだと思う。人間の心を育むものは人間の心でしかない。その意味で今必要なのは人間的に魅力のある教師と子供どうしがスムーズにコミュニケーションをとれる場を与えることだと思う。
 最後に中学生へ。
 中学の頃ってクラス内は必ずいくつかのグループに分かれていたから,いつも話す人は決まっていて,友達とはTV番組だの芸能人だの,話して笑ってそれでおしまいといううすっぺらな話しかなかった。だから友達とはいっても,本当はどんな人でどんな事をどんなふうに考えているのか,実際のところはわからなかったし,自分も相手に,腹わって話すことはなかった。3年になって調書に自分の長所,短所を書くように言われたけれど書けなかった。自分がどういう人間かもわからなかったのだ。
 ありとあらゆることがぼんやりとしていて,はっきり見えないそんな時だと思う。私も中学生にだけは絶対戻りたくない。ただ,そんな苦しい思いやりきれない思いはこれから先必ず自分の「こやし」になるもので,イヤな思いをたくさんした人が人の痛みのわかる人間になれるのだと思います。
 よく世の中狭いといわれるけれど,実際は結構広いもので,いろんな人がいていろんなことをして暮らしています。だから必ずどこかにあなたを必要としている人がいるもんです。13,14,15歳は可能性がまだまだいっぱいの年齢です。だからどんなことがあっても自暴自棄になったりせず,プラス思考で前向きに生きてほしいな,と思います。

(あらせき さおり,教育学部2年)

 

無能な大人が多すぎる

竹 渕 智 文


 「すべての自分の行動を決めているのは他でもない,自分自身である。」当たり前だ。しかし,その当たり前のことに気づいたのは高校生の時だ。自分で考えたのか,本から知識として得たものを自分の考えとしてしまったかはわからない。
 デカルトは次のように言っている。「我思う,故我あり。」すべての知識・存在を疑った時,「疑う自分」の存在だけは否定できない。夢と現実を区別することはできないが,その両方ともを見ている「自分」だけは確かに存在する,ということだ。
 「自己満足」または「自己中心」。かなり語弊はあるが,すべての自分の行動に関してそのことが言えると思う。年寄りに席を譲ろうが,人をいじめようが,刺そうが,自殺しようがすべてそうだ。自分の心の奥底にある罪悪感や苦しみ,快楽といった感情を和らげたり満たしたりする方に,行動が進んでいる。
 もちろん,感情論の話ではない。自分のためと思いながら年寄りに席を譲る人はいない。
 結局私の言いたいことは,どんな状況であれ行動を決めているのは,自分なのだから,なにをしてもいいから責任はとれということだ。責任がとれないならするな。
 現代の子供達はとても大変な時代に生きていると思う。物質的には今までの歴史の中で類をみないほど満たされているが,それがゆえに人や生き物などと接する機会が少なくなり,人として最も大切な何かをしっかり学んできていない。世界はコミュニケーションなしに成り立たない。家庭はもとより,学校も学問以外に人と人とをつなげるコミュニケーションを学ぶ場であったはず。しかし近年その機能は様々な社会的要求のため変化してきている。また,そもそも子供の質自体も変わってきているらしい。最近,その質的な面と環境汚染の関係がとりざたされている。例としてアメリカの場合を上げてみると,PCBを作っていた土場の廃液が流れ込んでいた湖の魚を食べた女性とその子供を調査したところ,より多く食べた女性から産まれた子供により多く,影響が出ていることが報告されている。しかも問題なのは,外見的に普通の子供に,精神的や知的な面での傷害,いわゆる目に見えない影響が数多く報告されていることだ。マウスを使った実験でも,子供のマウスが凶暴化することがわかっている。また日本でも環境ホルモンなどが,新聞にとりあげられ社会問題化していて,特に子供に対する影響が心配されている。今までにはなかった危険が子供達を取り囲んでいる。しかも,子供達を危険に追い込んだのはまぎれもなく大人達だ。子供を作ったのも,育てたのも,生きる環境を作ってきたのも大人達なのに自分達のことは棚に上げて「最近の子供たちは……」と色めがねをかけて見てくる。本当の意味で無能な大人が多すぎるのだ。日本人の環境問題に対する意識の低さをみれば,どれだけバカな大人が多いのかわかる。まずは大人が反省してほしい。自分の責任ぐらい自分でとってほしい。
 バカに産まれた人は運が悪いし,できよく産まれた人は運がいい。バカ親に育てられたのは運が悪いし,良き親に育てられた人は運がいい。どうであれ,結局頼りになるのは自分なのだ。中学生と言えばもう自分でしっかり物事を考えられると思う。好きなように生きればいい。しかし,責任がとれない大人にはなってほしくないと心の底から願っている。

(たけぶち ともふみ,農学部2年)

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