特集 2000年からの自分      
2000年からのあなたへ
副学長 前 出 吉 光

  今年は社会のいろんな分野で「2000年」や「21世紀」が氾濫する騒々しい年になるだろうと思っていたら、案の定、このような原稿依頼が来た。「2000年からの自分」を想像してみたが、確実なことは、運良くさらに馬齢を重ねることができたとしても2000年代の前半でこの身は必ず現世から消滅するということである。そんな面白くもないことを本誌の編集部が依頼してくるとも考えられないので、恐らく本稿の目的は2000年以降に社会で活躍してくれるであろう本学の学生諸君、特に夢と希望を抱いてめでたく本学に入学した新入生諸君への励ましであると理解したい。つまり、「2000年からの自分」ではなく、「2000年からのあなたへ」ということであろう。
  少々乱暴なたとえであるが、太平洋戦争の敗戦から立ち直り、現在の繁栄を築いた私達の親の世代を初代とすれば、私は2代目、あなたは3代目となろうか。初代とその親たちのエネルギーは凄まじく、そのエネルギーは方向を間違えて一旦は国を亡ぼしてしまい、この国が他国に占領されてしまうという、日本史上最大の屈辱を被る原因となってしまった。国破れて後もそのエネルギーは止まらず、僅かな期間でこの国を再び世界でも有数の経済大国に押し上げた。諸外国が驚嘆の声とともに、時にアメーバを見る様な目つきを向けるのもむべなるかなである。2代目は初代のそのエネルギーにただ圧倒され、服従し、初代の真似ごとをして生きてきたように思う。その初代のほとんどは生物界の法則に従って消え去り、そのエネルギーがほぼ完全に消え去った今、世の中の中心となって働いているのは2代目である。私は初代が最も元気盛んであった頃を知らない。私の記憶は占領軍が進駐してきた頃から始まっている。
  1952年、小学2年生の私は伊賀の上野から大阪市内の小学校へ転校した。伊賀の町は藤堂藩以来の風情を色濃く遺す静かな城下町であったが、大都会大阪は戦災から復興しつつあったとはいえ、市内の至るところ瓦礫の山であり、崩れた建物の周辺には雑草が生い茂り、夕方には驚くほど赤い夕陽の中を野犬の群れが徘徊していた。大坂夏の陣の頃もかくやと思われる堀立て小屋が点在し、橋の下にはツバメの巣のようにバラック小屋が密集し、人々が生活していた。そのような場所から通学してくる級友がいて、近寄ると強烈な異臭がした。そんな都会が嫌でたまらず、夏や冬の休みには祖父母の待つ伊賀の里へ帰郷していた。伊賀盆地を流れる服部川は水清く、小魚が無数に遊泳し、岸には大小の白い玉石の河原が広がって、チドリが鳴き交わしていた。昭和34年、春休みで帰郷した中学1年生の私は、真っ先に川へ遊びに出かけた。土手を走り登って河原を見渡したとたん、思わず立ち尽くしてしまった。玉石の河原は無残にも荒れ土の平地に変わり、その上をブルドーザーが走り回っていた。川水は赤く濁り、小魚の姿は見えなかった。河川改修の名目で、川をコンクリートで固めて排水路に変えてしまうという愚劣で暴力的な土木工事が日本全国で始まったのだった。その頃から町では高層ビルが続々と建ちはじめ、道路は整備され車が増えた。そして今、人々はこの国はじまって以来の消費生活を堪能している。大都会のど真中に堀立て小屋が建っていた頃から、高々40年ほどの間の出来事である。
  このエネルギーの源泉は何だったのか。初代は2代目にそれを語ることなく、2代目はそれを考えることもなく、ただそのエネルギーのみを受け継ぎ、消費してきた。しかし、2代目はそのツケがいかに大きいかを思い知らされつつある。国土と人々の心の荒廃というツケを、これから残り少ない時間の中で2代目は解消していかなくてはならない。初代が持っていたエネルギーの源泉を探り出し、それを「2000年からのあなた」へ正しく伝え、そして3代目であるあなたが新しいエネルギーを産み出してくれるように、不甲斐なき2代目は今しばらく頑張らねばならないようである。

(まえで よしみつ,獣医学研究科教授)



 

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