全学ニュース

春の叙勲に本学から6氏

 このたび,本学関係者の次の6氏が平成14年度春の叙勲を受けました。

勲   等
経   歴
氏   名
勲二等瑞宝章 名誉教授(元医学部長) 相 沢  幹
勲三等旭日中綬章 名誉教授(元応用電気研究所長) 達 崎  達
勲三等旭日中綬章 名誉教授(元農学部) 木 下 俊 郎
勲三等瑞宝章 名誉教授(元医学部) 高 橋 香 織
勲五等双光旭日章 元工学部事務部長 今 田 末 吉
勲六等宝冠章 元医学部附属病院看護婦長 遠 藤 英 子

 各氏の長年にわたる教育・研究等への功績と我が国の学術振興の発展に寄与された功績,あるいは医療業務等に尽力された功績に対し,授与されたものです。
 各氏の受章に当たっての感想,功績等を紹介します。

(総務部総務課)

○相 沢   幹(あいざわみき) 氏
○相 沢   幹(あいざわみき) 氏 平成14年春の叙勲に際し,受賞の光栄を与えられ感慨無量です。在職中御指導を賜りました恩師,先輩各位と,一貫して誠心誠意職務に協力して戴いた教官,職員の御苦労に対し,この際改めて御礼申し上げます。
 憧れの北海道帝国大学予科医類に入学した昭和16年(1941)は既に日中全面戦争中で,12月8日の日本海軍によるハワイ真珠湾攻撃と共に,あの大戦争に突入した時代でした。
 本来3年間の予科生活を半年繰上げて医学部に進学し,4年間の医学部課程を修了して,終戦後の学制改変直前の帝国大学の最後の卒業生となったのが,昭和22年9月でした。その後医師養成制度の改変による1年間の医学研修(インターン制度)と医師国家試験の合格が義務づけられていた不運を嘆いたものでした。
 昭和23年10月,戦時中に設けられていた大学院特別研究生として,武田勝男教授の指導下で研究生活に入りました。その研究課題は「癌細胞の免疫学的特異性」でした。それは当時の癌の常識を越える発想でした。何となれば「癌細胞は我が身の化身であるから,非自己認識を前程とする特異的免疫は成立し得ない。」というのが一般的知識に基づく考え方でした。その際,既存の移植癌を実験材料とする限り成果は同種移植免疫に埋没して議論の余地を残すので,近交系ラットを用い,化学誘発した自家癌に対してその発癌個体に特異的移植免疫を誘導することに成功した,その成果に対し癌免疫の先端的研究との評価が与えられました。(昭和42年)
 この研究の背景にあるのは「免疫遺伝学」と称され,古くハツカネズミの研究で発見,確立された「H−2系」が世界的に有名であったが,近交系ラットの免疫遺伝学的研究によって「R抗原系」という主要組織適合系の存在が立証されたのは日本で最初です。この研究は筆者が教授就任後,皮膚移植,心臓移植,腎臓移植,肝臓移植の研究に発展し,移植学の基礎研究に貢献しました。
 HLA抗原の研究は,第7回日本移植学会総会(昭和46年)を札幌で主催した時,その研究グループの要請に答えて,当時マウスの免疫遺伝学を米国で学んで帰学した板倉助教授(故人)を説得して,教室に研究グループを発足させたのが出発点でした。そして研究開始後1年程で,現在Bw54抗原という国際的学術語となった日本人に特徴的な抗原−サッポロ一番(Sa1)−が発見されました。(1974)
 HLA抗原系の研究は,先導的各個的研究と国際的共同研究(ワークショップ)という2本柱で支えられています。この研究形式の特徴は参加グループの全員の徹底したきびしい討論後の集約が公表されるもので,その際,参加研究グループの成績信頼度も明らかにされるきびしい世界です。
 当教室の「日本人のHLA抗原の研究」に対して,日本医師会医学賞が与えられました。(昭和55年11月)

略  歴  等
生 年 月 日 大正14年2月5日
出  身  地 北海道
昭和22年9月 北海道帝国大学医学部医学科卒業
昭和25年9月 北海道大学大学院特別研究生1期生修了
昭和27年7月 北海道大学医学部助教授
昭和27年11月 医学博士(北海道大学)
昭和40年6月 北海道大学医学部教授
昭和49年4月 北海道大学学生部長
昭和50年6月
昭和58年7月 北海道大学大学院医学研究科長・医学部長
昭和62年7月
昭和63年3月 北海道大学停年退職
昭和63年4月 北海道大学名誉教授

功  績  等
 相沢 幹氏は,大正14年2月5日北海道斜里郡斜里町に生まれ,昭和22年9月北海道帝国大学医学部医学科を卒業,翌23年10月北海道大学大学院特別研究生として医学部病理学第一講座にて研究を開始しました。昭和27年7月同講座助教授,昭和40年6月北海道大学医学部教授に任ぜられ同講座を担当,昭和63年3月同大学を停年退職し,同年4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。退官後は平成元年8月から北海道公安委員会公安委員,同6年6月から7年8月まで同公安委員会委員長の公職につき,北海道の公安維持に勉めました。また,平成2年4月から北海道組織病理学センター会長に就任し,同12年4月名誉会長となり今日に至っています。
 北海道大学教授として23年間,医学部病理学第一講座を担当し,教育,研究に従事するとともに,多数の病理学者,病理医,移植並びに免疫学を専門とする医師や研究者の育成に尽力し,その薫育をうけた教え子は国内はもとより世界中で活躍し,人類の福祉向上に寄与しています。
 同人の研究活動は病理学及び免疫学全般にわたっていますが,中でも最も重要なものは「主要組織適合複合体」の研究です。その成果は昭和48年に開催された第62回日本病理学会総会において「移植と移植免疫」として宿題報告し,会員の高い評価を受けました。その後,ラットの主要組織適合複合体の研究を更に発展させ,ラットを用いた実験的腎臓移植,肝臓移植,心臓移植の方法を樹立し,臓器の生着と主要組織適合複合体との関連,種々の抗原物質に対する免疫応答の遺伝学的解析を行い,ヒト臓器移植のモデルとしました。更に,ラットの研究からヒトの主要組織適合複合体であるHLA系の解析に進み,日本人に特徴的な抗原の発見やHLA抗原分布を利用した人類学的研究,またベーチェット病,インスリン依存性糖尿病,Vogt−小柳−原田病,遺伝性脊髄小脳変性症などの各種疾患の発症に関わる遺伝的要因を明らかにしました。これらの業績により昭和55年11月日本医師会医学賞,昭和63年2月北海道科学技術賞を授与されました。
 さらに,前任教授である故武田勝男氏以来行ってきた癌の免疫に関する研究や北海道に広く発生の見られるアニサキス症の発症機序に関する免疫学的研究,ラットを用いた発癌の研究,および広くヒトの各種疾患に関する臨床病理学的研究など多くの業績があります。また,特記すべき独創的業績として,ラットの臓器移植ならびに免疫遺伝学的研究に欠くことのできない近交系動物やある特定の遺伝子のみを置換した背景の遺伝子構成が全く同一であるコンジェニックラットを長年かけて開発したことが挙げられます。これらのラットの開発は,後人に臓器移植モデルや疾患感受性の免疫遺伝学的解析モデルとしての基礎的研究材料を提供した点で特に意義深いものです。
 学内にあっては北海道大学医学部長(昭和58年7月〜昭和62年7月),北海道大学学生部長(昭和49年4月〜昭和50年6月),北海道大学医学部附属動物実験施設長(昭和47年11月〜昭和58年7月),北海道大学附属病院病理部長(昭和61年1月〜昭和63年3月)を併任し,医学部および同附属病院の運営や大学運営の充実,北海道大学の発展に尽力しました。
 学会活動としては,数期にわたり日本病理学会理事をつとめ,病理学会の発展のために多大な貢献をしました。そのほか日本免疫学会,日本移植学会,日本癌学会の評議員として活躍しました。昭和46年には第7回日本移植学会会長,昭和52年には第7回日本免疫学会世話人,昭和63年5月には第77回日本病理学会総会会長として各学会を開催し,成功裏に終了しました。さらに,国際的学会活動として,昭和61年6月には第3回アジアオセアニア組織適合性ワークショップ,平成3年11月には第11回国際組織適合性ワークショップを主催しました。その成果は学会終了後,モノグラフ「HLA IN ASIA-OCEANIA」あるいは「HLA 1991」として刊行され,この分野の研究に携わる世界中の学者のバイブルとして活用されています。かくの如く同人の業績は国際的にも高く評価されています。
 そのほか,昭和40年以降今日に至るまで北海道大学に学ぶ学生の文化サークルの一つである北海道大学交響楽団の団長(顧問教官)として同楽団の育成・指導に与かり,大学交響楽団としては国内屈指の水準を有する楽団に育て上げた功績も忘れる事は出来ません。
 以上のように同人は,病理学の教育・指導・研究を通して,北海道大学ならびに同大学医学部の発展に寄与し,わが国の病理学会の重鎮として卓越した業績をあげ,わが国ならびに世界の関連領域の研究進展に多大の貢献をなしたもので,その功績はまことに顕著であります。

(医学研究科・医学部)


○達 崎   達(たつざきいたる) 氏
○達 崎   達(たつざきいたる) 氏 この度の叙勲に際し,その栄に浴しましたことを,光栄に思っております。
 このことは,長年に亘りご指導,ご鞭撻をいただきました諸先生,諸先輩を始めとし,学内外の多くの方々のご支援の賜と心からお礼申し上げる次第であります。
 大学を卒業後,東京で魚群探知機を取り扱う電機会社に勤めていた私に,応用電気研究所の物理部門の助手にとの打診がありましたのは,昭和26年の3月末頃であったように記憶しております。学会出席のため上京中の浅見所長の宿舎で面接を受けました。何度かの手紙の往復で,研究内容が当時の新しい分野,電子スピン共鳴吸収や核磁気共鳴吸収に関係することに興味を覚え,札幌に戻りました。
 当時の研究所には,数学,物理,化学,電気,生理の諸部門がありました。実験に必要な装置は,すべて手作業で作り上げねばなりませんでしたが,電子回路の制作には,電気部門,電子制作施設,工作室の方々から適切な援助を受けることが出来ました。また,専門を異にする方々との会話の中から,研究を推進する上での貴重な示唆を受けることも多々ございました。
 このような,恵まれた研究環境の中で,誘電体の相転移現象の研究を,核磁気共鳴,ブリルアン散乱,ラマン散乱,超音波吸収など,多様な測定手段で進めることが出来ましたことは,幸運なことでした。
 研究生活を振り返り,研究を一緒に行った研究室の方々と大学院学生諸君に,深甚な謝意を表したいと思います。
 停年前の3年間は,思いがけなくも研究所長の重責を担うことになりましたが,研究所教授会,事務関係各位のお力添えで大過なく職務を果たせたと,思っております。
 終わりになりましたが,北海道大学の一層の発展をお祈り致します。

略  歴  等
生 年 月 日 大正14年2月2日
出  身  地 北海道
昭和25年3月 北海道帝国大学理学部物理学科卒業
昭和26年6月 北海道大学応用電気研究所助手
昭和35年9月 理学博士(北海道大学)
昭和37年1月 北海道大学応用電気研究所助教授
昭和42年10月 北海道大学応用電気研究所教授
昭和54年10月 北海道大学応用電気研究所附属電子計測開発施設長
昭和57年9月
昭和60年4月 北海道大学応用電気研究所長
昭和63年3月
昭和63年3月 北海道大学停年退職
昭和63年4月 北海道大学名誉教授
昭和63年4月 北海道東海大学教授
平成4年3月

功  績  等
 達崎 達氏は,永年にわたって,物理学教育・研究指導に尽力されるとともに,誘電体相転移ダイナミクスの研究に努められ,多くの優秀な研究者の育成に大きく貢献されました。
 同人の研究功績は,核磁気共鳴法から光散乱分光法にいたる広い範囲の分光学的手段を総合的に駆使することにより,誘電体を中心とした構造相転移の動的機構の解明に関する研究を推進し,斯界の発展に貢献したことであります。 同人の初期の研究は,常磁性共鳴吸収装置,核四重極共鳴吸収装置,核スピン−格子緩和時間測定装置などの開発と,それらの装置を使用した固体内分子の運動の解明に関するもので,これらの研究は相転移に関する分子の運動を詳細に解明したもので,この分野の先駆的研究として評価されております。特に,秩序・無秩序型強誘電体の代表的物質である亜硝酸ソーダの相転移において,23Na核の核四重極共鳴スペクトルの観測から,23Na核位置における電場勾配の温度依存性と相転移の秩序度の関連を最初に明らかにされ,試料内の温度分布を解消した精密な温度依存性の測定炉を開発することで,それまで通説とされていた非整合相における電場勾配の誤った温度依存性を正しいものに修正されたことであります。
 また,レーザーの性能向上に注目され,核磁気共鳴法から光散乱法に実験手段を移行され,レーザー分光法としてラマン散乱,ブリルアン散乱,レーリー散乱を駆使した研究を展開されました。ブリルアン散乱法では結晶内歪に修飾された格子欠陥に起因するセントラルピークを発見され,試料の熱処理の効果としてこの結論の確認を行われました。これは当時,未知の励起状態に起因するものとして注目を浴びていたセントラルピークのスペクトルに初めて明確な物理的解釈を与えたものとして,国内外に大きな反響を呼びました。更に,MHz帯域の動的特性を解明するため超音波吸収法を取り入れ誘電体構造相転移の動的機構の解明に応用され,ブリルアン散乱で研究が可能なGHz帯域の観測とあわせて,相転移機構に音響型格子振動が強誘電性分極揺らぎと結合する過程を解明されました。
 このように構造相転移現象における「揺らぎ」の本質的な機構の解明を磁気共鳴,超音波吸収,光散乱等の測定手段を総合的に駆使した研究成果は,国内・国外において前例の無いものであり高く評価されており,顕著な功績であります。
 学外においては,昭和52年9月から昭和54年8月まで研究と教育に尽力され日本物理学会北海道支部長,昭和57年4月から昭和59年3月まで応用物理学会北海道支部長,昭和59年4月から平成元年3月まで同学会評議員,昭和61年4月から昭和63年3月まで同学会理事会理事を歴任され,昭和59年9月には第6回国際強誘電体会議委員会委員を務められました。昭和63年4月から平成8年3月まで財団法人秋山記念生命科学振興財団評議員,平成6年5月から平成8年3月まで同評議員会議長を務められました。
 また学内においては,昭和60年4月から昭和63年3月まで北海道大学応用電気研究所長,同大学評議員として本学の運営にも尽力されました。
 以上のように,同人は永年にわたり,誘電体相転移ダイナミクスの研究・教育を通じて学術振興および人材育成に多大な貢献をされ,その功績は,まことに顕著であります。

(電子科学研究所)


○木 下 俊 郎(きのしたとしろう) 氏
○木 下 俊 郎(きのしたとしろう) 氏 この度は叙勲の栄に浴し,大変光栄に感じております。私がこのような栄誉に恵まれましたのは,学内外の多くの方々からのご懇篤なご指導と暖かいご支援をいただいた賜と心から御礼を申し上げます。
 私は昭和28年3月,農学部を卒業後,育種学教室の助手として,その当時教室のグランドテーマであったイネの遺伝子分析の研究に加わりました。私の恩師であった長尾正人先生と高橋萬右衞門先生からは親しく育種研究の手ほどきを受け,いつの間にかその秘法を授けていただいたように思って,感謝しております。農場の実験水田で,春の田植えの時はアカシヤの満開が美しく(ポプラ並木の北半分はかってアカシヤであった),晩秋の手稲山の夕焼けは,調査を終えて水田から眺めるのが最高でした。両先生が始められた“稲の交雑に関する研究(Genetical Studies on Rice Plant)”は昭和16年,その第1報が発表されて以来,イネの各種形質の遺伝子分析を始め,育種の基礎と応用,たとえば突然変異の利用,重要な育種形質である耐冷性や耐病性に関する遺伝分析などへと発展し,長尾・高橋・木下の3世代の教授へ受け継がれました。幸い平成3年3月には高橋先生との共著で“稲の交雑に関する研究第100報−連鎖地図と今後の問題−(英文)”を北大農学部紀要第65巻へ発表できました。この研究には教室の全教官,職員,学生が協力し,毎年の恒例行事として泥まみれの“代かき”やハウス内の“水田作り”などに汗を流し,その後ではジンギスカンパーティで労をねぎらい合いました。また,教室では卒業論文の研究,実験植物の育成・管理,セミナーでの活発なディスカッションや論文作成などが重視され,ファミリー的な雰囲気による研究体制と教育を続けてきました。これらは私を含めて卒業生のその後の活躍に大きな影響を与えたように思っています。
 私は,卒業論文では“テンサイ(sugar beet)の倍数性品種に関する研究”を行い,さらに遺伝的雄性(花粉)不稔性を中心にして遺伝分析を展開して行きました。ガンマー線照射により世界に先駆けて細胞質突然変異の誘発に成功し,それらの成果などをハイブリッド育種へ役立てることができました。その後,イネやコムギにも研究対象を広めて,“細胞中の細胞質と核の相互作用の実体につき,分子レベルから細胞,組織および個体を経て集団に至る各段階を個別且つ総合的に解析し,合わせてその知見を現実の作物育種に応用することにも成功した”という研究成果により,平成5年6月,日本学士院賞をいただきました。この研究にも多くの方々,特に若い世代の献身的な努力に負うところが大きく,私はその方々の代表として栄誉を担ったと思っております。
 一度,育種の実際にも携わってみたいという気持がありましたが,昭和36年から2年間,カナダ国立科学院の研修員として,カナダ農務省の遺伝・育種学研究所へ留学した折,アルファルファの雄性不稔研究の先駆者であったチルダース先生から牧草の育種の実際を教えていただきました。また,先生のご家族との家族ぐるみでの心の通い合った親しい交わりを通して数々の貴重な体験を重ねました。それらはその後の国際交流や海外からの人材育成に大変役立ったと思います。さらにイネ遺伝研究の国際協力や,国際原子力機構(IAEA)による共同研究並びにワークショップなどにも参加して,海外の研究者との親交を深め,国際交流の実を上げることができました。今も米国コーネル大学の研究者と協力してイネ遺伝子のデータベース作成についての共同研究やイネ遺伝学に関する共同著作を続けています。
 今までの研究生活は,本当によき師やよき協力者に恵まれて幸福でした。研究生活においては,専門の異なる方々を含めて,たくさんの方々のお世話になり,求めれば必ず与えられることを体験できました。北大の関係者からはいつも暖かいご指導,ご鞭撻を賜り,深く感謝しております。
 育種研究は最近,分子・細胞レベルの手法も加わって品種育成の年月の著しい短縮や,選抜効率の画期的な改善,イネ以外の生物種よりの有用遺伝子導入などに役立っています。今世紀に予期される食糧問題の解決や地球規模での課題である環境保全のためにも育種は深く関わっています。この分野に,北大から多くの創造性豊かな研究者が育って行くことを強く願っております。

略  歴  等
生 年 月 日 昭和6年2月6日
出  身  地 京都府
昭和28年3月 北海道大学農学部農学科卒業
昭和28年4月 北海道大学農学部助手
昭和45年3月 農学博士(北海道大学)
昭和52年4月 日本育種学会賞受賞
昭和53年12月 北海道大学農学部助教授
昭和56年4月 北海道大学農学部教授
平成2年6月 農学視学委員(文部省高等教育局)
平成8年3月
平成3年2月 北海道科学技術賞受賞
平成3年7月 日本学術会議会員
平成9年7月
平成5年6月 日本学士院賞受賞
平成6年3月 北海道大学停年退職
平成6年4月 光塩学園女子短期大学教授
平成13年3月
平成7年2月 北海道種苗審議会会長
平成11年3月
平成7年10月 国際稲遺伝学協議会会長(Rice Genetic Cooperative, Chairman)
平成12年10月
平成13年4月現在 北海道科学技術総合振興センター地域結集型共同利用事業「食と健康」事業統括

功  績  等
 木下俊郎名誉教授は,40年にわたる北海道大学在任中は農学部において,植物育種学の教育,研究に努められました。この間,優れた人材の育成に努めるとともに,専門である植物育種学分野については,イネ育種の基礎となる遺伝子分析,高等植物の細胞質と核の相互作用の解析および育種への応用研究に従事し,数多くの顕著な成果をあげられました。
 特に,世界に先駆けてガンマー線照射等により,北海道の重要な畑作物の一つであるてん菜の細胞質雄性不稔突然変異の人為的誘発に成功し,国際的に高い評価を得て,「てん菜における雄性不稔の遺伝育種学的研究」により,昭和52年日本育種学会賞が授与されました。また,育種技術の領域に細胞・分子レベルにおける最新の知見と技術を取り入れ,その基礎的研究を通じて北海道における主要作物の品種改良に寄与するなど,北海道農業の発展に顕著な功績を上げたことにより,平成2年北海道科学技術賞が授与されました。さらに,「高等植物における細胞質と核の相互作用の解析および作物育種への応用」により,平成5年日本学士院賞が授与されました。
 学内にあっては,入試制度調査委員会委員長等を務められ,入試制度の改善や大学の発展に大きく寄与されました。
 学外にあっては,日本学術会議会員および育種学研究連絡委員会委員長,日本育種学会幹事,日本育種学会北海道談話会会長等を歴任し,学術の振興と交流に貢献されました。また,文部省学術審議会委員,文部省農学視学委員,国立遺伝学研究所系統保存委員会委員,大学入試センター実施専門委員,農林水産省甘味資源審議会委員等を歴任し,関連分野の発展に尽力されました。さらに,北海道農業振興審議会農学部会長,北海道種苗審議会会長等を歴任し,北海道農業の振興と発展に貢献されました。
 国際的活動においては,国際イネ遺伝学協議会の設立に参画し,同協議会の会長等を歴任し,イネ遺伝学の発展と国際協力に貢献されました。また,小麦の核・細胞質雑種の研究を推進され,日本学術振興会による日米科学協力事業に参画し,平成3年北海道大学において「小麦種の細胞質遺伝工学に関する国際シンポジウム」を主催する等,コムギ遺伝学の発展と国際交流に尽力されました。さらに,国際原子力機構による「穀類における半数体とヘテロシスに関する人為突然変異の利用」についての共同研究に参画し,原子力の育種への平和利用,国際協力に尽力されました。
 本学停年退官後は,私立光塩女子短期大学教授に就任し,私学振興にも貢献されました。さらに,財団法人北海道科学技術総合振興センターの事業総括に就任され,科学技術の振興と産官学の共同研究の推進に尽力されています。
 以上のように,同氏は植物育種学の分野において,教育者,研究者として優れた多くの業績を上げ,学術の進歩,後進の育成,斯界および社会の発展に多大な貢献をなし,その功績は誠に顕著であります。

(農学研究科・農学部)


○高 橋 香 織(たかはしかおり) 氏
○高 橋 香 織(たかはしかおり) 氏 この度,春の叙勲の栄に浴することとなり,誠に光栄と思っております。菲才の私がこのような機会に恵まれたのはひとえに多くの方々のご指導,ご支援の賜物と心から感謝しております。
 札幌生まれ札幌育ちの私は家が桑園にあったこともあり,北大予科入学以来,今ではその痕跡さえわからなくなってしまった「魔の踏み切り」を渡って大学に通いました。下り列車がカーブを切りながら札幌駅の方から現れると立ち止まり,その行方を見送ったことなど懐かしく思い出されます。私達の時代はまさに激動の時代であり,あの戦争でたくさんの人を失い,若者の間では結核が蔓延していました。私なども生き残りの一人だったのかもしれません。
 終戦の翌年医学部を卒業。昭和23年4月,新設の内科学第三講座に入り,故高杉教授,ついで白石名誉教授のご指導を受けました。20数名の若い仲間と新設講座開設のため頑張ったことも楽しい思い出になりました。
 高杉,白石両先生からは内科学,特に消化器学,血液学を教えていただきました。大学院のテーマは悪性腫瘍に関する研究としたものの,50年前のことでもあり悪戦苦闘の連続でした。なかなかデータが安定せず参りましたが,冬になって周りの温度が下がるとにわかに良い結果が出はじめました。氷の冷蔵庫では無理だったのです。当時の研究は吉田肉腫,武田肉腫(北大第一病理作成)など,ラットの腹水腫瘍を用い,できるだけ鋭敏な血清学的手法を用いて行なわれました。
 昭和27年から美幌町立国保病院で多忙な臨床に従事しました。大学と違い,たくさんの新鮮なケースに出会い,また疾病と社会との係わり合い,職業や家族関係との係わり合いなどについてじかに貴重な体験をしました。この間に,熊の棲む源流近くまで渓流をさかのぼり,ヤマベ釣りを楽しんだことも良い思い出です。
 昭和40年北大に戻り,医学部助教授として主に学生,教職員の保健管理を担当することとなりました。当時保健管理の重要性は徐々に認められつつありましたが,組織的にも予算的にも十分ではありませんでした。
 その中では京大の宮田教授が特にご熱心で,大学の全国組織をつくるべく活動しておられました。「まずは国立から」と,後に北大に来られた東大の村尾先生と私共が加わり,運動をすすめました。その効あって間もなく全国大学保健管理協会が設立され,各大学に保健管理センターが設置され始めました。今では国立大の全て,私大の多くが参加。毎年,全国大学保健管理研究集会が開かれ,多くの研究,ケースレポートなどが発表されております。
 北大の教職員については,まだ一般的でなかった胃の集団検診を大学病院の協力を得て全国に先駆けて行いました。その他,RI,有害物質を取り扱う方々の検診も行い,これらについては,後に世界各国の大学を調査・視察した際にアメリカなどの有名大学から評価を受けました。
 顧みますと,北大は常に極めて協力的であり,医学部のみならず全ての学部,研究室などのご支援をいただき,また事務系職員の方々にも多大な援助を受けました。
 最後に,これからもエルムの大木や古河講堂あたりの風景などの美しいキャンパスが残り,北大がますます発展して有為な人物が続々育つことを祈念して,終わりとします。

略  歴  等
生 年 月 日 大正13年3月31日
出  身  地 北海道
昭和21年9月 北海道帝国大学医学部医学科 卒業
昭和23年9月 北海道大学大学院特別研究生
昭和26年1月 北海道技術吏員 技師 北海道立幌西療養所勤務
昭和26年10月 医学博士(北海道大学)
昭和27年1月 美幌町立国民健康保険病院院長
昭和39年8月 北海道大学医学部助教授 北海道大学庶務部保健課課長併任
昭和47年7月 北海道大学保健管理センター 所長
昭和48年2月 北海道大学医学部教授
昭和61年3月 北海道大学辞職
昭和61年4月 北海道大学名誉教授 NTT札幌病院院長
平成5年3月 NTT札幌病院退職

功  績  等
 高橋香織氏は,大正13年3月31日札幌市に生れ,昭和21年9月北海道帝国大学医学部医学科を卒業後,同大学医学部修練副手として奉職,同22年9月同大学医学部副手を経て,同23年9月から北海道大学大学院特別研究生となり悪性腫瘍の臓器特異性に関する研究に従事しました。同25年9月特別研究生の課程を修了,同26年1月から同27年1月まで北海道立幌西療養所に勤務,その間,昭和26年10月悪性腫瘍の臓器特異性に関する研究で医学博士の学位を授与されました。昭和27年1月から同39年8月まで美幌町立国民健康保険病院院長として勤務,昭和39年8月北海道大学医学部助教授に任ぜられ,同時に同大学庶務部保健課課長を併任,同47年7月からは北海道大学保健管理センター初代所長に併任され,同61年3月の退職まで7回13年余この職を勤められました。特に保健管理センターの創設期にはセンターの整備充実に尽力され,本学の保健管理に関する中枢的な役割を果たされた高橋氏の貢献は非常に大きなものがあります。その後,昭和48年2月教授に昇任され,同61年3月の退職まで21年余の長きにわたり本学学生及び職員の健康管理指導に献身的にあたられました。退官後は,昭和61年4月から平成5年3月までNTT札幌病院院長に就任し,市民の健康を守るため大きな努力を払われました。
 高橋氏の研究活動は多岐にわたっていますが,特記すべきものは北海道大学における学生・教職員の保健管理を通じ,臨床保健学ともいうべき分野にあります。それまで,学生・職員の健康は各自の管理に任されていましたが,高橋氏は定期的な北海道大学学生・職員のための体系的な健康管理体制を確立し,国立大学の保健管理センターの模範となりました。保健管理センターの業務を学生・職員の健康診断と一般診療を二本柱と定め,医師,看護婦,臨床検査技師,レントゲン技師,薬剤師および事務員との連携を密にし,これら業務の円滑な運営を計るとともに,北海道大学医学部附属病院の協力のもと,どのような事態にも早急に対処できるシステム作りを行いました。そのため,消化器疾患・血液疾患・循環器疾患,更に悪性腫瘍など成人病全般にわたり貴重な成果を発表することができました。消化器疾患に関しては北海道大学附属病院第3内科と協力して,職員を対象とした積極的な胃・十二指腸潰瘍疾患の造影および内視鏡検診を実施し,早期診断,治療に大きな業績をあげました。このため,検診で発見される胃の早期癌の割合が年々増加し,北海道大学職員の胃癌の死亡率が低下したことは特筆されるべき事項でしょう。高橋氏の学位論文は,“悪性腫瘍の臓器特異性に関する研究”であり,高橋氏は悪性腫瘍に関する造詣が深かったため,このような業績があがったと考えられます。また,学生,職員の貧血の治療,予防についても積極的に取り組み,学内での啓発活動のみならず,論文化も行い高い評価を受けています。ことに女子学生に多く見られる鉄欠乏性貧血の調査とその予防について学内の講演やパンフレットにより学生への呼びかけを行い,大きな成果を上げました。循環器疾患については,学生・教職員に多く見られる不整脈の研究に取り組み,その基礎理論を明らかにしていくつかの英文誌に論文を掲載させています。このほか学生・職員を対象とした健康保持に関する講演等数多くあり,前記論文の他に保健管理の活動は毎年発行の保健管理年報に詳しく発表されています。
 一方,学内における全学的委員会より,数多くの委員に委嘱されていました。委員長職では,保健委員会委員長ならびに保健管理センター運営委員会委員長を昭和54年から60年まで務め,保健管理センターを中心とした学内の健康管理の実践を担いました。共通一次学力試験実施委員会委員,第二次入学試験実施委員会委員,学生部委員会委員,入学者選抜委員会委員,アイソトープ総合センター運営委員会委員を昭和54年から60年まで務められ,また組み替えDNA実験安全委員会委員を昭和55年から60年まで務められており,これらの委員会の委員としての立場に加えて医師の立場から常に学生・職員の健康に意を注がれました。
 学外にあっては,全国大学保健管理協会評議員として昭和40年10月より57年10月まで務められました。昭和57年11月より63年11月までの約6年間は理事を務めています。また,北海道地方部会理事を昭和44年4月から57年3月まで,世話人を昭和57年4月から61年3月まで務められていました。昭和59年4月から61年3月まで全国大学保健管理協会「大学生の健康白書」の編集委員として活躍し,協会の運営・振興に貢献すると共に,全国大学の保健管理業務の運営にも寄与しました。高橋氏は昭和50年10月から2か月間,及び昭和55年11月から3週間文部省在外研究員として欧米諸国に派遣され諸外国における大学保健管理の実情を学び,これを我が国における保健管理業務にとり入れることに努めました。
 以上のように高橋氏は保健管理業務並びに学生・職員の健康の向上につとめ,これらを通じて本学並びに医学の発展に寄与した功績は誠に顕著であります。

(医学研究科・医学部)


○今 田 末 吉(いまだすえきち) 氏
○今 田 末 吉(いまだすえきち) 氏 この度,平成14年度春の叙勲に際し,勲五等双光旭日章の栄に浴し,大変身に余る光栄に存じます。
 これも偏に,文部科学省,北大総長,事務局長を始め,学内外における教職員等の皆様によるご支援,並びにご教導によるものと深謝し,衷心から厚くお礼申し上げます。
 顧みますと,昭和26年医学部に奉職し,以来34年間,多くの学部等に配置され,他大学に勤務することなく,北大一筋に大学行政を担当して参りました。
 昭和27年2月,財団法人北方結核研究会から文部省に移管された旧結核研究所(現遺伝子病制御研究所)に配置換となり,北大で一番の小部局に,専任事務職員3人も医学部から配置換され,事務部が開設されました。しかし,その運営は,人・予算の不足から極めて難航であったことが,私の心に大きく残っております。
 昭和37年,法学部から経理部管理掛長に配置換となり,専門的会計業務の知識を得ることができたことは,非常に幸いでありました。
 昭和45年,医学部附属病院から,法学部事務長に就任。当時は大学紛争の強い影響を受けて,大学改革調査委員会が設置され,全学的に検討が開始されました。そのような状況の中で,法学部は独自で改革案の検討を行い,その結果,教育と研究を組織的に分離して,教育部と研究部を設置し,旧講座を廃止して,大講座に編成替えを行いました。この改革は,我が国の既存の大学においては,全く新しい大きな改革であったと思っています。
 改革に伴う校舎,並びに諸設備等の整備を完了した後,昭和52年,北大で管理運営上一番問題の多い教養部に配置換となりました。就任と同時に教養改革調査委員会に,事務側から事務局長と一緒に参加するよう学長から指示があり,教養改革の推進のため,これに参加しました。この委員会は,数年間にわたり審議検討が行われ,その結果,教養部の官制化,学科目担当語学教員による言語文化部の設置,学科目制の大講座化の三本柱で改革案決定され,この案により文部省と交渉し,その内,教養部の官制化を除く言語文化部,学科目の大講座化が認められ,一応教養改革が終了しました。私が教養部在任中,特に忘れることのできないことは,大学紛争後,既に10年の歳月が流れているにもかかわらず,教養部の管理運営は,一部過激な学生集団により,極めて困難な状況にありました。これを解決するため,事務局,教養部長の了承のもとに,再三にわたって学生側と庁舎及び諸施設の管理について交渉を行いましたが,全く進展せず,やむを得ず公権力,事務局職員の応援を受けて,力による対応を数回にわたって実施した結果,正常化が進み,昭和57年頃には学生側も次第に協力的になり,少しは気の休まる日々が多くなってきました。
 昭和58年4月,教養部から,北大最大の工学部に配置され,時限立法で設置された石炭研究施設の継続のため,工学部長と文部省交渉を行ってきましたが,実現不可能となり,工学部の金属研究施設に炭素系素材部門として設置が認められました。時限立法により設置された施設等の継続の困難なことが,あの時の経験で良く理解できたような気がしています。
 昭和60年,定年法制定の最初の年に該当し,工学部を退官。定年後は,クラーク記念会に勤務しておりましたところ,事務局から,電子開発学園より大学設立をしたいので協力してほしい旨の要請がありました。クラーク財団を退職して学園の大学設立準備室に入っては,とのお話を受け,クラーク財団を退職し,大学設立準備室要員として昭和61年から勤務,開学後も引き続き事務局長等を歴任し,本年3月末で退職致しました。
 北大在職34年,北海道情報大学在職16年,併せて50年。半世紀に渡る大学行政を大過なくその任務を果たし,文部行政に対する今回の受章は,上司,先輩,同僚,そして後輩の皆様方の大きなご支援によるものと,心から感謝するとともに,私の叙勲に関し,お世話を頂きました関係の皆様に対しまして,厚くお礼を申し上げます。
 最後に,私の人生に思い出多い北海道大学が,国家を支える人材の育成に,そして学問推進の中心として,今後益々発展されんことを,心から祈念致します。

略  歴  等
生 年 月 日 大正14年3月28日
出  身  地 北海道
昭和26年5月 北海道大学医学部雇
昭和27年2月 北海道大学結核研究所事務補助員
昭和32年7月 北海道大学事務員
昭和33年7月 北海道大学文部事務官
昭和34年1月 北海道大学結核研究所会計掛長
昭和35年4月 北海道大学法学部会計掛長
昭和37年4月 北海道大学経理部経理課管理掛長
昭和42年12月 北海道大学経理部主計課総務掛長
昭和43年4月 北海道大学医学部附属病院業務課課長補佐
昭和45年4月 北海道大学法学部事務長
昭和52年4月 北海道大学教養部事務長
昭和58年4月 北海道大学工学部事務部長
昭和60年3月 北海道大学定年退職

功  績  等
 今田末吉氏は,北海道大学におよそ34年の永きにわたり勤務され,特に昭和45年4月から退職までの15年の期間,部局事務責任者の事務長あるいは事務部長として,卓越した行動力と実行力,そして広範な知識と経験をもって部下の指導と育成に努めるとともに,時の部局長を側面から補佐しながら管理運営に当たられ,歴任した各部局の発展並びに整備充実に尽力されました。
 昭和43年から同44年は「学生反乱」の波が日本全国に荒れ狂った時期であり,北海道大学法学部も例外ではありませんでした。その混乱もまだ完全に終わらず以後の処理が山積している中,同氏は昭和45年4月から事務長として,新しい法学部を目指すべく,学部長をはじめ,関係教官に対して豊富な知識と経験を基にした意見や助言を行い,側面から援助するとともに,関係方面と積極的に折衝し,特に「学部改革」として,学問水準の高度化の要請に対応するためには,抜本的に再編成の必要性があるという中,その構想についての概算要求を手掛け,その結果,昭和49年には,それまでの講座制が改められ,教育に力点を置く教育部と研究に専念する研究部が設けられることとなり,さらに教官定員,学生定員が大幅に拡充され,また,庁舎の新増築も行われるなど,法学部の整備充実に多大な貢献をされました。
 本学における教養部は,一般教育の充実発展の最善を期し,教養課程を全学的な責任の下におき,各教科目の教官は,その専門領域の属する学部に所属していました。このように一般教育の目標達成のため多岐にわたる学部からの教官で構成されている教養部において,同氏は,教育研究体制の充実を図るとともに各学部への連絡調整に意を尽くし努力されました。昭和56年4月には北海道大学言語文化部が設置され,教養部事務部がその事務を担当することとなりましたが,大幅な事務量の増加や新たな教官との対応などにも事務部の責任者として,適切な指示,指導を行い,教官と事務部の信頼関係を築き上げるために尽力されました。
 工学部においては,14学科(98講座),2実験研究施設,13共通講座,大学院独立専攻等を有する大規模学部の事務部長として,学部長を補佐するとともに,教育研究の発展に側面から寄与し,このなかで,それまで学内措置として工学部附属直接発電実験施設内の石炭研究室として石炭の有効利用に関する教育,研究活動を行っていた研究室が,昭和59年4月炭素系素材部門として工学部附属金属化学研究施設に加わることとなり,その概算要求事務に携わり,施設の充実に貢献されました。また,工学部では現在世界5か国,8校との学部間協定を締結していますが,昭和60年6月工学部において最初である中国瀋陽工業大学との締結では,事前の準備段階において,退職直前まで関係教官への事務的な面での助言等を行い,無事締結に至ることができ,国際交流の基礎作りにも大いに貢献されました。
 北海道大学を定年退職された後は,財団法人クラーク記念会常務理事に就任され,昭和61年4月には,学校法人電子開発学園が計画する北海道情報大学の設置に参加することとなり,設立準備室の委員として,これまでの永年にわたる大学行政の経験を生かし,開学に向けて心血を注がれました。平成元年4月に無事大学は開学しましたが,教員組織及び事務組織は脆弱な体制であり,同氏は事務局次長として豊富な経験を基に,大学運営の基礎作りに尽力され,また,平成2年10月には事務局長の要職に就任し,さらに,平成5年4月には開学以来の功績により,理事長より理事の任命を受け,大学経営にも参画し,その後の発展に大きく貢献することとなりました。特に,我が国では初めて衛星通信を使用した遠隔双方向教育システムによる通信教育部の平成6年4月の開設をはじめ,同8年4月には北海道で初めての経営情報学の大学院(修士課程)の開設,さらに,平成13年4月には今後の情報化時代に対応するため,新たな情報メディア学部の開設に携わる等,情報教育研究の発展にも情熱を注がれました。
 同氏は,謹厳実直であり,教官及び事務職員の信頼は絶大で,その協力体制のもとに数々の施設,組織整備の実現に努められました。
 以上のように同氏は,永年にわたって大学行政の進展に精励し,部下の指導育成に尽力され,私学の振興,発展にも大きく貢献したものであり,その功績はまことに顕著であると認められます。

(工学研究科・工学部)


〇遠 藤 英 子(えんどうえいこ) 氏
〇遠 藤 英 子(えんどうえいこ) 氏 この度,平成14年春の叙勲で勲六等宝冠章を授与されました。この様な栄誉ある章を私ごときが頂戴できましたことは身に余る光栄です。これは偏に長年にわたり私をご指導下さいました諸先輩や同僚,私と職場を共にし支えて下さった方々の賜であり,感謝の気持ちで一杯です。
 叙勲に際し,推薦の労をおとり下さいました加藤病院長,平山看護部長をはじめ,事務部や看護部の方々に心からお礼申し上げます。
 私は北海道大学の恵まれた環境の中で学び育てられたことを誇りに思っております。昭和34年に当院に就職し,退官までの39年間北大病院と共に歩んで参りました。自分は北大しか知らない「井の中の蛙」ではないかと思うこともありましたが,研修への参加や院内外の委員会活動の機会を与えられる中で,他との比較する目を養うことが出来ました。そして,北大病院の人を型にはめないおおらかさや,独自性が豊かな人を育てていることを知り,自分の仕事にも活かされたと思い感謝しております。
 看護一筋に歩んで参りましたが,私が就職した当時は患者さんへの個別の看護計画はありませんでした。時代の変遷と共に患者さん個々に対する看護が求められる様になり,研修会や研究活動が活発に行われる様になりました。
 北大病院の看護の理念として掲げられている1つに「患者の個別性を尊重した計画的な看護」2つに「看護職の主体的な成長への相互支援」3つに「自由な中での新しい看護の創造」の基で看護をすることが出来た幸せを感じています。看護部門にコンピューターが導入され,看護計画や記録の入力が出来る様になり,近々に全科で実施できると聞いております。大きく変化するなかでの一端に参加できていたことを大変うれしく思います。
 昭和49年に婦長になって4つの科を経験しました。婦人科にはじまり第二内科,第二外科・循環器外科,最後は泌尿器科でした。どの科もそれぞれに特色があり,力不足で不安な気持ちでいる時にかけられた励ましのひと言に勇気づけられ,頑張ることが出来ました。臨床では多くの患者さんとの出逢いがあり,看護する喜び,時には悲しみも体験しましたが,私の人生に於いてかけがえのないものとなりました。
 長きにわたり北大病院に勤務できたことに感謝すると共に受章の栄誉に恥じぬ様に,精進する所存でございます。最後になりましたが北大病院の益々のご発展をお祈り申し上げます。

略  歴  等
生 年 月 日 昭和12年4月26日
出  身  地 北海道
昭和34年3月 北海道大学医学部附属看護学校卒業
昭和34年4月 北海道大学医学部附属病院技能員
昭和34年7月 北海道大学医学部附属病院技術員
昭和38年2月 北海道大学医学部附属病院文部技官
昭和45年5月 北海道大学医学部附属病院副看護婦長
昭和49年11月 北海道大学医学部附属病院看護婦長
昭和51年5月 北海道大学医学部附属病院看護部看護婦長
平成10年3月 北海道大学定年退職

功  績  等
 遠藤英子氏は昭和34年4月北海道大学医学部附属病院に採用され,婦人科病棟に勤務となって以来,39年の永きにわたり看護業務に従事され,患者の直接看護や看護職員の教育,看護管理全体を通して,患者が受ける看護の質の向上に貢献されました。特に,在宅における継続看護体制の整備に大きな力を発揮されました。
 同氏が婦人科病棟に勤務した昭和40年代初期は,「退院指導」や「継続看護」の重要性が問われはじめた時代で,婦人科悪性疾患の多くの患者が再発の不安や術後の排泄障害を含む合併症を抱えて退院していることに着眼し,退院指導の重要性を考え,学習会の企画や退院指導要項作りなどをリードし,婦人科入院患者の退院指導の基盤を作られました。昭和45年4月第二内科病棟に所属換となり,同年5月これまでの努力が認められ副看護婦長を命ぜられました。翌46年2月再び婦人科病棟に所属換となり,昭和47年には,6ヶ月間の厚生省看護教員養成研修会受講の機会が与えられるなど勤務成績は優秀でありました。昭和49年11月副看護婦長としての活躍及び能力が認められ同科病棟の看護婦長に昇任されました。昭和55年4月に所属換となった第二内科病棟では,婦人科での経験を生かし,難病などの慢性疾患患者の生活指導や自立への援助に心を砕かれました。昭和61年に配置換となった第ニ外科病棟ではICU(集中治療部)の稼動がない中,平成2年院内措置として循環器外科が設置され混合病棟となり,手術後患者のほとんどがICU収容に匹敵する症度の厳しさではありましたが,スタッフ,医師の声を大切にし穏やかな中にも強靭な指導力を以て病棟体制の整備や業務管理に尽力し,循環器外科の看護体制作りに貢献されました。チーム医療を大切にした日常的な姿勢に医師の信望も厚く惜しまぬ協力が得られました。このように多忙な病棟においても,常に患者の個別性および療養生活の質の向上に心血を注がれながらスタッフの指導にもあたられました。平成4年4月所属換となった泌尿器科病棟では,腎移植の患者やがん患者および尿路変更を受けた患者などの療養生活の質を大切にして看護にあたられました。これらの成果を学会や専門誌を通じて,多数発表されました。さらに,第29回日本腎移植臨床研究会看護部門の責任者を務められ,演題数49題にのぼる研究会を成功裡におさめられました。また診療報酬改定や病院経営改善等から,在院日数の短縮や病床稼働率の向上を院内でも屈指の軌道に乗せ病棟運営をやり繰りする一方,日本看護協会認定看護師制度創設期の平成9年に副看護婦長を同研修会に6ヶ月間派遣し,翌年には当看護部はじめての創傷・オストミー・失禁(WOC)看護認定看護師を誕生させ,同病棟の看護の質を高めることはもとより全院的活動ができるよう調整を図られました。
 同氏は,特に,在宅においても必要な看護が受けられるよう保健婦と連携をとるなど,地域との看護の継続について力を注がれました。昭和44年11月,第2回日本看護学会においては,看護婦長等との共同により「婦人科疾患を持つ患者の退院後の生活指導について」と題して地域保健婦との連携を図った看護の継続の報告を発表され,全国的にも初めての試みとして大きな反響を受けました。看護婦長になった後も退院指導や看護の継続および地域との連携に一層努力を重ね,退院時サマリー(要約)の定着および保健婦へ紹介した患者の台帳整備,情報提供方法の改善,連携対象患者を子宮広汎術後の全患者にするなど,地域との連携の拡充発展に努力されました。昭和50年4月,同経過をまとめ北海道看護協会看護研究学会において「退院後の継続看護をいかにするか」を発表され,昭和51年10月には,問題解決思考プロセスからアセスメント能力の向上や看護記録の質的向上をめざし,全国的にもPOS(看護記録システム)の汎用が少ない時期に抄読会や記録用紙の検討を重ね,看護部初のPOSを導入し,現在もなお婦人科病棟にて継承されています。
 また,院内の看護部委員会活動では教育委員を昭和52年から3年間,業務委員を昭和60年から4年間,総務委員を昭和56年から平成4年の間に6年間歴任し,その成果を日本看護学会において数多く発表されるなど,活発に看護研究に取り組まれ,その姿勢は高く評価されるものであります。
 また,院外においても北海道看護協会の教育委員を昭和55年から6年間,職能委員を平成4年から2年間歴任されたほか,看護職員研修会の講師としても活躍され,北海道内の看護婦育成および看護の発展に貢献されました。
 以上のように同氏は,39年の永きにわたり看護の道を歩み,看護管理者として臨床看護の質の向上発展,看護体制の整備,業務改善および後輩の指導・育成に尽力された功績は,誠に顕著であると認められます。

(医学部附属病院)