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秋の叙勲に本学から3氏

 このたび,本学関係者の次の3氏が平成14年秋の叙勲を受けました。
勲 等
経 歴
氏 名
勲二等瑞宝章 名誉教授(元法学部長) 山 畠 正 男
勲二等瑞宝章 名誉教授(元獣医学部長) 久 保 周一郎
勲六等宝冠章 元医学部附属病院看護部看護婦長 高 田 美 惠

 各氏の長年にわたる教育・研究等への功績と我が国の学術振興の発展に寄与された功績,あるいは医療業務等に尽力された功績に対し,授与されたものです。
 各氏の受章に当たっての感想,功績等を紹介します。

(総務部総務課)

○山 畠 正 男(やまはたまさお) 氏
略 歴 等
生年月日 大正14年3月8日生
出 身 地 北海道
昭和22年9月 東北帝国大学法文学部法科卒業
昭和22年9月 東北帝国大学法文学部助手
昭和26年3月 東北大学法学部大学院特別研究生第1期修了
昭和26年4月 東北大学講師
昭和27年5月 北海道大学法経学部助教授
昭和34年4月 北海道大学法学部教授
昭和36年8月 北海道大学評議員
昭和37年11月
昭和40年8月 北海道大学評議員
昭和42年7月
昭和43年1月 北海道大学法学部長・大学院法学研究科長
昭和44年12月
昭和63年4月 北海道大学停年退職
昭和63年4月 札幌学院大学法学部教授
平成元年5月 札幌学院大学評議員
平成6年5月
平成2年4月 札幌学院大学法学部長
平成6年3月
平成2年4月 藍綬褒章受章
平成4年10月 最高裁判所長官表彰
平成7年4月 札幌学院大学法学研究科長
平成9年3月
平成9年3月 札幌学院大学退職
現 在 弁護士

功 績 等
 山畠正男名誉教授は,北海道大学法学部において35年間にわたり民法講座を担当されました。幅広い学識と豊かな社会経験に裏打ちされた名講義は山畠節として親しまれ,法曹界をはじめ各界に多くの人材を送り出し,優れた研究者を養成されました。
 主要な研究関心は,特殊日本的な法ないし社会制度の解明と将来的展望の模索に向けられ,多くの業績が生まれました。その一つが,養子制度の研究であり,「養子とはなにか」を追求した一連の養子関係の論文を集めて法学博士(東北大学,昭和37年)の学位を取得された「養子制度の研究」を経て,現に進行中の「日本養子法の成立過程」にいたるまで,いまなお日本養子法の特色と養子制度の未来像を探求されています。それは,同時に「家族法とはなにか」という問題関心と絡みあい,「財産法と家族法」という大きな課題への取り組みとなって今日にいたっています。
 先生の研究業績は,制度の沿革と学説の徹底的・網羅的追求(嫡出推定,尊属概念の研究など),わが国では類のない詳細な民法条文註釈(793条,795条,799条,800条)から,従来の民法学者の誤解の指摘(重婚の成立,身分行為の成立時期),家族法とりわけ親子法の非訟的性格の提言まで,実に多彩であり,いずれも学界の注目を集めるものでした。一見些細に見える事柄にも大きな問題を見出し,大きな問題にも細かく神経を使う点が,学界から高い評価をうけた理由であり,このような個別的研究の積み重ねによってわが国の代表的家族法研究者となられたことは,古希記念論文集「民法学と比較法学の諸相 I − III 」に学界から寄せられた多数の論稿が示すところです。
 先生はまた,日本私法学会,日本家族(社会と法)学会,日本法社会学会などの理事として全国的な規模の活躍をされる一方,昭和37年からの札幌家庭裁判所家事調停委員にはじまる裁判所関係,昭和36年からの北海道地方労働委員会公益委員をはじめとする地方行政関係等多くの委員会の委員(会長)として,とりわけ調停・斡旋という面では裁判官から調停の名人と評価されるほどの活躍をされました。その功績により,平成2年藍綬褒章受章,平成4年最高裁判所長官表彰をうけられました。以上のように,先生は,民法学の研究と教育に深く寄与されるとともに,北海道大学および国・地域社会に多大の貢献をされました。

 山畠氏は海外渡航により不在のため,御本人の感想は未掲載となりました。

(法学研究科・法学部)

○久 保 周一郎(くぼしゆういちろう) 氏
○久 保 周一郎(くぼしゆういちろう) 氏 平成14年秋の叙勲に際し,受賞の栄に浴し得たことは誠に光栄に存じ,ご指導ご鞭撻を賜った恩師,ご支援ご協力を頂いた学内外の諸先生,事務官の方々に衷心より御礼を申し上げます。
 私は昭和19年函館水産専門学校製造科を卒業後,一時大蔵省専売局中央研究所勤務および兵役に服しましたが,昭和22年母校の生物化学講座吉村克二先生ご指導の下,海産動物筋肉蛋白質の研究を始めました。先生は常々“覓所脚下にあり。徒に他所を羨む勿れ。己が想像力を至高にして,時空を駆けるなり。”と諭され,自由な環境で研究に没頭出来ました。その後,先生のご推挙により,昭和28年から2年間蛋白質化学研究のメッカである大阪大学理学部赤掘研究室に内地留学しました。当時,赤掘先生は理学部長の要職に居られましたが,激務の傍ら早朝8時から個人的に蛋白質化学研究法をご指導下され,帰学時には“雪埋梅花,不能埋香(自分から宣伝しなくても良い仕事をすれば必ず人は此れを見出す)”という餞別の辞を戴き,以後吉村,赤堀両先生の説諭を座右の銘としました。昭和30年水産学部に帰学後は,午後から漁船に乗り,函館沖でスルメイカを漁獲して翌朝6時に帰学し,筋肉蛋白質の単離を行う日々が続き,2年後に筋収縮性蛋白質トロポミオシンを単離し,昭和35年その構造解析結果を学位論文に纏めました。幸いな事にこの論文は筋収縮機構研究の泰斗である故K.Baileyケンブリッチ大学教授および故殿村雄治北大教授の評価を得,昭和36年以降北大および阪大で殿村教授の下,筋収縮の分子論的解明プロジェクトに参画することになりました。
 昭和42年,北大獣医学部生化学教授欠員を機に,故赤掘阪大総長,故殿村阪大教授および江橋東大教授のご推薦により北大獣医学部生化学講座に着任することが出来ました。爾来停年まで21年間,向学心旺盛な教室員諸士の協力を頂き,個性的しかも有為な大学院学生諸兄等と年来の研究課題である“筋収縮機構”およびそのエネルギー源である“ATP再生系酵素類の分離精製,構造解析,細胞内局在性”を追求し,これらの研究を通じ国内外の研究者と交流を深めることが出来ました。さらに,生命科学および獣医学領域において,生化学的知識およびその手法が重視される時代となり,“獣医学に於ける感染症”および公衆衛生分野の“毒素原性感染症”発現の分子論的解明の諸研究を手がけ,前者では各種単クローン性抗体の作出と応用研究を通じ,関連諸機関の諸先生と研究組織を作ることが出来,後者ではボツリヌス毒素の構造と機能解析の研究を通じ,医学,農学,水産学関係の諸先生の友誼を得ました。
 顧みれば37年間,北海道大学という最高の環境で教育研究に従事し得たこと,さらに後年大学運営の一端に参加を許され,有江幹男総長,各学部長および獣医学部教職員各位の寛容と忍耐強いご指導を賜ったことに重ねて御礼申し上げます。
 北海道大学の一層の発展を祈って止みません。

略 歴 等
生年月日 大正14年3月10日
出 身 地 北海道
昭和19年9月 函館水産専門学校水産製造科卒業
昭和19年9月 大蔵省専売局中央研究所雇
昭和21年7月 大蔵省専売局中央研究所大蔵技官
函館水産専門学校 事務嘱託
昭和21年10月 函館水産専門学校 講師嘱託
昭和22年3月 函館水産専門学校 文部教官
昭和24年5月 北海道大学函館水産専門学校文部教官
昭和26年3月 北海道大学水産学部講師
昭和35年12月 理学博士(東京大学)
昭和36年3月 北海道大学水産学部助教授
昭和36年4月 北海道大学触媒研究所助教授
昭和38年3月 大阪大学理学部助教授
昭和42年8月 北海道大学獣医学部教授
昭和47年6月 アメリカ合衆国ダートマス大学医学部 Visiting Scientist
昭和48年6月
昭和57年5月 北海道大学評議員
昭和59年4月
昭和59年5月 北海道大学獣医学部長,評議員
昭和61年4月
昭和63年3月 北海道大学停年退職
昭和63年4月 北海道大学名誉教授
昭和63年4月 日本大学農獣医学部獣医学科教授
平成7年3月
昭和42年10月 日本生化学会評議員
平成7年3月
昭和52年4月 日本獣医学会評議員
昭和63年3月

功 績 等
 久保周一郎名誉教授は,大蔵技官を経て,昭和22年3月函館水産専門学校に文部教官として採用され,昭和26年3月北海道大学水産学部講師,昭和36年3月同助教授,昭和36年4月北海道大学触媒研究所助教授,昭和38年3月大阪大学理学部助教授を経て,昭和42年8月北海道大学獣医学部教授に任ぜられ,以来20年余にわたり,家畜生化学講座の整備拡充,家畜生化学の教育に従事するほか,獣医生化学,蛋白質化学,酵素化学,毒素学及び水産生物化学の広い分野にわたって研究に努められました。
 初期の研究は,「筋収縮調節蛋白質に関する研究」が代表的で,これは水産動物の筋収縮調節蛋白質トロポミオシンの化学構造とその比較生化学的意義を明らかにしたもので,現在の水産動物筋肉蛋白質研究の発展と応用拡大の端緒となりました。
 その後,筋収縮の分子論的機序,特に筋収縮調節蛋白質ミオシンの活性中心の化学構造の解明や,イソ酵素を主体とした哺乳動物生化学の研究等に従事し,ミオシンのイソ酵素の存在を明らかにする一方,本邦における主要家畜であるブタを材料として,アデニレートキナーゼのイソ酵素の分離,精製,化学構造の解析,各イソ酵素の細胞内局在性及びその生合成機構を明らかにされました。
 また,獣医学における感染症発現の分子論的機作の解明,その早期診断及び予防を重視し,生化学的技術を必要とする単クローン性抗体の作出とその応用に関し,本学をはじめとする関係機関研究者からなる総合研究班を組織し,その中心となって単クローン性抗体の感染症解明に関する有用性を実証する成果を挙げられました。
 さらに,毒素原性感染症の機序を分子レベルで解明するため,ボツリヌス毒素の構造と機能の解析について研究を広げ,各型毒素を精製,分離し,化学構造の解析,各型毒素の統一的分類法,神経細胞と毒素の結合様式,毒素による神経細胞からのアセチルコリンの放出阻害機能,さらに毒素の酵素作用を明確にし,我国の毒素研究の発展に貢献されました。
 同氏は,これらの研究論文のほか数多くの著書も出版されており,なかでも訳書「家畜臨床生化学」及び共著「獣医生理化学」は,我が国の獣医生理化学における唯一の指導書として,獣医学関係及び生命科学関係の学生のみならず一般臨床獣医師にも愛用されており,また,獣医学及び関連分野の専門家を網羅した「近未来社会における獣医学−その現状と未来像−」研究班を組織し,これらに関する公開シンポジウムを主催,その成果を「獣医学1988(近代出版社)」に発表し,近未来社会における獣医学の役割と展望を明確にするなど,斯し学がくの発展に貢献されております。
 学内においては,昭和59年5月から昭和61年4月まで北海道大学獣医学部長として学部の運営,内容の充実と拡充等に熱誠にその職に当たり,また,評議員,学生部委員会委員,文部省在外研究員候補者選考委員会委員,発明委員会委員,教養課程教育協議会委員等として本学の管理運営の枢機に参画し,大学行政に大きく寄与されました。
 学外においては,日本生化学会評議員,日本獣医学会評議員としてこれら学会の発展に尽力され,さらに,農林水産省獣医師免許審議会専門調査員,文部省学術審議会専門委員として,獣医学教育のみならず広く関連分野でも活躍されました。
 以上のように久保氏は,獣医学,生化学,生命科学の分野において優れた業績を挙げ,我が国における学術の進歩発展に貢献するとともに,数多くの後進の指導育成に尽力したものであり,その功績は誠に顕著なものであります。

(獣医学研究科・獣医学部)

○高 田 美 惠(たかだみえ) 氏
○高 田 美 惠(たかだみえ) 氏 平成14年秋の叙勲で勲六等宝冠章の栄誉をいただきましたことは,身に余る光栄と心から感謝申し上げます。
 叙勲に際し,推薦の労をおとり下さいました加藤病院長,平山看護部長をはじめ,事務部や看護部の方々に心からお礼申し上げます。
 私は,昭和34年に北海道大学医学部附属病院に就職しました。一時地方に出ましたが,昭和49年に戻りました。当時の私は准看護婦でしたが,先輩の勧めで進学しました。在学中は婦長さんや同僚に支えられ,看護婦免許を取得することが出来ました。
 平成4年に婦長になり,集中治療部の開設,高度無菌治療部の中央化,救急部の三次救急患者の受入れ開始に関与させていただきました。その都度,とまどい,悩み,落ち込みましたが,多くの方々の励ましと,チームメンバーの協力を得て,乗り越えることが出来ました。厳しい状況の中で,新しい物を造り出す喜びと,充実感を得ることが出来ましたことを幸せに思います。
 またこの間,多くの患者さんとの出会いがあり,看護する喜びと多くのことを学ばせていただきました。お礼を申し上げます。
 この度の栄誉に浴することが出来ましたのは,長年にわたりご指導下さいました諸先輩や同僚,チームメンバーや病院の他部門の多くの方々のご支援の賜と心から感謝し,お礼を申し上げます。
 今後は,受章の栄誉を心の支えとし,精進して参ります。
 有難うございました。

略 歴 等
生年月日 昭和16年1月23日
出 身 地 北海道
昭和34年3月 市立札幌病院附属准看護婦養成所卒業
昭和34年4月 北海道大学医学部附属病院臨時作業員(非常勤)
昭和34年11月 北海道大学医学部附属病院技術員
昭和46年4月 市立旭川病院勤務
昭和49年3月 北海道大学医学部附属病院文部技官准看護婦
昭和51年5月 北海道大学医学部附属病院看護部准看護婦
昭和53年12月 北海道大学医学部附属病院看護部技術補佐員
昭和54年3月 琴似中央病院付属看護専門学校(夜間)卒業
昭和54年4月 北海道大学医学部附属病院看護部准看護婦
昭和54年6月 北海道大学医学部附属病院看護部看護婦
昭和59年4月 北海道大学医学部附属病院看護部副看護婦長
平成4年4月 北海道大学医学部附属病院看護部看護婦長
平成13年3月 定年退職

功 績 等
 高田美惠氏は41年の永きにわたり,看護の道を歩まれ,看護の質の向上発展,看護体制の整備,看護業務の改善等に尽力されました。
 同氏は,昭和34年4月北海道大学医学部附属病院に臨時作業員として採用され,同年11月准看護婦に配置換となった当時,准看護婦は短期間でローテーションを行うという同院の方針に基づき,昭和34年9月泌尿器科病棟を始めとし,以後,多くの診療科を経験されました。昭和38年8月に所属換となった手術部では,手術部看護の確立に力を発揮されました。
 昭和46年4月市立旭川病院手術部に勤務され,胸部外科の開設に尽力されるとともに,手術部での看護を軌道に乗せるなど市立旭川病院の発展にも貢献されました。
 昭和49年3月再び北海道大学医学部附属病院准看護婦として手術部に勤務され,昭和51年4月琴似中央病院付属看護専門学校(3年夜間進学課程)に進学,昭和53年3月臨床実習のため一時退職されましたが,実習が終了した同年12月に非常勤職員(准看護婦)として手術部に勤務されました。昭和54年4月准看護婦として第二外科病棟に勤務され,同年6月看護婦に昇任,昭和59年4月副看護婦長を命ぜられました。第二外科病棟では,院内でも特に重症度の高い患者が多い中,チームのまとめ役として貢献されました。
 平成元年4月に所属換となった手術部・救急部看護管理室では,院内措置により集中治療部が設置され3部門を担当することとなり,環境の整備や看護婦の教育に尽力され,現在の集中治療部の礎を創りあげました。また,平成3年9月北海道内初の生体部分肝移植が行われ,看護マニュアル作りや術後管理などの面で中心的役割を担いました。平成4年4月同管理室は手術部看護管理室とICU・救急部看護管理室に分離され,ICU・救急部看護管理室の看護婦長に昇任されました。平成6年3月に高度無菌治療部が院内措置で設置され,新たに看護単位として加わった際,同部の稼働に向けて設備や環境を整備され,骨髄移植患者受入れのため,医師・看護婦の協力のもと,独自の看護マニュアルを作成されました。さらに材料部,検査部,栄養管理室等多くの関連各部門に協力を要請,連携強化へ努力されました。
 同氏は,また,平成9年9月に行われた2例目の生体部分肝移植以後,平成13年3月まで50例の患者の術後看護にあたられました。この間,アメリカのピッツバーグメディカルセンターで看護スタッフを研修させるなど,生体部分肝移植術後看護の専門性の確立と発展に努力されました。
 平成12年4月ICU・救急部ナースセンターに変更され,同年6月救急部の第三次救急患者の受入れを契機として新たに看護婦14名が加わり,看護婦の指導や環境の整備に奔走されました。矢継ぎ早に新部門を担当されながら,其々の部門における看護の専門性を高めることに最も心を砕かれました。平成11年には日本看護協会認定看護師教育課程の重症集中ケア分野に副看護婦長を派遣し,当院初の重症集中ケア認定看護師を誕生させ,同部の看護の専門性を高めることはもちろんのこと,全院的活躍の機会へ広げられるよう配慮されました。
 また,同氏は,院外においても活躍の場を広げられ,平成5年4月から8年間,北海道救急医学会看護部会委員,平成6年4月から7年間,北海道造血細胞移植研究会委員,平成9年から現在も日本集中治療医学会看護部会地方委員,常任委員などを担当され会の発展のため貢献されました。
 以上のように同氏は,永きにわたり看護の道を歩まれ,多くの新設部門の開設準備・整備と発展への貢献及び看護管理者として臨床看護の質の向上発展,後輩の指導・育成に尽力された功績は,誠に顕著であると認めらます。

(医学部附属病院)