北大を去るにあたって

 本年3月31日限りで定年退職される方々からお言葉をいただきましたので紹介します。


井 芹 武二郎(いせりたけじろう) 氏(教育学研究科教授)井 芹 武二郎(いせりたけじろう) 氏(教育学研究科教授)

 1975年,教育学部の一般教育等担当教官として赴任した。以来,一般教育の体育実技(年間12コマ)&全学教育科目の体育学を担当してきたが,学部と教養部にまたがっての教育と管理運営の負担は重く,厳しかった。
 教養改革の過程で体育に対する批判や中傷が聞こえてきたこともあったが,一方,キャンパスを歩いている時,学部に移行した学生や院生が笑顔や目礼で挨拶をしてくれるのがうれしいことだった。
 学部では,'90年に健康体育科学とし講座化され,本格的な専門教育も要請されたが,大病後の体調はよくなく,十分な仕事が展開できなかったことが残念である。しかし,最後まで研究・教育に専念できるように配慮,協力していただき,同僚,学生,院生の皆さんに心から感謝申し上げます。


昭和14年10月8日生 
(略  歴) 
昭和39年3月 東京教育大学体育学部卒業
昭和39年4月 東京教育大学附属中学校・高等学校教諭
昭和48年4月 東京教育大学附属高等学校 教諭
昭和50年4月 北海道大学教育学部 助教授
平成3年9月 北海道大学教育学部 教授
平成12年4月 北海道大学大学院教育学研究科 教授

福 地 保 馬(ふくちやすま) 氏(教育学研究科教授)福 地 保 馬(ふくちやすま) 氏(教育学研究科教授)
 あこがれて医進課程に入学して以来,滋賀医大での7年間を除き,ずっと,北大で学生・教員生活を過ごしました。入学と同時に渦中に飛び込んだ60年安保闘争,何かの拍子にやらされてしまった総代から始まった生協活動,奨学金ほしさになった公衆衛生修学生の大阪・釜が崎での実習,インターン時代のバイト先・室蘭での環境汚染体験などが,私の目を社会に向けてくれ,臨床でも基礎でもなく,「社会医学」の道を選ばせたと考えています。
 以来,「社会と健康」「健康主体の形成」「健康な社会づくり」などをテーマに,決して医学の王道とはいえない「わき道」を歩いてきました。そして,「研究できなくなるよ」といわれながら,さまざまな「えだ道」の仕事も随分やってきました。案の定,大した研究業績は作れませんでしたが,学生たちに伝えたい,働く人々と語り合いたい,豊かで実践的な「健康観」や,研究と教育の「視点」を,これら「わき道」や「えだ道」での出会いで育んでいただいたと思っています。北大での生活を通して,私なりのすばらしい人生を歩むことができたことに感謝致します。
昭和14年11月7日生 
(略  歴) 
昭和40年3月 北海道大学医学部医学科卒業
昭和45年3月 北海道大学大学院医学研究科博士課程単位修得退学
昭和45年4月 北海道大学医学部 助手
昭和48年3月 医学博士(北海道大学)
昭和52年4月 滋賀医科大学医学部 講師
昭和59年5月 北海道大学教育学部 教授
平成元年4月 北海道大学体育指導センター所長
平成7年3月
平成3年4月 北海道大学評議員 
平成5年3月
平成12年4月 北海道大学大学院教育学研究科 教授

小 中 重 弘(こなかしげひろ) 氏(理学研究科教授)小 中 重 弘(こなかしげひろ) 氏(理学研究科教授)
 本学に赴任したのは38年も前のことですが,当時を思い出す時にはさらに10年前の昔を思い出すことが多い。父の戦死が原因で中学から山村で暮らすことになり,家族の苦労を分担し戦争を厭いつつ育った中学時代が私の原点と言えます。内心,後の研究に繋がったものとして,
 薄暗き薄荷の小屋の入り口に
     液のもれでし壜置かれたり
 十五の歳に憧れた自然科学者となる夢が北大で叶えられる機会を与えられたのは幸運でした。2台の気体電子回折装置を製作し,それを用いて分子構造の研究を続け,液晶,ニコチン,薄荷の研究が終わり,構造と物性との間にかすかな関係が見え始めたところで退職します。在職中,殆どの期間を過ごした建物は赴任したときは新築中で,今は壊され改修工事中であるのを見る時,改めて時の長さを思います。今後,大学がいかに変わろうとも本学が学問の府としてますます発展することを願っております。
昭和14年9月24日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 東京大学理学部化学科卒業
昭和40年3月 東京大学大学院理学系研究科修士課程修了
昭和40年4月 北海道大学理学部 助手
昭和44年9月 理学博士(北海道大学)
昭和51年6月 北海道大学理学部 講師
昭和52年10月 北海道大学理学部 助教授
昭和61年1月 北海道大学理学部 教授
平成5年6月 北海道大学評議員 
平成6年5月
平成7年4月 北海道大学大学院理学研究科 教授

谷 口 和 彌(たにぐちかずや) 氏(理学研究科教授)谷 口 和 彌(たにぐちかずや) 氏(理学研究科教授)
 昭和38年,触媒研究所有機触媒部門の教授と理学部生物化学講座の兼任をされていた殿村雄治先生が4月から大阪大学生物学教室へ転任されるため,先生に従い大阪に移り,研究生,大学院生,教務職員としての7年間が昨日のように思えます。
 その後本学歯学部薬理学教室の助手に転任し,ほどなく殿村教授と当時薬学部に居られた,宇井教授の推薦でNaイオンポンプ研究の大家Post教授のもとで2年間の研究生活を行う機会に恵まれました。この経験はその後30年近く私の研究と研究を通じた教育の基礎になりました。実験開始数日後,Why do you close your ears ? Your enzyme would like to talk to you !! と言われて以来,Post's Phraseとして,忘れられない言葉になりました。
 帰国後の歯学部での数年間の苦難のあとの10年間で,Post教授への恩返しが,14名の歯学研究科院生との共同研究で可能となりました。
 平成元年から理学部化学科生物化学講座の担当となり,さらなるステップを目指し,教官と30名あまりの大学院生一丸となった結果,陽イオン輸送ポンプATPaseの分野に新たな一石を投じることが出来ました。この間,世界のトップレベルの研究室でも,すぐに研究遂行可能な意欲に溢れるすぐれた若い院生が育ち研究発展が可能になったことは,教官稼業,冥利につきます。
 意欲をもった大学院生をふくむ北海道大学研究者また快適な研究教育環境を構築すべく支援してくださった事務職員の皆様の益々の御発展を祈念して,感謝の言葉といたします。
昭和15年3月24日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 北海道大学農学部農業生物学科卒業
昭和42年3月 大阪大学大学院理学研究科博士課程中退
昭和45年4月 北海道大学歯学部 助手
昭和46年3月 理学博士(大阪大学)
昭和53年5月 北海道大学歯学部 講師
昭和56年2月 北海道大学歯学部 助教授
平成元年11月 北海道大学理学部 教授
平成7年4月 北海道大学大学院理学研究科 教授
平成14年5月 スウェーデン リンシェピング総合大学から名誉医学博士の学位授与

辻     孝(つじたかし) 氏(理学研究科教授)辻     孝(つじたかし) 氏(理学研究科教授)
 32年前の春,北大に赴任すべく大阪を発って夜行列車から青函連絡船へと乗り継ぎましたが,風なお冷たい津軽海峡から白銀に輝く北海道の山野を望み気の引き締まる思いをしたことを,つい数年前のことのように思い出します。着任当時は大学紛争の余燼いまだ冷めやらず,教授会が紛糾して長時間に及ぶことにはいささか辟易しましたが,以来,期待に違わぬ自然に恵まれた美しいキャンパスと自由な雰囲気の下で有機化学の研究と教育に従事することができ,無事に退官の年を迎えられたことはこの上ない喜びです。これもひとえにご指導,ご鞭撻いただいた諸先生のご厚情と,研究生活を日夜共にした卒業生・学生諸君のお蔭と心から感謝しております。研究に終着はありませんのでいまだ途上との思いは否めませんが,力強く成長する若い力に今後を託すことに躊躇はありません。独立行政法人化が差し迫っていますが,本学が特色ある基幹総合大学として確固たる地歩を築かれんことを願って止みません。
昭和14年5月13日生 
(略  歴) 
昭和37年3月 大阪大学工学部応用化学科卒業
昭和43年1月 大阪大学大学院工学研究科博士課程修了
昭和42年4月 大阪大学基礎工学部 助手
昭和43年1月 工学博士(大阪大学)
昭和46年4月 北海道大学理学部 助教授
平成5年11月 北海道大学理学部 教授
平成7年4月 北海道大学大学院理学研究科 教授

杉 本 和 則(すぎもとかずのり) 氏(理学研究科教授)杉 本 和 則(すぎもとかずのり) 氏(理学研究科教授)
 近頃,冬の寒さが身にしみます。年のせいなのでしょうか。光陰の走り去る速度はますます加速されているのではないかと感じます。大学でも日本国内でも,またまた地球上至る所で,破壊・変革・改革等と騒がしく目まぐるしくかわる時代なのでしょうか。しかし,目を少し離して見れば,どの時代も留まることなく常に変化を続けています。これを進歩とみるか退化とみるかは,たぶんに楽観主義者か悲観主義者かに依るのでしょう。
 北大に赴任した時,どこかに「いつも新しいことには,なにか好いことがあるように期待してしまう。」と書いたことを思い出します。定年で札幌を去るにあたり,次の新しい生活にも,きっと好い事があると希望を抱いています。
 北海道大学の大発展を期待します。
昭和14年6月15日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 名古屋大学理学部化学科卒業
昭和43年3月 名古屋大学大学院理学研究科博士課程単位修得退学
昭和43年4月 名古屋大学理学部附属分子生物学研究施設 助手
昭和46年3月 理学博士(名古屋大学)
昭和48年9月 京都大学化学研究所 助手
昭和54年12月 京都大学化学研究所 助教授
昭和59年4月 北海道大学理学部 教授
平成元年4月 北海道大学遺伝子実験施設長 
平成5年3月
平成7年4月 北海道大学大学院理学研究科 教授

小 柳 知 彦(こやなぎともひこ) 氏(医学研究科教授)小 柳 知 彦(こやなぎともひこ) 氏(医学研究科教授)
 札幌に生まれ育った私はインターン,レジデントの卒後修練6年間を本州,米国で過ごした後,昭和45年母校へ戻りました。以来,北海道大学勤務ですから,これまでの人生の半分以上を務めさせていただいた事になります。医育機関である医学部の教官殊に私のような臨床系の者には教育・研究に加えて診療と云う仕事があります。さらに近年では社会的貢献も求められ臨床系の教官には厳しい仕事の上での条件が課せられています。33年前北大へ戻る際,恩師米国ミシガン大学泌尿器科教授故ネスビット先生から一つの助言をいただきました。「帰国後は若い人の教育に従事出来ると云うわくわくする特権(privilege)を満喫して欲しいし,これこそが病める人々の診療に従事出来るのと同じく我々臨床医が果たさねばならない義務(obligation)であり同時に一人の人間として最も満たされる事(reward)である」との一言です。以来,このアドバイスを拠り所に厳しい反面やりがいもある大学人としての仕事を誠実に果たしてきたつもりです。20世紀は臨床医学が著しい発展を見た時でもありますが,その臨床医学の父とされるオスラーの医の哲学(以下に原文で示します)「philosophy of honest work which insists that we are here not to get all we can out of life about us, but to see how much we can add to it (Sir William Osler, 1906) 」を実践できたのも医育機関でもある北海道大学であったからこそです。教育には与えたもの以上のものが戻ってくると云われますが,研究・診療についてもそれを実感しつつ大学の仕事を終えられるのは幸せだと思っています。改めて御協力いただいた多くの方に感謝します。本当に長い間ありがとうございました。
昭和14年10月17日生 
(略  歴) 
昭和39年3月 北海道大学医学部医学科卒業
昭和43年3月 北海道大学大学院医学研究科単位修得退学
昭和45年8月 北海道大学医学部附属病院 助手
昭和47年10月 北海道大学医学部附属病院 講師
昭和51年3月 医学博士(北海道大学)
昭和52年4月 北海道大学医学部 助教授
昭和57年8月 北海道大学医学部 教授
平成12年4月 北海道大学大学院医学研究科 教授
平成12年4月 北海道大学評議員 
平成14年3月

劔 物   修(けんもつおさむ) 氏(医学研究科教授)劔 物   修(けんもつおさむ) 氏(医学研究科教授)
 憧れの北大に勤務し,非常に有意義な17年有余を過すことができた事を心から嬉しく感じております。先輩諸氏の御指導を頂戴しながら,診療,教育そして研究に充実した日々を持てたことを感謝申し上げます。100名以上の専門医(麻酔科指導医,ペインクリニック認定医,集中治療専門医)を育成できたことを誇りに思っております。専門医は質の高い医療を提供することで国民の健康管理に大きく貢献してくれているものと確信しております。基礎医学講座とは異なり,臨床医の少ない研究時間の中で,決して多くはないが国際的に通用する評価の高い論文も発表できました。これは若い医師の情熱と努力の賜と,17年間を共にしてきた仲間達に感謝しております。
 グローバリーゼイションの中で立派なプロを育てることは今後益々必要となります。北大の使命は一層重要となり,社会の期待も大きくなることでしょう。北大のさらなる発展を祈念しております。
昭和15年3月12日生 
(略  歴) 
昭和39年3月 札幌医科大学医学部医学科卒業
昭和40年3月 札幌医科大学付属病院にてインターン終了
昭和42年9月 北海道技術吏員
昭和45年2月 北海道公立学校教員
昭和46年7月 アメリカ合衆国ボストン市ニュー・イングランド・メディカル・センター病院麻酔科 常勤研究員 
昭和48年6月
昭和48年8月 北海道公立学校教員
昭和48年12月 医学博士(札幌医科大学)
昭和49年2月 札幌医科大学 講師
昭和51年5月 札幌医科大学 助教授
昭和52年10月 旭川医科大学医学部 助教授
昭和54年2月 北里大学医学部 助教授
昭和56年4月 アメリカ合衆国アイオワ市アイオワ大学医学部 客員教授
昭和57年4月
昭和59年10月 東邦大学医学部 教授
昭和60年11月 北海道大学医学部 教授
平成12年4月 北海道大学大学院医学研究科 教授

田 代 邦 雄(たしろくにお) 氏(医学研究科教授)田 代 邦 雄(たしろくにお) 氏(医学研究科教授)
 昭和33年北大教養部医学進学課程に入学,昭和39年4月から1年間横須賀米国海軍病院インターン,昭和42年7月から昭和47年6月までの5年間米国ケース・ウエスタン・リザーブ大学神経内科レジデントおよびセントルイス大学神経病理レジデントの計6年間以外は約40年にわたりこの伝統あるエルムの学園で過ごさせて頂きました。学園紛争の最中は米国留学中であり,当時は,まだどのくらい在米生活を続けるかは未定であったことより大学院は中退することにした次第です。
 帰国後は母校に神経内科の診療科・講座を新設すべく全力を傾け,医学部,全学の御支援でそれが実現,15年9ヵ月間にわたり北大神経内科を発展させ日本のみならず世界にも通じる教育・診療・研究の体制を確立,専門医育成,神経難病への対策,社会貢献に努めて参りました。
 大学そのものが大きな転機を迎えようとするこの時こそ伝統のフロンティアスピリットを基に,北大が今後更なる発展を続ける事を心から期待しております。
昭和14年8月26日生 
(略  歴) 
昭和39年3月 北海道大学医学部医学科卒業
昭和45年9月 北海道大学大学院医学研究科退学
昭和47年12月 北海道大学医学部 助手
昭和48年2月 北海道大学医学部附属病院講師
昭和57年12月 医学博士(北海道大学)
昭和59年11月 北海道大学医学部 助教授
昭和62年7月 北海道大学医学部附属病院 教授
平成7年4月 北海道大学医学部 教授
平成11年4月 北海道大学評議員 
平成12年3月
平成12年4月 北海道大学大学院医学研究科 教授

福 田   博(ふくだひろし) 氏(歯学研究科教授)福 田   博(ふくだひろし) 氏(歯学研究科教授)
 大学を卒業して間もなくの昭和40年8月に,歯学部を新設する準備のお手伝いとして北大医学部の助手として参りました。ほんの数年間のつもりでした。昭和42年6月に歯学部が出来,学生教育の準備で忙しかった創設期,研究体制を作り上げた充実期,さらなる飛躍のための改革期と,いつの間にか37年8ヵ月が過ぎてしまいました。歯科医師としてのほぼ全生涯です。研究面では唾液腺および口腔粘膜など口腔内科学分野に興味を持ち,マイペースで過ごさせていただきました。この間,多くの方々にいつも暖かく支えられ,楽しい教育・研究・診療の毎日でした。皆様に心からお礼申し上げます。粉雪のゲレンデ,雪解けのかおり,百花斉放の春,緑の郊外,札幌がすっかり気にいっております。
 この大変革期に大学を去りますが,北海道大学ならびに北海道大学大学院歯学研究科が大きく飛躍することを祈念しつつ,これからも見守っております。
昭和14年7月11日生 
(略  歴) 
昭和40年3月 東京医科歯科大学歯学部卒業
昭和40年8月 北海道大学医学部 助手
昭和42年4月 北海道大学医学部附属病院 助手
昭和42年6月 北海道大学歯学部 助手
昭和47年4月 北海道大学歯学部附属病院 講師
昭和49年3月 歯学博士(東京医科歯科大学)
昭和49年7月 北海道大学歯学部 助教授
昭和60年10月 北海道大学歯学部 教授
平成8年8月 北海道大学評議員 
平成10年7月
平成11年4月 北海道大学評議員 
平成12年7月
平成12年4月 北海道大学大学院歯学研究科 教授

石 川 博 將(いしかわひろまさ) 氏(工学研究科教授)石 川 博 將(いしかわひろまさ) 氏(工学研究科教授)
 北大入学以来45年が経とうとしています。その間,1年足らずの企業生活と1年余りの海外での研究生活を除けば,43年間に渡りこのキャンパスで過ごしたことになります。しかし,未だに環境整備が完成した姿を見ておりません。国内の他大学と比べればましなほうではありますが,欧米の大学と比べると,きれいな空間とは言えません。思考の空間は“エルムの学園”の名を捨て,車と自転車の修羅場と化したようです。大学人の自覚に期待したいと思います。
 35年間の教官としての研究生活を大過なく過ごすことができ,極めて満ち足りた気持ちで定年退職を迎えられそうです。お世話いただいた先輩の諸先生,一緒に励んだ同僚の先生方,支援していただいた後輩の先生や学生さんに心からの感謝の気持ちを伝えたいと思います。ありがとうございました。
昭和15年1月17日生 
(略  歴) 
昭和37年3月 北海道大学工学部機械工学科卒業
昭和37年4月 株式会社日立製作所
昭和40年3月 北海道大学大学院工学研究科修士課程修了
昭和43年3月 北海道大学大学院工学研究科博士課程修了
昭和43年3月 工学博士(北海道大学)
昭和43年4月 北海道大学工学部 助教授
昭和59年4月 北海道大学工学部 教授
平成9年4月 北海道大学大学院工学研究科 教授

菱 沼 孝 夫(ひしぬまゆきお) 氏(工学研究科教授)菱 沼 孝 夫(ひしぬまゆきお) 氏(工学研究科教授)
 北海道大学に企業から平成8年4月に赴任して以来7年間,諸先生,諸先輩,大学関係者,学生諸君,道市町村の関係者など多くの方々から多大なご支援を戴き大変お世話様になり感謝申し上げます。広く,四季の変化がすばらしいキャンパスと豊かな心を持った学生に恵まれ,大学教官として充実した生活を送ることが出来ましたのも北海道大学の伝統である涵養と進取の気性にあると思っております。最近の社会情勢をみても日本自体が自己変革できないまま流れに任せて漂っております。社会および企業において変革のリーダーシップが取れない,日本をどのような社会に変革するかその構想力がない,若者に夢がない,等々無い無い尽くしの中で社会的に閉塞感が漂っております。今こそ大学の知が求められており,このまま衰退するのを傍観することは許されないでしょう。大学における教育および研究の使命はグローバルに活躍できる学生の教育と知の創造にあると考えております。産学連携,産業創生,社会への貢献にしても大学としての高邁な構想力が問われており,優秀な人材と環境に恵まれた北海道大学が今後益々発展することを心より期待しております。
昭和14年11月22日生 
(略  歴) 
昭和37年3月 東北大学工学部機械工学科卒業
昭和37年4月 株式会社日立製作所
昭和55年9月 工学博士(東北大学)
平成8年4月 北海道大学工学部 教授
平成9年4月 北海道大学大学院工学研究科 教授

伊 藤 獻 一(いとうけんいち) 氏(工学研究科教授)伊 藤 獻 一(いとうけんいち) 氏(工学研究科教授)
 子供の頃は北大構内を遊び場として育ち,昭和33年理類入学から数えて45年を北大でお世話になった。動くものが好きで機械工学の道に進み,熱工学のなかで当時は新しい燃焼工学講座で研究生活に入った。暗中模索の年月が過ぎ,燃焼学を通じ環境問題への対応がいつしか生涯のテーマとなった。研究生活の前半はアルコールエンジンの燃焼と排気を,そして後半は微小重力場における燃焼を手がけた。二つの異なる専門を通し,多くの先輩や仲間の存在が常に励ましになり競争相手でもあった。北大をベースに内外の優秀な研究仲間に恵まれたことを大変幸せに思う。手がけた二つの研究もそれぞれ受け継がれ広がりを見せている。満ち足りた気持ちで北大を去ることができる。大学は自由な発想を自分の力で短時間に活かせる場所である。大学の自由に,そして巣立った学生諸君,お世話になった皆様に感謝したい。
 今年のおみくじは「桜花盛りはすぎてふりそそぐ 雨にちりゆく夕暮れの庭」とあった。中吉である。これを由とする。皆様のご発展を心から願ってやまない。

昭和14年10月14日生 
(略  歴) 
昭和37年3月 北海道大学工学部機械工学科卒業
昭和39年3月 北海道大学大学院工学研究科修士課程修了
昭和42年3月 北海道大学大学院工学研究科博士課程単位修得退学
昭和42年4月 北海道大学工学部 講師
昭和43年4月 北海道大学工学部 助教授
昭和44年3月 工学博士(北海道大学)
昭和56年9月 カナダ・カルガリー大学客員教授
昭和57年11月 北海道大学工学部 教授
平成9年4月 北海道大学大学院工学研究科 教授

友 澤 史 紀(ともさわふみのり) 氏(工学研究科教授)友 澤 史 紀(ともさわふみのり) 氏(工学研究科教授)
 北海道大学には,3年間という短い赴任期間でしたが,皆様方に大変お世話になり,楽しく過ごさせていただきました。ただ,この3年は本当にあっという間に過ぎてしまい,もう少し北海道での研究と生活を続けたいと,一抹の寂しさを感じています。
 東大を退官する前の年,当時この分野の教授をされていた鎌田先生が不帰の客となられました。私は縁あって先生の後任を勤めさせていただくことになったのですが,北大と東大の建築材料研は以前より深い関係がありました。初代教授の西忠雄先生は,北大から東大に赴任され,ご指導をいただきましたし,次の教授の洪悦郎先生も東大での研究室の先輩でした。鎌田先生とは大学院を出てすぐの頃から同じ専門領域の研究者として親密なおつき合いをさせていただきました。
 この3年間,果たして先輩の先生方にお許しいただける程のことができただろうかと心許ない限りですが,研究室の伝統を引継ぎ,また新しい時代に向けての研究課題を発掘するなど,これからの発展に少しでも寄与することができたとすれば望外の幸せです。4月からは東京で再び大学での教育・研究に携わることになりましたが,機会を作って,時々はこちらにも遊学に来させていただきたいと思っています。
 教育・大学改革の大きなうねりの中で,これからの大学のあり方が問われていますが,工学においても知のアーカイヴとしての大学の立場を護りつつ,各分野が最先端の部分を開拓し,さらなる発展を続けられることをお祈りしています。
 最後になりましたが,諸先生方,事務関係の方々に大変お世話になりました。心よりお礼申し上げます。

昭和15年1月30日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 東京大学工学部建築学科卒業
昭和40年3月 東京大学大学院数物系研究科修士課程修了
昭和43年3月 東京大学大学院工学系研究科博士課程退学
昭和43年4月 東京大学工学部 助手
昭和45年2月 建設省建築研究所 研究員
昭和45年3月 工学博士(東京大学)
昭和51年4月 建設省建築研究所第二研究部無機材料研究室長
昭和62年11月 東京大学工学部 教授
平成7年4月 東京大学大学院工学系研究科 教授
平成12年3月 同上退官
平成12年4月 北海道大学大学院工学研究科 教授

持 田   徹(もちだとおる) 氏(工学研究科教授)持 田   徹(もちだとおる) 氏(工学研究科教授)
 教養部理類に入学以来,北海道大学での41年が過ぎました。遥か遠くのことと思っていた時が目前に迫り,改めて過ぎし日を振り返っています。四季折々に美しく広がるキャンパスや,毎年研究室に入って来る多くの爽やかな青年達との出会い,いつも変わらぬ姿勢で着実に研究と教育を支えてくれたスタッフとの日常が,何にも代え難い幸せなことであったと感じております。
 いま,大学改革が全国で進められていますが,最も大切なことは,構造や制度の見直し以前に,一人ひとりの意識改革です。戦後半世紀を経て,日本は物質的には,一見豊かになったようではありますが,それは錯覚にすぎず,精神的には「衣食足り過ぎて礼節を知らず」の状態です。
 大学の使命の一つは,未来へと踏み出す為に,到来する時代を見通す目を持ち,思索することにあると思います。明治の初頭,清新な近代精神を基盤として創立された北大には,他の官立大学とは異なり,基礎と実学を重視する大学としての歴史と伝統があります。残念乍ら,最近はこの由来が忘れ去られているように思われます。北大が真の改革を成し遂げ,世界をリードする研究成果を挙げ続けながら,日本や北大の優れた伝統を身に付けた,世界に通用する,指導者にも支援者にもなれる,有為な青年を送り出していただきたいと願っています。
 自然に恵まれた北海道大学という環境を与えられ,そこでご指導とご支援を賜った,多くの諸先生や同僚,関係各位に対して,心から感謝申し上げます。

昭和14年8月27日生 
(略  歴) 
昭和41年3月 北海道大学工学部衛生工学科卒業
昭和43年3月 北海道大学大学院工学研究科修士課程修了
昭和46年3月 北海道大学大学院工学研究科博士課程単位修得退学
昭和46年4月 北海道大学工学部 助手
昭和48年3月 工学博士(北海道大学)
昭和59年4月 北海道大学工学部 助教授
平成5年4月 北海道大学工学部 教授
平成9年4月 北海道大学大学院工学研究科 教授

太田原 高 昭(おおたはらたかあき) 氏(農学研究科教授)太田原 高 昭(おおたはらたかあき) 氏(農学研究科教授)
 東北の片田舎から札幌農学校神話に惹かれて札幌にやってきてから45年たちました。そのほとんどをこの美しいキャンパスで過ごすことが出来たのは夢のような幸福であったと思います。農業基本法制定の年に農業経済学科に進み,農業近代化,貿易自由化の激動の中,全国を,そして世界を跳び回りました。
 川村琢先生や足羽進三郎先生など,明治の学者の香りを残す師の教えを受け,先輩にかわいがっていただき,同僚に支えられて好きなことをやらせていただきました。北大にはなんていい子が集まるのだろうと思うほど教え子にも恵まれました。彼ら,彼女らの活躍が楽しみです。
 最後の4年は研究科長,学部長として大学行政に携わりました。国立大学法人化の準備期と重なり,抵抗勢力的な発言もして参りましたが,北海道大学の個性輝く発展を祈っています。このすばらしい学校の歴史に参画させていただけたことを深く感謝しております。

昭和14年9月18日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 北海道大学農学部農業経済学科卒業
昭和40年3月 北海道大学大学院農学研究科修士課程修了
昭和43年3月 北海道大学大学院農学研究科博士課程単位修得退学
昭和43年4月 北星学園大学経済学部 講師
昭和46年4月 北海道大学農学部 助手
昭和52年12月 農学博士(北海道大学)
昭和53年7月 北海道大学農学部 助教授
平成2年4月 北海道大学農学部 教授
平成7年8月 北海道大学評議員 
平成9年8月
平成11年4月 北海道大学大学院農学研究科 教授
平成11年4月 北海道大学大学院農研究科長・農学部長,北海道大学評議員 
平成15年3月

佐 野 嘉 拓(さのよしひろ) 氏(農学研究科教授)佐 野 嘉 拓(さのよしひろ) 氏(農学研究科教授)
 大学を卒業し,一度は民間に勤めたが,夢破れ,大学に戻り,大学院を目指して勉強していた。たまたま,隣に新しく誕生した研究室の助手に採用され,大学に勤務することになった。あまり年齢も違わぬ学生達と相まみえた精神年齢を引きずったまま,以来39年間の長きに亘って,緑あふれる素晴らしいキャンパスで教育・研究に携わる幸運に恵まれた。改めて,関係各位に謝意を表したい。また,趣味のテニスでは多くの知人を学内外で得ることができたし,リフレッシュでき,満足している。この39年間で大学も社会もすさまじく様変わりしたが,次の10年後の少子化に伴う大学の変貌は想像できない。現在の日本はあれもこれも悪い,改革しなければとあまりに弄りすぎている感じがする。気が付いたら空漠な3等国になっていたと要らぬ心配をしている。外野席やコミッショナーに煩わされず現行の制度を見直し,独自の少子化や独法化を前向きに取り込んだ大学改革が着々と推進しているようなので,今後は道産子の一人として大学の更なる進展を見守り,応援したい。
昭和14年12月9日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 北海道大学農学部林産学科卒業
昭和39年4月 北海道大学農学部助手
昭和53年12月 農学博士(北海道大学)
昭和60年7月 北海道大学農学部 助教授
平成6年4月 北海道大学農学部 教授
平成11年4月 北海道大学大学院農学研究科 教授

冨 田 房 男(とみたふさお) 氏(農学研究科教授)冨 田 房 男(とみたふさお) 氏(農学研究科教授)
 平成元年9月に応用菌学担当教授として着任以来早いもので13年7ヶ月もの長きにわたり在籍させていただいたことになります。伝統ある農学部及び農学研究科で研究・教育そして大学の運営にまで携わらせていただいたことに深く感謝申し上げます。21世紀はバイオの世紀と以前から言われており,「農学」がその本流であり,本学に於ける中心であると信じ,「バイオ」の発展に向かって自分なりに燃えてきたつもりであったが,21世紀に入って,もう5年もたってしまい,しかも定年退官を迎えて未完成であるものが多く思い残すことが多い。
 また一方,大学院重点化,英語コースの開設などを通して農学研究科に,また評議員,副学長として北海道アカデミックコンソーシアムと北海道TLOの設立とそれらの運営,北キャンパス構想(創成科学研究機構構想や先端研の改組など)に貢献できる機会を与えられた幸運と名誉に感謝しております。それにつけても本来極めて革新的・先端的研究を使命としている筈の大学が極めて保守的であり,変わることに極めて臆病であることには驚いている。どうかこれからはもっと大胆に時代を先取りすることにチャレンジしてもらいたいものである。
昭和14年6月13日生 
(略  歴) 
昭和37年3月 北海道大学農学部農芸化学科卒業
昭和37年4月 協和発酵工業鞄結梃、究所研究員
昭和43年11月 Ph.D.(Molecular Biology, McMaster University)
昭和61年4月 協和発酵工業(株)加藤記念バイオサイエンス研究所 副所長
昭和63年7月 協和発酵工業(株)生物研究所所長
平成元年2月 協和発酵工業(株)筑波研究所所長
平成元年9月 北海道大学農学部 教授
平成9年8月 北海道大学評議員 
平成11年3月
平成11年4月 北海道大学大学院農学研究科 教授
平成11年4月 北海道大学副学長 北海道大学評議員 
平成13年4月
平成12年4月 北海道大学先端科学技術共同研究センター長 
平成14年3月

青 山 頼 孝(あおやまよりたか) 氏(農学研究科教授)青 山 頼 孝(あおやまよりたか) 氏(農学研究科教授)
 北海道大学構内の大樹の新芽が小さな殻に閉じこもっていたころ,長い伝統を有し,由緒ある農学部の玄関をくぐった。研究と教育の推進という使命をもって,最後まで勤めたいという願望と一方では不安が交錯しつつ年月は瞬く間に経過した。
 構内の緑豊かな道を通るたびに,四季折々の木漏れ日の美しさに感激した。通勤の道筋の3地点からの光景は格別であった。朝日を受けた樹木が発する特有の芳香をもった空気は体の器官,組織のすべてをリフレッシュさせた。さらに研究意欲を高揚させてくれた。
 大学4年生のとき,食品化学及び栄養化学講座において卒業研究が始まり研究室に出入りするようになった。教授の机は実験室の片隅にあった。週1回の講義を終えると椅子に座って,タバコの煙を天井に思いっきり噴き放っておられたことを記憶している。多分講義への満足感と少々の疲れを癒すための行動であったであろう。その後,数十年間が経過した。この分野の研究の進展は目覚しく,講義内容の範囲は拡大し,且つ担当講義数も多くなった。学部生への講義は多いときには週4回行った。講義が終わるたびに清涼飲料水を思いっきり飲むことにしていた。この爽快感を享受するのも終に最後となった。
 北海道大学の益々の発展を祈念します。

昭和14年8月27日生
(略  歴)
昭和37年3月 名古屋大学農学部農芸化学科卒業
昭和39年3月 名古屋大学大学院農学研究科修士課程修了
昭和40年5月 名古屋大学大学院農学研究科博士課程退学
昭和40年6月 名古屋大学農学部 助手
昭和47年11月 農学博士(名古屋大学)
昭和57年10月 名古屋大学農学部 助教授
平成8年4月 北海道大学農学部 教授
平成11年4月 北海道大学大学院農学研究科 教授

小 城 春 雄(おぎはるお) 氏(水産科学研究科教授)小 城 春 雄(おぎはるお) 氏(水産科学研究科教授)
 北洋の生物研究を志して北大に入学しました。水産学部の4年生の時におしょろ丸による北洋航海では,暗鬱とした海の風景とは対照的に,海の持つ生物生産力の豊さに打ちのめされるほどの感動を受けました。それ以来,連続20年間,毎年北洋への調査航海に乗船しました。乗船時間を合計すると5年を超すほどになりました。それでもまだ北洋を知るまでには到っていない気がしています。在任している間に水産業は,遠洋漁業全盛の時代が1977年の200海里法で壊滅的な影響を受けました。北洋のサケマス流網漁業ではその終焉まで見届けました。我が国の母船式サケマス流網漁業による米国の200海里内操業では,日本の国益を守るため米国の裁判所での公聴会に証人として出廷しました。アカイカ流網漁業では,混獲生物に関しての国際会議に駆り出され,国益を背景にした国際交渉の困難さを味わいました。やがてこのアカイカ漁業も1990年の国連による公海域での流網漁業禁止法案の通過で終焉しました。このように水産業が劇的に変化する間に,外洋性の海鳥類の研究に従事できたことは,振り返ってみると何とも不思議な気がしています。また,船上より廃棄物を海中投棄してはならない国際法であるマルポール条約は,海洋汚染物質を討議する国際学会で決定されましたが,この条約は日本政府の関知しない場で決定され,かつ日本に対して多くの解決すべき課題を押し付けられたため,次ぎのハワイでの国際会議まで日本の水産庁は急遽多額の調査資金を投入しその対策に追われた経緯にも参加させてもらいました。在任中は一途に走り抜いた感がしますが,北大が発散するオーラのようなものに駆り立てられたといえます。大学改革の波が押し寄せている厳しい時代ですが,社会に巣立つ若者が不利益を被らない教育研究制度の確立への道を北大が驀進してくれるよう退官後もエールを送り続けたいと思います。皆様から戴いた海鳥研究への御理解および御協力に対し心より御礼申し上げると共に北大の弥栄を祈り上げます。

昭和15年2月5日生 
(略  歴) 
昭和44年3月 北海道大学水産学部水産増殖学科卒業
昭和46年3月 北海道大学大学院水産学研究科修士課程修了
昭和50年3月 北海道大学大学院水産学研究科博士課程単位修得退学
昭和52年3月 水産学博士(北海道大学)
昭和52年11月 北海道大学水産学部附属北洋水産研究施設 助手
昭和55年10月 北海道大学水産学部附属北洋水産研究施設 講師
昭和59年2月 北海道大学水産学部附属北洋水産研究施設 助教授
平成7年4月 北海道大学水産学部 教授
平成12年4月 北海道大学大学院水産科学研究科 教授

菅 野 泰 次(かんのやすじ) 氏(水産科学研究科教授)菅 野 泰 次(かんのやすじ) 氏(水産科学研究科教授)
 昭和50年に北大水産学部に赴任し,今では懐かしい響きをもつ当時の漁業学科の助手になりました。大学で私は,魚類の個体群生態に関する研究,特に北海道を代表するニシンを中心に,系統群と呼ばれる単位集団に関する研究にとり組みました。ニシンは4〜5歳で成熟した親魚となり,自分が生まれた日本海の産卵場に回帰するといわれていました。しかしまだ20代の頃,網走水産試験場で研究に就いた私は,能取湖に2歳のごく小さな体長で成熟する極めて特殊な型のニシン(湖沼ニシン)が生活しているのを見たのです。研究を進めるにつれ湖沼ニシンは特殊なニシンではなく,逆に太平洋に広く分布するニシンの起源になったと考えるようになりました。このような経過を経て私の研究は,系統群の地理的分布からその形成過程と機構の問題へと興味を広げることになりました。
 このような研究を続けてこれた私は,幸せな半生を送らせて頂いたと思います。私を支えて下さった多くの教職員,ならびに学生の皆様に心よりお礼を申し上げ北大を辞したいと思います。
昭和15年2月21日生 
(略  歴) 
昭和39年3月 北海道大学水産学部水産増殖学科卒業
昭和43年3月 北海道大学大学院水産学研究科修士課程修了
昭和50年3月 北海道大学水産学部 助手
昭和60年8月 北海道大学水産学部 講師
昭和60年9月 水産学博士(北海道大学)
平成4年5月 北海道大学水産学部 助教授
平成6年4月 北海道大学水産学部 教授
平成12年4月 北海道大学大学院水産科学研究科 教授

栗 原 豪 彦(くりはらたけひこ) 氏(言語文化部教授)栗 原 豪 彦(くりはらたけひこ) 氏(言語文化部教授)
 学生時代から数えて40年以上も北大でお世話になりましたが,この歳月は長いようで短かったような気がします。振り返ると,不毛だった大学紛争の時期などあれやこれやの出来事や光景が懐かしく思い出されます。それにしても,定年を迎え,「少年老い易く学成り難し」をしみじみと実感しています。ただ,頑丈とはいえない身で,大した病気もせず,自然に恵まれた北大キャンパスで自由に仕事をさせていただいたのはまことに幸せでした。
 独立行政法人化などこの先国立大学の教育と研究をめぐる環境もますます厳しくなるでしょうが,北大が多くの分野でよき伝統と優秀な人材を生かして,ますます発展することを心から祈念しております。
昭和15年2月12日生 
(略  歴) 
昭和37年3月 北海道大学文学部卒業
昭和39年3月 北海道大学大学院文学研究科修士課程修了
昭和42年3月 北海道大学大学院文学研究科博士課程単位修得退学
昭和42年4月 北海道大学文学部 助手
昭和44年4月 北海道大学文学部 講師
昭和50年7月 北海道大学文学部 助教授
昭和57年4月 北海道大学言語文化部 助教授
昭和62年5月 北海道大学言語文化部 教授

池 澤 克 夫(いけざわかつお) 氏(言語文化部教授)池 澤 克 夫(いけざわかつお) 氏(言語文化部教授)
 おかげさまで,定年を迎えることができました。感激です。みなさまには実に三十年以上にわたりお世話になりました。ここに謹んでお礼申しあげます。
 とりたてて何のお役に立つこともなく,いたずらに馬齢を重ね,お恥ずかしい限りです。これからは,ひっそりと隠れて生きていくつもりです。

    感 懐

  回頭三十有余年  才拙迷津愧瓦全
  学舎楡梢残日影  帰鴉欲去白雲辺

 それでは,みなさまのご多幸をお祈りしつつ,お別れいたします。ご機嫌よう,さようなら。
 人生足別離

昭和15年1月1日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 早稲田大学第一文学部卒業
昭和40年3月 早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了
昭和44年2月 早稲田大学大学院文学研究科博士課程退学
昭和44年3月 北海道大学文学部 講師
昭和50年11月 北海道大学文学部 助教授
昭和59年4月 北海道大学言語文化部 助教授
昭和63年4月 北海道大学言語文化部 教授

市 川 和 彦(いちかわかずひこ) 氏(地球環境科学研究科教授)市 川 和 彦(いちかわかずひこ) 氏(地球環境科学研究科教授)
 北大生そして助手の始まりは,安保闘争・大学紛争による動揺した,騒然とした社会,学内であった。然しながら,緊張を強いられながらも前向きの目標に向かっての生活を送った。北の大地に由来する大自然や鼓舞を与えてくれる研究環境があった。35年の経過の中で札幌と関東・関西との間の距離は小さくなった。同時に北大の特異性がなくなってきたように思われて仕方がない。教養部廃止,大学院重点化の波は全国の大学に一様に押し寄せ,北大はその波に積極的に対応してきた。それ等の改革は旧態以前のものを抱えながらゆっくりと実現されていった。その矛盾がゆっくりと是正され,少しずつ解消されてきたのは,大学におられる各自がその改革の方向に思考され,行動されてきたことによるものと考える。
 私の育った化学も又これまでの35年間で著しい進化を遂げた。私自身は10年前に理学部から院地球環境科学研究科に配置替えになった。これら2つの事柄が私の研究方向を大いに変えた。国内外を問わず学会活動の場も相対する研究者も異なってきた。現在の研究が漸く軌道に乗ってきただけに,この点では北大を去るのが心残りである。
昭和14年6月19日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 北海道大学理学部卒業
昭和43年3月 北海道大学大学院理学研究科博士課程修了
昭和43年3月 理学博士(北海道大学)
昭和43年4月 北海道大学理学部 助手
昭和48年7月 テキサス大学(オースティン)物理学科博士研究員
昭和50年6月
昭和50年6月 北海道大学理学部 講師
昭和54年3月 北海道大学理学部 助教授
昭和63年5月 北海道大学理学部 教授
平成5年4月 北海道大学大学院地球環境科学研究科 教授
平成7年4月 北海道大学評議員 
平成9年3月

長谷部   清(はせべきよし) 氏(地球環境科学研究科教授)長谷部   清(はせべきよし) 氏(地球環境科学研究科教授)
 大学院に進学し,間もなく大学紛争が起こり,教官の誹謗や中傷があったり,学生同士の暴力があったりの時代を経験しましたが,今になってみれば,あれはいったい何だったんだろうと思い起こされます。理学部の北棟の3階にいた頃,夏にはミンミン蝉が沢山鳴いていて窓を開けていれば,蝉が舞い込んでくるほどでした。今の中央食堂や理学部3号館のあたりは草むらで結構小動物が住み着いていましたが,今では蝉もカエルも見ることはできません。自然の変化と言うには少しばかり寂しい気がします。一方,北大附属病院付設医療専門学校時代から北大医療短大の入試業務を休むことなく続けられたことも大きな思い出の一つです。健康であったがゆえにできたのであり,感謝の気持ちで一杯です。本学の入試業務に比べれば,医療短大ではとても少数の人手で行われ,とりわけ作題は小さなミスも許されない緊張の連続でありました。その医療短大も私の定年と時期を合わせるかのように,医学部所属となり,4年制保健学科に改組されることとなりました。今後,益々の発展が期待されます。関係諸兄の皆様から沢山の思い出をいただき,長い間有り難うございました。

昭和14年4月28日生 
(略  歴) 
昭和39年3月 立命館大学理工学部卒業
昭和41年3月 北海道大学大学院理学研究科修士課程修了
昭和41年5月 北海道大学大学院理学研究科博士後期課程退学
昭和41年6月 北海道大学理学部 助手
昭和44年12月 理学博士(北海道大学)
昭和45年1月 北海道大学理学部 講師
昭和48年3月 北海道大学理学部 助教授
平成4年5月 北海道大学理学部 教授
平成5年4月 北海道大学大学院地球環境科学研究科 教授
平成14年5月 北海道大学高等教育機能開発総合センター長補佐
平成15年3月

高 木 信 夫(たかぎのぶお) 氏(地球環境科学研究科教授)高 木 信 夫(たかぎのぶお) 氏(地球環境科学研究科教授)
 昭和33年に入学して以来,45年間北大にお世話になりました。楽しい思い出と共に定年を迎えられることを,先輩,同僚,後輩の皆さん,そして何くれと無くサポートして頂いた事務の方々に心から感謝いたします。正直に言うと,研究室の仕事の方に時間が取られ,講義の方はややもすると従になってしまいました。かつての学生諸君にはお詫びせざるを得ません。理学部生物で動物の染色体研究を始めた頃は,単眼顕微鏡でスケッチと言う状態だったので,将来どうなるものやらと不安でした。しかし,世の中が豊かになるにつれ,機器も手法も長足の進歩を遂げ,染色体の分野も科学らしくなったのは有難い巡り合わせでした。多少の成果が得られたのも,世界の仲間と交流ができたのも北大のおかげです。感謝は尽きませんが,注文したいこともあります。北大が変なナショナリズムをかなぐり捨て,国際化して世界に肩を並べる大学となり,当面は役に立たないことの研究にも寛容さを持ち続けて下さるようお願いいたします。

昭和14年4月20日生
(略  歴)
昭和37年3月 北海道大学理学部卒業
昭和39年3月 北海道大学大学院理学研究科修士課程修了
昭和44年8月 北海道大学大学院理学研究科博士後期課程退学
昭和44年8月 北海道大学理学部附属動物染色体施設 助手
昭和44年12月 理学博士(北海道大学)
昭和60年4月 北海道大学遺伝子実験施設 助教授
平成5年4月 北海道大学大学院地球環境科学研究科 教授
平成5年4月 北海道大学遺伝子実験施設長 
平成13年3月

Glazirin Gleb Evlampievich(グラジーリン グレブ エフランピエビツチ) 氏(低温科学研究所教授)Glazirin Gleb Evlampievich(グラジーリン グレブ エフランピエビツチ) 氏(低温科学研究所教授)

I have arrived from Uzbekistan. It is a new state formed after disintegration of the USSR. It is the state with so-called transitive economy. It is well known that education, public health services and science suffer first of all in such states. Therefore, my impressions of the Hokkaido University are very much different from those of scientists from, for example, Europe or America.

First of all, I was impressed by the fine and flexible finance of the university science. An active researcher has possibility to get almost any equipment and devices, and participate in any international scientific meeting. Scientists in new states, like Uzbekistan, can dream on them only. However, it has reverse side also: it is necessary to use more acute and complex methods to solve similar problems without good computers and newest equipment. It stimulates the scientists to get better qualification. I even think that it is some advantage of the former USSR in the development of science.

The very important feature of the Japanese science is friendly and respectful relationships between employees. Surely it creates good psychological base for effective investigations. I was impressed very much by permanent intention to work and diligence both of scientists, and students.

Perhaps, the most obvious weak point is insufficient knowledge of the results published in Russian. Nevertheless I hope that close cooperation with scientists of the former USSR will allow to liquidate this lack of academic information in the future.

As a whole, I thank my destiny that has allowed me to work at Hokkaido University, look a little around Japan, and touch its ancient and very rich culture.


(和 訳)
 私はウズベキスタンよりやって参りました。ウズベキスタンはソ連の崩壊後に形成された新しい国家です。いわゆる途上経済の国家です。そのような国々においては,教育,公共保健サービス,科学が,まず最初に被害を被ることは良く知られています。そのため北海道大学への私の印象は他の国から,例えばヨーロッパやアメリカから来た科学者たちとはかなり異なりました。

 第一に,大学の科学への申し分のない柔軟な財政状態に感銘を受けました。活動的な研究者は様々な設備や実験装置を入手したり,種々の国際科学会議に参加する可能性を持っています。ウズベキスタンのような新しい国家の科学者はそういったことを夢に思い描くだけです。しかしながら,そこには逆の面もあります。例えば性能の良いコンピューターや最新の設備なしに同じような問題を解くためにより鋭く複雑な方法を用いることが必要とされることです。それは科学者がより良い能力を得る刺激となります。私は科学の発展において旧ソ連の国々にはそういった利点があるとさえ考えます。

 日本の科学のとても重要な特徴は研究者間の好意的でお互いを尊敬しあう関係です。確かにそういった関係は効果的な調査のための良い精神的ベースを作ります。私は科学者,学生両方の働く意欲や勤勉さに感銘を受けました。

 おそらく最も明白な弱点はロシア語で出版された研究結果の情報の少なさです。それでも私は旧ソ連の科学者間の緊密な協力は将来的にこの学術的な情報不足をなくすと期待しております。

 最後に私は北海道大学で働き,少しだけ日本を見て回りその長い歴史と大変豊かな文化にふれることを可能にした運命に感謝いたします。

昭和14年5月20日生 
(略  歴) 
昭和36年3月 タシケント州立大学地理学科卒業
昭和36年8月 中央アジア水文気象研究所研究員
昭和44年3月 中央アジア水文気象研究所主任研究員
昭和55年7月 中央アジア水文気象研究所学科長
昭和55年8月 理学博士(ソビエト)
昭和57年4月 タシケント州立大学 学科長
平成6年2月 中央アジア水文気象研究所応用気候学部門主任
平成9年12月 北海道大学低温科学研究所外国人研究員
平成10年3月
平成13年10月 北海道大学低温科学研究所 教授

大 西 俊 之(おおにしとしゆき) 氏(アイソトープ総合センター教授)大 西 俊 之(おおにしとしゆき) 氏(アイソトープ総合センター教授)
 憧れのエルムの学園・北大に入学したのが昭和34年,その後9年の学生生活を経て昭和43年からは教官として35年間に亘って勤務しました。多くの教職員の方々のご指導,ご支援を頂いた北大での年月は,充実したそして楽しく幸せな時期となりました。
 勤務10年過ぎて,新設のアイソトープ総合センターに配置されました。これまでの放射性同位元素を使用する立場から,管理する側に変わりました。医学部の一隅にあった放射性同位元素総合研究室に設立準備室を設け,そこに移り住みました。専任教官は私一人だけでしたので,建家の平面図の作成,次いで設備機器類の整備等に追われました。北大の模範となる放射線管理をするようにと命ぜられ,全国の先輩センターの教えを頂きながら,放射線管理の方法を準備しましたことも感慨深いものがあります。やがて,北大全体,次いで北海道の大学の放射線管理のお世話をする立場になり,その都度,諸先輩の協力が得られましたことは幸せでした。お陰様で事故らしい事故もなく,無事に退官を迎えることができますことに厚くお礼を申し上げ,感謝をしております。
 この変革の時代を向かえ,皆様方そして北大のご発展を念じております。長い間ありがとうございました。

昭和14年4月18日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 北海道大学理学部化学科卒業
昭和40年3月 北海道大学大学院理学研究科修士課程修了
昭和43年3月 北海道大学大学院理学研究科博士課程単位修得退学
昭和43年4月 北海道大学医学部 助手
昭和46年3月 北海道大学大学院理学研究科博士課程修了
昭和46年3月 理学博士(北海道大学)
昭和49年9月 医学博士(北海道大学)
昭和53年4月 北海道大学アイソトープ総合センター 助教授
平成2年11月 北海道大学アイソトープ総合センター 教授

服 部   英(はつとりひでし) 氏(エネルギー先端工学研究センター教授)服 部   英(はつとりひでし) 氏(エネルギー先端工学研究センター教授)
 内地よりはるばる青函連絡船に乗って北大に赴任したのが1968年,爾来35年が経過し,今春大学を去ることになりました。
 理学部を皮切りに,地球環境科学研究科,そしてエネルギー先端工学研究センターと所属は換わりましたが,常に研究と教育に専念できる場を与えられたことは私にとって大きな幸いであり,それを可能にすべく支持していただいた諸先生,諸先輩には感謝の念でいっぱいです。そして,学問,研究に真摯な努力をしている多くの学生諸君に出会えたことは,私にとって大切な宝となっています。
 私の在任期間には,大学は絶えず変革してきました。今また大きく変革しようとしています。北大が,正しい方向への変革を成し遂げるよう願っています。
 長年にわたってお世話になった北大に,種々の面でご教示いただいた方々に厚く御礼申し上げ,北大の大いなる発展を祈念いたします。

昭和14年12月18日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 東京工業大学理工学部化学工学課程卒業
昭和40年3月 東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了
昭和43年3月 東京工業大学大学院理工学研究科博士課程修了
昭和43年3月 工学博士(東京工業大学)
昭和43年4月 北海道大学理学部 助手
昭和46年5月 北海道大学理学部 講師
昭和49年4月 北海道大学理学部 助教授
平成5年4月 北海道大学大学院地球環境科学研究科 助教授
平成6年8月 北海道大学エネルギー先端工学研究センター 教授

佐 藤 博 二(さとうひろじ) 氏(北方生物圏フィールド科学センター教授)佐 藤 博 二(さとうひろじ) 氏(北方生物圏フィールド科学センター教授)
 農学部附属農場の助手に採用されて以来33年間,2年前に学内共同教育研究施設の北方生物圏フィールド科学センターの生物生産研究農場に改組されてからも毎日,庁舎3階の窓から,北大の各施設の建物群と農場の圃場とポプラ並木を眺めながらスローライフな研究生活を送らせて頂けたことを感謝しております。海外や学外からの来訪者がうらやむ,四季それぞれの装いの変化を味わうことのできる,緑豊かで,広いキャンパスの,恵まれた環境を皆様の英知で末永く維持して頂くことを心から切望しております。
 北大はこれから,学院・研究院構想の具体化,目前の法人化と,改革の労苦がまだまだ続くことと思います。北大に学ぶ学生の教育と教職員の研究の調和を計りながら,教育と研究の情報発信源として発展をしていただきたいと願っております。
昭和14年12月22日生 
(略  歴) 
昭和40年3月 帯広畜産大学農産化学科卒業
昭和42年3月 北海道大学大学院農学研究科修士課程修了
昭和45年3月 北海道大学大学院農学研究科博士課程単位修得退学
昭和45年4月 北海道大学農学部附属農場 助手
昭和46年6月 農学博士(北海道大学)
昭和58年9月 北海道大学農学部附属農場 助教授
平成13年4月 北海道大学北方生物圏フィールド科学センター 教授
平成14年4月 北海道大学北方生物圏フィールド科学センター耕地圏ステーション 生物生産研究農場長

市 村 輝 宜(いちむらてるのぶ) 氏(北方生物圏フィールド科学センター教授)市 村 輝 宜(いちむらてるのぶ) 氏(北方生物圏フィールド科学センター教授)
 広大な自然が背景にある独創性を重んじる学風の北大に憧れ入学し,将来の生計のことなどを心配する親兄弟の忠告を意に介さず,理学部生物学科植物学専攻に進学しました。40数年前の記憶はあまり定かではありませんが,指導教官の暖かい心を酌み取るのみで,研究課題は自分で決め,方法なども自己流で無我夢中で独走して来たように思います。幸いなことに研究・遊びの仲間にも恵まれ,卒業後も大学に席を置き研究生活を続けることができたことは,大変有り難いことと感謝しています。学究生活の最初の愉しい10年間と最後の意義深い10年間を北大で過ごすことができ,その間の煉獄のような東京での20年間も霞んでしまったようです。感性の衰えを感じる歳になりましたが,北大を去ってからも北海道の大自然の中で,季節の移ろいを肌身に感じながら心のままに生き,生き物の世界の進化の跡を辿りたいと思っています。
昭和14年12月6日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 北海道大学理学部生物学科卒業
昭和40年3月 北海道大学理学研究科修士課程修了
昭和43年8月 北海道大学大学院理学研究科博士課程単位修得退学
昭和43年8月 東京大学応用微生物研究所文部技官
昭和48年11月 理学博士(東京大学)
昭和51年8月 東京大学応用微生物研究所 助手
平成5年4月 北海道大学理学部附属海藻研究施設 助教授
平成9年4月 北海道大学理学部附属海藻研究施設長
平成9年12月 北海道大学理学部附属海藻研究施設 教授
平成13年4月     北海道大学北方生物圏フィールド科学センター 教授
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター 副センター長(教育担当)
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター 水圏ステーション長
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター 水圏ステーション室蘭臨海実験所長
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター 水圏ステーション忍路臨海実験所長

森 田   穰(もりたゆたか) 氏(医療技術短期大学部教授)森 田   穰(もりたゆたか) 氏(医療技術短期大学部教授)
 昭和36年3月,やっと入れていただいた北海道大学を目指して上野駅から夜行列車に乗ったが,当時流行っていた「北帰行」を口遊みながら柄にもなく感傷的になっていた。美しいと聞いていた札幌は雪解けとルンペンストーブの炭殻で見るも無惨な街となり,吹き荒れる馬糞風で皆んなほっかぶりをしているので美醜どころか老若男女の区別もつかなかった。北大前の電車は北18条止まりで,札幌市人口50万人達成の横断幕が寒風の中ではためいていた。やっぱり東京に戻って予備校に通い直そうかと思ったが,優柔不断のまま4月,5月が過ぎていた。6月,理学部横のローンで寝ていて,函館本線から直接機関車が構内に入ってくる大学は絶対ないと気が付いた。観光バス誘導の笛音で授業が中断する大学もまず無いと,今や文化財となった古川講堂の教室で考えた。爾来42年間外科医として出張した時期,ミュンヘン大学留学時の3年間を除いてずーっと北大構内に置いていただいた。
 往事うるさい位だったカッコーの声やアカゲラのカンカンという音は少なくなったが,大野池には水芭蕉が咲き,水鳥の群,サクシュコトニ川の流れが戻ってきた。
 “昔江戸ッ子,今蝦夷ッ子”と駄洒落をいって北大を去ることになった。
昭和15年1月1日生 
(略  歴) 
昭和42年3月 北海道大学医学部医学科卒業
昭和43年4月 北海道大学医学部附属病院 第1外科にて研究に従事
昭和43年8月 北海道大学医学部附属病院副手
昭和46年4月 北海道大学医学部附属病院医員
昭和47年4月 北海道大学医学部附属病院助手
昭和49年7月 北海道大学医学部附属病院講師
昭和59年8月 北海道大学医学部 助教授
昭和59年9月 西ドイツ政府招聘教授(ミュンヘン大学医学部放射線科教授) 
昭和60年3月
昭和60年4月 北海道大学医療技術短期大学部 教授
平成5年3月 医学博士(北海道大学)
平成9年4月 北海道大学医療技術短期大学部部長,評議員 
平成13年3月

勝 股   脩(かつまたおさむ) 氏(理学研究科助教授)勝 股   脩(かつまたおさむ) 氏(理学研究科助教授)
 教養部の数学担当として北大に赴任してきたのは,1970年5月1日のことでした。大学紛争の頂点は過ぎてましたが,紛争の余塵が満ちている中で,新任教官として教壇に立つときかなり緊張したものです。それ以来33年近くたちましたが,当時は全く想定されていなかった大学内部での幾つかの変化に気づきます。学生運動の消滅,ITの浸透,教養部の廃止と全学教育の開始,大学院の重点化,留学生の増加,諸施設の新設改廃等。
 これから30年後,北海道大学はどのような変貌をとげるのでしょうか。研究教育の拠点として順調に拡充して欲しいものと期待しておりますが,間近にせまる問題もあるように思えます。国立大学独立行政法人化,少子化社会の到来,国の財政の莫大な赤字から転化してくるもの等。これらが北海道大学の将来にどのように作用するのか,一市民として見守ってゆきたいと思います。
昭和14年8月13日生 
(略  歴) 
昭和39年3月 北海道大学理学部数学科卒業
昭和41年3月 北海道大学理学研究科修士課程修了
昭和43年1月 北海道大学大学院理学研究科博士課程退学
昭和43年2月 岡山大学理学部 助手
昭和45年5月 北海道大学理学部 講師
昭和61年4月 北海道大学理学部 助教授
平成7年4月 北海道大学大学院理学研究科 助教授

伊 藤 洋 一(いとうよういち) 氏(工学研究科助教授)伊 藤 洋 一(いとうよういち) 氏(工学研究科助教授)
 学生時代から数えて45年,半世紀近くにわたって通い続けた北大を去るに際し,お世話になった皆様に篤くお礼申し上げます。
 家の事情で半ば諦めていた大学に,ふとしたきっかけで進学でき,夢の夢と思っていた大学院にまで行けた20歳前後が,人生における第一の転機であったとすれば,一寸した気紛れで廃物利用に関わったのを契機に様々な地域活動に手をそめるようになった40歳前後が第二の転機と言えましょうか。以来20余年,廃物利用とか廃品再生という名がリサイクルという名に変わり,行政や大企業が乗り出して来た昨今,何かしら違和感を覚えております。最近手にした本で,今のリサイクルのあり方を地球あるいは文明の荒廃に向けて「ひたすら前進する電車の中で後ろ向きに歩く」ようなものと評しているのを読み,本来は異根であるべきものを同じレールの上で進めようとしている愚を言い得て妙だと思いました。
 いま大学も大きな転機を迎えようとしております。しかし,こちらの電車は,レールはおろか,その設計図すら描き切れていないままに発車しようといるような…。「北海道(大学),そんなに急いでどこへ行く」

昭和14年6月12日生 
(略  歴) 
昭和37年3月 北海道大学工学部冶金工学科卒業
昭和39年3月 北海道大学大学院工学研究科修士課程修了
昭和39年4月 北海道大学工学部 講師
昭和45年4月 北海道大学工学部 助教授
昭和63年6月 工学博士(北海道大学)
平成9年4月 北海道大学大学院工学研究科 助教授

木 内 弘 道(きうちひろみち) 氏(工学研究科助教授)木 内 弘 道(きうちひろみち) 氏(工学研究科助教授)
 北大勤続40年の思い出とそれに伴う諸氏への謝辞は原稿字数の制限により省略する。
 大学の外部的評価がその将来的運命を左右するご時世である。私見では3つの重要な評価を指摘したい。それは(1)受験生の学力を基にした受験産業の評価,(2)卒業生が社会で受けた評価が大学にフィードバックした社会的評価,(3)大学外の識者による大学自体の活動評価である。
 盛んな偏差値教育と高校生減少の渦中で北大の(1)は低下しつつある。北海道の伝統的地域性は(3)に関わる大学活動の協力組織として心もとないものがある。これらは北大の将来の悲観的要素としてよく話題に上るものである。なお,(2)は深謀遠慮過ぎて,非現実的であるという。
 しかし,大学を取り巻く諸条件の国際化は(3)の打開策として期待できるので,この比重は軽んじることが出来る。(1)は我々の理想とする大学生としての能力に連動しないことを十分に知っている。従ってそれを気にせず(2)に期待すべきだろう。(1)の低い人材を(2)の高い人材に育成し得ることは教育機関冥利に尽きるといって過言ではない。成果が出るのに年月がかかるが,今まで(2)の伝統は高いものがある。それに不連続な事態を招かねば無に帰す期間は生じない。
 かくしてこの機に(2)の伝統の継続維持を強く推奨して,北大を去りたいと思う。
昭和15年3月11日生 
(略  歴) 
昭和38年3月 北海道大学理学部地質学鉱物学科卒業
昭和38年4月 北海道大学理学部研究生
昭和38年5月 北海道大学工学部 助手
昭和59年9月 工学博士(北海道大学)
昭和60年4月 北海道大学工学部 助教授
平成9年4月 北海道大学大学院工学研究科 助教授

鈴 木   稔(すずきみのる) 氏(地球環境科学研究科助教授)鈴 木   稔(すずきみのる) 氏(地球環境科学研究科助教授)
 私の研究のスタートは,山下生化学研究室(中央道路を挟んでファカルテイハウス「エンレイソウ」の真向かい(弓道場の西側)にあった建物で現在はない)の一階奥の実験室でした。
 1963年修士課程1年生の時の夏,恩師の入江遠先生(現在95才でご健在)の勧めもあり,紅藻ソゾの成分研究をすることになりました。その年の晩秋,他に先がけてLaurencinと名付けた新奇構造を有する含臭素化合物を発見することができたのは大変幸運でした。このソゾとの出会いが契機となって海洋天然物に魅了され,いつの間にか40年間に亘る北大での研究生活になっていました。この間,大学だけでなく水研,水試,栽培漁業センターなどの異分野の研究者との共同作業にも恵まれ研究の幅を広げることができたと思います。
 退職後は,マレーシアサバ大学のボルネオ海洋研究所での研究生活が始まります。「食」をはじめとする“未知との遭遇”は怖くもあり楽しみでもあります。マレーシアの海洋生物科学研究の発展に些かでも貢献できれば幸いです。
昭和14年11月5日生
(略  歴)
昭和38年3月 北海道大学理学部卒業
昭和39年2月 北海道大学理学部助手
昭和46年3月 理学博士(北海道大学)
昭和50年6月 北海道大学理学部 講師
昭和54年10月 北海道大学理学部 助教授
平成5年4月 北海道大学大学院地球環境科学研究科 助教授

遠 藤 辰 雄(えんどうたつお) 氏(低温科学研究所助教授)遠 藤 辰 雄(えんどうたつお) 氏(低温科学研究所助教授)
 修士修了後,母校の高校に3年間奉職し,その後再度博士課程に戻りましたが,途中の1968年から理学部助手として故孫野長治先生のご指導の下で雲物理学の諸現象の謎解きに世界中を奔走するお手伝いとして,胸踊る研究生活が始まりました。北陸の冬季雷の危険な観測に,またカナダ北極圏極寒地の雪結晶観測等にも臨みました。その後,1981年に低温科学研究所に割愛され,当時新設された降雪物理学部門の旗揚げに邁進しました。そこでは,新型レーダの開発や,それを活用した人工降雪の実現化に夢中になりました。その後,第30次南極観測隊に参加し無人気象観測網展開で世界気候変動研究計画に寄与して参りました。最近の環境問題では,降雪の酸性化に着目し,石狩平野,母子里に加えて北極圏ニィーオルセンにおける観測を行って参りました。これらが走馬灯の様によみがえって来る思い出も,北大に所属していたから可能であったものと感謝する次第であります。
昭和14年9月5日生 
(略  歴) 
昭和37年3月 北海道学芸大学札幌分校卒業
昭和39年3月 北海道大学大学院理学研究科修士課程修了
昭和43年9月 北海道大学大学院理学研究科博士課程中退
昭和51年3月 理学博士(北海道大学)
昭和39年4月 北海道公立学校教員 
昭和42年3月
昭和43年10月 北海道大学理学部 助手
昭和50年6月 北海道大学理学部 講師
昭和56年3月 北海道大学理学部 助教授
昭和56年9月 北海道大学低温科学研究所 助教授

佐 藤 真 理(さとうしんり) 氏(触媒化学研究センター助教授)佐 藤 真 理(さとうしんり) 氏(触媒化学研究センター助教授)
 1958年に北大に入学し,1966年,大学院博士課程のときに旧触媒研究所の助手になった。その頃はすべてがゆっくり動いていた時代であり,仕事が終わってから音楽喫茶や音楽会に行ったりする時間の余裕があった。私だけでなく他の人たちもそうであったと思う。その後,次第に大学にいる時間が長くなり,子供の顔を見ることがない時間に帰宅するようになった。アメリカ留学の2年間と分子科学研究所への流動部門の4年間は単身赴任であったのでほとんどの時間を研究室で過ごしていた。
 時間をかければよい研究ができるわけでもないし,役に立つ研究を目指しても役に立たず,かえって遊び心の研究の方が後に役に立つこともある。それでも研究に没頭するのはそれが好きなためでもある。しかし,やはり健康とのかね合いが大切だと思う。私の場合,遺伝的に血圧が高い質だったので54才の頃から降圧剤を飲み始めたところ虚血性狭心症になった。ストレスが原因のようであったので以来,「スローライフ」を心がけることにした。私の場合には幸いにしてそれが可能な環境であったので現在に至るまで健康で過ごしている。最近,周りを見回すと研究する時間がないのではと思われるほど忙しすぎる人が多い。それで成果が上がればよいのだが本質的でない問題に時間を割かれているように見受けられる。「もっと独創的な研究を!」というかけ声とは裏腹に形式的な仕事が肥大化してゆく。今後,大学が独立法人化するとこの傾向はさらに増大するのではないかと危惧される。自身は適当な時期に退職したと思っているが今後の大学の健全な発展を願っている。
昭和14年8月17日生
(略  歴)
昭和37年3月 北海道大学理学部卒業
昭和39年3月 北海道大学大学院理学研究科修士課程修了
昭和41年3月 北海道大学大学院理学研究科博士課程中退
昭和41年4月 北海道大学触媒研究所 助手
昭和51年3月 理学博士(北海道大学)
昭和56年3月 北海道大学触媒研究所 助教授
平成元年5月 岡崎国立共同研究機構分子科学研究所 助教授
平成5年4月 北海道大学触媒化学研究センター 助教授

阿 部   均(あべひとし) 氏(学務部長)阿 部   均(あべひとし) 氏(学務部長)
 昭和37年5月に,新潟大学に奉職して以来,41年の公務員生活を,この3月で定年を迎えることになっている。
 顧みますと,新潟大学,文部科学省,福岡教育大学,富山大学,金沢大学,一橋大学,東京大学,信州大学,金沢大学(2度目),北海道大学と9機関を経験させていただいた。
 41年間の公務員生活で,文部科学省に在職の13年間を除いて8大学で28年間学生部(学務部)において,入学から卒業までの仕事を携わせていただいた。各大学で管理職として経験した(させられた)大きな出来事を列挙すると,生協設置問題・教員就職対策(福教大),黒田講堂設置・学生逮捕事件(富大),総合移転・授業料免除問題(金大),校舎移転改築・学長学生部長選考問題(一橋大),学内警備・セミナーハウスの設置(東大),学生の懲戒処分制度の確立(信州大)そして北大では,「学生の立場に立った大学づくり」と学生関係の課題処理に明け暮れしたように思う。
 これらの課題処理に当たって感じたことは,学生対応の業務は多くの点で法令等に根拠を持たないで,処理しなければならない困難さがいつも付き纏っている特徴があり,学生との話し合い,教官組織による委員会審議と時間がかかることもあり,またその大学の歴史・方針及び学生を理解しないで対応し,解決を長引かせるような事になったこともあり,大いに反省すべき事であったように思う。
 仕事の上で,大過なく(小過は多くあり)今まで過ごすことが出来たのは,良き上司・同僚・後輩の方々に恵まれ御支援いただいた賜物と感謝している次第であります。
 公務員生活の定年を迎える最後の職場が北の大地の総合基幹大学である北海道大学で過ごせたことは,幸せであったとともに私の誇りでもあります。この4月からは,単身赴任から解放されて家族の待つ千葉で暮らすことになっておりますが,丁度4月からは東京の品川に設置される「北大東京オフィス」にたまには訪れ,北大の最新情報にふれることが出来ると楽しみにしているところである。
 北海道大学の益々の発展と皆様方の御活躍と御健勝を祈念いたします。
 有難うございました。
昭和17年9月25日生 
(略  歴) 
昭和40年3月 新潟大学商業短期大学部卒業
昭和37年5月 新潟大学教養部
昭和44年6月 新潟大学人文学部
昭和45年6月 大臣官房総務課記録班
昭和48年10月 大臣官房総務課国会班
昭和50年4月 大臣官房総務課記録班編集係長
昭和54年4月 大臣官房総務課記録班管理係長
昭和55年4月 体育局学校保健課庶務係長
昭和58年4月 福岡教育大学厚生課長
昭和60年4月 富山大学学生課長
平成元年4月 金沢大学厚生課長
平成3年4月 一橋大学厚生課長
平成4年4月 一橋大学学務課長
平成7年4月 東京大学学生課長
平成8年5月 東京大学学生部学生課長
平成9年4月 信州大学学生部長
平成11年4月 金沢大学学生部次長
平成12年4月 金沢大学学生部長
平成13年4月 北海道大学学務部長

羽田野 和 明(はたのかずあき) 氏(施設部建築課長)羽田野 和 明(はたのかずあき) 氏(施設部建築課長)
 自分が旭川で建築技師を目指していた頃,奇しくも腕試しの公務員試験が縁で,北大に拾われたのは丁度40年前,岩戸景気に次ぐ好景気の頃であった。
 最初の職場,初代工学部本館は,白いタイルと尖塔が特徴的な別名「白亜館」,四季折々の花鳥草木,雪景などと見事に調和していたのを想い出す。
 最後の職場で2代目本館の改修,3代目校舎の新築に出合ったのも何かの縁か。
 以前,北大で新築に携わった建物は残り少ないが,これらの老朽に喘ぐ悲鳴が忍びない。一方,サクシュコトニ川の蘇生に僅かでも関われた事は嬉しく,今年藻岩の水を受けて生き返る日が待ち遠しい。かつての若僧も幾つか職場を巡るうち,随分馬齢を重ねて頭も堅くなった。変化は世の常だが,とりわけ今は大変化の時,敵前逃亡のようで心苦しいが,駄馬の引退には丁度良い潮時と心得ている。
 これまで支えて頂いた多くの方々に,深甚の敬意と感謝の意を表すると共に,北海道大学の子々孫々に亘るご発展を祈念申し上げ,お別れさせて頂きます。

昭和17年8月8日生 
(略  歴) 
昭和38年4月 北海道大学工学部
昭和43年7月 北海道大学施設部建築課
昭和48年12月 函館工業高等専門学校会計課施設係長
昭和51年4月 北海道大学医学部附属病院管理課営繕掛長
昭和53年7月 北海道大学工学部経理課営繕掛長
昭和58年4月 北海道大学施設部企画課企画掛長
平成3年4月 北海道教育大学施設課課長補佐
平成7年4月 弘前大学施設部企画課長
平成9年4月 小樽商科大学施設課長
平成12年4月 北海道大学施設部建築課長

若 佐 慶 隆(わかさよしたか) 氏(教育学研究科・教育学部事務長)若 佐 慶 隆(わかさよしたか) 氏(教育学研究科・教育学部事務長)
 昭和36年8月,事務局経理部経理課に採用になってから41年余をもって,教育学研究科・教育学部を最後に定年退職することになりました。
 この間,異動により他の大学,種々の学部を経験し,それぞれの職場で,良き上司,先輩,同僚の方々と大勢の皆様に接し,色々なことがあったにせよ,今日,健康で定年を迎えることが出来ますことは,一重に皆様のご指導,ご支援があったおかげと,心より感謝申し上げる次第であります。
 私の41年間の公務員生活は,スタートが事務局で石炭,免税アルコール,被服のこと,医病では,医療機器・材料関係,農学部では,軽種馬,肉牛の育成及びせり市場関係,歯病では歯科治療,水産学部では船舶関係,鮭鱒等の売り払い関係等,広範囲において多種多様なことを,それぞれの現場で,広く浅く,大学が教えてくれた,そして学んだこと,悩んだこと,また,時にはアフタファイブで…,そんな日々ではなかったかと思っております。
 皆様におかれましては,国立大学の法人化が間もない中,今後調査準備等で,いろいろご苦労とは思いますが,これからの北海道大学の輝かしい発展のため,全力で頑張って頂きたいと心より念願するものであります。
 最後になりましたが,北海道大学のさらなる発展と,皆様方のご健勝,ご活躍を祈念し退官の挨拶といたします。

昭和17年7月14日生
(略  歴)
昭和36年8月 北海道大学経理部経理課
昭和40年5月 北海道大学医学部附属病院管理課
昭和45年5月 北海道大学農学部
昭和48年5月 北海道大学薬学部
昭和50年5月 北海道大学薬学部会計掛会計主任
昭和51年5月 北海道大学歯学部附属病院用度掛物品管理主任
昭和53年4月 北海道大学水産学部用度掛長
昭和54年7月 北海道大学水産学部経理掛長
昭和57年4月 北海道大学歯学部附属病院経理掛長
昭和58年4月 北海道大学歯学部総務課用度掛長
昭和59年4月 北海道大学歯学部総務課経理掛長
昭和60年10月 北海道大学経理部経理課支出掛長
昭和62年11月 北海道大学経理部主計課第二予算掛長
平成元年4月 北海道大学経理部経理課収入掛長
平成3年4月 北見工業大学会計課課長補佐
平成6年4月 北海道大学医学部附属病院管理課課長補佐
平成8年4月 北海道大学経理部経理課課長補佐
平成9年4月 北海道大学大型計算機センター 事務長
平成11年4月 北海道大学経理部第二契約課長
平成13年4月 北海道大学教育学研究科・教育学部 事務長

小 澤   滋(おざわしげる) 氏(工学研究科・工学部事務部長)小 澤   滋(おざわしげる) 氏(工学研究科・工学部事務部長)
 本年3月末で定年を迎えることになりましたが,顧みていろいろ思い起こすと誠に感慨無量でございます。
 北海道大学は,私が採用された頃すでに観光名所となっており,観光バスは正門の中まで入って駐車しておりました。誘導のためのガイドの笛の音や修学旅行生の歓声と足音を間近に聞きながら仕事をしていたことが,つい最近の出来事のように思い出されます。
 文部省(文部科学省)勤務42年間のうち,3分の1は縁あって他の国立大学や高専でお世話になりましたが,その中で節目,節目の時に北海道大学に在職させていただき,先輩や同僚,そして諸先生方のご指導とご交誼をいただくことができましたことを大変嬉しく,また誇りに思っております。
 国立大学の法人化を目前にして退職することになりますが,長年お世話になりました皆様に,この場をお借りして心からお礼と感謝を申し上げ,北海道大学が益々ご発展されますことをお祈りしつつ退官のご挨拶とさせていただきます。

昭和18年2月11日生 
(略  歴) 
昭和36年5月 北海道大学庶務部人事課
昭和40年5月 北海道大学医学部附属病院管理課
昭和44年6月 北海道大学工学部
昭和46年5月 北海道大学庶務部人事課
昭和48年4月 北海道大学旭川医科大学創設準備室
昭和48年9月 旭川医科大学庶務課人事係長
昭和49年4月 旭川医科大学庶務課任用係長
昭和52年4月 北海道大学庶務部人事課第二給与掛長
昭和54年4月 北海道大学庶務部庶務課秘書掛長
昭和56年10月 北海道大学庶務部人事課第一任用掛長
昭和60年4月 北海道大学庶務部庶務課総務掛長
昭和62年3月 北海道大学庶務部庶務課課長補佐
昭和62年4月 旭川工業高等専門学校庶務課長
平成元年4月 室蘭工業大学学生課長
平成4年4月 山梨大学庶務課長
平成7年4月 北海道大学総務部総務課長
平成9年4月 函館工業高等専門学校事務部長
平成13年4月 北海道大学工学研究科・工学部 事務部長

密 山 洋 司(みつやまひろし) 氏(農学研究科・農学部事務長)密 山 洋 司(みつやまひろし) 氏(農学研究科・農学部事務長)
 昭和36年3月,高校を卒業と同時に,憧れの北海道大学に職員として就職してから,早や42年が過ぎ,このたび定年を迎えることになりました。
 この間,北海道大学に約31年間,道内の文部科学省関係機関に約11年間勤務し,数多くの方々にご交誼いただきました。お陰様でどの職場でも楽しく仕事をさせていただき,心から感謝しております。
 全国会議等の折りに,数多くの国立大学を訪問する機会がありましたが,北海道大学のキャンパスはどこにも負けない素晴らしい環境と実感しました。これからもこの素晴らしい環境を大切に継続して行ってほしいと思っております。
 最後に,何かとお世話いただいた上司,同僚,後輩の皆様に心から厚く御礼申し上げるとともに,北海道大学の更なる発展を祈念し,退官の挨拶とさせていただきます。
昭和17年12月11日生
(略  歴)
昭和36年3月 北海道江別高等学校卒業
昭和36年3月 北海道大学庶務部人事課
昭和50年4月 旭川工業高等専門学校庶務課人事係長
昭和52年4月 旭川医科大学総務部庶務課任用係長
昭和55年4月 北海道大学医学部付属病院総務課人事掛長
昭和58年4月 北海道大学庶務部人事課研修掛長
昭和60年4月 北海道大学庶務部人事課第一任用掛長
昭和62年4月 旭川医科大学総務部庶務課課長補佐
平成2年4月 北海道大学庶務部人事課課長補佐
平成6年8月 小樽商科大学付属図書館事務長
平成9年4月 北海道大学大学院地球環境科学研究科事務長
平成11年4月 北海道大学文学部事務長
平成12年4月 北海道大学大学院文学研究科・文学部事務長
平成13年4月 北海道大学大学院農学研究科・農学部事務長

安 田 和 哉(やすだかずや) 氏(獣医学研究科・獣医学部事務長)安 田 和 哉(やすだかずや) 氏(獣医学研究科・獣医学部事務長)
 北海道大学人事課から昭和36年3月5日に出頭するようにと呼び出され,面接官より明日からでも勤められるかとの問いに答え3月6日付けで非常勤職員に採用されてから42年間,北海道大学(31年間)を中心とし,釧路工業高等専門学校・小樽商科大学・旭川医科大学及び小樽商科大学(2度目)での勤めを病気もせず無事に終了し定年を迎えられるのは,良き上司,先輩,同僚等のご指導,ご支援をいただいたお陰であると思っており,心より御礼申し上げます。
 独立行政法人化等色々な問題も多く国立学校には多難な時を迎えておりますが,北海道大学の今後益々の発展と皆様方のご健勝とご活躍をお祈りいたします。
昭和17年11月11日生 
(略  歴) 
昭和43年3月 北海学園大学経済学部卒業
昭和36年3月 北海道大学経理部経理課
昭和39年1月 北海道大学応用電気研究所
昭和43年4月 北海道大学経済学部
昭和48年5月 北海道大学理学部
昭和51年5月 北海道大学経理部経理課
昭和54年4月 釧路工業高等専門学校学生課寮務係長
昭和55年4月 釧路工業高等専門学校会計課出納係長
昭和57年4月 小樽商科大学会計課司計係長
昭和60年4月 北海道大学経理部情報処理課第二情報処理掛長
昭和63年4月 北海道大学経理部情報処理課第一情報処理掛長
平成2年4月 北海道大学経理部経理課管理掛長
平成4年4月 旭川医科大学総務部会計課課長補佐
平成7年4月 北海道大学経理部経理課課長補佐
平成9年4月 小樽商科大学附属図書館事務長
平成11年4月 北海道大学免疫科学研究所事務長
平成12年4月 北海道大学遺伝子病制御研究所事務長
平成12年9月 北海道大学大学院獣医学研究科・獣医学部事務長

歸 山   博(きやまひろし) 氏(低温科学研究所事務長)歸 山   博(きやまひろし) 氏(低温科学研究所事務長)
 昭和37年1月,北大医学部附属病院に採用され,以来,北大で約30年,他大学(旭川医大,小樽商大,北見工大),高専(釧路,苫小牧)で11年余り,合せて41年3カ月を勤め,公務員生活を終えることになりました。無事に定年を迎えることができますことは,職場を共にした皆様方のご指導,ご支援の賜であり,心から感謝申し上げます。
 過ぎ去った事が走馬燈のように浮かび,感慨深いのものがあります。
 特に人との出会い,多くの人と知り合い,その時々の職場で仕事上の苦しいこと,楽しく遊んだことを共にした仲間が懐かしく思い出されます。
 しかし,ここ数年間は大学改革,法人移行準備等厳しい経験をしました。これからも大学はいろんな課題に対応していくことになると思いますが,北大がこれらの課題を乗り越えて北大らしさを見失うことなく,社会の要請にも応える大学となっていくことを期待しております。
 また,忘れることができないのは,北大構内の自然豊かな中で過ごしたことです。特に最後の2年間,低温科学研究所まで,毎日キャンパスの中を歩いて通勤しましたが,この時の北大構内の四季折々の美しい自然の情景はいつまでも心に残ることでしょう。
 このようなすばらしい環境の中で勤務できましたことに感謝し,北海道大学の益々のご発展と皆様方のご健勝とご活躍を祈念し,退官のご挨拶とさせていただきます。

昭和17年6月6日生 
(略  歴) 
昭和41年3月 北海学園大学経済学部卒業
昭和36年7月 日本国有鉄道喜茂別保線区入社 
昭和36年10月
昭和37年1月 北海道大学医学部附属病院
昭和46年11月 北海道大学経理部主計課
昭和50年7月 釧路工業高等専門学校会計課主計係長
昭和54年4月 苫小牧工業高等専門学校会計課総務係長
昭和57年4月 北海道大学医学部附属病院管理課照査掛長
昭和60年4月 北海道大学経理部経理課収入掛長
昭和61年4月 北海道大学経理部経理課調達掛長
昭和63年4月 北海道大学経理部経理課管理掛長
平成2年4月 旭川医科大学業務部医事課課長補佐
平成4年4月 小樽商科大学会計課課長補佐
平成6年4月 北海道大学経理部情報処理課課長補佐
平成9年4月 北海道大学経理部経理課課長補佐
平成10年4月 北見工業大学附属図書館事務長
平成11年4月 北海道大学農学部附属農場事務長
平成13年4月 北海道大学低温科学研究所事務長

山 本 勝 美(やまもとかつみ) 氏(大型計算機センター事務長)山 本 勝 美(やまもとかつみ) 氏(大型計算機センター事務長)
 採用の電報が届くと同時に,故郷(紋別郡生田原町)を出発,一路道都札幌へ。
 昭和36年3月6日から今日まで,42年余にわたり,12部局等(内,3カ年間は旭川医科大学)に勤務し,大型計算機センターを最後に定年を迎えることとなりました。
 「であい,ふれあい,かたりあい」を信条として多くの方々と,素晴らしい巡り会いが出来ましたことを,幸せに感じています。
 そして,素敵な仕事をすることが出来ました。
 また,お洒落に遊ぶことも出来ました。
 ひとつの「であい」から始まりました,遙かかなたのことも,つい先程のことも,今,想い返しますと,瞬きより短く感じられる今日この頃です。
 語彙が少なく想いを充分に伝えられませんが,一言「ありがとうございました」と感謝の念を,そして,今後の皆様方の「御健康専一」を祈り,挨拶といたします。

昭和18年1月27日
(略  歴)
昭和36年3月 北海道大学庶務部人事課
昭和36年5月 北海道大学工学部
昭和41年4月 北海道大学医学部附属病院管理課
昭和46年5月 北海道大学庶務部人事課
昭和49年5月 北海道大学法学部学事掛長
昭和52年4月 北海道大学応用電気研究所庶務掛長
昭和54年10月 北海道大学農学部附属演習林庶務掛長
昭和57年4月 北海道大学歯学部庶務掛長
昭和58年4月 北海道大学歯学部総務課庶務掛長
昭和60年4月 北海道大学理学部人事掛長
昭和63年4月 北海道大学工学部総務課人事掛長
平成2年2月 北海道大学施設部企画課総務掛長
平成4年4月 旭川医科大学総務部庶務課課長補佐
平成7年4月 北海道大学農学部事務長補佐
平成9年4月 北海道大学医学部附属病院総務課課長補佐
平成12年4月 北海道大学附属図書館情報管理課課長補佐
平成13年4月 北海道大学大型計算機センター事務長