年頭のあいさつ

春の叙勲に本学から4氏

 このたび,本学関係者の次の4氏が平成15年度春の叙勲を受けました。
勲  等
経  歴
氏  名
勲二等瑞宝章 名誉教授(元水産学部長) 佐 藤   修
勲二等瑞宝章 名誉教授(元法学部長) 藪   重 夫
勲四等瑞宝章 元歯学部事務部長 本 間   學
勲六等瑞宝章 元医学部附属病院医事課栄養管理室長 佐 藤 恭 子
 各氏の長年にわたる教育・研究等への功績と我が国の学術振興の発展に寄与された功績,あるいは医療業務等に尽力された功績に対し,授与されたものです。
 各氏の受章に当たっての感想,功績等を紹介します。

(総務部総務課)


○佐藤   修(さとうおさむ) 氏
佐藤   修(さとうおさむ) 氏 この度は叙勲の栄に浴しましたことを,光栄に思っております。
 このことは,長年に亘りご指導,ご鞭撻をいただきました諸先生,諸先輩を始め,学内外の多くの方々のご支援,ご協力を賜りましたお陰と,深くお礼申し上げる次第です。
 あこがれの北海道帝国大学予科理類に,私が入学を許可されたのは,日本が戦争拡大へと進む最中の昭和18年4月でした。入学はしましたが,援農,飛行場整備,工場へと学徒動員され,加えて,予科は2年に短縮され学部に移行となりました。理学部での授業は,大学にいる実感に浸ることができましたが,それも僅か4ヶ月で敗戦を迎え,学生は全員一時帰休となり,授業再開の通知を受けたのは約半年後でした。それでも,残りの2年間の特別時間割による詰め込み授業により,昭和23年3月私達は北海道大学最初の卒業生として,人員不足の社会に送り出されてしまいました。
 幸運にも私は,体が頑丈な事と泳げる事が理由で,理学部副手として採用が決まり,以後,理学部,工学部の多くの先生方と協同で沿岸域の調査研究を行いました。調査の中で,「海底面近くの漂砂の研究」を自分のテーマとして実施することが許されました。私は,自分で開発した装置を,海底の幾つかの地点に素潜りで設置し,一定時間後に素潜りで回収しました。装置から得られた捕砂量を用いて算出した漂砂ベクトルを使い,海底地形の変化予測も可能にしました。これらの結果は,私の学位論文ともなりました。
 昭和28年には,水産学部に移り,漁具物理学講座に配置されて,漁具を含む水中構造物の流体力学的特性を明らかにする研究を始めました。昭和36年に日本でアクアラングの製造販売が始まると聞き,早速それを購入しました。空気ボンベを背負って初めて海に潜ったときは,魚と自由に鬼ごっこが出来ることに感激しました。以後,漁具や水産増養殖施設,人工魚礁などの水槽模型実験を行うと共に,実物の水中形状変化などを潜水観察出来る様になったことは,たとえ様もなく楽しかった。外海の荒い海域で,ホタテ,コンブ,ワカメなどの養殖を可能にした施設の開発も潜水観察のお陰でした。
 更に,人工魚礁の形状,海底分布,部分的流況の変化,魚種の蝟集状況等の関係についても,潜水による測定・観察は,実験室では得られない多くの有効な情報を得ることが出来ました。米国で1983年に開催された第3回世界人工魚礁会議での招待講演は,それらを纒めたものでした。
 潜水は私の研究の中でいつも重要な役割を果たして呉れましたが,潜水の安全が確保出来たのは,沢山のスタッフのお陰であり,協力頂いた皆さんに改めて感謝いたします。
 定年前の4年間は,図らずも学部長の重責を担うことになりましたが,教授会の構成員を始め,学部の職員の皆さんのお力添えを頂き,大過なく職責を果たすことが出来ましたことを深く感謝しております。
 最後になりましたが,北海道大学の大いなる発展を心を込めてご祈念申し上げます。

略 歴 等
生年月日 大正14年6月11日
出身地 愛知県
昭和23年3月 北海道帝国大学理学部卒業
昭和23年7月 北海道大学理学部副手
昭和25年12月 北海道大学理学部助手
昭和28年4月 北海道大学水産学部講師
昭和34年9月 北海道大学水産学部助教授
昭和37年3月 理学博士(北海道大学)
昭和49年4月 北海道大学水産学部教授
昭和60年4月 北海道大学水産学部長・大学院水産学研究科長
平成元年3月
平成元年3月 北海道大学停年退職
平成元年4月 北海道大学名誉教授

功 績 等
 佐藤修氏は大正14年6月11日愛知県に生まれ,昭和23年3月北海道帝国大学理学部物理学科を卒業され,同7月同大学副手,同25年12月同大学助手,同28年4月同大学講師,同34年9月同大学助教授,同49年4月同大学教授,同60年4月同大学水産学部長及び同大学大学院水産学研究科長を経て,平成元年3月停年により退官され,同4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。退官後は,平成2年4月から平成9年3月まで財団法人テクノポリス函館技術振興協会副理事長及び北海道立工業技術センター長として勤務され,今日に至っております。
 この間,同人は長年にわたって水産工学分野,漁具工学分野の教育研究に務められました。漁具の流体力学的解析研究では,定常流及び非定常流中における網地,綱の流体抵抗の実験と理論的解析を始め,オッターボード,その他各種漁具の流体力諸特性について解析し,漁具工学の理論的体系化に大きく寄与されました。人工魚礁に関する研究では構造力学的および流体力学的実験と理論的解析を行い,人工魚礁の物理学的諸特性を明らかにし,日本を始め世界における人工魚礁による漁場造成事業を積極的に推進するための主導的な役割を演じられ,その基本的考え方は世界的に注目され高く評価されております。
 地域社会活動としては,昭和38年度から昭和42年度にかけて北海道から委嘱された浅海増殖事業の効果確認調査及び漁場環境調査事務を始め,津軽海域総合開発協議会委員,北海道総合開発委員会臨時委員,北海道科学技術審議会委員,氷海海洋科学技術総合研究開発推進委員会委員等を勤められ,北海道の文化,産業の振興に著しく貢献されました。また,北海道沿岸漁業振興対策委員会委員,北海道マリノベーション構想調査検討委員会委員,特定地域沿岸漁場開発調査委託事業に係る中央解析検討会委員,北海道津軽海峡地域マリノベーション構想推進協議会委員等を歴任し,沿岸漁業の振興と発展に大いに寄与されるとともに,さらに財団法人テクノポリス函館技術振興会副理事長,北海道立工業技術センター長として地域産業の発展に尽力されました。
 学内においては,昭和52年6月から平成元年3月まで北海道大学評議員として,昭和60年4月から平成元年3月まで北海道大学水産学部長及び北海道大学大学院水産学研究科長として大学運営の枢機に参加されるとともに,学部並びに大学の運営及び整備充実に尽力されました。
 以上のように,同人は長きにわたり,教育研究に尽力され,北海道大学の発展は勿論のこと,学術の進展並びに地域産業の振興,さらには日本の水産業の発展に果たされたその功績は誠に顕著であります。

(水産科学研究科・水産学部)


○藪   重 夫(やぶしげお) 氏
藪   重 夫(やぶしげお) 氏

略 歴 等
生年月日 大正15年3月10日
出身地 京都府
昭和20年7月 兵役
昭和21年12月
昭和25年9月 北海道事務吏員
昭和30年4月 北海道大学法学部助手
昭和32年10月 北海道大学法学部助教授
昭和37年6月 北海道大学法学部教授
昭和44年12月 北海道大学法学部長・法学研究科長
昭和46年12月
昭和56年1月 北海道大学教養部長
昭和59年12月
平成元年3月 北海道大学停年退職
平成元年4月 北海道大学名誉教授

功 績 等
 藪重夫先生は,大正14年6月30日京都市に生まれ,昭和20年北海道帝国大学医学部に進学したが学徒出陣により樺太・カムシスカ(上敷香)で終戦を迎えた。しかし,シベリヤ抑留の後,昭和21年12月復員した。昭和22年6月北海道帝国大学法文学部法律学科に転入学し,昭和25年11月司法試験第二次試験に合格後,昭和30年北海道大学法学部助手に任ぜられ,昭和32年同学部助教授に任命された。昭和37年同学部教授に昇任し,昭和44年5月から46年12月まで北海道大学評議員,昭和44年12月から昭和46年12月まで法学部長および法学研究科長を務めた。昭和56年1月から昭和59年12月まで北海道大学教養部長および同評議員を務め,平成元年3月定年により退官された。
 先生の研究は,専門である民法財産法を中心として,行政法との接点に及ぶものも多い。財産法分野において「封建的土地所有の公権力的性格−Gewereに関する一試論」は,所有権の特殊近代的性格を明らかにした。また「親族扶養の法的性格に関する一試論」は戦後の生活貧困という社会的背景と問題を民法学から検討した。このほか「民法177条の第三者−時効・相続との関係」「相続放棄と登記」「入会権」などがあり,「日照の私法的保護に関する諸問題」および「工事請負契約約款における仲裁条項の拘束力」などは社会的問題に対してたえず実際的な関心と解決が企図されている。
 藪先生は,昭和44年5月から46年12月まで北海道大学評議員,同協議員として大学管理運営に関わり,昭和44年12月から同46年12月までは法学部長と大学院研究科長として,当時のいわゆる大学紛争の只中にあった大学の学部運営の責任者としてその解決と収束に努められた。また,教養教育にも専念され,昭和56年1月から昭和59年12月まで二期にわたり教養部長を務め,教養部改革に尽力された。
 藪先生は学識経験者として地域社会の多方面にわたる分野で活躍された。地方労働委員会委員,北海道収用委員会委員,札幌市住居環境審議会委員,北海道消費者苦情処理委員会委員,北海道建設工事紛争審査会委員,札幌地裁民事調停委員,札幌市長期総合計画審議会委員,北海道総合開発委員会委員,札幌市日照関係調整委員,札幌市行政改革懇談会委員,札幌市情報公開懇談会委員,札幌市中高層建築物等紛争調整委員などの各委員や会長を歴任し,その専門的知識と深い教養を生かして,北海道ならびに札幌市など地域に生じる多様な紛争の具体的な解決を図り,よく統括された。民法と行政などの結合した領域において社会的課題の実際的な解決方法を開拓・実践され,地域をはじめとする社会,経済,教育および文化の発展に多大の貢献をされた。

 藪重夫氏の感想は御本人の希望により未掲載となりました。

(法学研究科・法学部)


○本 間   學(ほんままなぶ) 氏
本 間   學(ほんままなぶ) 氏 この度,平成15年春の叙勲の栄に浴し,誠に身に余る光栄に存じます。
 これ偏にご指導,ご支援を賜りました文部科学省,総長,事務局長,学部長,病院長を始め教職員皆様のご協力のお陰によるものと厚くお礼申し上げます。
 私は,昭和18年工学部に奉職し,その後施設部,経理部に配置換となり,26年余,北大に在職いたしました。その後,道外転出が昭和45年を皮切りに金沢大学と福島大学へ続いてありました。転出に当たり日ごろ私なりに北大で育んできた至誠と準則を忠実に履行したいと思って参りました。聞くところによりますと金沢大学へは北大職員の転出者は私が初めてとのこと,大いに責任を痛感いたしました。金沢大学では公害問題のはしりとして病院,実験室等の廃水処理の分析による原因究明に,専門の先生方は勿論のこと,私共企画課職員も協力し,真剣に取り組み,成果の一端を「1972日本分析科学会」に発表しました。
 次に配置換となりました福島大学では,当時はなかなか進まなくて苦労した大学の移転統合問題も,数年前から教官,職員,学生の盛りあがりで学内一体となって,移転統合推進に積極的に動き出した次第です。結論から申し上げますと,本省を始め関連機関の了解のもとで,昭和50年度に東北本線の福島市内から約8キロにある金谷川地区に敷地を購入し,順次校舎等建物施設が充実されたようです。ここに至るまでに本省の方々にお願い申し上げ,多くの方が視察に足を運んで下さいました。心から感謝申し上げます。それと私にとりまして特に当時の商工部長の人柄に共鳴し,2年4ヶ月の在任中の後半1年はほとんど事務折衝に日参の毎日でご迷惑をおかけしました。ただ残念なことに私は昭和50年8月に転出のため年度末の契約を見ることは出来ませんでしたが,商工部長より感触が良さそうだとの話もあり,私にとりまして生涯の快挙と思っております。長年の懸案であった移転統合が実現できたのも大半は商工部長のお陰といえましょう。
 昭和50年に北大に戻り翌年には100周年行事が控えていました。当時の篠沢事務局長の指示のもと,お手伝いさせていただき,式典も滞りなく行われました。昭和53年に函館高専に転出し,初めての単身赴任ということもあり,皆様によくお付き合い頂きました。
 昭和58年,学部事務と病院事務が合併して,部制の歯学部に配置換となり,若干の手直しで能率をあげるよう考慮しました。昭和60年度の概算要求では先輩校を抜いて麻酔科(病院)教授1名が認められ,北海道の患者の特性と北大の実績を強調された当時の河村院長の熱意が本省医学教育課に通じたものと思われます。歯学部時代には全国に多くの知人が出来ましたことに感謝いたします。
 最後になりますが,お世話になりました関係者皆様に厚く御礼申し上げるとともに,北海道大学の益々のご発展をお祈りいたします。

略 歴 等
生年月日 大正15年3月10日
出身地 北海道
昭和18年6月 北海道帝国大学工学部雇
昭和24年10月 北海道大学文部事務官
昭和32年9月 北海道大学工学部会計掛長
昭和36年4月 北海道大学工学部経理掛長
昭和38年11月 北海道大学工学部事務長補佐
昭和41年4月 北海道大学施設部企画課課長補佐
昭和42年4月 北海道大学経理部経理課課長補佐
昭和43年4月 北海道大学経理部主計課課長補佐
昭和45年4月 金沢大学施設部企画課長
昭和48年4月 福島大学会計課長
昭和50年8月 北海道大学経理部経理課長
昭和53年4月 函館工業高等専門学校事務部長
昭和58年4月 北海道大学歯学部事務部長
昭和61年3月 北海道大学定年退職

功 績 等
 本間學氏は43年の永きにわたり大学行政に携わられ,種々の問題を的確に処理され,多くの上司及び同僚等から全幅の信頼を集めるとともに,広範な知識と経験に基づき部下の育成に尽力されました。
 金沢大学施設部企画課長在任中には,永年の培われた豊富な経験を駆使し,同大学の施設整備を積極的に推進されました。特に,電気設備及び機械設備の維持管理並びに工事の設計及び積算が高度化,複雑化していたなかで,これらに対処するため,昭和48年4月に施設部に設備課を設置し,施設設備の管理体制の一層の充実を図り,現在の同大学施設部の基礎を築かれました。
 また,同氏は,同大学医学部附属病院の施設設備の充実にも意を注ぎ,尽力されるなど,温厚篤実な人柄と卓越した識見と指導力をもって職務に精励し,同大学の充実,発展に大きく貢献されました。
 福島大学会計課長在任中には,同大学の移転統合整備が計画されており,文部省国立学校施設計画協議会で正式に承認されるまでの準備,とりわけ統合移転地決定に係る地権者及び自治体との折衝並びに文部省及び財務局などとの調査対応をはじめ諸課題の解決・学内調整,更に移転統合に係る財政面での運営体制の整備充実に尽力され,同大学の統合移転の基礎態勢つくりに多大な貢献をされました。
 北海道大学経理部経理課長在任中には,本学の創期百周年記念事業に向けた記念事業後援会が発足しましたが,創期百周年となる昭和51年8月までの間,募金活動をはじめとする各種事業の経理部門を支援するために手腕を発揮されました。さらに,記念事業完了後も残余財産の管理にも携わり,記念事業全体を通じ事業成功に多大の貢献をされました。
 函館工業高等専門学校事務部長在任中には,入学者選抜方法特別委員会委員として昭和56年度からの推薦入学制度の導入に向けたきめ細かな検討を行い,関連情報の収集,関係機関への広報及び折衝等に尽力し,その円滑な導入及び実施に貢献されました。また,昭和57年当時としては最新機種である電子計算機のレンタル設置を実現させ,同校の研究及び事務処理の迅速化に大きく貢献されました。さらに,福利施設の充実に向けた「福利開館」の新設並びに毎年の視聴覚教材の整備充実と併せて「総合視聴覚教育設備」の導入のため,学内の意見調整及び関係機関との折衝等に尽力されました。
 北海道大学歯学部事務部長として赴任した昭和58年4月は,歯学部創設と同附属病院の開院以来,それぞれに置かれていた学部事務と病院事務が統合・再編され,いわゆる事務組織の一元化が始まったときでありました。この事務組織の統廃合は,当時,同学部事務部においては,一般社会はもとより,医療社会からの求めに応えられる質的・技術的に高い能力を備えた歯科医の育成のために,より優れた学生確保のための方策の策定や増加の一途を辿る女子学生に対する教育環境の整備を始めとする様々な対応が必要な時期であったこと,一方,病院事務部においては,固有の診療事務や患者給食業務等を含めた広範な業務について合理化・効率化・省力化等が強く求められていたこと,により行われたもので,同氏は,発足間もないこの事務組織を軌道に乗せるために鋭意尽力されました。更に,同氏は,事務局施設部企画課課長補佐として在職中の同41年当時,同学部設置準備委員として当初から歯学部創設に深く関与した経緯もあり,年々,深化する歯学教育とこれと並行して高度化する歯科医療に積極的に対応していくためには,徹底した学部教育の実現と,「臨床実習の場」に相応しい附属病院の拡充と,併せて「経営的側面」上から診療体制の整備・充実が必要不可欠であるとの持論を展開するとともに,診療科の増設に向けて,関係者の理解を求めて東奔西走されました。その結果,昭和61年4月には念願がかない,附属病院に歯科麻酔科の設置を実現し,大学病院における総合診療体制の確立に多大な貢献を果たされました。
北海道大学を定年退職された後は,北海道大学工学部同窓会事務局長として,教職員と卒業生との交流のための連絡調整,研究助成等各種支援事業の実施及び同窓会誌の定期発行に向け貢献されました。特に,関東地区在住の同窓生から要望の強かった東京支部の設置に尽力されました。加えて,学科増に伴う会員数の著しい増加に対処するため,電子計算機を導入し,同窓会事務の省力化にも大きく貢献されました。
 以上のように,同氏は永年にわたり大学行政の進展に奨励し,部下の指導育成に尽力したものであり,その功績は多岐にわたり,まことに顕著であると認められます。

(歯学研究科・歯学部)


〇佐 藤 恭 子(さとうきようこ) 氏
佐 藤 恭 子(さとうきようこ) 氏 この度の叙勲にあたり,一言お礼を述べさせていただきます。
 皆様「ありがとうございました」。
 しかし,この賞は私が頂いたものではなく,北大病院の皆様の代表で頂いたものです。管理栄養士,調理師の皆様が日頃から誠意を持って患者さんのことを想い,業務にあたっていただいた結果だと思います。34年9ヵ月の北大勤務時代には様々なことがありましたが,振り返りますと,先輩,上司,仲間の方々にご指導を受け,支えられて有意義な時間を得ることが出来ました。「仕事は自分でさがしてやるものです」と言って自ら進んで仕事をみつけてやってくれるような仲間がいたおかげで,私は楽しく仕事が出来,よい想い出を残すことが出来ました。“あたりまえのことをあたりまえにする”ことが,実はなかなか難しいことを実感しました。
 ご指導下さいました医師の方々や看護部の皆様の厳しさが,患者さんに対する心のこもった「やさしさ」であることを教えていただきました。事務部の部長,課長,課長補佐,その他全ての方々に助けていただきました。
 近年のことを思い出してみますと,管理栄養士が管理し適時適温の患者食を提供することで「特別管理加算」を算定出来る様になった時に,配膳車を保温,保冷配膳車に切り替えました。最初は大変混乱致しました。盛り付けに手間取り温かいラーメンを患者さんに食べていただけないと判断し「温かいラーメンをメニューからはずします」と課長に話しました。ところが「北大病院の患者食で札幌の味“美味しい醤油ラーメン”を出していることを文部科学省にも宣伝しているよ」と課長に言われ,皆で知恵を出し合って引き続き温ラーメンを出すこととし,現在もこの“温かい美味しいラーメン”は大変好評を頂いている一品です。
 また,平成8年に大阪の堺市でおきた学校給食での大腸菌O−157による集団食中毒発生事件は全国の栄養士および関係者に大きなショックを与えました。今考えてみますと,衛生管理に対する知識や規定が現在ほど厳しく求められていなかった時代でありました。私達も人ごとではなく,何処から改善してよいか苦慮いたしました。このときには文部科学省では全国の教育機関や病院など集団給食施設の施設設備について,かなり考慮して改善して下さいました。衛生管理教育については全国あげて研修会などが行われました。なにより良かったことは病院の調理師さんの調理衣の枚数が増え,またクリーニングの回数も増え,より清潔な服で作業が出来るようになったことです。
 平成に入ってからは患者サービス向上のために,1日3食のうちの2食で2種類のメニューの中から患者さんが好みの食事を選ぶという“選択食”を開始いたしました。開始当初は週1回でしたが,人を増やさずどのように合理化をはかって選択食の回数を増やすことが出来るかずいぶんと検討を重ねました。もっとも難題は患者さんが選ばれたメニューをどのように集計するかでした。北大病院の患者食は1回の食事で700〜750食,1日で2000〜2300食程ですが,選択食対象の患者さんはおよそ400〜500名です。1日2回この人数の患者さんの希望選択食を聞き取り,集計しなければならないと言うことになる訳です。もちろん数だけではなくどの患者さんがどの食事を希望されているかもしっかりと管理しなければなりません。そこで患者さんの食事につけてお出しする名前札(食札といいます)にスーパーのレジを参考にしてバーコードを印刷し,希望される食事のうちの片方B食を希望される方のバーコードだけを自動読みとり機で読み取らせ集計を行うと言う,全国初の「バーコード方式」を開発,現在の週5回の選択食実施を可能と致しました。入院患者さんにとって食事は大きな楽しみの1つ,多くの患者さんにとても喜んでいただきました。
 現在,私は北大病院勤務時代の経験を生かし栄養士の後輩の指導に微力ながら携わっており,若い学生たちと一緒に楽しく基本から勉強しております。今,新聞紙上で毎日取り上げられているSARS=新型肺炎におきましても,予防は病院感染対策の活用と言われております。進んだ対策をとっている病院の情報をもとに,栄養学のみならずこのような感染対策や衛生管理面をも,これからの栄養士を目指す学生にさらにしっかりと指導,教育していく所存でございます。
 北大病院の皆様有り難うございました。
 関係担当掛の皆様にお礼を申し上げます。

略 歴 等
生年月日 昭和16年5月27日生
出身地 北海道
昭和42年7月 文部技官 北海道大学医学部附属病院業務課
平成7年4月 北海道大学医学部附属病院医事課栄養管理室長
平成14年3月 北海道大学定年退職

功 績 等
 佐藤恭子氏は昭和42年7月,北海道大学医学部附属病院業務課(現医事課)に文部技官として採用されて以来,34年の永きにわたり栄養管理業務に従事され,食事療法による治療の効果の向上に貢献されました。特に,選択食の実施に大きな力を発揮されました。
 同氏は永年にわたり同大学病院患者の栄養管理業務に携わり,めざましい進歩をとげる医療,病態栄養のなかで食事療法の重要性を鑑み,積極的に他部門と協力を図り病院内におけるチーム医療の一員として,食事療法による治療の効果をあげるため日々努力研鑽を重ねられました。また,医療情報システムの導入に際しては中心的担当者として多大な努力を惜しまず業務の改善に取り組み,オーダリングシステムによる食事指示を開始し,業務の正確,迅速,合理化を図られました。昭和63年4月に院内の医師を中心とする栄養委員会が設置された際には,同委員会委員である栄養士主任をサポートし,適時適温給食の実施に向け患者サービスの改善に努められました。
 また,治療食基準の作成にあたっては,独自の院内取り扱いマニュアルを作成し,第1版から3版へと改正を重ね発行するとともに高度化する医療現場における栄養管理業務の著しい向上を図られました。
 栄養指導においては,入院および外来患者全体を対象として熱意をもって取り組み,特に食事療法が治療の最重要ポイントである糖尿病において,医師,看護師,薬剤師,理学療法士と協力し食事療法を含む総合的な患者自身による糖尿病セルフコントロールを目指し,QOL(生活の質)の向上と円滑な社会活動の実現に向けた患者の教育,指導を行い食事療法指導の基礎を築かれました。平成8年4月には,食中毒の防止及び適温配膳の実施のため,温冷配膳車による適温配膳と北海道内では他院に先駆け迅速配膳のためベルトコンベアーを使った盛り付けを導入し,調理後に適時適温にて患者のもとまで食事が配膳されることが可能となり,安全で栄養価が高くより美味な患者給食の実現により,患者の栄養状態,免疫力の改善など,治療効果を高める上で大きく貢献されました。
 同氏は特に,平成6年6月の健康保険法等の一部改正により基準給食制度が改編され,同年10月から「入院時食事療養」制度が創設されたことに伴い,診療報酬にかかる複数献立加算が算定されることを受けて患者サービスの更なる改善,及び病院管理の運営向上のため,大規模病院としては極めて早期といえる平成9年4月からの選択食を実施されました。最も煩雑で手間のかかる選択食希望者の電算入力作業(手入力)を全国で初めてバーコードリーダーによる読み取り方式とし,より迅速で正確な作業を可能にさせたことにより,平成13年3月からは週5回の選択食が実施されるようになりました。
 一方,日常業務のかたわら,後輩栄養士の教育指導にも積極的に取り組み,実習生,研修生の受け入れや他施設からの見学者などにも熱意をもって応じ,34年間にわたる栄養士業務において300名以上の栄養士の養成に関わり,さらに平成9年4月からは北海道大学医療技術短期大学部の看護学科における臨床実習において病態栄養実習の指導にあたり,看護師教育にも尽力されました。また,平成13年9月には当病院循環器内科と北海道心臓協会との協力で開催された講演会において「悪い肥満を防ぐ食事療法」について講演するなど,一般市民への栄養管理の普及にも努められました。
 同氏は院外でも活躍の場を広げられ,平成8年4月から2年間及び平成13年4月から1年間,全国国立大学病院栄養部門委員,昭和42年4月から北海道栄養士会会員,平成元年6月から北海道臨床栄養研究会会員,平成12年3月から日本病態栄養学会会員,同年4月からは同学会評議委員,平成13年4月から日本栄養改善学会会員,平成13年7月から日本透析医学会会員に所属し,会の発展のため貢献されました。
 以上のように,同氏は永きにわたり栄養管理者として大学病院の基本理念を基に治療,教育,研究の分野に尽力したその功績は誠に顕著であると認められます。

(医学部附属病院)


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