つづけて
先編では,北大キャンパスの事が話の多くを占めてしまった。歴代総長の中でキャンパスの創成に具体に関わることの多い一人であったことは確かである。しかし,キャンパス造りだけをしていたわけではない。此処では,大学の造り,とりわけ研究型大学院大学としての北海道大学をどのように構想し,どのように力を注ごうとしたかを説明してみたい。その成果は今後の北大がどのように展開するかに係っており,自分の代で収穫に係るつもりは全くなかった。
この話に先だって,北海道大学創基125周年記念のための準備と活動について少し説明させていただき,記念式典の直前に退官していて関係の方に感謝の意を表する機会を失っていたことの償いとさせていただきたいと思う。
創基125周年に向けて
北海道大学は,学士号を授与することを始めから考えて創設された日本で一番旧い大学である。明治9年(1876年)創立の札幌農学校(Sapporo
Agricultural College)こそは,日本最初の近代大学である。帝国大学(現東京大学)創立の明治10年に先立つ年である。4年制の単科大学であり,開拓使に所属していたので,現在の文部科学省系列の歴史では大学(University/College)は帝国大学に始まることになっているようである。帝国大学の本科は3年であり,札幌農学校(本科に相当する)は4年であるので,第一期の卒業生は同じ年度に卒業している。札幌農学校は明瞭に学士(Bachelor)号を佐藤昌介(後の北海道帝国大学初代総長)などの一期生に授与しているが,東京大学では必ずしも明確でない。総長時代に,東京大学総長の吉川先生の所の資料室の方に調べていただいたが,札幌農学校には明確な授与の記録があるのに,帝国大学の場合にははっきりしないとの回答を頂いたことがある。他の多くの旧い大学がより古い歴史をいうのは,近代大学以前の歴史(前史)をも算入してのことである。小生がこのことをいうまで,なぜか北海道大学が日本最初の近代大学であることを北大はいってこなかったように思う。その意味で北大の125周年は他の大学と異なる歴史を意味していることを自覚したいものである。ちなみにサッポロビールの創設も同じ年であり,開拓使傘下の仲間のようなものである。ビール瓶に創立1876と書いてある。飲んだときに,北大創立年の心覚えになる。
何故125周年かということを記念事業の立ち上げに際して方々で聞かれた。欧米流に言えば100年とコーター(quarter)一つという区切りであるが,日本では馴染みが無いのかもしれなかった。120周年記念が前任の広重総長の時代にすでに決まっていて,20億円の募金目標もあった。日本経済が停滞し始めていて,単なる記念事業・基金形成は考えられない時代になっていた。総長に就任早々この問題を処理する必要があり,先に述べたように120-125年への5年間を世紀をまたぐ北大の転換点としたいと考えて,その結節点であり21世紀へ北大が踏み出す具体の一歩を刻んだ時としての125周年記念事業を提案し,評議会の賛同を得た。
記念募金をお願いすることになり,堂垣内元北海道知事(工学部OB)を会長にお願いして期成会を立ち上げることとなった。現役の社会的リーダーであるOBの多くの方々と道内の財界のご支援をいただいて事業が始まった。次の150周年までは大規模なことをしてくれるなという要望もあった。東京同窓会はじめ各地の卒業生・同窓会,各学部の同窓会,教職員等々の多くの皆様のご厚志と,少しは増えた総長裁量経費などで世紀を渡るための準備ができることとなった。当時の武井北洋銀行頭取,戸田北海道電力会長や同窓の泉北海道電力社長,児島NTT社長,松田JR東日本社長ほかの皆様に取りまとめの核としてご高配をいただいた。有り難い事である。また,募金委員会の核として,長谷川淳教授(工),浜田教授(経)と125周年事業推進室長の南さんには格段のご苦労をかけてしまった。特に記して御礼申し上げる。
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遠友学舎 |
125周年史を作る事についても,募金に大きな額の望めないことなどからいささかの反対があった。この変革の早い時期に失われるものを少しでも拾っておこうと考えて,公費を含む年史編纂システムを学部から定員の貸出しもお願いしてスタートさせた。コストを節約して実のあるものを残していただきたいものである。百年史を踏襲した+25年版である必要は形式的にも内容としてもない。
遠友学舎の建設についても「大切な募金を使って記念の箱物をまた一つ加えるのか」というご批判が募金を積極的に進めてくださった同窓の方々からあった。一方,運用を間違えば新渡戸先生の志を汚すことになり兼ねないということで,「遠友学舎」の名に躊躇の意見を述べてくれた方もあった。先にも述べたように,北海道大学の21世紀は北キャンパスへの展開の仕方如何にかかっていると考えていたし,エルムトンネルのほとり手稲の見える桂並木の18条口こそが学生・市民・教職員がレベルの高い協同活動を「遠友夜学校の精神」を戴して進めてほしい適地とも思っていたので,ご理解を得ながら予定のごとく進めさせていただいた。「遠友学舎」と命名させていただいた建物が,小林英嗣教授研究室(建築)や北海道日建設計の努力でイメージした様な姿を現し,125周年に供用を始められたことをうれしく思っている。ただその管理規程を最初に見た時に,「遠友夜学校の精神」とは程遠い,寄附されればもう大学の公的支配(都合)に属すべきものであるともいうべき条項を見て,暗あん澹たんたる思いに駆られた。いささかの発言をしたが,心の通う運営をしていただき始めたと聞いて安あん堵どしている。総長はじめ多くの先生方が積極的に北大の窓として活用していただいているのを聞いて喜んでいる。休日に同窓生が予科の三本線の丸帽で寮歌を延々と歌っていたり,クラーク先生や新渡戸先生の勉強会が市民の皆さんと共に続けられたり,学生が楽器を奏でたり,いろいろと使っていただいていることを聞いて安堵している。
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総合博物館 |
125周年に向けての大きな出来事のひとつが,1999年の北海道大学総合博物館の創立である。北大に博物館を造ろうという長年の議論が10年以上も眠ったままになっていて具体の動きが無かった。改めてたたき起こすことを考えた。大きな大学に博物館を作ることを文部省が認めだしたことと,沖吉事務局長が着任したこと,理学部が本館を博物館に渡すことを決めてくれた幸運が,様々な努力を具体のものにした。沖吉さんは国立科学博物館の次長から着任してきた。彼のノウハウを借りて,北大らしく気宇壮大に全学を総合博物館として構成し,その中央に博物館と通常いわれる様なものを置くことにした。理学部教授会が,教養部にあった研究室を統合して新大学院校舎を作ることと引き換えに,先行的に本館の委譲を決断してくれた。おかげで立派にスタートした。構想が将来膨らむことがあっても,部局の綱引きや運営の都合で小さく纏まることの無いようであってほしい。また展示物が北大人自身の手で強化され更新されて,過去・現在・未来に及ぶ北大の教育・研究の歴史そのものに成熟して行ってほしい。また,生涯学習の一環として学生や熟年者の有志(ボランティア)の参加を求め,運営にも参画してもらって協学の場として役立ててほしい。遠友学舎についても同じであり,市民や学生・同窓生が共に大学の活動に参画してもらうことによって,教授会決定・事務方管理のみの狭い大学社会を超えることが必要と思う。
21世紀へのもう一つの重要なスタートは,北海道大学クラーク記念財団の発足である。北海道大学は教育研究一般を支援するいわゆる「大学後援法人」を持たない唯一の旧帝大系の大学であった。クラーク(奨学)財団ほかいくつかの小さな基金があったが,特定公益法人として寄附金の免税等の特典を持った組織がなく,大学の経済的自立力向上に大きな弱点であった。総長就任直後から,クラーク財団を改組しいくつかの工夫を加えて,大学後援法人を立ち上げたいと考えた。従来の諸財団には成立のいきさつやさまざまな意見があり,基本的に「一大学一後援法人」の設立という決まりの形に漕ぎ着けるのに,総長の任期の切れる2001年4月まで5年余もかかった。まさに任期いっぱいの駆け込みであり,小生の執念を事務局が必死に支えて,文部省等々の認可を獲得してくれたことによる。旧クラーク財団は北海道主管のローカル財団であることに由来する,北海道大学の活動が全国展開する時に桎しつ梏こくとなりそうな条件の一つが解けた。北大出版会などが財団に参画して来ることも可能になる。国立大学法人がリスクのある仕事をするのが難しい時や縛りが堅すぎる場面を突破する時などに賢く運用すると,様々におもしろい活用ができる財団のはずである。「特定」公益法人制度が変わって免税寄附が難しくなるようにも聴いているが,北大OBや近縁の人たちが大学を支援するための窓口として,大学が外部の資金を公金以外の形で透明に支援してもらう受け皿として活躍してほしいものと思う。ただ北大人が単なる研究助成の窓口と考えたり,楽に外国出張を支援してもらう仕組みぐらいに考えると,6億円やそこらの金はすぐ消えてしまう。北大は寄附金を免税にしてもらえる特定公益法人を持たなかったばかりに,125周年の基金集めは難航した。
大学院重点化:研究型大学院大学
平成5年度の広重総長時代に独立研究科としての旧環境科学研究科の改組が大学院地球環境科学研究科として進んだ。理学研究科の改組と共に北大の大学院重点化といわれる仕事が始まる。大学の教育研究組織の本体を大学院へ移行させようとする形の大学構造改革の議論が,教養部の廃止の議論と絡んで複雑な様相を呈していた。工学部の評議員をしていた1993年(平成5年)頃に始まった大学院重点化の動きが,私が総長を務めた終年度の2000年(平成12年)4月の文系4学部,医・歯・水産学部の重点化によって,北大を大学院を基本組織とする大学院(重点化)大学へ改組する作業が終わった。言語文化部を核にして国際広報メデイア研究科(独立研究科)が成立し,総ての部局が大学院教育を設計担当できるようになった。
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工学部 |
自分のコミットについて思い返してみると,工学部の評議員を仰せつかる前の昭和63年頃であったかと思うが,木下・佐藤工学部長の申しつけで,柴田評議員(後の工学部長)他3人で工学部の改革の方向を論じて報告書を工学部教授会に提出した。そこで大学院に組織の中心を移し,学部教育を基礎化して吊下げる構造を取り,大学院のスクーリングを大講座の提示するプログラムから学生が2つ選んで主専攻・副専攻とする双峰型(Π型)カリキュラムで進めることを提案した。工学部を超えて全学の大学院教育の構造となりうるものと考えていた。平成5年工学部長として文部省折衝を行い,平成6年度から大学院工学研究科が発足した。まさか自分が学部長として具体化するとは考えもせず,昭和50年代から10年以上考え続けた構想であった。考え始めた昭和末年には重点化などという言葉も全くなく,模索の結果たどり着いた構造化の提案であった。後になっていえば,形式的には私は大学院の重点化を早期に構想し推進した一人ということになるのであろうが,後の画一的な旧帝大等の大学院重点化という施策の進行や,最初東大法学部が称したことを含めて,私の頭では納得できないことがいささか多すぎる。
北大で重点化の具体案を造った最初期の一人であり,現在立派に仕事を進めている大学院地球環境科学研究科の設立にもいささか関係した一人として,社会科学・工学を殆ど含まない理学部の再構成のみでの地環研(痴漢研と間違われるということでこの表現はいつも関係者から叱られる)の展開は少し遺憾の残ることであった。工学部評議員の時に柴田工学部長が工学部は参画しないことにした(なった)と告げられたときに残念を感じたのを思い出す。少なくても工学部の社会工学系の相当部分は内包すべきであったと今も思っている。その後,ソウル大学始め国内外の諸大学の動きとも関連してその感は更に深い。
地球環境科学研究科の立ち上げと関連して,文系の諸大学院研究科の有りようが問題となる。様々な議論が理系の各学部間で濃密にやりとりされ前述のように,理学研究科の改組を含む地球環境科学研究科の改組から北大の大学院重点化は始まった。文系の諸学部には動きが殆ど無く,広重総長が心配され,論議を最初に具体化した部局長として堀理学部長と工学部長であった私を指名されて文系の4学部長との懇談をすることがあった。一歩も動けなかったというのが実感である。総長に任命されてすぐ,初代の保原副学長(元法学部長,改組前の旧環境科学研究科教授も兼任)にお願いして,文系4学部長と言語文化部長の5部局長で文系の将来構想をまとめていただけないかとお願いしたが,まず4学部長で議論してからという話であった。具体の結論を聴いていない。言語文化部は蚊帳の外であった。
北大における大学院の重点化は,理,工,獣,薬,農の順に進行した。旧帝国大学のグループの中で大学院重点化ができない学部は鼎の軽重を問われるのではないかという意識が少なくとも農学部の重点化の所ぐらいまでは有ったように思う。医学部も努力をしていた。MDかPhDかの議論は置かれたままで有り,これから専門職大学院としてのメディカルスクール論議の中でもう一度厳しい議論をする必要があるように思う。教育,研究と診療を世界のトップレベルで常時行うことを今の一般的な大学院態勢でできるかどうかということである。農学部の重点化に際して,氏名不詳の教職員から文部省に「重点化は人も金も増えず,ただ忙しくなるだけである」という投書があったようで,その旨の話が報告されてきた。重点化をどう考えるかは大学自身の話であり,匿名で文部省に投書するなど愚の骨頂であると思った。しかし,旧い学部講座態勢を残したままで,スクーリング強化を含む大学院システムの強化をすれば,負担を増し教員も学生も屋上屋を重ねるシステムに疲弊するだけである。学部教育システムの抜本的な改変と,研究大学院システムの創成無くして重点化はない。大学院重点化だけが目標の概算要求になってしまっては大変である。文部省は私が総長2期目の2000年一挙に文系全学部の重点化を認めた。重点化の前後で殆ど本質的な改革の運びが見られていない。博士は後継者だけほんの少しいればよいといっていた学部も重点化した。専門職大学院としての法科大学院が動き出そうとしている。放送大学長に転じてから,文部科学省の大学設置・法人審議会の会長として多くの大学・大学院の設置認可の審議を預けられるこの頃,様々な大学院の造りと在り方を考えることが多い。特に,法科大学院設置審査会の会長として72大学一斉の申請を扱ってみて,その背後のシステムとの整合性に大学人として思いを致すことが少なくない。MBAコースと経済学部(特に経営学科)の大学院の関係,メディカルスクール(MD)と医学研究科(PhD)の関係などについては,すぐに問題が顕在化して来るであろう。専門職大学院の制度は,PhDを出さない,出せない文系大学院が世に役立つための改革のルール提示であるようにも思う。
言語文化部が大学院レベルの教育研究を自律的に運用する仕組みと大学院生を持たないことが,北海道大学が研究型大学院大学として展開する際のアキレス腱になるのではないかと心配していた。文系の学部として同列の扱いを受けていないのではないかという疑念すら持った。努力の末,画一的重点化とは別の流れで,独立研究科国際広報メディアが文系他学部の重点化と同時期の平成12年に設置されたことを心底からうれしく思った。「沖縄が本土復帰しなければ日本の戦後は終わらない」といった総理大臣の心境であるといえば一寸大げさかもしれない。残念なことに,その年の職員録に全言語文化部の教員を大学院組織に入れて書いたことには失望した。二年待てば設置審議会の縛りが消えて,自律的に組織を再設計できるのにそれまで待てぬことなのかと思った。大学院重点化の始めの頃は,設置審議会の教員審査が厳しくありマル合,合の教員になれなかった人は大学を去ったり,臨増定員の中に隠れて身分を繋いだりしたものである。農学部の頃からか,重点化は新設と違うからということで,教員審査は要らないと文部省は言い出した。朝令暮改である。しかし,大学自身として,この教員は大学院を担当できるかどうかのしっかりとした見極めがなくては重点化はできない。また逆に,北海道大学大学院教授などとどうしてもいわねばならないのであろうか。北海道大学教授,大学院XY研究科で良いのではないか。重点化の教員は学部も見るはずでは無いのか。
21世紀の学問中で一番遅れてきた先端科学である生命科学・生物科学分野は,大学の成り立ちから考えてみても,現在の北大で本格的に担当者を急増し強化しなければならない学問分野であろうと思う。医学,農学,水産学など北海道大学には理学部以外にも生命科学・生物科学の大きな母集団がある。生命倫理学を論ずる文系の研究者もいる。工学部は残念ながら日本でも極めて生物科学・生命科学に弱い学部である。工学部重点化改革の折り,生物工学の独立系を立ち上げようとしたが化学系の一隅から有機化学などと分かちがたい分野であるという強い抵抗があり,重点化の日程上妥協してしまったいきさつがある。未だに悔いていることであり,そのことで工学部は生物工学・生命工学に広く展開する芽を無くしてしまった。医学研究科がMD(医術)を狙うかPhD(科学)を狙うかを組織上である決めをする時が来るように思う。生命科学のPhDを世界トップレベルで輩出するには,理学・人文学と組む必要が有りそうに思う。農学(獣医学を加え)・水産学は生物生産(技術)研究と急躍進している生命科学・生物科学の基礎と応用研究のために大学院レベルで別組織を造る必要があるように思う。さもないと札幌農学校の昔に置いてけぼりを喰う可能性を否定できない。
21世紀研究COE(江崎玲於奈委員長)の審査委員の一人として,プログラム研究の採択に当たってきた。今年は工学部門の部会長として,選定のために神経と肉体の大変な酷使を強いられた。北海道大学は残念なことに私の在任中は全国共同利用機関の研究所以外のCOEをもらった事のない旧帝国大学由来の大学であったが,今次のCOEでは良い仕事を提示できたグループがある数有ったことをうれしく思っている。法人化を前にして,10億円レベルの継続的研究費と様々な研究員を招聘できる自由を持つこの研究費は各大学にとってどうしても欲しいもので有り,時には大学の格付けになるとさえ考える人々も少なからずいる。全体採択件数も旧COEよりは遙かに多いので,全国の大学が真剣に取り組んだ。総じていえば,大講座ともいうべきサイズの強力な研究集団を明確な哲学で運用してきて,はっきりとした研究手順と成果の評価方法を明確に示し得たグループがCOEを獲得したと考えて良いと思う。上位集団は審査員の誰もが納得するレベルのものであり,我が国の研究集団の高レベルを遺憾なく示す。残りは5年の内に世界の第一線をリードするであろうと期待されるものである。せっかくの研究も,大学内の事情で玉石の相乗りが見え見えだったり,優秀なリーダーがいるが昔の講座サイズで高い山には成れそうもない一本杉であったりする。一番うまくないのは,時流に乗ったテーマで適当なサイズの研究集団をアドホックに造ったようなものである。大学院重点化を,しっかりとした大講座または大講座群で展開してきた研究集団が獲得したように思う。
いうまでもなく研究は個人の創造的な努力によって始まる。それを支えるのが文部科学省の科学研究費等である。私が総長になったときに,科学研究費の申請状況を調べたところが,全く応募していない教員が沢山いた。総長経費による支援には応募するのに,科研は手続きなどが面倒であると称して応募しないらしかった。100-1000万円オーダーの研究費をあんな簡単な申請と,僅かの成果報告でくれるものは他にはない。評議会で,是非とも全教員が少なくても一件は応募してほしいと各学部長,とりわけ文系の学部長に要望した。教育学部長の竹田正直先生などが大いに努力PRに努めて下さったことを思い出す。お陰で,全国大学の5−6位を常に保ち得るようになった。4位との間に若干差が有るのが残念である。九大の杉岡総長に「先生何かやったのですか」と聴かれたときに,お腹の中でにやりとしたのを思い出す。
杉岡先生は九大の学院構想の生みの親である。北大でも議論をしているときく。重点化した大学院大学は,大学院専攻科と大講座を基幹として運用するということであり,その柔軟さをどのように出すかということを議論すべきであると思っている。研究科,学部,学院等の多層の組織をきちんと運用できる管理職などいるはずがない。組織は簡単な程良い。大講座や研究科が自縄自縛に陥って自律が果たせないときには,大学の中央機構が判断をかってでれば良い。大講座の中に旧小講座の再来である分野などを自律と称して置いて,自縄自縛の度を高めた末に学院構想などを語るのは間違いだと思う。九大は旧来の講座サイズ単位を脱しきれなくて学院を計画したとも読める。北大は大講座と研究科を基本構造として大学院大学を設計したことを思い出して欲しい。学部,研究科レベル以下の組織構成は大学に任せられている。法人化を境に,研究所,研究科,学部を柔軟にかつシンプルに再設計して欲しいと思う。重層化は管理の咎めであり,意思決定の不透明さと遅延の発現要因である。
学部4年一貫化と学部教育の基礎化
大学院重点化大学を北海道大学が選択したということは,学部教育を基礎化することと対になった選択であったことを想起し確認して欲しい。極端なことを言えば,大学院大学とは学部卒業生を入学させ教育・研究させる大学であるということになる。しかし,世界最初の大学院大学で,奇しくも札幌農学校と同年の1876に創立された,ジョンズ・ホプキンス大学も最初大学院だけで計画されたが,資金の出資者が少なく学部を併設して漸く発足したという。本学の初代総長佐藤昌介先生も新渡戸稲造先生もジョンズ・ホプキンス大学に学ばれたのは,これまた重ねての因縁である。日本の現状では,レベルのある多くの学生が希望してくる大学が学部課程を今すぐ廃止するのは現実的でないし,プロフェッショナルスクールとしての大学院(専門職大学院)の,医学,法学,経営,工学,教育,公衆衛生学,薬学,獣医学等がまだ成立もしていない。また大学院の組織的なスクーリングも全学的に標準化されていない。従って,相当の割合の学生を学部段階から教育しておく必要がある。その段階で考えられるのが,学部教育の4年一貫化と大学院教育をも射程に入れた基礎化である。専門教育を新入生からできるのが学部4年一貫化であると勘違いしてはなるまい。単科大学(College)と大学院重点化大学の学部課程は違うのである。
何処が違うのであろうか。専門教育を大学院で高度のレベルで行うことを前提とするのが重点化大学の学部教育である。おそらく3年でその領域で必要十分な精選された基礎と専門基礎教育を施すのが目標である。学部だけで第一サイクルの高等教育を終える人は,それに一年余の職業分野の専門教育を加えればよい。基本的には最短3年で基礎を,加えて2年の修士課程または3−4年の専門職大学院で第一サイクルの高等教育を終えると考えるようになるであろう。本学はハーバード大学のように巨大な文理学部がリベラルアーツと基礎教育を支えて学部教育の本体となり,自然科学と人文学の大学院教育研究の主体を担うような構造にはなっていない。従って,専門性を加味しながらも,基礎教育を中心に各大学院の多数の教員が学部基礎教育に携わる形で学部教育を設計する必要がある。
私が総長に任じられた平成7年に教養部が廃止されて,学部一貫教育が始まった。広重先生の代に高等教育機能開発総合センターが教養部の代替組織として計画されており,私の着任と同時に発足した。中村(耕)(理),板倉(獣),中村(睦)(法:現総長),前出(獣)の4人の副学長が総合センター長を務めて難しい転換期を学部一貫教育の発展期として創造的に働いてくださった。センターの中に研究部が創られたことが北大の今日の共通教育を形あるものにする核となった。初代の故吉田部長(のちの図書館長,旭川高専校長)にはじまり,続く阿部(和)(医),小出(元教育学部長),徳永(後副学長),現在の小笠原(工)教授に至る部長と研究部の皆さんの活躍が北海道大学の学部一貫教育の基礎を造ってきたと思う。阿部先生が牽引車となったファカルテー・デベロップメント,吉田教授から始まるコアーカリキュラムの設計,小出先生に託したキャップロック・プログラム,京都大学と並ぶ少人数教育の実施など多くの知恵を造りだしてくれた。総長の1年目毎週,研究部の会合に出て色々と計画を論じた時間が懐かしい。担当副学長を助けての補佐教授の大奮闘を改めて感謝したい。高等教育の世界的大家であるカリフォルニア大学のマーチン・トロウ先生ご夫妻を研究部がお招きして大きな貢献を頂いた。記憶に残ることである。
コアー・プログラムを提案したものの一人として,具体のものとなり成果を上げつつあると聴くのはうれしい。少人数教育は今では珍しいものではないが,多くの先生方の努力で定着していると聴く。それに反して,基礎教育の共通化・システム化はまだまだのようである。学部で昔の講座ベースの講義を出し続けるようでは,学生もたまらないし,教員も大学院との負荷分担ができず虻蜂取らずになる。学部の講義は基礎・専門基礎を問わず共通化して複数教官が担任して一定数以上の学生を対象にして行えるようにすべきであろう。演習等の少人数化と対になっての施策でありたい。そのためには,助手制度の廃止と講師化が必要である。総長時代,国立大学協会の第7常置委員会(大学院・研究・情報担当)の委員長を務めた。助手制度の廃止についての内部報告書をまとめ,国大協総会で報告し,基本的な検討の方向性についての同意を得た。国立大学の法人化の議論が始まって,この話は一時お預けになっていると思う。PhDの学位を持ち,博士研究員としての履歴を踏んだ若い教員が初任ポストを講師としての責任ある働きを期待したい。
総長補佐と運営諮問会議
大学の考え方が独りよがりでないかどうかを聴き,大学人でない人々の声を聴いて違った世界に身を置く人々の指導を仰ぎたいと考えて,北海道大学運営諮問会議の設置を提案した。旧帝大系の大学にはそのような組織の例がないとのことであったが,押して平成12年4月に設置を決めた。今日では当たり前のことの様に思われるが,当時外部のリーダーの方々の意見を聞くことができたことは,総長として自分の考えの当否を確認し,無知を補い,ある程度の確信を得て大学を運用する際の大きな助けであった。
平成8年から総長の私的補佐機関として総長補佐制度を発足させた。各学部からの10人ほどの中堅教授の方を指名して毎週のように集まっていただき大学の現況を確認し,問題を取り上げ,必要に応じて調査検討し報告し,総長会(総長,副学長・図書館長・事務局長会)で諮り,公式の意思決定ルートに乗せて執行するというものである。総長に権力が集中するということで,猛反対する原理主義的思考の評議員がいたりして,公式の組織としては小生の総長任期最後になって漸く次の時代のために制度化された。形式的には私的機関に止まったが,実際には多くの優れた教授の方が労苦をいとわず仕事を進めて下さった。その後,多くの部局長,副学長,センター長がこの補佐機構から輩出している。若い内に全学レベルの情報と大局的判断基準を身につけた教員がある数いることが,大学の自律のために,学部・講座制の蛸壺からの脱離のために不可欠であると考えたことを,具体の成果として創出してもらえたと思っている。学部間のバランスも考えて各学部に推薦をお願いしたが,斜に構えて評論家的に挙動する方は殆どいなかった。大学のオープンハウス,AO入試,北キャンパス構想,創成機構,産学融合センター,広報誌,総合博物館構想,情報メディア教育センター,北方生物圏フィールド科学センター,先端科学技術共同研究センター,学内の緑化,古びた危険木対応などなど,総長として創意した数限りない事項の0次のチェッカーとして,具体の調査者として多くの創造に寄与いただいた。運営諮問会議はこれらの混沌が公式の機関を通じて出力となって現れた時の外部チェッカーでもあった。
ひとまずの終わりに
書けばきりのない戯言をひとまず此処で終わらせていただきたくおもいます。先に高等教育機能開発総合センター長を務めていただいた,4人の副学長について書きました。私の場合に副学長は各期に2人ずつおりました。保原(法),東(免研),富田(農)の3副学長がもう一方側の副学長です。どちらかといえば(間違いなく),様々な施策の攻めの主役を務めていただきました。色々思いつく総長の故に大変な苦労をおかけいたしました。しかし,これらの副学長は,ご自分でも十分に攻め型の大家であり,黙っていてもどんどんと走っていく駿馬でありました。一方,高等教育機能開発総合センター長を務めていただいた副学長は,どちらかといえば守りに強い方々で,総長はしょうもないことを考えていると半ば当惑しつつも,がっちりと城を固めこけることの無いように手を打っていただいたのだと思います。素晴らしいコンビに支えられて存分の仕事をさせていただいたことを心からありがたく思っています。歴代の事務局長もそれぞれにユニークな価値ある方々でした。はらはらしていたと思いますが事務局,学部事務皆さんと共に支え盛り立てていただきました。足を引っ張られたと感じたことは一度もありませんでした。私が鈍感だったわけではないと思っています。有り難うございました。総長の時代のことだけを走り書きしました。まだいっぱい語りたいことがありますが此処で止めます。
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クラーク像 |
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