このたび,本学関係者の次の7氏が平成15年度秋の叙勲を受けました。
勲 等
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経 歴
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氏 名
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瑞宝重光章 |
名誉教授(元法学部長) |
五十嵐 清 |
瑞宝中綬章 |
名誉教授(元文学部長) |
永井 秀夫 |
瑞宝中綬章 |
名誉教授(元教育学部長) |
高山 武志 |
瑞宝中綬章 |
名誉教授(元歯学部長) |
三木 敬一 |
瑞宝中綬章 |
名誉教授(元医学部附属病院長) |
松宮 英視 |
瑞宝双光章 |
元工学部事務部長 |
嶋田 馨 |
瑞宝単光章 |
元事務局公用自動車車庫大型自動車部門車庫長 |
山村 光雄 |
各氏の長年にわたる教育・研究等への功績と我が国の学術振興の発展に寄与された功績,あるいは医療業務等に尽力された功績に対し,授与されたものです。
各氏の受章に当たっての感想,功績等を紹介します。
(総務部総務課)
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○五十嵐 清(いがらしきよし) 氏
このたびの叙勲にあたり,40年間にわたり私を支えてくださった北大の教職員の皆様に,厚くお礼申し上げます。とくに今回の叙勲の手続きのために,貴重な時間を割いてくださった法学部の教職員の方々に心より感謝の意を表する次第です。
顧みると,私が北大に奉職した1950年4月は,法文学部が文学部と法経学部に分かれた年ですが,法経学部の法律・政治学科では創設当時のスタッフの大半が他に転出し,壊滅寸前の状態でした。当時残っていたのは,宮崎孝治郎・尾形典男・小山昇3先生のみ。それに東大から兼任で3先生が加わっただけでした。それでも私たち(以上のほか,私とほぼ同時に発令された今村成和・矢田俊隆両先生と教養専任の和田英夫先生)は日本一の法学部を作るのだという意気に燃えていました。そんなことは夢物語と思われたでしょうが(私もいくらなんでも日本一というのはいささか大風呂敷ではないかと思いましたが),50年経った今日,北大法学部はわが国有数の大きな学部(研究科)となり,法科大学院もゆうゆうパスするだけの実力を持つに至りました。私が定年後に加わったスタッフが中心となったCOEプログラムも採択されました。長生きしたおかげで夢が実現しました。もちろんそれは教職員が一体となって努力したことの賜物ですが,私も何がしかの貢献をしたと自負しております。
ところで1950年に私が就任した講座は「比較法」という名前のものです。これは全国の法学部で初めての講座です。もっとも,東大などでは,比較法関係の講座は,英米法,ドイツ法,フランス法などに分かれており,北大法学部の設立関係者もそうしたかったようですが,なにぶんにも講座の全体の数が限られていたので,外国法関係には一つしか廻せず,やむをえず比較法という講座にしたのだと聞いています。私はもともと先日95歳で亡くなられた山田晟先生の弟子で,ドイツ法を専攻していたのですが,もっと広く比較法全体に関心があったので,北大に就職するにさいし,比較法講座にとびつきました。ただしばらくのあいだは,比較法のような贅沢な課目を教えることは許されず,民法の講義を担当することが条件でした。ようやく60年代に入ってから比較法の講義を始め,68年に『比較法入門』を刊行することができました。民法の講義をしたことは,私の比較法の内容に大きな影響を与えたと思いますが,他方,比較法と縁のない仕事も沢山引受け,比較法プロパーの仕事が中途半端に終わった面のあることも否定できません。このため業績の数だけは多いものの,決定打に乏しく,学問上の業績に対する賞をいただいたことがないのは,学者として恥ずかしいかぎりです。残された学者人生において,できるかぎりの努力をしたいものと思っています。
法学部のほかに,いま一つ,私が関与して大きな研究機関となったのがスラブ研究センター(スラ研)です。私は,59年にスラ研が法学部の研究施設となった時に研究員となり,以後定年まで係わってきました。ただし,このほうは私の専門外なので,私が積極的に活躍したわけでなく,法学部とは異なる雰囲気を楽しんだだけです。そのスラ研がいまや世界のスラブ研究のメッカの一つにまで成長し,COEプログラムが採択されたことは,たいへんうれしいことです。今後の一層の発展を期待しております。
略 歴 等 |
生年月日 |
大正14年5月12日 |
出身地 |
新潟県 |
昭和23年3月 |
東京大学法学部卒業 |
昭和25年3月 |
東京大学大学院特別研究生前期修了 |
昭和25年4月 |
北海道大学法経学部助教授 |
昭和28年4月 |
北海道大学法学部助教授 |
昭和34年4月 |
北海道大学法学部教授 |
昭和36年10月 |
法学博士(東京大学) |
昭和36年4月 |
北海道大学評議員 |
昭和40年7月 |
昭和41年1月 |
北海道大学法学部長・法学研究科長,評議員 |
昭和43年1月 |
昭和44年1月 |
日本学術会議会員 |
昭和50年1月 |
昭和60年7月 |
日本学術会議会員 |
昭和63年7月 |
平成元年4月 |
北海道大学停年退官 |
平成元年4月 |
北海道大学名誉教授 |
平成元年4月 |
札幌大学法学部教授 |
平成8年3月 |
功 績 等
五十嵐清名誉教授は,北海道大学法学部において39年間に渡り比較法講座を担当されました。学部,大学院,教養部において多くの学生,大学院生の指導にあたられ,法曹界をはじめ各界に優れた人材を送り出され,また,多くの研究者を養成されました。
先生の研究は,専門である比較法,ドイツ法から,さらには,ヨーロッパ近代法史,民法,国際私法,法社会学におよぶ広範なものですが,その中心は,比較法原論,比較法各論としての比較民法学,および,民法です。
比較法原論では,日本で最初の比較法講座担当教授として,文字通りパイオニアとして研究されました。比較法の定義,法系論,比較法の方法について,欧米の研究成果を紹介されるとともに,それらに欠けているアジア法の位置づけにも提言され,その御業績はその後の比較法研究の出発点となりました。
比較法各論としての比較民法学は,研究生活の始めから先生の主要な研究課題であり,中でも,事情変更の原則と人格権論が,一貫した主要テーマです。前者は,契約締結後に事情が大きく変更した場合に,それが契約の効力にいかなる影響を与えるかという問題で,世界の主要な法系の法をすべて取り上げ,しかも条文にとどまらず判例・実務にまで踏み込んだ,比較法学の世界的要求水準に答える内容のもので,石油ショックやバブル崩壊などの経済的変動に対する法実務・理論の対応に指針を与えるものとなりました。もう一つの主要テーマである人格権論では,ドイツ法やアメリカ法の比較法的研究を行なわれ,さらに,鑑定意見や判例研究を通して実務にも影響を与えられ,日本法への人格権の定着に積極的な役割を果たされています。
先生は,諸外国の研究を日本に紹介されるだけでなく,日本法の海外への紹介にも尽力されました。英語,ドイツ語の学術論文のほか,ドイツ語で書かれた「日本法入門」は,かの地での日本法理解にとってなくてはならないものとなっています。
さらに,先生は,日本土地法学会会長,比較法学会,日本私法学会,日本法社会学会などの理事,日本学術会議会員,学術審議会専門委員を勤められ日本の学問全体の発展にも貢献されました。また,学識経験者として,札幌家庭裁判所調停委員,北海道地方労働委員会公益委員,北海道建設工事紛争審査会委員,札幌弁護士会資格審査会委員,懲戒委員会委員,千歳市個人情報保護制度懇話会会長,同市個人情報保護運営審議会会長,北海道地方選挙管理会委員,北海道科学技術審議会委員を勤められました。以上のように,先生は,比較法・民法の教育・研究に深く寄与されるとともに,北海道大学および国・地域社会に多大の貢献をされました。
(法学研究科・法学部)
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○永 井 秀 夫(ながいひでお) 氏
このたびの受章に感謝し,学部長以下の先生方や事務担当の方々など,御世話になった多くの方々にあつく御礼申上げます。
この章は国や公共にたいする貢献にたいして授けられるものとされていますが,私は昭和31年に北海道大学に着任し,以後33年にわたって在職して,当然のこととして教育と研究につとめてきた以外にこれといった貢献をした記憶はありません。
もちろん,この30余年のあいだには,苦労したなと思うことも無いではありません。着任した年の夏に,文学部には藤井教授事件という問題がおこり,一次二次と断続して前後8年にわたって尾を引くことになりますが,私は同じ史学科の若手として事件にコミットせざるを得ませんでした。また,人文系4学部の新営にあたっては,私はなぜか新営の実務担当の役割を振り向けられ,教授会や,助手・院生の人々との接衝に汗をかいた記憶があります。
大学紛争については申すまでもありません。封鎖解除後に大学改革の問題が大きな課題となり,文学部も4年間は正規の学部長を選出することができませんでした。私が文学部長に選出されたのは,正規の学部長が選ばれるようになってから三代目のことであり,教養部改革の一環として言語文化部の設置や大講座化の検討が進められた時期でした。折しも北大創基百周年の記念事業として「北大百年史」の編集が進んでおり,学部長職務との同時進行には閉口しました。
このように思い起こしてみますと,私が苦労と感じたことはほとんど私のぼやきのようなものであり,大学や学部への寄与などと言えるほどのものでないことがわかります。現在,大学が大学院大学化,法人化のプロセスの中で積み重ねておられる努力にくらべれば,取るに足らないものと言ってよいでしょう。それどころか,私が研究や教育の面で,この大学から受けた恩恵の方がはるかに大きいことを思わずにはいられません。
私はかなり地域実証的な研究の中で日本の近代史と向き合うつもりでおりました。しかし,この大学に赴任して地域史料から遠ざかるにつれて,むしろ近代日本を全体として捉えたいという希望を強めました。そうした私にとって,この大学での隣接学部,法であり,経であり,農であり,これらの学部の先生方との交流は得難い資産でありました。それを十分に生かしてこなかったことを今にして悔いておりますが,仕合わせな環境にあったことに感謝する気持は変わりません。そして近年,さまざまな姿を露呈してきたこの近代日本をどう理解するか,かえって悩みは深まったように思います。
私はまた,この地に来たのだからということで北海道史にも手を染めました。ここでも近代日本の中での北海道の位置や特質やそれへの期待などに関心を持っていますが,中々満足な答えは出てきません。幸い卒業生には北海道史の研究に携わる人が多く,この点でも私は助けられているのです。
教育者としての私は,かなり不精だったと思います。教育熱心でまめな先生方を見るにつけ恥じ入っています。しかし,それでもよい学生に恵まれ,卒業後も交流をつづけている社会人・教育者・主婦の人々が少なくないことは私の仕合わせです。
もともと,日本の栄典制度には問題が多く,勲等による格付けが露骨であること,政・官・民の格差が烈しいこと,ポストや在職年数による機械的適用に陥っていることなどが議論されてきました。今秋から多少の改善が見られましたが,やはりこの制度にかかわることをいさぎよしとしない方が多いのは理解できることです。30余年こつこつ働いたこと以外に取柄を発見できない私にとって,受章を希望することにはためらいもありましたが,こうした制度の中に身を置くことによって得られるだろう知見や自己発見にも,捨てがたい点がありました。
今後とも,御交誼と御支援をよろしくお願い致します。
略 歴 等 |
生年月日 |
大正14年11月12日 |
出身地 |
東京都 |
昭和23年3月 |
東京大学文学部国史学科卒業 |
昭和31年4月 |
北海道大学文学部講師 |
昭和37年1月 |
北海道大学文学部助教授 |
昭和44年8月 |
北海道大学文学部教授 |
昭和47年6月 |
北海道大学評議員 |
昭和51年1月 |
昭和53年4月 |
北海道大学文学部長・文学研究科長,評議員 |
昭和55年3月 |
昭和59年4月 |
北海道大学文学部附属北方文化 |
平成元年3月 |
研究施設長 |
平成元年3月 |
停年退官 |
平成元年4月 |
北海道大学名誉教授 |
平成元年4月 |
北海道武蔵女子短期大学教授 |
平成5年3月 |
平成5年4月 |
北海学園大学人文学部教授 |
平成13年3月 |
平成10年4月 |
北海学園大学人文学部長 |
平成11年3月 |
功 績 等
永井秀夫氏は,大正14年11月12日東京市小石川区に生まれ,昭和23年3月東京大学文学部国史学科を卒業されました。昭和31年4月北海道大学文学部講師,昭和37年1月同大学助教授を経て,昭和44年8月北海道大学文学部教授に昇任され,平成元年3月に同大学を停年により退官,同年4月同大学名誉教授の称号を授与されました。本学退職後は引き続いて私立大学の教育に携わりました。平成元年4月北海道武蔵女子短期大学の教授に就任,以後4年間にわたり女子高等教育に尽力,その後,平成5年4月北海学園大学人文学部教授に就任,以後8年間にわたり歴史学の教鞭を取りました。平成13年3月同大学を退職,今日に至っております。
この間,同氏は,本学に在職した33年間,文学部日本史学第二講座を担当され,文学部史学科日本史学専攻課程及び大学院文学研究科日本史学専攻の発展につとめられました。
同氏の専攻分野は,明治維新から明治憲法制定に及ぶ日本近代国家の形成史及び北海道の開拓とそれに伴う政治運動などを含む地域史であり,すぐれた幾多の成果を発表されました。同氏の研究は,日本における近代国家の形成史を個々の史実の実証というような狭い見地ではなく,19世紀における国際的要因と日本の国内的発展の両者の関連の中で,幅広い柔軟な視野から解明した点に最大の特色があります。特に,日本の近代国家形成史に関する厖ぼう大だいな先行研究を再検討され,国際的観点の導入によって新しい歴史像の構築が可能であることを学界に提唱,次々と斬新な歴史分析を学界に発表されました。そうした成果は,今も多くの後進研究者に強い影響を与えています。また,広汎な歴史研究を背景として北海道近代史研究を先導され,道内の研究者を組織して『新北海道史』,『北大百年史』,『北海道民権史料集』などの基本的な文献の刊行も主宰しました。
また,本学退職後においても目覚ましい活動を続けられ多くの業績を残しました。まず,同氏の主要論文が集成され,『明治国家形成期の外政と内政』と題して平成2年に刊行されました。これは日本近代史研究の基礎的業績として,学界において高い評価を受けています。また,同氏は多数の北海道史・近代史研究者を集めて共同研究を推進,同氏の指導と編集によって,北海道近代史に関する多くの著作・論文集・史料集・町村史の刊行が続いています。
学内においては,昭和47年6月から昭和51年1月まで北海道大学評議員,また,昭和53年4月から昭和55年3月まで文学部長及び大学院文学研究科長に任命され,大学及び文学部の管理運営に尽力されました。昭和50年8月からは『北大百年史』(全4冊)の刊行を主宰,貴重な成果を残しました。昭和59年4月には北海道大学文学部附属北方文化研究施設長に任命され,平成元年3月の退職までこれを務められました。
学外においては,平成10年4月から平成11年3月までの1年間,北海学園大学人文学部長を務められ,人文学部の充実を図るとともに,大学院文学研究科の設立に尽力,平成11年の同大学大学院文学研究科日本文化専攻修士課程の開設,平成13年の同大学大学院文学研究科日本文化専攻博士(後期)課程の開設に多大な貢献をなされました。
以上のように,同氏は,本学における教育と研究において,文学部及び大学院文学研究科の充実に尽力され,専攻分野の日本近代史研究においては幾多の貴重な成果を発表して学界を主導し,また,北海道地域史研究に道内の研究者を組織し先導しました。大学の管理運営においても長期にわたり重要な貢献をなされました。本学退職後においても各分野にわたり多大の業績を残され,大学教育と歴史研究の充実に貢献,地域社会の発展に寄与され,私立大学の振興にも多大な功績を残しました。このように,同氏の長年にわたる研究と教育並びに行政上の功績は,まことに顕著であります。
(文学研究科・文学部)
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○高 山 武 志(たかやまたけし) 氏
このたび叙勲の栄に浴しましたが,これも諸先生はじめ諸先輩,同輩,後輩その他の多くの方々によるご指導,ご協力のたまものと感謝しております。
小生来道前は,東京で籠山 京教授のご指導の下で貧困・生活問題の実証的な研究・調査をしていました。
その後,籠山教授が北海道大学にこられたのを転機に,昭和28年に北大教育学部に編入学し教育学を勉強し直すことにし,昭和32年北大大学院教育学研究科修士課程を修了しました。以後,身分は公立学校教員ですが,実際には教壇に立つことはなく北海道教育研究所に勤務し,北海道の教育計画の基礎資料にするための教育調査をしてきました。
昭和42年に北大教育学部講師に採用され,教育計画講座に所属し教育計画論,社会調査論,社会福祉論等の講義を担当しましたが,新米教官として当時講義の準備に追われていたのを懐かしく想いだします。
教育研究と低所得・貧困研究とを結びつけて考察するという私の研究の基本的視点は北大に職を得る以前の私の研究歴の結果でもあります。
道内大都市の分析対象世帯数1,159の大規模な低所得・貧困層調査を実施したのは昭和48年から49年にかけてであります。その目的は,経済発展時代の当時にあってはあまり関心の対象とならなかった低所得・貧困世帯の所在や形態を把握し,その教育や福祉の課題を知ることことでした。調査に応じてくれた世帯の皆さんのご好意をはじめとして,無償で訪問調査に当たってくれた教育計画ゼミナールおよび北星学園大学白沢教授ゼミナールの学生諸君,ほとんど手作業で厖大な資料を整理してくれた集計員の方々のご熱意とご協力も忘れ得ぬ想い出のひとつです。
教育研究としては,道内都市の中学生について,その進路,学力,家庭での教育条件などの国民諸階層間の比較,あるいは恵まれない家庭出身の子弟が多い児童養護施設入所者の教育条件や教育課題などの調査研究をしています。
昭和52年から1年間,ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の社会行政学部に籍を置き教育や福祉について研究する機会を与えられました。当時,英国では同じ家族について2世代以上受けつがれる貧困−「貧困の世代的再生産」−が注目され,それと関連し教育的不利(educationally
disadvantage)について教育や福祉とか専門分野を異にする学者たちの共同研究がおこなわれていました。教育的不利とは,学校,家庭,身体,心理的な諸側面あるいは教育を受ける権利的な面までふくむ広い意味での教育機会の不平等を示す概念です。この教育的不利の概念から教育研究と貧困研究を結びつける実証的研究の方向づけに有用な示唆をうけました。
しかし,この課題は広く多くの未解決の研究分野を残したまま北大退官に至りました。
現在,北大教育学部の青木 紀教授を中心とするグループが教育機会の不平等と貧困問題の関連について実証的研究を推進し成果をあげているのをみて心強く感じています。
昭和60年9月から2年間はからずも教育学部長の重責を負うことになり,その間大過なくすごすことができましたが,これも学部の教員,事務職の方々をはじめとし,その他の学内外の皆さんのご尽力によるものと感謝しております。
末尾ですが,北海道大学のこれからの益々のご発展を祈念してこの稿を終わります。
略 歴 等 |
生年月日 |
大正14年12月9日 |
出身地 |
東京市 |
昭和30年3月 |
北海道大学教育学部卒業 |
昭和32年3月 |
北海道大学大学院教育学研究科修士課程修了 |
昭和33年2月 |
北海道公立学校教員 |
昭和42年4月 |
北海道大学教育学部講師 |
昭和45年2月 |
北海道大学教育学部助教授 |
昭和56年7月 |
北海道大学教育学部教授 |
昭和58年9月 |
北海道大学評議員 |
昭和60年8月 |
昭和60年9月 |
北海道大学教育学部長,大学院教育学研究科長,評議員 |
昭和62年8月 |
平成元年3月 |
北海道大学停年退職 |
平成元年4月 |
北海道大学名誉教授 |
平成元年4月 |
釧路公立大学教授 |
平成5年3月 |
釧路公立大学退職 |
平成5年4月 |
北海道医療大学教授 |
平成9年3月 |
北海道医療大学退職 |
功 績 等
高山武志氏は,大正14年12月9日東京市に生まれ,昭和30年3月に北海道大学教育学部を卒業後,同32年3月同大学大学院教育学研究科修士課程を修了し,同33年2月北海道札幌北高等学校教諭,北海道教育委員会指導主事,北海道教育研究所兼務,その後,同42年4月北海道大学教育学部講師に採用され,同45年2月同助教授を経て,同56年7月に同教授に昇任し,平成元年3月停年により退職,同年4月に北海道大学名誉教授の称号を授与されました。また,同年4月から同5年3月まで4年間にわたり釧路公立大学教授を,同年4月から同9年3月までは北海道医療大学教授として公私学の教育に尽力されました。
この間,同人は特に,英国における貧困研究と貧困・低所得階層の教育に関する豊かな学識の上に,わが国における都市低所得階層子弟の教育計画,社会的諸サービスに関する研究に力を入れてきました。
同人の貧困・低所得階層に関する大規模な調査研究は,大都市における貧困・低所得階層の存在量とその形態を,精緻な調査方法に基づいて明らかにされました。さらに国民諸階層のライフステ−ジ毎に存在する社会福祉・教育福祉課題を浮き彫りにし,わが国における代表的な貧困研究として,それ以降の研究方法に多大な影響を与えました。
また,英国における国民生活研究を基礎にした貧困と教育に関する同人の研究においては,今日では世界的に確立した貧困概念である「相対的剥奪」概念に関して,わが国では最も早くその研究に着手し,貧困概念に関して,教育を受ける権利をはじめとする諸権利の剥奪にその特質のあることを明らかにされました。さらに,貧困が世代的に再生産される局面に注目し,とりわけ教育機会の不平等が貧困の再生産と深く関わっていることを,子どもとその家族を対象にした実証的調査によって解明されました。
このように同人の調査研究は,国民諸階層の生活の現実に根ざした教育計画のあり方を構想し,国民生活と教育・福祉のかかわりについてインテンシヴな実証研究を展開され,その成果は内外の研究者に大いなる裨益を与えております。
大学の管理運営に関しては,昭和58年9月から同62年8月の間,評議員として,同60年9月から同62年8月の間,教育学部長及び大学院教育学研究科長として大学行政の枢機に参画し尽力されました。
一方,北海道開発審議会特別委員として北海道の発展のために貢献されました。
さらに,学会・社会活動としては,日本教育社会学会理事,北海道社会福祉協議会評議員などの要職を永年努め,各分野において尽力されました。
以上のように,同人の諸研究,特に教育貧困研究は,社会福祉学,教育社会学の発展に寄与されました。同人の教育研究並びに行政上の功績はまことに顕著であります。
(教育学研究科・教育学部)
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○三 木 敬 一(みきけいいち) 氏
このたび秋の叙勲に際し,受賞の栄に浴し,誠に光栄に存じております。恩師,お世話になった諸先生,ご交誼をいただいた皆様がたに厚く御礼を申しあげます。
私は大阪大学歯学部に16年,北海道大学歯学部に22年の大学生活を送りました。昭和42年6月北大に歯学部が開設されることになり,当時医学部長であった安倍三史教授の要請により,阪大歯学部助教授であった私が,歯科補綴学講座を担当することになりました。8月1日には開院記念祝賀会が行われ,富田,岡田両教授にお会いしました。研究室,附属病院は医学部旧研究棟を改造した建物でした。43年4月には教室員6名で診療をやっていました。教室にはまだ研究機器はなかったのですが,中央研究機器に多用途監視記録装置がありましたので,総義歯維持力の増強法として臨床で行われている各種後堤法の効果を比較検討し,教室最初の研究発表を行いました。その後義歯床下組織の変化とその対応というテーマで研究を進めました。
46年1月より新しい建物への移転が行われました。この年の9月から3ヶ月間,文部省在外研究員として欧米の各歯科大学を訪ね,研究,教育,診療の討議を行いました。研究面では神経生理学的立場より咬合問題を追求されている,コペンハーゲン歯科大学のブリル教授と,フレンジテクニックと金属歯で著明な,南カリフォルニア大学歯学部のレビン教授のところには,しばらく滞在しました。又独特な教育診療制度を持っている大学もありました。
以前より補綴歯科学会理事会より話があり,47年8月に札幌で学会をやってくれないかということで,私は教室が出来て5年目という事で辞退しましたが,是非にということで第59回日本補綴歯科学会を主宰することになりましたが,教室員は20名で大変苦労したと思いますが,全国から約800名の会員が集まり,盛会裡に終了いたしましたことを喜んでいる次第であります。48年3月には1期生が卒業しました。5月には私が附属病院長になりましたが,大学紛争が波及し対応に苦慮しました。49年4月には大学院歯学研究科が設置され,教室に1名の大学院生が入りました。研究面の一層の充実が期待されます。52年度から当時の歯科医師不足という社会的要望から,学生定員が40名から80名に倍増されました。それと講座増ということで建物の増築が行われました。学生定員については10年も経たないうちに歯科医師過剰が論じられるようになり,現在定員減が行われております。
北海道大学という恵まれた環境で,充実した日々を送ることができ感謝しています。大学の今後の発展を祈念申しあげます。
略 歴 等 |
生年月日 |
大正15年1月16日 |
出身地 |
大阪府 |
昭和22年3月 |
大阪歯科医学専門学校卒業 |
昭和27年5月 |
大阪大学歯学部助手 |
昭和33年2月 |
医学博士(大阪大学) |
昭和33年12月 |
大阪大学歯学部講師 |
昭和34年11月 |
大阪大学歯学部助教授 |
昭和42年7月 |
北海道大学歯学部教授 |
昭和44年8月 |
北海道大学評議員 |
昭和46年8月 |
昭和48年5月 |
北海道大学歯学部附属病院長,評議員 |
昭和52年4月 |
昭和56年5月 |
北海道大学歯学部附属病院長,評議員 |
昭和60年4月 |
昭和60年4月 |
北海道大学歯学部長・歯学研究科長,評議員 |
昭和62年3月 |
平成元年3月 |
北海道大学停年退職 |
平成元年4月 |
北海道大学名誉教授 |
功 績 等
三木敬一名誉教授は,昭和22年3月大阪歯科医学専門学校(現大阪歯科大学)を卒業し,昭和27年5月大阪大学歯学部助手に採用され,その後昭和33年12月講師,同34年11月助教授を経て,昭和42年7月北海道大学歯学部教授に任ぜられました。以来20年余にわたり,歯科補綴学の分野において教育・研究及び診療に従事し,数多くの研究成果を残すとともに幾多の優秀な人材を育成し,新設まもない北海道大学歯学部の教育及び研究方針の確立,同学部附属病院の診療施設の充実に尽力されました。
専攻は有床義歯学であり,総義歯の維持安定,義歯床下組織の病理組織学的変化,生化学的変化など多数の論文を発表されました。なお同氏は三叉神経刺激により誘発される反応に関する研究で,昭和33年2月大阪大学より医学博士の学位を授与されております。
総義歯の維持安定については,後堤法の検討を行い,その有効性を明らかにし,また,フラービーガムの対策として粘膜のブラッシングが有効であることを証明したことは臨床的に高い評価を得ました。
また,床下骨組織の動態については,骨代謝についての生化学的検討を行いました。この研究はさらに人工材料を用いた歯槽堤形成へと発展し,顎欠損部へのハイドロキシアパタイト等のセラミックス系生体材料を埋入した際の骨修復過程を明らかにしました。局部床義歯については間接維持装置が義歯床と鉤歯にあたえる影響,有限要素法による遊離端義歯の力学的研究などを行いました。さらに材料学的研究として,義歯床用レジンに繰り返し負荷を加え,引っ張り強度特性の検討,咬合を負荷したときの義歯床の変形の研究を行い,臨床での対応を明らかにしました。
北海道大学歯学部においては歯科補綴学第一講座を担当して歯学部学生の教育にあたるとともに、大学院歯学研究科で大学院学生の教育と研究指導を行い,また歯学部附属病院においては,第一補綴科長として患者診療を通じて,多くの優れた臨床医を育成するなど,人材の教育・指導に精力的に力を注がれました。
また,昭和44年8月より46年8月まで北海道大学評議員,昭和48年5月より52年4月まで,昭和56年5月より60年3月まで北海道大学歯学部附属病院長,昭和60年4月より62年3月まで北海道大学歯学部長・大学院歯学研究科長として,部局内だけではなく,大学運営の枢機に参画して学内の管理運営改革にも寄与されました。
学外においては,日本補綴歯科学会の理事,東北・北海道支部長の要職を歴任し,学会の運営・発展に多大な功績を残されました。また,歯科医師試験審議会委員・国家試験部会会員をつとめ更に北海道歯学会会長,北海道医療審議会委員,北海道歯科技工士試験審議会委員として北海道内の歯科医療運営発展に尽力・貢献されました。
退官後には大垣女子短期大学において,平成元年4月から歯科衛生士科教授,平成8年4月からは嘱託教育職員として,さらには平成10年4月から日本歯科学院専門学校において,歯科技工士学科主任教授として,歯科衛生士・歯科技工士の教育・育成にご活躍されております。
以上のように,本学ならびに歯学部・歯学部附属病院の管理運営はもとより,我が国の歯科補綴学の分野のみならず,歯科領域全般における指導的地位にあり,多くの研究業績をあげ有床義歯学分野の質的向上に果たしたその功績は,誠に顕著なものがあります。
(歯学研究科・歯学部)
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○松 宮 英 視(まつみやひでみ) 氏
平成15年秋の叙勲に際し,受賞の栄に浴することになり,感無量の一語をかみしめております。在職中,長年に亘ってご指導・ご鞭撻を賜りました恩師,先輩諸氏をはじめ,諸事万端を通じて,ご協力・ご支援をいただいた同僚の教官・技官・職員の方々に,この紙面をおかりして心からお礼申し上げます。また,昭和17年北海道帝国大学予科医類に入学してから,平成元年に停年退職するまでの47年間,私を育んでくれた北大キャンパスの大いなる自然にも,謝意を表したい気持ちです。
入学したとき,日本はすでに太平洋戦争に没入しており,戦時中という環境での種々の体験を経たことも,今となってみれば若い日の思い出の一つなのでありましょう。医学部卒業(昭和23年)後1年間の臨床実地修練(インターンシップ)の頃は,戦地から帰国された多数の先輩の方々が,改めての卒後研修のために母校の医局に入られていて,先輩方も私達も混雑の中での研修は大変なものでしたが,野戦病院等での武勇談などを聞かせていただいたことも記憶に残っています。
昭和24年,中村豊教授(初代教授)の主宰される細菌学講座の門をたたき,研究生活を始めました。最初の主な研究課題は,「マウスを実験動物とした,サルモネラによって起こるチフス性疾患の細菌学的解析」でした。その後,中村教授から山田守英教授に引き継がれて,ウイルス疾患の分野が中心となり,「インターフェロンの基礎的研究」や,「マウス白血病ウイルスの細胞レベルの持続感染系の研究」も興味深いものでした。昭和35年に起こったポリオの大流行を契機とした腸内ウイルス感染症の調査研究は,予防対策に直接関連した生々しい記憶として印象的なものでした。
その約10年後,1969年にアフリカ・ガーナに始まって世界的に流行した新型の急性出血性結膜炎(後に北大眼科の杉浦教授が命名)が,日本でも1971年に流行しはじめました。筆者は病原体検索を担当して,その調査グループに参加したのですが,1972年の元日頃,患者検体を接種したHeLa細胞(培養細胞)にウイルスの増殖の兆候を発見したのです。精査したところ,既知のウイルスではなく,後にエンテロウイルス70型と命名された新型ウイルスで,世界に先んじて筆者らが発見したのです。そのようなケースに遭遇することは滅多にありませんので,感動を覚えたのは無理のないことと思います。そのウイルスの性状等を調査して臨床に役立つ成績を提供できたことを,協同研究者ともども喜ぶことができたのは幸せでした。
また,昭和60年,臨床検査医学講座を開設させていただいたこと,附属病院再開発検討委員として,続いて附属病院長として同再開発のマスタープラン作成に参加し,その第1期工事としての外来診療棟を停年直前にオープンできたことなども,学内外の諸賢のおかげによるものでありまして,思い出であると同時に,謝意を捧げたいことであります。北大退職後,天使女子短期大学(平成12年から天使大学)に転じて,約15年を経た今,母校北大は激動の時期を目前に控えて,多忙そのものでありましょうが,北海道大学の益々の隆昌・発展を遂げられますことを切に祈念する次第です。
略 歴 等 |
生年月日 |
大正15年1月28日 |
出身地 |
北海道 |
昭和23年9月 |
北海道大学医学部医学科卒業 |
昭和24年10月 |
北海道大学医学部細菌学講座研修員 |
昭和25年11月 |
北海道大学医学部助手 |
昭和27年8月 |
昭和28年12月 |
医学博士(北海道大学) |
昭和30年8月 |
北海道大学医学部講師 |
昭和31年1月 |
北海道大学医学部助教授 |
昭和47年2月 |
北海道大学医学部附属病院教授 |
昭和60年4月 |
北海道大学医学部教授 |
昭和61年1月 |
北海道大学評議員 |
昭和62年7月 |
昭和62年7月 |
北海道大学医学部附属病院長,評議員 |
平成元年3月 |
平成元年3月 |
北海道大学停年退職 |
平成元年4月 |
北海道大学名誉教授 |
平成元年4月 |
天使女子短期大学教授 |
平成12年4月 |
天使大学教授 |
功 績 等
松宮英視氏は,大正15年1月28日旭川市に生まれ,昭和23年9月北海道大学医学部医学科を卒業し,同24年9月同学部附属病院にて実地訓練修了後,北海道大学医学部細菌学講座研修員を経て,翌25年11月同大学医学部助手となりました。その後,昭和27年8月助手を辞して三重県において医院を開業,同28年12月「実験的チフス症における菌の侵襲に関する研究」で医学博士の学位を授与されました。昭和30年8月北海道大学医学部細菌学講座講師となり,翌31年1月同大学医学部助教授に昇任,昭和37年12月には米国コロラド州立大学及びロードアイランド州立大学に留学し,同39年12月帰国されました。昭和47年2月北海道大学医学部附属病院教授に任ぜられ,同60年4月医学部臨床検査医学講座の設置にともない同大学医学部教授に配置換となり,同講座を担当して平成元年3月の退職まで臨床検査医学全般,特に臨床微生物学に関する教育と研究に従事されました。
同人の研究活動は,細菌学,ウイルス学の基礎的ならびに臨床的分野の研究,免疫血清学など多岐にわたりますが,中でも重要なものは「急性出血性結膜炎」と命名された新型結膜炎の原因ウイルスを患者材料から検出し,そのウイルスが新しい型のエンテロウイルスであることを世界で初めて報告したことです。昭和57年9月には,これらの業績により北海道医師会賞を受賞されました。教育活動においては,専任の医学部並びに大学院医学研究科あるいは教養部医学進学課程のみならず,医学部附属臨床検査技師学校長として,また,看護学校・助産婦学校等では非常勤講師として,附属学校等における教育にも多大の貢献をなし,これらの附属学校が後に医療技術短期大学部として発展的に改組されたのも同人の尽力に負うところが大きく,改組後も多くの臨床検査技師,看護婦,及び助産婦等の育成に貢献されました。
学内にあっては,昭和61年1月から平成元年3月まで北海道大学評議員として本学運営の枢機に参画され,昭和62年5月には医学部附属病院長事務取扱,同年7月には同病院長に任ぜられました。病院長在任中には,医学部附属病院の再開発を推進し,平成元年3月完成した新外来棟の供用を開始するとともに,医療情報システムを導入して診療業務及び医事業務の効率化と迅速化などによる病院機能の質的高揚を進められました。また,多くの全学的委員会委員を委嘱され,特に北海道大学医療技術短期大学部設置準備室連絡委員会委員として医療技術短期大学部の創設に貢献されました。
学外にあっては,日本臨床病理学会評議員として,同幹事,同北海道支部長を歴任し,さらに日本ウイルス学会北海道支部長も務められました。北海道内では,北海道医師会常任理事,北海道総合医療協議会委員,北海道地域医療振興財団・北海道地域医療三大学協議会委員長等として活躍されました。
以上のように,同人は臨床検査医学(臨床病理学),ウイルス学の研究及び教育を通して,わが国の臨床検査医学界の指導者として卓越した業績を挙げ,わが国並びに世界の関連領域の研究進展に多大の貢献をしているもので,その功績は,誠に顕著であります。
(医学研究科・医学部)
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○嶋 田 馨(しまだかおる) 氏
このたび,平成15年秋の叙勲の栄に浴し,身に余る光栄に思います。これ偏に,ご指導とご支援をいただきました事務局を始め上司,多くの教職員皆様のお陰によるものと感謝し,心から厚くお礼を申し上げます。
私は,昭和19年12月工学部に奉職して,42年余北大一筋に勤務いたしました。振り返ってみますと,この間の前半は,敗色濃い戦中やがて終戦,新制大学への移行,その後の発展期には,新しい学部,学科等が次々と設置され,昭和20年代後半からは,構内の旧い建物が取り壊され,新築・増改築等が進められての著しい変貌振りでした。一方,学園紛争,学生セクト間の闘争等,混乱の時期がありました。これらの中で,毎日を目前の仕事に追われ夢中で過ごしてきましたが,今大きな時流の勢いを感じます。
昭和47年からは,事務長として6部局を経験,各学部で新しい学科,講座の設置,あるいは施設整備等,多くの概算要求事務に携わり,その実現に微力でありますが努めてまいりました。中でも,文学部行動化学科の設置では,諸般の事情から実現困難視されていましたが,先生方の強い熱意が実り認められた喜びは忘れることが出来ません。
他の学部でも手掛けたいくつかの発展した姿を,今日もみることが出来るということは,まことに感慨深いものがあります。このことは,当時の事務部一同の努力によるもので,ご協力に対し心から感謝とお礼を申し上げます。
最後に,このたびの叙勲に関しお世話下さいました皆様に厚くお礼を申し上げますとともに,北海道大学の益々のご発展を祈念いたします。
略 歴 等 |
生年月日 |
大正15年9月22日 |
出身地 |
北海道 |
昭和19年12月 |
北海道帝国大学工学部雇 |
昭和20年5月 |
兵役 |
昭和21年6月 |
昭和24年10月 |
北海道大学文部事務官 |
昭和28年3月 |
北海道大学学生部厚生課保健掛長 |
昭和28年7月 |
北海道大学事務局保健課事務掛長 |
昭和32年10月 |
北海道大学医学部附属病院保険掛長 |
昭和34年4月 |
北海道大学医学部附属病院業務課保険掛長 |
昭和37年2月 |
北海道大学医学部附属病院業務課入院患者掛長 |
昭和37年4月 |
北海道大学医学部附属病院管理課用度掛長 |
昭和39年4月 |
北海道大学医学部附属病院管理課庶務掛長 |
昭和40年4月 |
北海道大学医学部附属病院業務課課長補佐 |
昭和43年4月 |
北海道大学医学部附属病院管理課課長補佐 |
昭和45年4月 |
北海道大学庶務部庶務課課長補佐 |
昭和47年4月 |
北海道大学低温科学研究所事務長 |
昭和50年4月 |
北海道大学文学部事務長 |
昭和54年4月 |
北海道大学水産学部事務長 |
昭和56年7月 |
北海道大学歯学部事務長 |
昭和58年4月 |
北海道大学教養部事務長 |
昭和60年4月 |
北海道大学工学部事務部長 |
昭和62年3月 |
北海道大学定年退職 |
功 績 等
嶋田馨氏は,北海道大学におよそ42年の永きにわたり勤務し,特に昭和47年4月から退職までの15年の間,部局事務責任者である事務長あるいは事務部長として,卓越した行動力と実行力,そして広範な知識と経験をもって部下の指導と育成に努めるとともに,時の部局長を側面から補佐しながら管理運営に当たり,歴任した各部局の発展並びに整備充実に尽力されました。
本学低温科学研究所では,凍上学部門において凍上現象の機構解明を当面の目的として凍上力及び凍着凍上の観測実験を実施していましたが,札幌近郊で積雪が少なく,冬の気温が低く,土地の凍上を起こすのに最適な条件を備え,継続的な実験を行うことのできる施設の設置が熱望されていたことから,昭和47年11月苫小牧市に凍上観測室を設置することとなり,同氏は設置にあたっての概算要求事務に精力的に携わり,また,設置後においても,同施設の管理運営と充実に心血を注がれました。また,昭和48年4月には低温生化学部門が新設され,当面の研究室の確保,設備の整備,これらのための所内の調整に奔走され,また研究棟の概算要求事務,完成後の管理運営と充実に努められ,今日における同部門発展に多大な貢献をされました。
文学部事務長在任中には,昭和51年5月の北海道文化研究施設斜里分室の設置にかかる概算要求事務に携わり,オホーツク文化研究の拠点研究施設となる同施設の管理運営と充実に心血を注がれました。また,教育研究水準の高度化を期し学部改革に着手する学部長,関係教官に意見や助言を行い,その結果として昭和52年4月に行動科学科が新設されることとなり,昭和52年3月に動物実験舎,昭和53年11月に研究棟が設置され,いまだ学生紛争の傷跡が深く残る不安定な状況下において部局事務に腐心し,同学部における教育研究の整備充実に尽力されました。
水産学部では,昭和54年4月当初から,同学部における教育研究が一層発展するよう内外において精力的に行動し,その結果として昭和54年12月に大型水理実験水槽室,昭和56年3月には実験研究棟が設置されました。また,同学部は本学札幌キャンパスから遠く離れた函館にあるため,札幌キャンパスとの連絡調整や同学部の管理運営に粉骨砕身努力し,今日における同学部繁栄の基礎を築かれました。
歯学部及び歯学部附属病院は,以前よりそれぞれにおいて事務組織を有して運営されていましたが,両部局は学術研究上従来より関連性が極めて高い状況にありました。しかしながら,異なる部局事務組織であるため,かねてよりその連絡調整には細心の注意を払う必要が生じており,同氏は円滑,かつ適正な部局事務を執り行えるよう腐心していましたが,それと同時に事務組織の整理・合理化を図るべく,学部長,病院長,関係教官及び事務職員と慎重,綿密な協議・検討を重ねた結果,昭和58年4月には両部局における事務が一元化されることとなり,今日における同学部事務組織の基盤作りに貢献されました。
本学における教養部は,多岐にわたる学部からの教官で構成されていましたが,同氏は,教育研究体制の充実を図るとともに,各学部への連絡調整に意を尽くし努力されました。昭和56年4月には北海道大学言語文化部が設置され,教養部事務部がその事務を担当することとなりましたが,同氏の就任当初はまだ軌道に乗っておらず,事務部の責任者として,適切な指示・指導を行い,教官と事務部の信頼関係を築き上げるために尽力されました。また,言語文化部の研究棟の概算要求事務に携わり部内の調整に奔走され,昭和61年3月に完成しました。
工学部においては,大規模学部の事務部長として学部長を補佐するとともに,教育研究の発展に寄与されました。なかでも,昭和60年6月に中華人民共和国瀋陽機電学院との友好学術交流協定を締結する際には,学部長及び関係教官に対して意見や助言などを行い,より円滑な協定事務が執り行われるよう腐心努力されました。また,昭和61年4月設置の工学研究科生体工学専攻基幹2講座,及び昭和62年4月設置の情報工学科の概算要求事務を精力的に手掛け,教育・研究体制の整備に尽力されました。さらに,研究助成の申請に対する事務体制の充実等の輻輳多岐に伴う見直しにより,事務の能率・迅速化を目的として総務課研究協力掛が設置されることとなり,研究支援協力体制の充実に貢献されました。
同氏は,謹厳実直であり,教官及び事務職員の信頼は絶大で,その協力体制のもとに数々の施設,組織整備並びに学術交流の実現に努められました。
以上のように同氏は,永年にわたって大学行政の進展に精励したことに併せて,部下の指導育成にも尽力し,その功績はまことに顕著であると認められます。
(工学研究科・工学部)
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○山 村 光 雄(やまむらみつお) 氏
平成15年秋の叙勲における「瑞宝単光章」を受章させて頂き,身に余る光栄と感謝いたしております。返りみますれば昭和40年4月,北大病院に勤務以来,平成11年3月退官までの34年余り,歯学部,事務局と廻り大過なく北海道大学に勤務出来た事を誇りに思っております。此の度の叙勲受章は私を支えて下さった同僚の皆様方と共に受けられるものであり,受章を代表させて頂きました事を感謝申し上げます。
最後に今回の受章の労をお取り下さった皆様に心よりお礼申し上げますと共に,限りない北海道大学の発展を心からお祈り申し上げます。
ありがとうございました。
略 歴 等 |
生年月日 |
昭和13年8月16日 |
出身地 |
北海道 |
昭和30年8月 |
北海道浦臼高等学校中退 |
昭和40年4月 |
北海道大学医学部附属病院管理課技能員 |
昭和47年8月 |
北海道大学医学部附属病院管理課自動車運転手 |
昭和50年3月 |
北海道大学歯学部自動車運転手 |
昭和58年4月 |
北海道大学歯学部総務課自動車運転手 |
平成6年6月 |
北海道大学経理部経理課自動車運転手 |
平成8年4月 |
事務局公用自動車車庫特殊自動車部門車庫長 |
平成9年4月 |
事務局公用自動車車庫大型自動車部門車庫長 |
平成11年3月 |
北海道大学定年退職 |
功 績 等
山村光雄氏は,昭和40年4月北海道大学医学部附属病院管理課技能員に採用され,自動車運転業務を担当,同46年5月文部技官に任官され,平成11年3月31日限り定年により退職するまで職務に精励されました。
昭和40年代当時,医学部附属病院では,登別分院の近辺に医療器材関係を扱う業者が少なく,又,大学医療機関で使用したい器材がなかなか手に入らなかったため,本院で購入した器材をトラックを使って登別分院へ搬送していました。同氏は何度もその任にあたりましたが,現在のように高速道路も整備されておらず,途中何ヶ所も砂利道があり,また,トラックも現在のようなクッションの良い車種ではなく,搬送に注意を要する器材もあったことから,一日がかりとなることも少なくなく,当時のご労苦は想像に難くありません。
昭和47年,札幌において冬季オリンピックが開催された際には,本学から官用車20台が財団法人札幌オリンピック冬季大会組織委員会事務局に配属され,約2週間連絡用車両としての業務にあたりましたが,同氏はその一員として難なくその任を全うし,札幌オリンピック冬季大会の成功に側面から貢献されました。
昭和50年3月からは,新設間もない歯学部に配置換となりましたが,人手不足のため,通常の運転業務はもちろん,札幌キャンパス内の文書使送や庁舎外の環境整備等の業務も担当されました。しかし,何といっても困難な業務は,学生実習用の遺体引き取り業務でした。医学部と歯学部で共同して引き取り業務を行っていましたが,同氏が歯学部に在職された頃は学生実習用の遺体が不足気味であり,身寄りの無い遺体を引き取りに,地方の警察署に出張することもありました。普通誰もが嫌がる業務ですが,同氏は不平一つ言わず業務にあたられました。
平成6年6月,本学において運転業務が事務局に一元化され,同氏も経理部経理課に配置換となり,併せて事務局公用自動車車庫乗用自動車部門に配属されましたが,同氏の人格が評価され,平成8年4月特殊自動車部門車庫長,同9年4月大型自動車部門車庫長を命ぜられ,平成11年3月に定年退職されるまで,部下の指導,安全運転管理等の職責を全うされました。
以上のように,同氏は,34年余りの長きにわたり,自動車運転業務を通じて教育研究の遂行を支え,また,その明るい性格で皆の先頭に立って業務を行う姿は,他の職員の見本となるものであり,その功績は誠に顕著であります。
(経理部主計課)
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