植 木 迪 子(うえきみちこ) 氏(文学研究科教授)
昭和16年7月20日生 |
(略 歴) |
昭和42年3月 |
北海道大学文学部卒業 |
昭和42年4月 |
北海道大学文学部助手 |
昭和50年2月 |
広島大学文学部助教授 |
昭和55年4月 |
北海道大学文学部助教授 |
平成3年1月 |
北海道大学文学部教授 |
平成10年5月 |
北海道大学総長補佐 |
平成11年4月 |
平成11年4月 |
北海道大学高等教育機能開発総合センター長補佐 |
平成13年3月 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院文学研究科教授 |
平成13年5月 |
北海道大学総長補佐 |
平成14年4月 |
平成14年4月 |
北海道大学評議員 |
平成16年3月 |
平成16年4月 |
北海道大学教育研究評議会評議員,北海道大学大学院文学研究科副研究科長 |
平成17年3月 |
1961年の入学以来,じつに長い年月を北大ですごしてきました。この間北大を離れたのは,広島大学文学部に勤務した5年間と海外研修の数年間だけです。子供時代も北大構内の官舎でしたので,人生のほとんどを北大ですごしたことになります。卒業論文まではドイツ文学を専攻し,その後,指導教官のすすめでドイツ語学に重点を移しました。このような経緯のためか,当初より言語の構造よりは言語の使用に関心がありました。1971年に海外研修の機会が与えられ,ドイツの学会で議論が始まったばかりであった語用論こそが自分の求めていた領域であると知り,発話行為理論,疑問文と質問行為,談話分析などを研究対象とするとともに,学生に言語研究の面白さを伝えるよう努めてきました。その後,国際語用論学会も発足し,いまや語用論は言語研究の一分野として確立された観があります。ひとつの研究分野が発展するありさまを間近に体験できた幸せを思うとき,このように恵まれた研究生活を可能にした北大に感謝するとともに,今後も多くの人々が充実した気持ちで教育と研究にいそしむ場であり続けることを願っております。 |
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石 塚 晴 通(いしづかはるみち) 氏(文学研究科教授)
昭和17年2月13日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
東京大学文学部卒業 |
昭和42年3月 |
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了 |
昭和47年3月 |
東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和45年4月 |
私立青山学院大学文学部専任講師 |
昭和49年4月 |
北海道大学文学部助教授 |
平成3年1月 |
北海道大学文学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院文学研究科教授 |
昭和49(1974)年4月に国語學講座助教授として赴任し,この3月で丸31年となる。昨年9月に筆者の北大退職記念の意を込めた「日本學・敦煌學・漢文訓読の新展開」国際學術会議を開いていただき,それぞれの分野で御縁の有つた世界第一線の研究者に北大に御出でいただいて論文を頂戴した。「なぜ一人の研究者が,これ程広い研究領域をもつことができたか」とよく聞かれるが,結局は「北大に居たから」といふことに落ち着く。若し東京の大學に居たならば目先のことに追はれて,上記3分野を国際的視野から推進する発想は出て来なかったかも知れない。また,文系の実験系として漢字字體規範や寺院経蔵の構成・伝承を扱ふ団體作業を30年間一貫して行ひ得たことは,材料やテーマで目移りせず,作業員の質等々で,結果的に北大の文化的・地理的・人的環境の賜物である。
今,上記のことを認識して北大に感謝し,今晢く継続中のプロジェクトに一応の形をつけ,具體的な謝意の表出を期してゐる。 |
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東海林 邦 彦(しようじくにひこ) 氏(法学研究科教授)
昭和16年9月11日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
東北大学法学部卒業 |
昭和41年4月 |
東北大学法学部助手 |
昭和45年4月 |
埼玉大学経済学部助手 |
昭和46年4月 |
埼玉大学経済学部講師 |
昭和47年4月 |
金沢大学法文学部講師 |
昭和49年6月 |
金沢大学法文学部助教授 |
昭和54年4月 |
北海道大学法学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院法学研究科附属高等法政教育センター教授 |
平成13年4月 |
北海道大学大学院法学研究科教授 |
「慙愧の弁と感謝の弁と」
昭和54年,小生38歳の時,北大に赴任して以来,ほぼ四半世紀余りの歳月を重ね,今「定年退官」の日を迎えるにあたり,何よりもこの胸を去来するものは,教育・研究両面で為しえたことの質量両面での貧しさ・乏しさ,その故の慙愧の念の深さ,ということである。とくに研究の面では,(なによりも借り物でない・自分自身の)理論体系の構築という,よくいえば「野心的」な,しかし文字通り「身のほど知らず」という他ない志を立てて以来30年近くの間,ほとんど土日の休みもなく(積み木を積んだり壊したりの繰り返しのような)模索と彷徨の悪戦苦闘の日々を重ねてきて,いまこの「定年」を前にして私はやっと,「現代日本民事法理論体系・原論」という自分自身の理論構想の全体像を描くことができる境地に達した,というのが偽らざる実感としてある。それは喩えていえば,自分が登るべき山々がいずこにあるかを問い捜し求めてきて,陽はすでに山の端にかかろうとしているこの時になってやっと,まさにこれから征服すべき・高く険しく連なる峰峰の全貌がなんとか見えてきた,而して自分はやっと今その登山口に辿り着いただけである,という思い,あるいはまた,自分がこれから立てるべき建物全体の設計図を,多年の試行錯誤の末に今やっと描き終わって,その主柱の一部の構築に取り掛かった段階にある,との思い,とでもいうべきものである。そのような意味でも,「本当の勉強,本当の(?)論文執筆は,まさにこれから」というのが(恥も外聞も捨てて率直に申し上げての)実感である。
他方また,この小生の「夢」や「志」という,いわば研究者としての「わがまま」のために,犠牲にしてしまったものの多さ・深さに,この期におよんであらためて想いを致し,慙愧の念,胸に迫るものがある――小生の至らなさ故に迷惑をかけてしまった多くの方々にはこの場を借りて心からのお詫びを申し上げたい。同時にまた小生のわがままに辛抱づよくお付き合いいただき,また支えていただいた多くの方々にも,この場を借りて深く感謝申し上げたい。
――ともあれ,そのようなわけで,恥ずかしながら研究・道半ば(というよりも,「道初め?」)で定年ということですので,上掲のような顔の男がこの4月以降も大学図書館や研究室等を徘徊するかもしれませんので,その折はどうかよろしく。
それでは皆さん,(そういう意味で「とりあえず」ではありますが)さようなら。 |
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石 垣 壽 郎(いしがきとしお) 氏(理学研究科教授)
昭和16年10月29日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
東京大学教養学部卒業 |
昭和44年3月 |
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了 |
昭和46年3月 |
東京大学大学院人文科学研究科博士課程中途退学 |
昭和46年4月 |
東京大学文学部助手 |
昭和47年4月 |
東京理科大学理工学部講師 |
昭和52年4月 |
東京理科大学理工学部助教授 |
昭和52年10月 |
北海道大学理学部助教授 |
平成4年12月 |
博士(理学)(北海道大学) |
平成5年4月 |
北海道大学理学部教授 |
北大に赴任してから27年半の月日がたちました。先輩の諸先生方が述懐されたとおり,振り返ってみると,あっという間だったような気がします。私が卒業したのは教養学部の科学史・科学哲学分科というところで,大学院は哲学専攻でしたが,私の関心は,数学と物理学と哲学が交差するところに生じてくる問題にありましたので,北大で理学部所属となり,科学者に囲まれて学究生活を送ることができたことは,望外の喜びでした。このような環境の下で,時空の存在論や量子力学の解釈問題など科学基礎論のハードな分野にいささかの貢献ができたのではないかと思っております。また,昨年の大風で沢山の樹木が倒れたとはいえ,このような美しい広々としたキャンパスで四半世紀以上を過ごせたことも,大変幸せなことでした。次第に大学に対する社会の目が厳しくなり,地味で基礎的な分野にはなかなか日が当たりにくくなっていくようですが,北大においても,大学の重要な使命であるアカデミズムが永く水脈を保ち続けるよう願ってやみません。 |
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和 田 宏(わだこう) 氏(理学研究科教授)
昭和16年7月3日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和41年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和43年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程中途退学 |
昭和43年4月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和48年12月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和55年12月 |
北海道大学理学部講師 |
昭和59年4月 |
北海道大学理学部助教授 |
平成4年8月 |
北海道大学理学部教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科教授 |
北海道大学に入学いらい定年退職まで45年間を,緑豊かな自然環境の母校で送らせていただけたことに尽きない感謝の思いです。
本年度の退職者は国立大学法人化の最初の定年者です。年金も60歳から61歳に引き上げられた最初の年です。何故か,昭和16年生まれは色々な節目に出会うように生まれついているようです。この年の12月8日に真珠湾攻撃があり,太平洋戦争が始まりました。昭和23年に小学校に入りましたが,この年から教科書はカタカナからひらがな書きに変わりました。学制改革のため我々の学年は小学校の最初から100%戦後の純正の民主教育を受けたことになります。大学へ入った昭和35年は第一次安保闘争の年で前面講和か片面講和かで世の中は沸騰し,講義はほとんどなくデモの参加の記憶だけが残っています。
昭和36年に理学部物理学科に移行いたしましたが,1年上の先輩が享受した中谷宇吉郎教授の講義は逝去のため受ける事が出来ませんでした。今どきの若者並みに実験物理学は面倒と,実験のない物性理論の研究室に入れていただき,そのまま研究室に居座り,統計力学を手段に其のときの環境と自分の興味で仕事をして参りました。前半の乱雑系,ブラウン運動,磁性体の統計力学の計算,ここ20年間はクラスター変分法とその動力学である経路確率法を駆使して,結晶成長,強誘電体分野の仕事をいたしました。ある分野の流れのトピックスとたまたま出会うこともありましたが,基本的には我が内なる問題意識で仕事をして来ましたので,サイテイションとかインパクトファクターの今流の流れに合わせる生き方はできませんでした。このような教育・研究者がなんとか定年まで迎える事が出来たのは,偏に運・鈍・根と諸先輩はじめ同僚及び教え子の皆様の寛大さのお蔭です。
私達の生まれは変化の節目に出会う定めとは言え,最近の変化は怒涛の変わりようです。閉塞感のみが目に付きます。私たちの学生時代は物質的豊かさはありませんでしたが,努力すれば報われるという時代精神がありました。教育の原点は若い人の心に希望の火を灯すことにあります。北大を離れてもそのための小さな努力を続けたいと思います。
北海道大学のますますのご発展を祈念いたします。 |
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井 川 駿 一(いしかわしゆんいち) 氏(理学研究科教授)
昭和17年3月18日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
東京工業大学理工学部卒業 |
昭和41年3月 |
東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了 |
昭和44年9月 |
東京工業大学大学院理工学研究科博士課程修了 |
昭和44年9月 |
理学博士(東京工業大学) |
昭和44年10月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和54年7月 |
北海道大学理学部講師 |
昭和61年10月 |
北海道大学理学部助教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科教授 |
北大に奉職して以来35年あまりの間,主に液体,溶液など流体系の分光研究に携わってきました。種々の流体系の分子レベルでの構造や動力学を探るために,分光スペクトルを測定して詳細に眺めてきたわけですが,その中で当初の予想にはなかった小さな“異常”を見いだし,これにこだわることで新しい局面が開かれたことがしばしばありました。研究の醍醐味を味わうのはこのようなときです。何をどのように“異常”と見て,どの方向に新しい局面を見るかは,研究者がそれまでに培ってきた基礎知識と経験によって様々に異なることでしょう。また,ときには当初の研究計画から逸脱して,研究の効率を落とすことになるかもしれません。しかし,このような非効率に寛容な環境があって初めて,文化としての学問の多様で豊饒な発展が可能になるのではないでしょうか。現代社会では大学だけが果たせるこの使命を,法人となった北大が今後も大切に守ってゆかれることを期待しています。 |
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田 中 皓(たなかきよし) 氏(理学研究科教授)
昭和16年5月7日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
東京工業大学理工学部卒業 |
昭和42年3月 |
東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了 |
昭和42年4月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和48年3月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和54年6月 |
北海道大学理学部講師 |
平成2年11月 |
北海道大学理学部助教授 |
平成4年4月 |
電気通信大学助教授 |
平成5年10月 |
電気通信大学教授 |
平成10年5月 |
北海道大学大学院理学研究科教授 |
昭和42年4月早々,汽車から青函連絡船,そしてまた早朝に汽車に乗り継ぎ,途中次々に現れる本州ではあまり見馴れない景色に感激しつつ札幌駅に到着しました。理学部に新設された化学第二学科の大野公男先生が主宰された量子化学講座に助手として採用していただいたのでした。
若々しい学科の雰囲気もとても有難いことでした。分子の電子構造を理論的に研究しましたが,この研究には高性能な計算機を使えることが大切です。ちょうどその頃,日本では電子計算機が発展しはじめた時期で,勤務して数年後,北大にも大型計算機センターが設置され,プログラム作り,計算にと夢中で取り組めたことはとても幸運でした。今の高速のパソコンより性能は低かったのですが,いろんな工夫をしたことが懐かしく思い出されます。途中,他流試合をしてきましたが,また呼んでいただいて定年まで楽しく電子相関法とその周辺の研究が出来ましたことは有難いことでした。
北大も他の多くの大学と同様に,過渡期にあり,少なからずつらい状況があります。出来るだけ早く,落ち着いた雰囲気が取り戻され,皆様が思う存分に仕事が出来ますよう,心からお祈り申し上げます。 |
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新 田 勝 利(につたかつとし) 氏(理学研究科教授)
昭和17年2月8日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和41年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和44年6月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和44年6月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和47年9月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和58年4月 |
北海道大学理学部講師 |
平成3年3月 |
北海道大学理学部助教授 |
平成4年10月 |
北海道大学理学部教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科教授 |
私は1960年に入学した。今になってみると入学式の時よりも3月3日の入学試験の時のきれいに除雪された正門−中央ローン−農学部周辺の様子が思い出される。中央ローン東側のヨーロッパクロマツが,みたことのない木だったので,強く印象に残った。今は周囲の樹木に圧倒されて見る影もない。その後理学部高分子学科に進学−大学院進学−助手任官−と進み現在まで高分子学科−生物科学専攻(高分子)から籍が抜けたことがなかった。最初は高分子電解質の対イオン固定,形態転移に興味をもったがその後に蛋白質分子に興味が移った。そのころから蛋白質のアミノ酸配列のデータが爆発的に出るようになって分子進化に対する興味をかきたてた。この分野にも微小ながらも貢献できたと思っている。いいことばかりがあったわけではないが,私は学生には恵まれたと思う。皆に感謝して北大を去りたい。 |
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在 田 一 則(ありたかずのり) 氏(理学研究科教授)
昭和16年10月15日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和44年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和50年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和50年4月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和51年3月 |
理学博士(北海道大学) |
平成2年8月 |
北海道大学理学部講師 |
平成5年10月 |
北海道大学理学部助教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科助教授 |
平成15年1月 |
北海道大学大学院理学研究科教授 |
1961年に理類学生として入学以来44年間にもわたって,学生・研究生・院生・教員として北大にお世話になりました。心からお礼を申し上げます。
大学院からは一般教育(教養部)担当であった故橋本誠二先生に指導していただき,先生の研究室があった完成直後の旧教養部校舎(現高等教育機能開発総合センター)に移りました。教員になってからも一般教育担当でしたので,1995年の教養部廃止をへて,2003年に新築の理学部6号館に移るまで,教養部学生とまぢかに接してきたことになります。そのせいか,とくに最近は全学教育の運営に関わってきました。
全学教育は北大へ入学した若者が初めて体験する北大での教育です。それにより各学部での専門教育の基礎を学ぶとともに,各学部に共通した,通奏低音ともいうべき“北大生”として必須の素養(コアカリキュラム)を身につけます。しかし,多種多様な学部からは時として学部のエゴが出てきます。さまざまな学部からなる総合大学としての北大の利点を生かし,北大の誇る全学支援方式のもとにさらに充実したコアカリキュラムへと進化することを切望してやみません。 |
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播磨屋 敏 生(はりまやとしお) 氏(理学研究科教授)
昭和16年8月31日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和43年9月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程中退 |
昭和43年10月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和54年3月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和56年3月 |
北海道大学理学部講師 |
昭和56年11月 |
北海道大学理学部助教授 |
昭和59年4月 |
北海道大学理学部教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科教授 |
北大に入学以来40有余年,今まで一度も外に出ることなく,北大で過ごさせて頂きました。それも今から顧みますと,いろいろと運命の巡り合せのような事がありました。
私の研究者生活の原点は,小学生時代に偉人伝を読み,科学を一生の仕事にする事ができたらどんなに素晴しいことかと思った事です。その当時非常に好奇心旺盛な子供で,何でも飽くことなく見ておりました。その自然現象が後に高校,大学と勉強が進むにつれて,うまく説明できる事がわかりました。そういう線上で研究してきましたので,自分の興味に基づいた,結果として非常に卑近なテーマが多くなりました。それが楽しかったのです。ですから巷に流れる「儲かる」学問には違和感を覚えるのです。憧れていたことを続けられたのですから,こんな幸せな事はありません。私を支えて下さった多くの教職員,ならびに学生の皆様には心からお礼を申し上げます。 |
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西 信 三(にししんぞう) 氏(医学研究科教授)
昭和16年10月1日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学医学部卒業 |
昭和46年3月 |
北海道大学大学院医学研究科博士課程修了 |
昭和46年3月 |
医学博士(北海道大学) |
昭和46年8月 |
北海道大学医学部助手 |
昭和49年10月 |
北海道大学医学部講師 |
昭和55年4月 |
山梨医科大学医学部助教授 |
昭和58年10月 |
北海道大学医学部教授 |
昭和60年4月 |
北海道大学アイソトープ総合センター長 |
平成13年3月 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院医学研究科教授 |
平成13年4月 |
北海道大学大学院医学研究科長・医学部長 |
平成17年3月 |
40年以上もの長い期間を北大で過ごさせて頂き,恙なく退職の日を迎えることが出来ますことは真に嬉しく思います。また,今日まで御厚情を賜りました関係各位のお陰と心より御礼を申し上げます。
私の学生生活は,北大山岳部に所属していましたので登山と学業の両立に一生懸命で,至って単純な日々であった様に思います。インターン修了後,第一生化学教室に大学院生として入り,研究の楽しみと面白さを享受出来ましたことも,御指導下さった故平井秀松教授をはじめ諸先輩の方々のお陰と思っております。それ以来,私の研究人生はα―フェトプロテインに関わることになり現在に至っております。
昭和58年に母校の医学部の教授となり,その後は慌ただしく過ぎていった21年間余りでした。その時々に良き人々に恵まれましたことは,この上なく幸せなことと感謝しております。
最後になりましたが,法人化しました北海道大学の益々の御発展を願っております。 |
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安 田 慶 秀(やすだけいしゆう) 氏(医学研究科教授)
昭和16年5月8日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学医学部卒業 |
昭和49年3月 |
北海道大学大学院医学研究科博士課程修了 |
昭和49年3月 |
医学博士(北海道大学) |
昭和50年5月 |
国立療養所札幌南病院厚生技官 |
昭和54年8月 |
北海道大学医学部附属病院助手 |
昭和59年4月 |
北海道大学医学部附属病院講師 |
昭和61年7月 |
北海道大学医学部附属病院助教授 |
平成2年11月 |
北海道大学医学部附属病院教授 |
平成11年4月 |
北海道大学医学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院医学研究科教授 |
1960年4月,アメリカの施政権下にあった沖縄から文部省特別留学生として北海道大学に配され,以来45年間お世話になった。入学の年は安保改訂反対闘争,医学部卒業の年はインターン闘争,そして国立大学北海道大学が法人化され新制度がはじまった年に定年退職する。はじめて札幌駅に降り立った日は雪が降っており,45年たった現在でもあのときにみた「人工の色には存在しない」雪の白さに感動したことが思い出され,この地で人生の最良のときを送ることができた幸せを感じる。恵迪寮の仲間と酒をくみ人生を語りあい,豊かなキャンパスと雄大な自然の中で人生の最良のときを過ごすことができ,大変幸せであった。毎年毎年新しく入ってくる学生および医局員諸君と体を張っての研究,心臓血管外科医として思う存分燃焼させていただいた。日進月歩する医学とめまぐるしくかわる医療環境,国立大学法人化という全く新しい環境の中,つぎの100年を見据えた戦略で北海道大学の新しい歴史がはじまることを期待する。 |
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長 嶋 和 郎(ながしまかずお) 氏(医学研究科教授)
昭和16年10月3日生 |
(略 歴) |
昭和42年3月 |
群馬大学医学部卒業 |
昭和47年3月 |
東京大学大学院医学系研究科博士課程修了 |
昭和47年3月 |
医学博士(東京大学) |
昭和47年4月 |
東京大学医学部附属病院助手 |
昭和51年5月 |
東京大学医学部助手 |
昭和55年10月 |
東京大学医学部講師 |
昭和61年2月 |
北海道大学医学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院医学研究科教授 |
振り返ってみたとき,研究面ではシグナル伝達機構に関わる新たな分子の同定と経路の解明に至った共同研究と,教室上げて取り組んできた神経ウイルスの細胞特異性を規定する因子が同定できたことを最初に挙げることができよう。特にウイルスの研究では多額な戦略的基礎科学研究事業費を受けたことが大きく,その結果として定年間際にその目的が達成できたことが何よりも感慨深い。その背景には,学内にあっては薬学・獣医学・理学研究科との共同研究が組めたこと,国内外の研究者と幅広い繋がりが持てた事などが効果的に働いたためと推測される。医療の分野においては病理解剖,病理診断の方面で社会に貢献できたのではないかと思う。教育面では,個性のある研究者の特徴を全ての方々に充分に発揮していただけたか,多少不安が残る。若い人々はこの先も長く研究が続くと思うが,将来きっと大きな成果が実るものと確信し,ゆっくりと見守っていきたい。 |
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花 田 博 之(はなだひろゆき) 氏(医学部教授)
昭和16年7月27日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和39年4月 |
民間(日立化成工業株式会社下館工場研究部第一研究課) |
昭和40年5月 |
昭和41年3月 |
北海道大学医学部附属診療エックス線技師学校講師 |
昭和44年1月 |
北海道大学医学部附属診療放射線技師学校講師 |
昭和59年4月 |
北海道大学医療技術短期大学部助教授 |
平成9年3月 |
博士(工学)(北海道大学) |
平成15年10月 |
北海道大学医学部助教授 |
平成16年4月 |
北海道大学医学部教授 |
昭和41年3月に当時存在した医学部附属診療エックス線技師学校に就任して以来,定年を迎える今日まで診療放射線技師の教育に関わってまいりました。数えてみると39年間におよびます。学生時代の4年間を合わせると北大で40年以上を過ごしたことになります。
考えてみると学生時代は高分子科学を学んだのですが,結果的には診療放射線を対象とする仕事についていました。エックス線や放射性同位元素のことは,仕事についてから勉強したことになります。
ディジタル放射線画像の画像処理や統計解析,アナログエックス線画像の情報量基準の研究などを行いましたが,もう一歩臨床医学に近づけるべきだったと心残りも若干あります。
北大も独法化を迎えて1年が過ぎました。まだまだ難題が降りかかると思いますが,それを乗り切って発展していくことを信じています。 |
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向 後 隆 男(こうごたかお) 氏(歯学研究科教授)
昭和16年5月15日生 |
(略 歴) |
昭和43年3月 |
東京医科歯科大学歯学部卒業 |
昭和47年3月 |
東京医科歯科大学大学院歯学研究科博士課程修了 |
昭和47年3月 |
歯学博士(東京医科歯科大学) |
昭和47年4月 |
東京医科歯科大学歯学部副手 |
昭和47年5月 |
北海道大学歯学部講師 |
昭和52年2月 |
北海道大学歯学部助教授 |
平成9年9月 |
北海道大学歯学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院歯学研究科教授 |
平成13年4月 |
北海道大学評議員 |
平成16年3月 |
歯学部に大学院を新設するためのスタッフとして赴任した日は,5月初めの新緑のまぶしい日でした。当時,“歯学部在り方委員会”という教職員からなる組織が学部内にあり,優秀な歯科医師を育てるべく将来展望や戦略などを熱く議論していました。また,教職員と学生の親睦を目的に,一期生と教官が創立した“学友会”があり,学生のスポーツ・文化活動などを支援していました。個人的には東京オリンピック選手であった関係で,歯学部ボート部の監督を創部以来引き受けてきましたが,全日本準優勝や国体出場,全学ボート部の主将や選手として活躍した学生達の高い能力に驚いています。
在任中には,大学外からの生検依頼数が全国の口腔病理学教室の中で最高となったこと,また,在籍大学院生数が全国の歯科大学の基礎講座でトップであったことに,関係各位,関連機関に深く感謝しております。
私が成し得たことは大学の皆様に支えられたものであります。大学のスタッフと北海道の大自然に恵まれ,すばらしい環境の中で大学生活を送ることができましたことに,関係機関,関係各位に深く感謝申し上げますとともに,北海道大学の発展を心から祈念しております。 |
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杉 原 平 樹(すぎはらつねき) 氏(北海道大学病院長)
昭和16年4月6日生 |
(略 歴) |
昭和42年3月 |
北海道大学医学部卒業 |
昭和47年12月 |
北海道大学医学部助手 |
昭和49年3月 |
北海道大学医学部附属病院助手 |
昭和49年7月 |
北海道大学医学部助手 |
昭和53年10月 |
北海道大学医学部附属病院助手 |
昭和54年10月 |
北海道大学医学部附属病院講師 |
昭和59年3月 |
医学博士(北海道大学) |
昭和60年2月 |
北海道大学医学部附属病院助教授 |
昭和62年5月 |
北海道大学医学部助教授 |
平成7年9月 |
北海道大学医学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学医学研究科教授 |
平成13年4月 |
北海道大学医学部附属病院副病院長 |
平成15年3月 |
平成15年4月 |
北海道大学医学部附属病院長,評議員 |
平成15年9月 |
平成15年10月 |
北海道大学医学部・歯学部附属病院長,評議員 |
平成16年3月 |
平成16年4月 |
北海道大学病院長 |
平成17年3月 |
学生時代を含め40年以上の長い間,北海道大学にお世話になりました。60年代は学生運動が盛んで,卒業時はインターン闘争の最中でもあり教室を二分して毎日遅くまで議論が続き,4月の国家試験はボイコット,インターンを自主研修と称して自らが管理した時代でした。一方で,教養から医学部野球部で毎日のように泥と汗にまみれ,それなりの青春を謳歌したものです。
卒業後は形成外科医を志し,多くの先輩にご指導を頂きました。北海道大学形成外科学講座の創設にも直接参加し,また教育・研修,研究,診療を通して,北海道大学における形成外科学の発展に多少なりとも貢献できたことを誇りに思います。
広大で緑豊かな北海道大学のキャンパスと国内屈指の総合大学という大変恵まれた環境の中で,精一杯仕事をすることができました。
お世話になった多くの方々に,心からお礼を申し上げ,国立大学法人北海道大学の益々の発展を祈ります。 |
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野 村 靖 幸(のむらやすゆき) 氏(薬学研究科教授)
昭和16年5月6日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
京都大学薬学部卒業 |
昭和42年3月 |
京都大学大学院薬学研究科修士課程修了 |
昭和45年9月 |
京都大学大学院薬学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和45年10月 |
千葉県衛生部技師 |
昭和46年1月 |
京都大学大学院薬学研究科博士課程修了 |
昭和46年1月 |
薬学博士(京都大学) |
昭和47年11月 |
広島大学医学部助教授 |
昭和59年5月 |
富山医科薬科大学和漢薬研究所教授 |
昭和62年4月 |
北海道大学薬学部教授 |
平成10年4月 |
北海道大学大学院薬学研究科教授 |
平成11年4月 |
北海道大学評議員 |
平成13年3月 |
平成13年4月 |
北海道大学大学院薬学研究科長・薬学部長,評議員 |
平成17年3月 |
昭和62年4月,薬学部教官として着任し,今日まで18年間という長い間,北海道大学にお世話になったことになります。この度,無事,かつ心身ともに健康な状態で北海道大学を卒業させて頂けることを喜んでおります。私としては全力を尽くして教育・研究,さらに管理・運営等に携わらせて頂き,満ち足りた気持ちの現在です。詩情溢れる美しいキャンパスの中,エルム,ポプラや銀杏の樹間での,教職員,大学院生,学生の皆さんとの学問的なそして人間的なコミュニケーションを通しての貴重な数々の体験は,私の生涯の最大,かつ尊い思い出となることでしょう。昨春,法人移行した北海道大学は,各種課題を抱えて今後大変でしょうが,四つの教育・研究理念の下,日本の代表的な基幹総合大学としてさらに発展されますよう,OBとして応援し,また見守って参りたいと存じます。どうか今後ともよろしくお願いいたします。長い間ありがとうございました。 |
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石 井 邦 宜(いしいくによし) 氏(工学研究科教授)
昭和16年4月23日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和41年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和41年4月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和46年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
昭和63年3月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和64年1月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
平成12年6月 |
北海道TLO株式会社取締役 |
平成16年6月 |
筆者が関わってきた鉄鋼プロセス工学は,生活に欠かせない「鉄」を作るための学問です。すなわち,鉱石と石炭から銑鉄をつくり,その成分を調整して鋼とし,さらに異物を除いて清浄化し,素材として成形するまでのプロセスの技術と科学を幅広い基礎学問に基づいて研究しその成果を持って教育する分野です。安価かつ多様な鉄の機能を引き出すため,ナノテクを駆使した研究が行われています。一方,鉄つくりは日本の全エネルギ−消費の12%を占めるエネルギ−多消費型産業であり,その大幅削減が京都議定書発効の今緊急の課題となっています。これには全く新しい製錬原理の構築が必要であり,環境技術の中核をなす研究としても様変わりの活況を呈しています。
大学の使命は,もてはやされている分野にのみ傾斜投資するような安易な方法では達成され得ません。人類社会にとって何が大切かを深く考究し,教育を最終目的に掲げた本物の研究戦略を策定し,それを明確に提示し,執行時には効率と実績を求め,最重要案件はトップダウン方式で処理する,そんなCOE型運営が必要です。そうでなければ大学は早晩疲弊し,通俗的な研究と教育に陥るでしょう。伝統は創意工夫してつくり出す中で継承されていきます。文明を育む基礎素材をつくる分野から期待を込めて見守っていきます。 |
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山 崎 巌(やまざきいわお) 氏(工学研究科教授)
昭和17年1月16日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和45年4月 |
北海道大学応用電気研究所助手 |
昭和48年6月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和55年12月 |
岡崎国立共同研究機構分子科学研究所助教授 |
昭和63年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
子供の頃から札幌で過して,北大キャンパスを自分の庭のようにして育ってきた私にとって,昭和55年から8年間,愛知県岡崎市の分子科学研究所で過したことは,それ以降の私の人生感と研究活動を大きく変えることになりました。北海道には希薄な「日本的な風土」をはじめて理解すると同時に,本州の主要な大学における研究活動のレベルの高さを痛感させられました。世界的な業績をあげている研究者の群れが互いに交流し合い,まさに切磋琢磨しているのを目のあたりにして,いやが応にも,そうしたレベルで仕事をすることを迫られました。当時すでに,国立大学の民営化の方針が出されていましたが,それから20年後,形のうえでは北大も大きな変化を遂げたことを思います。しかし独立行政法人「北大」が,今後,研究面において存在感を国内外に示すことができるかどうか,この問題とどのように取り組むのかは依然として最重要課題であると思います。 |
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大 塲 良 次(おおばりようじ) 氏(工学研究科教授)
昭和17年3月8日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
東京大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
東京大学大学院工学系研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
東京大学大学院工学系研究科博士課程修了 |
昭和45年3月 |
工学博士(東京大学) |
昭和45年4月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和46年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
昭和63年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
私は昭和45年に大学院を修了して直ちに本学に採用されて以来35年間,工学部・工学研究科に勤務させて頂きました。北海道大学は,赴任当初こそ,ちょうど大学紛争の真っ只中の大変な時期にありましたが,紛争が収まって以後は学内の整備も進み,私が勤務させて頂いた全期間を通じてみれば,最も恵まれた大学の一つでした。このような落ち着いた雰囲気の中,良き学生,職員,同輩,先輩,それぞれに誠に恵まれた環境で,教育と研究を進めさせて頂けました。幸いこの間に,機械装置の音響異常診断という新技術を開発することも出来,産業面でいささかの寄与が出来たかと思います。これも本学の恵まれた環境,特に優れた若い学生と共に落ち着いて研究を進められたおかげと,感謝しております。この場をお借りして,厚くお礼申し上げます。最後に,北海道大学が今後ともこの恵まれた環境を維持強化しつつ,全構成員の叡智と力を合せて,益々発展されんことをお祈り致します。 |
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澤 村 晃 子(さわむらてるこ) 氏(工学研究科教授)
昭和16年6月10日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和40年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程中退 |
昭和40年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和58年3月 |
工学博士(北海道大学) |
平成2年7月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科助教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
雪の溶けきらない春,北海道大学入学時は広々としていたキャンパスに今では沢山の建物が立ち並び,授業の合間の学生が三々五々群れていたサクシュコトニ川の流れる中央ローンには学生の姿を見ることもなくなりました。学生時代に引き続き大学に残り,出身学科とは異なる分野において,新学科の立ち上げ時期から,今日その学科が姿を変えるときまでを過ごすことと成りました。大学の最も重要な使命は昔も今も変わらず,有為の人材を世の中に送り出すことと思います。若い学生が自分の中に持てるものに気付き,希望を持って社会に出てゆこうとするその過程に立ち会う機会を得ることは楽しいことでありました。サクシュコトニ川は再生され,記憶の中の川より立派に変容しました。時代と共に変わって行くべきもの,不変であるべきものは何でしょう。新ためてそのような思いが湧き上がってくることは,申し訳ないことでありますが,大学,研究室の皆様,学生諸氏には深い感謝のみです。新生学科・専攻のよき未来を祈念申しあげます。 |
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石 山 祐 二(いしやまゆうじ) 氏(工学研究科教授)
昭和17年3月24日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和42年4月 |
建設省採用・営繕局建築課構造係員 |
昭和46年4月 |
建設省建築研究所企画室技術指導係長 |
昭和48年12月 |
(財)国土開発技術研究センター副参事 |
昭和50年10月 |
建設省建築研究所構造研究室研究員 |
昭和53年11月 |
建設省建築研究所国際地震工学部第一耐震工学室長 |
昭和57年9月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和59年9月 |
カナダ国立研究院建築研究所特別研究員(オタワ) |
昭和61年4月 |
建設省建築研究所企画部企画調査課長 |
平成元年3月 |
国際協力事業団長期派遣専門家(ペルー・リマ) |
平成3年6月 |
建設省建築研究所へ復職・住宅建設研究室長 |
平成3年10月 |
文部省へ出向・北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
札幌生まれの私は,小・中・高・大学と同じ家から通いました。北大理類入学,建築工学科卒業,修士課程の後,建設省に入り営繕局で構造設計を経験し,建築研究所に出向しました。新宿にあった研究所は1979年筑波へ移転し,北大に来るまで筑波で過ごしました。この間,カナダの研究所に1年間,ペルー国立工科大学地震防災センターに2年滞在しました。
北大に来て1年位は多少の時間的余裕がありましたが,1993年に釧路沖地震と北海道南西沖地震,1995年阪神淡路大震災が起き,それ以降は,特に忙しくなりました。2005年1月には阪神・淡路大震災10周年関連行事がいくつもありましたが,2004年スマトラ沖地震津波被害からも分かるように,解決すべき問題は山積しております。
北大では大学院大学への改組,英語コースの発足などがあり,忙しい日々でしたが,楽しく過ごすことができ,お世話になりました多くの方々に心から感謝しています。皆様,本当にありがとうございました。 |
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佐 伯 昇(さえきのぼる) 氏(工学研究科教授)
昭和17年3月26日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和43年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和47年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程修了 |
昭和47年3月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和47年4月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和48年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成2年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
昭和47年から33年間,北海道大学にお世話になり,また学生時代を加えますと,43年間になります。感無量です。誠にありがとうございました。
コンクリートが今世紀においても自然環境を支え,社会基盤の縁の下の力持として働くことを確信し,コンクリートの研究に情熱を傾けてきました。また,平成13年,3カ月の海外研修において,JABEEの重要さ,特に,技術者倫理教育の大切さを改めて知り,土木工学科が一体となって平成15年4月,北海道において最初であり,この分野では全国で第1回目の認定を受けました。
子供の時は,第2次世界大戦が終わり,食べる物は貧しいものでしたが,自然があり,川,野原は美しく残っていました。病気もしましたが,大学に入り,学生紛争もあり,経済の高度成長もあり,ふと見ると自然はなくなり,川も汚れ,豊かさがなくなりました。今後,ボランティアの1人として,NPO水環境北海道の中で,また,他の活動で役に立てばと思っております。技術者倫理の教育は,定年後も非常勤講師として,学生と共に考えていきたいと思っています。 |
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石 島 洋 二(いしじまようじ) 氏(工学研究科教授)
昭和17年3月30日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
東京大学工学部卒業 |
昭和41年3月 |
東京大学大学院数物系研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
東京大学大学院工学系研究科博士課程修了 |
昭和45年3月 |
工学博士(東京大学) |
昭和45年4月 |
東京大学工学部助手 |
昭和47年6月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和48年1月 |
北海道大学工学部助教授 |
昭和61年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
学生諸君の気質は以前に比べて少し変ったような気もしますが,研究室の卒業研究の学生諸君や大学院生諸君との運命共同体という感じはずっと変らず続いています。次々に現われる新しい学生・院生の諸君と同じ仲間のつもりで過ごしている間に,定年退職を迎えることになってしまいました。最近は,あまり無理もできなくなったし,新しい分野に切り込む意欲も能力もなくなったので,丁度,よい頃合に退職できるというのが率直な気持ちです。決して丈夫な体ではないのに,在職中はほとんど病気もせずに退職の日を迎えることができることを感謝しております。
いままで走り続けてきたのを急に止めるのはよくないですが,幸い,新しい環境で仕事ができそうなので,少し気持ちを改め,次の停止信号が見えるまで,歩き続けたいと考えています。 |
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藤 田 睦 博(ふじたむつひろ) 氏(工学研究科教授)
昭和16年5月7日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和42年4月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和43年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
昭和57年12月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和60年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
昨年は10個の台風が上陸し,多大な被害を被った。水害が2級河川に集中し,災害弱者である高齢者の犠牲の多かったことが特徴である。考えてみると,終戦後毎年のように大型台風が日本列島に上陸して洪水災害が頻発し,国は治水施設の設備に巨額の国費を投じてきた。その結果,国が管理する1級河川の洪水被害は激減したと言える。この間の河川工学,水理学に関係する研究派は飛躍的に進歩し,私自身も洪水被害の軽減にいくらかの役割を果たしたと思っております。こまでは河川の研究の多くが,観測資料の豊富な1級河川を対象研究し,どちらかと言えば観測資料の乏しい中小河川の研究は遅れていると言わざるを得ない。4月からは自由な時間がありそうなので,先ずは,北海道内の中小河川をじっくりと見て歩きたいと思っている次第です。 |
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伊 藤 和 彦(いとうかずひこ) 氏(農学研究科教授)
昭和16年4月15日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
昭和41年4月 |
北海道大学農学部助手 |
昭和51年3月 |
農学博士(北海道大学) |
昭和54年7月 |
北海道大学農学部助教授 |
昭和61年4月 |
北海道大学農学部教授 |
平成8年6月 |
北海道大学総長補佐 |
平成9年10月 |
平成11年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
平成14年4月 |
北海道大学評議員 |
平成16年3月 |
札幌生まれ札幌育ちの私にとって北海道大学は身近な存在でした。身近であるが故に「クラーク博士」「構内の自然」等への強い思い入れはあまりありませんでした。しかし,現在は北海道大学が人生の全てと感じています。私が農学部を卒業する時期と講座の新設時期とが一緒になり,恩師の勧めにより助手として採用していただきました。それから39年間が経過しました。振り返りますと楽しいことばかりの教員生活を過ごすことができましたことに大きな幸せを感じています。これは偏に恩師・先輩の皆様のご指導と同僚・後輩の皆様のご援助の賜物と感謝申し上げます。
私の専門は食品に関係の深い分野であり,「川下の研究」を行い,学外の多くの方々と一緒に仕事ができ,社会が求めていることを知り,これを研究に反映することができました。
これからの北海道大学は開かれた新しい大学として学生を大切にして,教育・研究のバランスを取りつつ躍進されることを祈っています。皆様ありがとうございました。 |
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吉 原 照 彦(よしはらてるひこ) 氏(農学研究科教授)
昭和17年3月8日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
昭和47年3月 |
北海道大学大学院農学研究科博士課程修了 |
昭和47年3月 |
農学博士(北海道大学) |
昭和47年4月 |
北海道大学農学部助手 |
昭和63年1月 |
北海道大学農学部講師 |
平成元年10月 |
北海道大学農学部助教授 |
平成10年4月 |
北海道大学農学部教授 |
平成11年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
昭和36年4月北大入学と同時に恵廸寮に入寮を許可された。寮内に設けられた入寮銓衡委員会での所得に関する書類審査と面接試験に合格したからである。翌年立場は変わって銓衡する立場になるが,寮生による入寮銓衡委員会で審査は公正かつ厳正であった。それは自治寮であるという誇りを持っていたからであろう。自治寮である恵廸寮では3権すなわち立法の寮生大会,司法の監査懲罰委員会,行政の執行委員会が分立し機能していた。外から見るとずぼらな集団にみえるが,そうではなく,社会に巣立つ前の教育が集団生活を営む事により施されていたのである。寮生による入寮銓衡という権利があたえられるとそれを公正かつ厳正に執り行う義務が生じることを自覚したのもその一例であろう。私自身は寮生活の営みに於いて,社会での義務と権利をしっかり学んだことになる。
恵廸寮は私が北大から得た宝の一つである。人によって宝は異なるが,北大はそのような宝を学生に提供する場であって欲しいと念ずる次第である。 |
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中 尾 繁(なかおしげる) 氏(水産科学研究科教授)
昭和16年4月2日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学水産学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院水産学研究科修士課程修了 |
昭和43年12月 |
北海道大学大学院水産学研究科博士課程中退 |
昭和43年12月 |
北海道大学水産学部助手 |
昭和55年12月 |
水産学博士(北海道大学) |
昭和56年4月 |
北海道大学水産学部助教授 |
平成3年4月 |
北海道大学水産学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科教授 |
昭和36年から今日まで,長い間北海道で暮らし,その間北海道大学では沢山の方々のご厚誼に預かった。大学を去るに当たって心からお礼を申し上げる。
研究生活においては,故田村正名誉教授から浅海域のベントスに関する研究テーマを頂き,その後,冨士昭名誉教授から昼夜を問わず深い薫陶を得た。おかげでベントス群集の構造特性に関する研究をし,その結果,浅海環境や貝類漁場の評価を可能にする成果を生む事が出来た。その間,多くの学生,院生諸君とは,研究室は勿論,野外調査で苦楽を共にし,今全てが楽しい思い出となって私の心の財産となっている。
水産学部,水産科学研究科在職中には,学部,大学院改革に伴って教育研究の充実が図られ,さらに,昨年4月から大学法人となって大学運営そのものがこれまでとは大きく異なってきた。法人化後の大学が教育研究はもとより,運営面でも軌道に乗るには,まだまだ戸惑いも多く時間がかかると思うが,北海道大学の存在が一層輝かしいものになることを期待したい。 |
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天下井 清(あまがいきよし) 氏(水産科学研究科教授)
昭和16年12月13日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学水産学部卒業 |
昭和39年4月 |
神奈川県技術吏員 |
昭和42年5月 |
昭和42年6月 |
北海道大学水産学部助手 |
昭和55年4月 |
北海道大学水産学部講師 |
昭和59年6月 |
水産学博士(北海道大学) |
昭和60年4月 |
北海道大学水産学部助教授 |
平成3年4月 |
北海道大学水産学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科教授 |
1960年4月9日晩,母,弟妹に見送られて上野駅を発ち札幌駅頭に降り立ったのは11日朝6時30分頃であった。足首を没する新雪の道を北18条の寮まで歩いたのが私の北海道第一歩です。私の人生は最初の旅のように多くの先輩や学生たちとめぐりあい切磋琢磨して終着できた鈍行列車の旅のような気がします。私に旅の切符を与えて下さった方々に改めてここに感謝を申し上げたいと思います。科学する好奇心を育てて頂いた黒木敏郎教授,フィールドワークの楽しさ・大切さを教えて頂いた佐藤修教授,梨本勝昭教授,そして何よりも私を大学に呼んで頂き教え導いて頂いた川島利兵衛教授,励まして頂いた稲葉恭人教授,実船実験で教えて頂いたおしょろ丸藤井武治船長,増田紀義船長,うしお丸松島寛治船長,そして私を支えてくれた教室のスタッフの皆さん,数え上げればとめどがありません。本当に多くの方々に心より感謝を申し上げます。「ビー アンビシャス」「ビー ジェントルマン」のクラーク精神を受け継ぐ北大に憧れて選んだ私の旅は自由で楽しいものでした。本当に多くの方々に心より感謝を申し上げるとともに,これからの北大が子供たちの憧れの大学としてあり続ける事を祈念してご挨拶と致します。 |
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鈴 木 翼(すずきあきら) 氏(水産科学研究科教授)
昭和16年10月5日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和41年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和44年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和44年4月 |
日本学術振興会奨励研究員 |
昭和44年12月 |
昭和44年9月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和45年1月 |
北海道大学水産学部講師 |
昭和51年4月 |
北海道大学水産学部助教授 |
昭和57年4月 |
北海道大学水産学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科教授 |
昭和35年に入学してから今日まで,学生時代を含み45年間,北海道大学にお世話になりました。入学時は60年安保の年に当たり,しかも高度成長期の真っ只中という時代でしたので,日本全体がエネルギーに満ち溢れていたような気がします。また,この45年間は,社会的にも学術的にもあらゆる分野が大きな変革を遂げた時期でもありました。コンピュータ,情報・通信,そしてバイオテクノロジーなどの分野で新技術が次々に生まれ,一気に発展しました。おそらく私たちの世代以外では,このような経験をすることは不可能だっただろうと思います。その意味でいい時代にいい大学で過ごさせてもらったことを感謝しております。北大の伝統的な長所は,目標は実用に置きながらも,小手先の解決ではなく,現象と真っ正面から取り組んで根本的な解決を目指す姿勢にあると思います。時代の流れに遅れず,将来の飛躍を目指すことは,個人では不可能に近いことかもしれませんが,北大ならばこれまでに築き上げてきた豊富な人的資源と伝統という財産を活用することによって可能に思えます。これからも信頼される北大であることをお祈りいたします。 |
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林 賢 治(はやしけんじ) 氏(水産科学研究科教授)
昭和16年5月23日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学水産学部卒業 |
昭和39年4月 |
民間(理研ビタミン油株式会社) |
昭和41年5月 |
昭和41年6月 |
財団法人水産科学研究奨励会研究助手 |
昭和42年1月 |
昭和42年2月 |
北海道大学水産学部教務補佐員 |
昭和42年4月 |
北海道大学水産学部助手 |
昭和54年6月 |
水産学博士(北海道大学) |
昭和58年2月 |
北海道大学水産学部助教授 |
平成7年4月 |
北海道大学水産学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科教授 |
本学に奉職して以来38年間,良き師,先輩,同僚,後輩,職員,そして若き学生達の皆様に恵まれて,多くのご支援,ご指導をいただき,定年を迎えることができました。心からお礼申し上げる次第です。
海の寄せ返す波の音に惹かれ,魚釣が趣味となり,サケ・マスの孵化に興味を抱いて,水産学を学びました。学生時代のゼミナールで,深海産サメ類の肝油や生きた化石魚シーラカンスの体脂質が特異な成分であるという「サイエンス」の論文に強く触発され,その後,魚油化学研究の一端に携わることが出来ましたことを深く感謝しています。いま,科学研究において,科学的真理の追究の基礎科学と産業技術の追求の応用科学の協同・推進が求められており,今後の学術研究に一層の成果が得られますことを期待しています。
最後に,北大の益々の発展と皆様のご健勝を祈念いたします。 |
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簗 田 憲 之(やなだのりゆき) 氏(言語文化部教授)
昭和17年2月23日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学文学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院文学研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
北海道大学大学院文学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和45年4月 |
北海道大学文学部助手 |
昭和46年4月 |
北海道教育大学岩見沢分校助手 |
昭和48年4月 |
北海道教育大学岩見沢分校講師 |
昭和50年4月 |
北海道大学文学部講師 |
昭和54年7月 |
北海道大学文学部助教授 |
昭和59年4月 |
北海道大学言語文化部助教授 |
平成4年6月 |
北海道大学言語文化部教授 |
平成16年4月 |
北海道大学大学院教育学研究科多元文化教育論講座担当 |
学生時代を加えると,ほぼ40年間本学にお世話になりました。学者として中途半端なまま,いたずらに年を重ねてしまったことを悔やんではいますが,旧教養部以来,長い間英語の授業を担当させていただいたことを誇りに思っています。教養課程の語学の授業は,砂漠に水を撒くようなものだなどといわれることもありましたが,その中から芽も出て花も咲き,実もなることもあると信じて,教育に情熱を注いできたつもりです。
今年度は,教室の窓から見えるキャンパスの季節の移り変わりが毎日心に沁み入るようでした。9月の台風による被害も忘れられない出来事です。ただ,後期になって病に倒れ,最後まで大切な教育の責任を果たせなかったことは痛恨の極みでした。同僚諸氏に暖かく支えられて,何とか定年の日まで漕ぎつけることができたことをただ深く感謝するのみです。
大学の激変の中,効率や目に見える利益とは直接関わりがない学問や教育の部分がおろそかにされない大学であり続けて欲しいと切に願っています。 |
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山 村 悦 夫(やまむらえつお) 氏(地球環境科学研究科教授)
昭和17年2月17日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和41年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和46年8月 |
ペンシルベニア大学大学院地域科学専攻修士課程修了 |
昭和48年12月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和50年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
昭和52年4月 |
北海道大学大学院環境科学研究科助教授 |
昭和56年9月 |
北海道大学大学院環境科学研究科教授 |
平成5年4月 |
北海道大学大学院地球環境科学研究科教授 |
工学部に交通工学科新設により,要請されて理学部より工学部に奉職し,新学科の確立に邁進しました。その後,公害問題の解明のため環境科学研究科設立のため大学本部で深夜まで残り設立に奔走しました。当研究科より全国初の学術博士(Ph,D)が輩出されました。その後,地球環境問題の解明と教養改革で地球環境科学研究科の設立にも奔走しました。39年の大学奉職中,大学紛争に始まり改革・改革で奔走したが,この間一貫して「モデル規範適応理論」の研究を続け,世界中より集まった留学生と共に日夜研究し,現在,北米,中南米,南米,北東・東南・南アジア,オセアニア,中東,ヨーロッパ,南アフリカ,中国,ロシアに拠点大学が設置され,国際誌が発行され,現在編集委員長を担当しています。北大も法人化により大改革期に来ていますが,教職員一体となって改革に果敢に挑戦されることを期待いたします。 |
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西 則 雄(にしのりお) 氏(地球環境科学研究科教授)
昭和16年12月23日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程修了 |
昭和45年3月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和45年4月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和48年10月 |
米国ピッツバーグ大学医学部蛋白質研究所研究員(文部省在外研究員) |
昭和50年9月 |
平成2年5月 |
西ドイツマルブルグ大学物理化学部(ドイツ学術交流会研究員) |
平成2年8月 |
平成3年3月 |
北海道大学理学部講師 |
平成4年4月 |
北海道大学理学部助教授 |
平成5年4月 |
北海道大学大学院地球環境科学研究科教授 |
平成10年4月 |
北海道大学大学院地球環境科学研究科長,評議員 |
平成14年3月 |
平成14年4月 |
北海道大学評議員 |
平成16年3月 |
学生時代も含めて30年間以上,理学部高分子学科で蛋白質,ペプチドを中心にした研究生活を送りました。その後,平成5年に新しく発足した大学院地球環境科学研究科に移り,これを機にそれまで暖めていたテーマ“サケ白子DNAを用いて新しい機能性素材を開発する”という研究を始めました。これは研究熱心な学生や多くの協力者に恵まれ,なかなか面白い展開ができました。引き続き学内外の方々と協力し,さらに発展させ社会に出していこうと思っています。
理学部時代は研究一本の生活でしたが,地球環境科学研究科在職中は専攻長を3年間,研究科長を4年間,そして評議員をさらに2年間務めさせていただきました。これらの職務を通じて,部局や大学の運営に関してより広い視野をもつ事ができるようになり,大変勉強になりました。
四季の移り変わりが美しい北大キャンパスにて長く,幸せな研究生活を送ることができました事,御世話になりました皆様に厚く御礼申し上げます。 |
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嘉 数 侑 昇(かかずゆきのり) 氏(情報科学研究科教授)
昭和16年10月3日生 |
(略 歴) |
昭和42年3月 |
琉球大学農家政工学部卒業 |
昭和42年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和43年3月 |
昭和45年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和48年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程修了 |
昭和48年3月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和48年4月 |
国立旭川工業高等専門学校助教授 |
昭和51年4月 |
国立旭川工業高等専門学校教授 |
昭和52年11月 |
北海道大学工学部助教授 |
昭和62年7月 |
北海道大学工学部教授 |
平成8年5月 |
北海道大学先端科学技術共同研究センター長(兼任) |
平成12年3月 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大型計算機センター長(兼任) |
平成15年3月 |
平成13年4月 |
東京大学大学院工学系研究科教授(併任) |
平成14年3月 |
平成16年4月 |
北海道大学大学院情報科学研究科教授 |
還暦に表象されるがごとく,戦後60年が過ぎ再び繰り返されん歴史の兆候著しいこの年に退官を迎えることにいささかの感慨を覚える。ところで,工学的視座からすればたかだか40数年の歴史しか持たないコンピュータの揺籃期から現在までを,その発展時間軸とともにその工学応用に関する研究,特に世界に先駆けた北大発CAD/CAMシステムR&D,複雑系工学の立ち上げに携わってこられたことは幸運の一語に尽きる。翻って現IT教育の在り様は,その歴史の浅さ,人工性,発展性,他分野への浸透性から,有効な教育スキームを見出し得ない実感がある。現在進行中の産学連携によるITトップガン人材育成寄附講座は本課題への接近であり成果が期待される。その他,産学連携運動,北海道TLO実現,産学協働センター開設などに関わらせていただいた。省みるにこれらすべて一個人でなし得るものはなく,多くの同志たる関係者のご尽力ご支援の賜物であることに深謝するとともに,これまでの活動の環境を懐深くご提供いただいた北大のますますの発展を祈念したい。 |
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長谷川 英 機(はせがわひでき) 氏(情報科学研究科教授)
昭和16年6月22日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
東京大学工学部卒業 |
昭和41年3月 |
東京大学大学院工学系研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
東京大学大学院工学系研究科博士課程修了 |
昭和45年3月 |
工学博士(東京大学) |
昭和45年4月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和46年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
昭和55年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成3年4月 |
北海道大学量子界面エレクトロニクス研究センター長併任 |
平成13年3月 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
平成13年4月 |
北海道大学量子集積エレクトロニクス研究センター長併任 |
平成17年3月 |
平成16年4月 |
北海道大学大学院情報科学研究科教授 |
北大を去るにあたって,私が35年間働いた工学部電気電子・情報系の学科や大学院,量子界面・集積エレクトロニクス研究センターには,常に心楽しい自由な雰囲気と,進取の気持ちが溢れていました。思う存分やらせていただいた上に,折々にご助力を頂きました同僚の先生方に,心から感謝申し上げます。ここで北大の姿を見ますと,輝かしい未来の可能性と共に,一抹の不安をも感じます。独立行政法人化以来,随所で「競争と効率の追求」,「視点の短期化」と「実用指向化」が進行し,大学の本来の姿が失われて行くのではないかと危惧します。これは,社会全体の昨今の状況と無関係とは思われません。人類はかつてなくネットワーク化されつつも,根幹に多くの問題をかかえ,その未来は不透明です。21世紀の「拠点大学」としての北大に求められるのは,長期的視野にたつ方向性を与える科学と問題解決の工学の構築です。「規制が減り,思う存分にやれること」や「実績がより明確かつ公平に評価される」などの新しいメリットを生かし,若い人々が,人類の未来に真正面から取り組む基礎および応用研究に立ち向かい,北大の輝かしい未来を開くことを,心から期待します。 |
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青 木 由 直(あおきよしなお) 氏(情報科学研究科教授)
昭和16年9月2日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和41年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和41年4月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和42年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
昭和47年12月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和54年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
平成16年4月 |
北海道大学大学院情報科学研究科教授 |
昭和39年に電子工学科の1期生として卒業し,修士修了後に電波応用工学講座の講師として本学に勤務して39年間,この間にお世話になった学内外の方々にお礼申し上げます。研究者としてのスタート時には,講座名にある電波が専門分野であったため,当時研究が勃興してきた光ホログラフィ技術を電波領域に展開した,長波長(電波・音波)ホログラフィで先駆的研究ができ,学位論文もこのテーマをまとめたものでした。この研究にはコンピュータ処理の部分が必要で,1970年代に貧乏研究室でもCPU等を手に入れて組み立てることが可能になりつつあったマイクロコンピュータ技術を本学の学生達と勉強しながら研究に生かしました。この勉強会参加者のうちITベンチャー企業を興す学生達が現れ,それが現在「サッポロバレー」と称される札幌の情報産業集積へ発展して行きます。研究成果そのものよりは,このIT産業勃興の源流に位置付けられた評価が大きく,北海道科学技術賞受賞等の幸運にも浴しました。サッポロバレーの未来戦略としてのアジアの情報先進都市を結ぶ「e−シルクロード」構想を提唱して,その実績を基にした活動を退職後のテーマの一つにしようと考えています。 |
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大 西 利 只(おおにしとしただ) 氏(情報科学研究科教授)
昭和16年7月28日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
大阪大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
大阪大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和42年4月 |
工業技術院電気試験所入所 |
昭和55年6月 |
工学博士(大阪大学) |
昭和58年11月 |
工業技術院電子技術総合研究所研究室長 |
平成3年8月 |
工業技術院電子技術総合研究所エネルギー部長 |
平成6年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
平成16年4月 |
北海道大学大学院情報科学研究科教授 |
つくばの国立研究所から転任して10年余,伝統ある北海道大学で教育と研究に従事できたことは真に幸いでした。大志の系譜を底流とする北大の全人教育の理念はアカデミーの象徴のようであり,効率を求めてますます忙しくなる現下の情勢の下ではいっそう強く求められる理想の姿と思われます。私自身はいかほどその理念に沿えたか甚だ心許ありませんが,今後ともそれを大事に育まれ,北大ブランドとして全国の模範にしていただきたいと願っております。法人化が実施され,大学人はこれまで以上に厳しい競争的環境に置かれることとなり,研究面ではややもすれば短期的成果を求めがちになるかもしれませんが,教育は理想形を追求して欲しいと思います。国民の大学に対する大きな期待の一つは,将来のノーベル賞級理論や大発明・発見につながる若人の育成にあるのでしょうから・・・。最後に,皆様のますますのご発展を祈念致し,感謝の言葉とします。有難うございました。 |
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中 嶋 博(なかしまひろし) 氏(北方生物圏フィールド科学センター教授)
昭和16年8月24日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
昭和41年6月 |
北海道大学大学院農学研究科修士課程中退 |
昭和41年7月 |
北海道大学農学部助手 |
昭和51年12月 |
農学博士(北海道大学) |
昭和61年10月 |
北海道大学農学部助教授(附属農場) |
平成6年4月 |
北海道大学農学部教授(附属農場) |
平成13年4月 |
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター教授 北海道大学農学部教授併任
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平成13年4月 |
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター耕地圏ステーション生物生産研究農場長 |
平成14年3月 |
平成14年4月 |
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター副センター長,耕地圏ステーション長 |
平成17年3月 |
寝台急行「日本海」に乗り込み,津軽海峡を連絡船で渡り,36時間かけて札幌に着いて早44年が経ちました。大学院生の途中で,公務員の定員不補充時代ではあったが,学部拡充整備で学科,講座増設が行われ,空き定員を早く埋めるということで助手に採用されたと思っています。すぐに大学紛争の混乱や,助手の大学院手当や待遇改善の問題などはありましたが,恵まれた環境の中で教育,研究に従事することができました。農場に異動したころは通称「蛸の頭」(24条以北の農場用地)の処分問題が起こっていました。以後ずっと組織改革や土地割愛等で精力を使いました。毎年連休明けにはポプラの枝先で鳴くカッコウはほとんど来なくなり,また並木も台風で見るも哀れとなり悲しくなりました。大学法人化や学院構想が現実のものとなっています。これらの変革が成功し,後世に役立つ知の創造,伝達,活用がうまくいきますよう,ご健闘をお祈りします。
長い間お世話になった,北大と,教職員,学生の皆さまに感謝します。 |
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松 田 彊(まつだきよう) 氏(北方生物圏フィ−ルド科学センタ−教授)
昭和16年4月14日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
昭和46年6月 |
北海道大学大学院農学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和46年7月 |
北海道大学農学部附属演習林助手 |
昭和54年4月 |
北海道大学農学部附属演習林講師 |
昭和57年12月 |
北海道大学農学部附属演習林雨龍地方演習林長 |
平成5年12月 |
昭和57年12月 |
北海道大学農学部附属演習林名寄林木育種試験場長 |
平成3年7月 |
平成元年3月 |
農学博士(北海道大学) |
平成元年9月 |
北海道大学農学部附属演習林助教授 |
平成6年4月 |
北海道大学農学部附属演習林教授 |
平成10年4月 |
北海道大学農学部附属演習林長 |
平成13年3月 |
平成13年4月 |
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター教授 |
平成13年4月 |
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター副センター長 |
平成15年3月 |
ようやく退職の日を迎えることができました。ようやくというのは少し語弊がありますが,様々な方々にご迷惑をかけての生活もようやく終わったということです。本当に有り難うございました。
思えばこの期間は,まさに日本が色々な面で変わってきた時期でした。昔は良かったと思うこともありますが,それは今だから感ずることでしょう。何時の時代にも問題があったことは間違いありません。私は北大に憧れて入学し,私の思っていた北大らしさを十分に味わって退職できることを本当に有り難いことだと感じています。北大らしさとは人によって異なるとは思いますが,どうか一人一人の北大らしさを求めて,これからの難局を乗り切って頂きたいと思います。 |
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青 木 義 明(あおきよしあき) 氏(エネルギー変換マテリアル研究センター教授)
昭和16年4月15日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和45年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和62年12月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和63年4月 |
北海道大学工学部附属先端電磁流体実験施設助教授 |
平成6年6月 |
北海道大学エネルギー先端工学研究センター助教授 |
平成16年4月 |
北海道大学エネルギー変換マテリアル研究センター教授 |
多額の科研費が小澤研究室に交付されたことから,MHD発電研究を続行する羽目になり,あっと言うまに定年になってしまいました。みなさまのお力添でもって,好きな研究を続けられたことに感謝しております。
40年前の北大工学部は廊下に所々,穴が開いていて走ることも物理的にできませんでしたし,女子トイレもありませんでした。しかし,教職員の皆さんは活力に溢れ,トップを走る研究が続々と行われ,立派に旧帝大として,高い評価をうけておりました。
しかしながら,恵まれすぎている環境下である今日でこそ10年−20年先を見据えた研究が可能なのに,目先の研究に目移りし,真理追究に対しての覇気が乏しいように見受けられます。多くの会議,煩雑な事務書類,目先の業績,程度の低い実験,わずかの金での企業の下請け研究,学生を道具として利用する云々‥‥,教育研究のレベル低下?が強く感じられます。目を輝して勉強や研究をしている学生や研究者がどのくらいいるのでしょうか。
これらの解決策はただ一つでしょう。それは世界一の研究をすることです。論文を評価外とし,国際特許のみを評価の対象とすることで,高レベルの研究や教育が自然に醸成されるのではないでしょうか。世界中から目を輝かした人材が集まる北大になることを祈念しています。 |
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千 葉 忠 俊(ちばただとし) 氏(エネルギー変換マテリアル研究センター教授)
昭和17年3月28日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和41年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和42年9月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程中退 |
昭和42年10月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和48年12月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和52年1月 |
北海道大学工学部附属石炭系資源実験施設助教授 |
平成3年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成7年4月 |
北海道大学エネルギー先端工学研究センター教授 |
平成16年4月 |
北海道大学エネルギー変換マテリアル研究センター教授 |
昭和35年4月の入学以来,45年間の北大生活を過ごし,幸運にも停年を迎えることになりました。この間,尊敬する先輩の諸先生をはじめ,多くの教職員の方々,優秀な学生諸君に恵まれ,研究と教育を存分に楽しむことができました。心から感謝いたします。私は在職期間の過半を教育研究施設で過ごしましたが,わが国初の時限付き実験施設である工学部附属石炭系資源実験施設で教育研究に携わったことが,大学像について多くのことを考え続ける機会となりました。とくに,大学における教育と基礎研究の成果を,わかりやすく世の中に発信することの重要性を知りました。他方,昨今強調されている研究における産学共同については,分担を明確に契約しない共同の姿を理解できないまま,退職を迎えます。
数年前から昼休みにキャンパスの散歩を始め,わがキャンパスに残る自然の素晴らしさを改めて堪能しています。このような環境を教育,研究の場とする北大が,これからも一層発展するものと信じております。 |
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鈴 木 教 世(すずきのりよ) 氏(理学研究科助教授)
昭和16年12月25日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和41年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和44年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程修了 |
昭和44年3月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和44年5月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和51年6月 |
北海道大学理学部講師 |
平成5年4月 |
北海道大学理学部助教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科助教授 |
1960年理類に入学して以来,理学部助手に採用された直後,出張でアメリカフロリダ州立大学に2年4ヶ月留学した以外,学生時代とその後の教官(教員)時代をすべて北大で過ごし,45年にもなった。入学と同時にあこがれの北大ボート部に入り,全日本レガッタ優勝を目指して,教養や理学部での勉強よりもボート部に熱中した。優勝こそ成らなかったが,ボート部で一生涯の友人を数多く得た。理学部生物学科(動物学)やその後の大学院進学では,良き指導者に恵まれ,動物の化学感覚(嗅覚と味覚)の行動学的・電気生理学的研究を行い,助手に採用されて以後も,この研究テーマ一筋で過ごし,国内・外の学会では,少なからず北大の有名を馳せることも出来た。北大の法人化に伴いこれまでにない激動的変化を実感しているが,根っからの北大人の一人として,北大が良い方向に益々発展することを,心から願うものである。 |
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鎌 田 勉(かまだつとむ) 氏(歯学研究科助教授)
昭和16年10月15日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和47年2月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和47年2月 |
北海道公害防止研究所研究員 |
昭和50年2月 |
北海道大学歯学部助手 |
昭和53年3月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和56年5月 |
合衆国ミズーリ州立大学研究員 |
平成元年7月 |
西独コンスタンス大学研究員 |
平成5年8月 |
独ウルム大学研究員 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院歯学研究科助手 |
平成14年6月 |
北海道大学大学院歯学研究科助教授 |
昭和35年北海道の田舎から夜行列車できて概ねこのキャンパスにいた。安保では政治に期待するもテロで終わり。あの頃の新興宗教は今政府の右の翼になっている。42年は長いと思ったが停めるときは皆そうなので普通なのだと思い返した。夜汽車は今は欧米へ行く気分。実験機器は高価で消耗品も高いのに研究自由に使えるのは大学だけかと思いを新たにするが貢献が少ないと思うと不完全燃焼だし,ささやかでもと満足するには程遠い。研究はアイソザイム進化から分子に逆行して齧歯類翼手類の超音波発声聴覚からサル大脳へと研究は進めたが聴覚野2次3次機能は未だ暗中のまま。我がキャンパスは夏は草木も茂り花も咲きお世辞も言われるが秋冬は木枯しが吹き直線道路ではホコリが舞う。生物学を基点に歯科基礎医学へと彷徨うも歯科の基礎Oral
Biologyは教養でスクラップ&ビルド,伝統などできない。若い学部だったのに既に2世が入学してくるのは感慨深い。やはり歯学部も頑張ってほしいと願うのである。北海道にむつかしい歯科医療はなかったのだし。停年でうれしいのは教授だ助教授だという実は死後も逃げられない?しがらみから一旦離れることだろうか。お世話になりました。 |
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折 登 一 彦(おりとかずひこ) 氏(工学研究科助教授)
昭和16年11月26日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和41年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和44年9月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程修了 |
昭和44年9月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和44年6月 |
日本学術振興会奨励研究員 |
昭和45年5月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和45年9月 |
カリフォルニア州Syntex-Varian研究所研究員 |
昭和46年10月 |
オンタリオ州Waterloo大学博士研究員 |
昭和48年9月 |
インディアナ州Indiana大学博士研究員 |
昭和49年1月 |
テキサス州Rice大学博士研究員 |
昭和51年4月 |
北海道大学工学部助手 |
平成4年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科助教授 |
昭和35年本学理類に入学して以来,また昭和45年理学部化学第2学科助手に採用されてより,今日まで北海道大学には長くお世話になりました。私の人生そのものと言っても過言ではありません。数え切れない多くの恩師,諸先輩,同僚,教職員の皆さまの心温まる支を戴き,そして学生さんたちの若いエネルギーに鼓舞されてここまでやって参りました。皆様には心から感謝しております。顧みますと,ステロイドホルモン,各種テルペン類,唐辛子を始めとする香辛料の辛味成分,種々のアルカロイドなど生理活性化合物の合成研究を中心に,ラジカル環化による複素環の短段階合成,パラジウム触媒を用いる環化反応,また炭酸ガスや一酸化炭素ガスを炭素源として用いる簡便かつ効率の高いカルボニル化法などを開発することも出来,充実した40余年を過ごさせて戴きました。
公私に渡りお世話になりました皆様,そしてこれから北海道大学を支えて行かれる皆様に,益々のご発展とご健勝を祈念させて頂きます。長い間ありがとうございました。 |
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高 間 俊 彦(たかまとしひこ) 氏(工学研究科助教授)
昭和16年4月19日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和41年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和41年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和59年12月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和63年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科助教授 |
いよいよエルムの学園を去るときを迎えました。北大に在籍している間に経験した,安保闘争,大学紛争,大学院重点化,法人化などを思い起こし,考え深いものを覚えます。その間,良き師,良き友,良き仲間に恵まれながら研究教育生活を送ることができました。
エルムの茂るキャンパスに似合う旧い建物の多くが姿を消しました。旧教養部の講義室は木造で,床には穴があき歩くとミシミシと音がしたものです。今では,コンクリート造りの高層ビルに変貌しています。大学をとり巻く状況も激変しました。学生の頃は,大学は真理を追及する場であると事あるたびに教えられ,産学協同研究などは忌み嫌われた時代でした。ところが今は,企業に利潤をもたらす研究がもてはやされる時代です。かつてそのような時もあったことを記憶すべきでしょう。
法人化がなり,内外の北大に寄せる期待がますます大きくなるなか,皆様の一層のご活躍とご発展を祈念いたします。ありがとうございました。 |
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松 本 高 明(まつもとたかあき) 氏(工学研究科助教授)
昭和17年1月5日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
京都大学工学部卒業 |
昭和41年3月 |
京都大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和41年4月 |
京都大学原子炉実験所助手 |
昭和48年4月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和49年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
昭和55年1月 |
工学博士(京都大学) |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科助教授 |
32年前関西から北大に転勤して来た時,日本の原子力発電はわずか5基で総発電量も約180万キロワットであった。現在は53基で約4700万キロワットと飛躍的に伸び,日本の重要なエネルギー源となっている。しかし最近電力の自由化などの影響で新規の原子炉の建設が余り期待出来ない状況にある。また今年4月からは小生の所属する量子エネルギー工学科は他の学科と合体して新しい学科になり,「量子」や「原子」の名前が消滅することになる。定年退職がその時期に合致して何か因縁めいたものを感じています。しかし昨今の日本の原子力研究開発の新しい分野は非常に積極的で,若い研究者の意欲を大いに刺激している。米国の原子力復活の動向とも相まって,「原子力ルネッサンス」が実現することを期待しています。近い将来,若い日本の研究者が原子力の分野で世界をリードして行く様子が目に見えるようです。北大の皆様に豊かな祝福があるように願っています。 |
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井 上 勝 一(いのうえしよういち) 氏(地球環境科学研究科助教授)
昭和17年2月12日生 |
(略 歴) |
昭和46年3月 |
北海道大学医学部卒業 |
昭和46年7月 |
北海道大学医学部第一内科入局 |
昭和57年3月 |
医学博士(北海道大学) |
昭和58年7月 |
米国 Mount Sinai 医科大学腫瘍学講座研究員 |
昭和60年6月 |
民間(美唄労災病院内科部長) |
平成元年4月 |
北海道大学大学院環境科学研究科助教授 |
平成5年4月 |
北海道大学大学院地球環境科学研究科助教授 |
がんの発生が環境にいかに影響されるかを,私達は研究してきました。自然環境では気温に,社会環境では大気汚染に,生体環境では加齢に,細胞環境では分子(特にタンパク)の動的変化に着目しました。私のところでは,学生一人一人が自分の好きなテーマを自分で選び,自分で方針を立て実行することをモットーとしましたので,テーマが多岐に亘りました。自由に課題を選んだ学生は活動的で,その優秀さを遺憾なく発揮します。国際誌に3編の論文が採用された修士学生,4編の英文論文と多くの共著論文を出した博士課程の学生,修士時代の英文論文がNatureに発展した学生,国際学会のプレナリーセッションやシンポジウムで発表した学生,国際学会の賞に輝いた学生などと一緒に勉強しましたから,学生から多く教えられ,私も成長いたしました。一緒に研究した学生諸君に心から感謝したいと思います。
学生諸君も成長し社会に巣立ちました。私も遅ればせながら巣立つ時を迎えました。 |
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鈴 木 延 夫(すずきのぶお) 氏(先端科学技術共同研究センター助教授)
昭和16年8月13日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道大学文学部卒業 |
昭和41年3月 |
北海道大学大学院文学研究科修士課程修了 |
昭和43年4月 |
北海道大学大学院文学研究科博士課程退学 |
昭和43年5月 |
北海道大学文学部助手 |
昭和54年11月 |
北海道大学文学部講師 |
昭和60年8月 |
北海道大学文学部助教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院文学研究科助教授 |
平成13年4月 |
北海道大学先端科学技術共同研究センター助教授 |
ポプラ並木の四季
(一)早春
木の芽小さきポプラの並木
爽やかな風 頬を吹き抜け
そこに広がる素肌の大地
キャンバス広く行き交う友よ
誰が何処からやってきたのか
顔と名前がすれ違う
でも 僕等はそれでよかった
なにも不足は感じなかった
皆みんな 若く貧しく
希望の星を持っていた
(二)盛夏
爆音たなびく時代の流れ
矛盾の壁 目の前に聳え
そこに広がる血潮の大地
スクラム組んで街行く友よ
ベトナムの惨禍 歌に流れ
仲間の顔に涙溢れる
戦争なんてもう嫌だ
そうつぶやいた君がいた
緑豊かなポプラの並木
牧場の草さえ 光ってる
(三)初秋
色付き始めたナナカマド
西から秋風忍び込む
そこに広がる実りの大地
巷に出掛けた我友よ
優しい妻に出会えたか
君の息子は何処にいる
もう若くはないのだから
その手を止めて休むんだ
寂しくなったポプラの並木
羊の声が木霊する
(四)初冬
人影消えたポプラの並木
北から地吹雪 吹き抜ける
そこに広がる無言の大地
都会の街で佇む友よ
昔の想いある限り
憩える場所がここにある
君はなにをしてきたか
そんなことなど誰が聴く
傷んだ身体 支え合い
想いを込めて歌おうか |
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箕 浦 名知男(みのうらなちお) 氏(総合博物館助教授)
昭和17年2月26日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和48年3月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和49年6月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程修了 |
昭和49年6月 |
理学博士(北海道大学) |
平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科助手 |
平成11年4月 |
北海道大学総合博物館助教授 |
Viva Universidad, Adios Universidad.
大学万歳,さらば大学。
昭和36年入学以来ずっと世話になってきた北大と,さようならする日が来た。厳密には,今後も総合博物館には時々は来なければならないから,さようならではないが,実感としては,Adios
Universidad!
思えば,60年安保にひとつ遅れ,70年安保やそれに引き続く大学紛争にもほとんど,局外に立っていた。幸運だったのか,不幸だったのかはわからない…
最近地球温暖化がかまびすしく叫ばれているが,北大に入学したころは,“38年豪雪”があり,日本海側の国鉄は10日近くも完全に麻痺していたことを思い出す。あらためて理科年表を繰ってみたら,このときの死者数は,92名となっている。また大学院生だった44年には江別の石狩川沿いの国道で,吹雪と吹き溜まりのため数百台の車が立ち往生し,数人が一酸化炭素中毒で死亡するという災害があったが,上記理科年表には記載がない。当時は,“氷河期が近づいている”などという報道が盛んだったことを覚えている。
つい先ほど,総長選公開質疑の日,正午ころクラーク会館前に黒塗りの高級車がアイドリングしながら止まっていた。運転手さんは,クラーク会館に入るのを禁止されていたのだろうかと,ふと気になった。
99年に総合博物館が発足し,これで年中行事のように捨てられていた標本が,確実に整理保管される道が付いた。といっても,教員7名ではなかなか大変ではあるが,ようやく大学としての機能を発揮できる体制のスタートについた。Viva
Universidad! |
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大 西 三 機(おおにしみつき) 氏(キャリアセンター課長)
昭和19年8月6日生 |
(略 歴) |
昭和38年6月 |
北海道学芸大学旭川分校 |
昭和44年5月 |
北海道教育大学旭川分校 |
昭和50年4月 |
北海道教育大学附属図書館旭川分館 |
昭和52年4月 |
北海道教育大学旭川分校 |
昭和56年4月 |
北海道教育大学釧路分校附属中学校係長 |
昭和58年11月 |
北海道教育大学釧路分校庶務係長 |
昭和61年4月 |
北海道教育大学旭川分校学生係長 |
昭和62年11月 |
北海道教育大学旭川分校庶務係長 |
平成元年4月 |
北海道教育大学札幌分校庶務係長 |
平成4年4月 |
北海道教育大学庶務課専門職員 |
平成5年4月 |
北海道教育大学庶務課庶務係長 |
平成6年3月 |
北海道教育大学庶務課課長補佐 |
平成6年4月 |
小樽商科大学学生課長 |
平成10年4月 |
群馬大学入試課長 |
平成12年4月 |
群馬大学学生部入試課長 |
平成12年9月 |
秋田大学学生部学生課長 |
平成14年4月 |
秋田大学学務部学務課長 |
平成15年4月 |
北海道大学学務部厚生課長 |
平成16年4月 |
北海道大学学務部キャリアセンター課長 |
昭和38年6月に,北海道学芸大学旭川分校(現教育大学旭川校)に奉職して以来,約42年間の大学勤務をこの3月で定年を迎えることとなりました。
この間北教大(旭川・釧路・札幌),小樽商大,群馬大,秋田大,そして北大と5つの大学で学生部関係の仕事を主に,楽しく勤務させていただきました。
約42年の間には大学紛争,大学改革そして最後は国立大学法人化と節目節目に色々なことがありましたが,その都度支えて頂いた上司,同僚,後輩,そして各大学でおつきあい頂いた先生方のご指導・ご支援があったお陰と深く感謝しております。
最後の1年を全国の国立大学法人として初の試みであるキャリアセンターの創設・運営業務に携わることが出来ましたことを誇りに思っております。
大学を取り巻く状況は今後益々厳しくなるものと思われますが,北海道大学の英知を結集されまして,益々発展されることを祈念し,退官の挨拶とさせていただきます。 |
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袴 田 正 征(はかまだまさゆき) 氏(施設部施設管理課長)
昭和19年12月15日生 |
(略 歴) |
昭和38年7月 |
北海道学芸大学岩見沢分校 |
昭和41年4月 |
北海道教育大学岩見沢分校 |
昭和43年6月 |
北海道大学経理部経理課 |
昭和46年11月 |
北海道大学経理部主計課 |
昭和50年5月 |
北海道大学歯学部 |
昭和52年5月 |
北海道大学理学部 |
昭和54年7月 |
北海道大学経理部主計課 |
昭和57年4月 |
室蘭工業大学会計課管財係長 |
昭和59年9月 |
室蘭工業大学会計課司計係長 |
昭和62年4月 |
北海道大学工学部経理課経理掛長 |
平成元年4月 |
北海道大学経理部主計課第一予算掛長 |
平成2年10月 |
北海道大学経理部主計課課長補佐 |
平成8年4月 |
北海道大学医学部附属病院管理課課長補佐 |
平成11年4月 |
北海道大学大型計算機センター事務長 |
平成13年4月 |
北海道大学経理部第二契約課長 |
平成16年4月 |
北海道大学施設部施設管理課長 |
昭和38年北教大岩見沢分校を振り出しに,北大,室工大そして北大と約42年間,特に印象深く残っているのが,北大で昭和44年に始まった大学紛争で事務所を転々としたこと。平成元年からの主計課で,大学院重点化のため連日夜中まで苦労した中にも成果を喜んだこと。国立大学の法人化移行に向けては,従来の考え方と全く違った発想が求められ,古い頭を切り替えるのに大変だったこと。平成16年9月の台風18号で,大木が何本も倒れ大学が大きな被害を受けたこと。それでも緑豊かであり,歴史ある北海道大学で無事退職を迎えることができますのは,北海道大学をはじめお世話になった各大学での,良い上司,同僚,後輩皆様から頂いた心温まるご指導,ご支援の賜と心から感謝申し上げます。
最後になりましたが,北海道大学がこの厳しい時代を乗り越え,益々発展されますことと,皆様のご健勝を祈念しまして,退職の挨拶と致します。 |
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矢 野 誠(やのまこと) 氏(附属図書館情報管理課長)
昭和19年11月8日生 |
(略 歴) |
昭和39年8月 |
北海道大学工学部 |
昭和45年5月 |
北海道大学附属図書館教養分館 |
昭和49年5月 |
北海道大学附属図書館閲覧課 |
昭和52年5月 |
北海道大学経済学部 |
昭和56年4月 |
北見工業大学附属図書館整理係長 |
昭和59年4月 |
北海道大学低温科学研究所図書掛長 |
昭和62年4月 |
北海道大学農学部図書掛長 |
昭和63年4月 |
北海道大学農学部図書閲覧掛長 |
平成2年4月 |
北海道大学附属図書館情報サービス課資料サービス掛長 |
平成5年3月 |
北海道大学附属図書館情報サービス課課長補佐 |
平成5年4月 |
旭川医科大学教務部図書課長 |
平成8年4月 |
静岡大学附属図書館情報サービス課長 |
平成10年4月 |
弘前大学附属図書館情報管理課長 |
平成13年4月 |
東北大学附属図書館情報サービス課長 |
平成15年1月 |
北海道大学附属図書館情報管理課長 |
第21代附属図書館長の近藤潤一先生は,平成6年の退任にあたりこんな言葉を残されています。
「図書館は私の誇りであり,愛であり,そして家庭でさえあった。
このキャンパスの木,空,草花,鳥,そして人,図書館で巡りあったすべての方々に心から感謝しながら姿を消すことができるのは,私の忘れ得ぬ幸福と言うものである。私は北海道大学での最後の生活でこんな幸福な人生を贈ってもらったのである。」
今は亡き近藤先生に,この言葉を引用するお許しを得ることは叶いませんし,このような華麗な言い回しは私には誠に不似合いでありますが,この言葉が今の私の気持ちのすべてを言い尽くしていると思っております。
特に「家庭でさえあった」については,私も激しく共感するものがあります。今,職場環境も変わり,特に若い方々にはこのあたりの感覚がお解りにならないかも知れませんが,私はそう言える時代を生きてこられた事を大変嬉しく,幸運であったと思っております。
「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」と言う言葉があります。自分ではまだまだ元気なつもりでおります。これからも社会と関わりながら有意義に生きていきたいと願っています。
皆様長い間本当にありがとうございました。どうかお元気でお過ごし下さい。 |
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上 田 勲(うえだいさお) 氏(法学研究科・法学部事務長)
昭和20年2月26日生 |
(略 歴) |
昭和38年4月 |
北海道大学農学部附属農場 |
昭和43年4月 |
北海道大学庶務部人事課 |
昭和54年4月 |
室蘭工業大学庶務課学事文書係長 |
昭和56年2月 |
室蘭工業大学庶務課人事係長 |
昭和57年4月 |
北海道大学歯学部附属病院庶務掛長 |
昭和58年4月 |
北海道大学歯学部総務課人事掛長 |
昭和60年5月 |
北海道大学庶務部庶務課秘書掛長 |
昭和62年5月 |
北海道大学庶務部人事課職員掛長 |
平成元年4月 |
北海道大学庶務部人事課第一任用掛長 |
平成2年4月 |
北見工業大学庶務課課長補佐 |
平成5年4月 |
北海道大学農学部附属演習林事務長補佐 |
平成7年9月 |
北海道大学総務部総務課課長補佐 |
平成10年4月 |
北海道大学水産学部事務長 |
平成12年4月 |
北海道大学水産科学研究科・水産学部事務長 |
平成13年4月 |
北海道大学法学研究科・法学部事務長 |
職員就業規則第19条(定年)。今,私はこの二文字の意味をしみじみとかみしめております。
顧みますと昭和38年3月,私は北大職員採用面接をうけるため,淡雪の残る広大なキャンパスの一隅におりました。時あたかも東京オリンピックを翌年に控え,国全体が活況を呈していた日のことであります。
試験官曰く。「君が採用を希望している職場には,君の両親と同じぐらいの年齢の方々が大勢勤務しておられる。いや,もしかしたらもっと大先輩にあたる方々かもしれないな。」と。そして言葉をつながれました。
「君は若い。そのような職場で協調して仕事を続けていける自信はあるか。それも,60歳ぐらいまでのとても長い期間ですよ。」
その日のうちに鈍行列車で田舎に帰っていました。ほどなく,大学から採用決定の朗報をいただき,以来,40年余にわたり,室蘭工業大学や北見工業大学,そして函館(水産学部)などの勤務を経て,冒頭の「定年退職第1号」となったのであります。
この間,様々な部署・部局で多様な仕事を通じ,いくつかの思い出も残りました。
ここに, 関係の部局長や先生方をはじめ,諸先輩や同僚などから寄せられたご指導とご支援に心から感謝申し上げる次第であります。
この愛すべき北大が,そして長い間お世話になった北大が今後ますます発展されますことを念じつつ,退職のご挨拶とさせていただきます。 |
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石 塚 昇 司(いしづかしようじ) 氏(北海道大学病院診療支援部長)
昭和19年5月22日生 |
(略 歴) |
昭和38年3月 |
道立小樽緑陵高等学校卒業 |
昭和40年4月 |
民間(石塚医院) |
昭和47年4月 |
昭和50年3月 |
北海道大学医学部附属臨床検査技師学校卒業 |
昭和50年4月 |
民間(天使病院) |
昭和50年12月 |
昭和51年1月 |
北海道大学医学部附属病院技術補佐員 |
平成7年4月 |
北海道大学医学部附属病院検査部主任臨床検査技師 |
平成9年4月 |
北海道大学医学部附属病院検査部臨床検査技師長 |
平成15年10月 |
北海道大学医学部・歯学部病院診療支援部長 |
平成16年3月 |
平成16年4月 |
北海道大学病院診療支援部長 |
平成17年3月 |
私は昭和47年4月に北海道大学医学部附属臨床検査技師学校(現在の医療技術短期大学)に入学しました。少し回り道をしてから学生になりましたので,同級生より9才くらい年上であり,教室に一人父兄が紛れ込んだ様子であったと思います。しかし,同期の仲間として,皆すぐに受け入れてくれた様な気がします。学校での講義や実験も,北大病院での実習も質量ともに厳しいものでしたが,医療技術者になろうと思う期待感がいっぱいで苦には感じませんでした。
当時の校舎は新築されたばかりの三階建の小さな建物で,広い草原と林の中に建っていました。13条門の駐車場もまだ無く,あたり一面が原っぱであったので初夏には巨大なタンポポ畑と化し驚かされ,秋にはイチョウ並木や木々の紅葉の美しさに目を見張りました。
昭和51年に北大病院検査部の医療技術補佐員として採用され,北大職員としてのスタートを切ることができました。学生,病院職員として少しでも北大に関わることが出来たことを誇りに思っております。 |
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佐 藤 廣 一(さとうひろいち) 氏(薬学研究科・薬学部事務長)
昭和20年3月4日生 |
(略 歴) |
昭和38年4月 |
北海道大学工学部 |
昭和44年6月 |
北海道大学施設部企画課 |
昭和47年5月 |
北海道大学経理部経理課 |
昭和50年4月 |
旭川医科大学附属病院創設準備室 |
昭和51年5月 |
旭川医科大学業務部医事課 |
昭和53年4月 |
旭川医科大学業務部医事課中央診療事務係長 |
昭和56年4月 |
旭川医科大学業務部医事課収納係長 |
昭和58年4月 |
旭川医科大学総務部会計課用度第一係長 |
昭和60年4月 |
北海道大学医学部附属病院管理課医療器材掛長 |
昭和62年11月 |
北海道大学経理部経理課支出掛長 |
平成2年4月 |
北海道大学経理部経理課調達掛長 |
平成4年8月 |
北海道大学経理部主計課監査掛長 |
平成6年4月 |
北海道大学経理部主計課総務掛長 |
平成6年10月 |
北海道大学事務局学務部設置準備室員 |
平成7年4月 |
北海道大学水産学部事務長補佐 |
平成9年4月 |
北海道大学総務部人事課課長補佐 |
平成12年4月 |
室蘭工業大学附属図書館事務長 |
平成14年4月 |
北海道大学薬学研究科・薬学部事務長 |
身近な先輩方が毎年次々と定年退職していくのを送るたびに,自分も近づいたなと思っておりましたが,遂に自分の番になりました。
北海道大学という大きな傘の下で42年間もの長い間勤務させていただきました。旭川,函館,室蘭への転出もそれぞれ思い出深いものがあります。
この間,良き先輩,上司,同僚,後輩の方々に恵まれ,山あり谷ありの42年間でしたが,大過なく定年まで勤務できたのは本当に皆様のご支援のお陰だと思っております。心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
私にとって最後の年が,国立大学の法人化という歴史的改革の1年間となりましたが,それを経験できたのは,後々の良き思い出になると思います。
大学法人化定年一期生として,これからも北海道大学の発展を見守ってまいります。
最後に皆様のご健勝と益々のご活躍を祈念し,退職のご挨拶とさせていただきます。 |
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中 島 幸 治(なかじまこうじ) 氏(工学研究科・工学部事務部長)
昭和19年5月31日生 |
(略 歴) |
昭和38年4月 |
北海道大学農学部 |
昭和41年4月 |
北海道大学庶務部庶務課 |
昭和45年4月 |
北海道大学大型計算機センター |
昭和48年4月 |
北海道大学旭川医科大学創設準備室付け |
昭和48年9月 |
旭川医科大学庶務課 |
昭和50年4月 |
旭川医科大学庶務課給与係長 |
昭和51年4月 |
旭川医科大学総務部庶務課給与係長 |
昭和53年4月 |
北海道大学触媒研究所庶務掛長 |
昭和57年4月 |
北海道大学学生課庶務掛長 |
昭和59年4月 |
北海道大学法学部庶務掛長 |
昭和63年4月 |
北海道大学理学部人事掛長 |
平成2年3月 |
北海道大学庶務部人事課課長補佐 |
平成2年4月 |
八戸工業高等専門学校庶務課長 |
平成5年7月 |
茨城大学庶務部人事課長 |
平成7年10月 |
埼玉大学庶務部人事課長 |
平成9年4月 |
金沢大学留学生課長 |
平成12年4月 |
東北大学学務部留学生課長 |
平成13年4月 |
東北大学総務部総務課長兼ねて企画調査室 |
平成15年4月 |
北海道大学工学研究科・工学部事務部長 |
定年退職?他人事のように思っていましたら,いつの間にか自身のことになりました。
社会人振り出しの北海道大学には,3度にわたり通算26年,他機関6か所16年の勤務を終えることになりますが,時の移ろいは,20世紀から21世紀に,昭和から平成に,身分は,国家公務員から法人職員に変わり,感慨深いものがあります。ご指導,ご支援を賜りました教職員の皆様に心より御礼申し上げます。
管理職になり,それぞれの任地で,外部から北海道大学を見,その良さを説き,また,任地での良さを教えられ,最後に北海道大学にお世話になることとなりました。それなりに経験を重ね,またわずかながら情報も蓄えこれを基に法人化という改革の遂行と同時に,情報科学研究科の設立及び工学部・工学研究科の改組にいささかでも役に立ったのではと,携われましたこと,定年を迎えるにあたって良き思い出が増えました。重ねて感謝を申し上げます。
大学改革はこれからが本番,北海道大学がその英知を結集し,高邁な理念の下に,益々発展されますことを祈念しております。 |
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酒 井 彰(さかいあきら) 氏(工学研究科・工学部経理課長)
昭和20年3月24日生 |
(略 歴) |
昭和38年3月 |
北海道財務局釧路財務部 |
昭和53年7月 |
北海道財務局小樽財務部管理課徴収係長 |
昭和54年1月 |
北海道財務局小樽出張所管理課徴収係長 |
昭和55年7月 |
北海道財務局旭川財務部管財課国有財産管理官 |
昭和59年7月 |
北海道財務局管財部直轄財産第二課国有財産管理官 |
昭和63年7月 |
北海道財務局理財部経済調査課調査官 |
平成2年7月 |
北海道財務局管財部直轄財産第二課上席国有財産管理官 |
平成4年7月 |
北海道財務局旭川財務事務所管財課長 |
平成6年7月 |
北海道財務局管財部総括課上席国有財産管理官 |
平成7年7月 |
北海道財務局小樽出張所総務課長 |
平成9年7月 |
北海道管財部直轄財産第一課長 |
平成11年4月 |
函館工業高等専門学校会計課長 |
平成13年4月 |
室蘭工業大学入学主幹 |
平成15年4月 |
北海道大学工学研究科・工学部経理課長 |
昭和38年に大蔵省(現財務省)釧路財務部に採用になって以来,41年の公務員+1年の非公務員生活にピリオドを打つことになりました。
6年前に文部科学省へ出向となり,函館高専,室蘭工業大学そして北海道大学へと2年毎に勤務地が変わりました。
学生が当たり前のように授業,実験等を受けられる背景には,先生と事務との綿密な連携があってこそと実感し,このような体験は一般行政官庁にいるとうかがい知れないもので,非常に新鮮なものでした。
しかし,経験不足,知識不足のため多くの先生や職員の皆様に御迷惑をおかけしたことを,この場を借りてお詫びいたします。
北海道大学の益々の発展と皆様方のご健勝を祈念し,退職の挨拶とさせていただきます。 |
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和 泉 勝 昭(いずみかつあき) 氏(農学研究科・農学部事務長)
昭和19年12月12日生 |
(略 歴) |
昭和38年4月 |
北海道大学庶務部人事課 |
昭和38年5月 |
北海道大学法学部 |
昭和41年4月 |
北海道大学庶務部人事課 |
昭和43年4月 |
北海道大学庶務部庶務課 |
昭和47年8月 |
北海道大学医学部附属病院管理課 |
昭和50年4月 |
北海道大学庶務部庶務課 |
昭和52年4月 |
旭川医科大学総務部庶務課文書係長 |
昭和55年4月 |
北海道大学免疫科学研究所庶務掛長 |
昭和59年4月 |
北海道大学庶務部人事課職員掛長 |
昭和62年5月 |
北海道大学庶務部人事課研修掛長 |
平成元年4月 |
北海道大学庶務部庶務課法規掛長 |
平成2年11月 |
北海道大学水産学部事務長補佐 |
平成5年4月 |
北海道大学歯学部業務課課長補佐 |
平成7年10月 |
北海道大学農学部附属演習林事務長補佐 |
平成10年4月 |
北海道大学学務部入試課課長補佐 |
平成13年4月 |
北海道大学水産科学研究科・ 水産学部事務長 |
平成15年4月 |
北海道大学農学研究科・農学部事務長 |
ついに定年という事象を受け入れることになりました。
ここまで辿り着けたのは,師と仰げる人,友と呼べる人との出会いや触れ合いに恵まれたからだと心から感謝しています。
近年,心に止まったものが二つあります。
一つは,半世紀ぶりに北大の中を通るサクシュコトニ川に清流が戻ってきたこと(2004.6)。
もう一つは,国立大学法人北海道大学が誕生したことです(2004.4)。
サクシュコトニ川の甦生事業は,開発局,札幌市水道局,北大の三者による共同事業として推進され,その裏には,母校を思う卒業生たちの活躍があったと聞いています。
また将来には,豊平川からの引き水計画も考えられているとのこと,これが実現するとこれからもエルムの杜を育て,支え続けてくれ,その実現が期待されます。
国立大学法人が誕生し,新しい大学像を創造するという事業は,北大でも始められており,個性や特色の明確化に向けた幾つもの取組は,まだ緒に就いたばかりです。
こちらの方も,全北大人の英知と工夫によって,きっと花を咲かせ,実を結ばせることが出来るものと信じています。
私の公務員としての生活は,大部分をこの北大で過ごし,数限りない思い出は,温かく,甘く,心地よく,時に厳しく,尽きることなく心を操ります。
この北大が,ますます豊に繁栄することを願っております。 |
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大 友 勝 美(おおともかつみ) 氏(遺伝子病制御研究所事務長)
昭和19年6月29日生 |
(略 歴) |
昭和45年3月 |
北海学園大学法学部卒業 |
昭和38年4月 |
北海道大学人事課 |
昭和54年10月 |
釧路高専庶務課庶務係長 |
昭和58年4月 |
北海道大学薬学部庶務掛長 |
昭和61年4月 |
北海道大学入試課第二入試掛長 |
昭和63年4月 |
北海道大学入試課第一入試掛長 |
平成元年4月 |
北海道大学人事課研修掛長 |
平成2年4月 |
北海道大学人事課第一給与掛長 |
平成3年4月 |
室蘭工業大学庶務課課長補佐 |
平成6年8月 |
北海道大学文学部事務長補佐 |
平成10年4月 |
北海道大学工学部総務課課長補佐 |
平成12年4月 |
北海道大学工学研究科・工学部 総務課課長補佐 |
平成13年4月 |
北海道大学入試課課長補佐 |
平成14年11月 |
北海道大学遺伝子病制御研究所事務長 |
昭和38年4月1日,前日発表の某大学の受験に失敗し,詰め襟の学生服を着て小樽から蒸気機関車に揺られ北大に向かい,人事課任用掛長を訪ねると「オー君か。採用だ。」。これが北大との始まりでありました。
それから42年が過ぎ,定年を迎えることとなりました。この間,北海道大学に約35年間,道内の国立大学や高専に約7年間勤務し,数多くの方々と親しくお付き合いをさせていただき,お陰様で色々な職場では楽しく仕事をさせていただきましたことに,心より感謝申し上げます。
この間,各々の職場でいろいろな仕事をさせていただきましたが,印象に残る仕事は,大学の根幹に関わる入試業務であり,特に,試験当日,会場前で転倒し骨折(右大腿骨骨折,右肩脱臼)していたが受験した学生のこと,また,本学で初めてであろう全盲の学生が受験するまでの対応が思い出されます。
また,元来スポーツ好きな私としては,恵まれた素晴らしい体育施設で思う存分に皆様方と野球に,バレーに,卓球に,テニスに,バトミントン等々を楽しみながら行うことができたことに感謝しております。
最後に,色々とお世話になりました教員,上司,同僚,後輩の皆様方にこの場をお借りして心から厚くお礼を申し上げるとともに,国立大学法人北海道大学が益々ご発展されますことを祈念しまして退任の挨拶とさせていただきます。 |
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荒 川 靖 秀(あらかわやすひで) 氏(北キャンパス合同事務部事務長)
昭和19年12月11日生 |
(略 歴) |
昭和46年3月 |
北海学園大学法学部卒業 |
昭和39年1月 |
北海道大学経理部経理課 |
昭和44年6月 |
北海道大学工学部 |
昭和48年5月 |
北海道大学経理部主計課 |
昭和52年4月 |
北海道大学経理部主計課第一予算掛予算管理主任 |
昭和52年10月 |
室蘭工業大学会計課司計係長 |
昭和57年4月 |
北海道大学水産学部用度掛長 |
昭和58年4月 |
北海道大学水産学部経理掛長 |
昭和60年10月 |
北海道大学歯学部総務課経理掛長 |
平成元年4月 |
北海道大学工学部経理課経理掛長 |
平成4年4月 |
北海道大学経理部経理課給与掛長 |
平成5年4月 |
北海道大学経理部経理課管理掛長 |
平成7年4月 |
旭川医科大学総務部会計課課長補佐 |
平成9年4月 |
北海道大学施設部企画課課長補佐 |
平成10年4月 |
北海道大学経理部経理課課長補佐 |
平成11年4月 |
北海道大学経理部第一契約課課長補佐 |
平成13年4月 |
北海道大学触媒化学研究センター事務長 |
平成16年4月 |
北海道大学北キャンパス合同事務部事務長 |
昭和39年1月,北海道大学経理部に採用され,早や41年余が過ぎ,このたび定年を迎えることになりました。
この間,室蘭工業大学・旭川医科大学にも勤務させていただきました。
どの職場においても,数多くの方々にご交諠をいただき楽しく過ごすことができましたことを,お礼申し上げます。
無事に定年を迎えることができますことは,先輩,同僚,後輩の皆様に恵まれ,温かいご指導とご支援に支えられてきたからであると痛感し,心から感謝申し上げます。
また,北大構内の緑豊かな自然との調和の中で,四季折々の美しい情景を見ながら過ごしたことは,忘れることのできない思い出となることでしょう。
国立大学が法人となってスタートしており,大学を取りまく環境は一層厳しい状況となりますが,本学が益々発展されますことを祈念しております。
皆様方のご健康と今後のご活躍を心からお祈りして,ご挨拶とさせていただきます。 |
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