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春の叙勲に本学から4氏

 このたび,本学関係者の次の4氏が平成17年度春の叙勲を受けました。
勲  章 経  歴 氏  名
瑞宝中綬章 名誉教授 喜 多 富美治
瑞宝中綬章 名誉教授 渡 辺 勝 也
瑞宝中綬章 名誉教授 村 田 和 美
瑞宝中綬章 名誉教授 鈴 木   章
 各氏の長年にわたる教育・研究等への功績と我が国の学術振興の発展に寄与された功績に対し,授与されたものです。
 各氏の受章に当たっての感想,功績等を紹介します。
(総務部広報課)

○喜 多 富美治(きたふみじ) 氏
○喜 多 富美治(きたふみじ) 氏
 このたび叙勲の栄に浴し,大変光栄に存じております。恩師故長尾正人先生はじめ種々ご教導いたゞきお世話になりました多くの先輩,同僚後輩の皆様に深く感謝申し上げます。又ご推薦の衝にあたって下さった方々に心から御礼申し上げます。
 私は陸軍士官学校59期生で陸士在学中に終戦を迎えました。幸い旧制高等学校卒業の資格が与えられ,北大農学部を受験し農学科に学んで育種学教室に所属し,昭和24年3月に卒業致しました。卒業後直ちに果樹園を2ヶ年自営し,さらに民間の種苗会社で1年間実務を経験した。昭和27年4月に臨時作業員,同年10月に助手として北大農学部附属農場に勤務し,爾来(じらい)農学部附属農場で農学の基本である実習教育を柱とする農業の実践的教育の一翼を担当しました。多いときは6学科80名に余る学生が履修したが,私自身農家に生まれ育ち自営等の実務経験を積んだことが大変役立ったのではないかと思います。
 北大農場の特徴の1つは,学部に隣接して農場が立地していることで,学部と一体となった研究利用が大変効率的に出来る体制にありました。反面,学部の講座と無関係な農場専任教官の独自の研究成果の向上が強く望まれた。私は日本人の食生活が動物性の食材に依存度を高める状況の中で,畜産の発展に伴う家畜が食する飼料作物の研究の必要を痛感しつゝありました。この時期にアメリカ合衆国のウイスコンシン州立大学に2ヵ年の留学が許され,広く飼料作物の栽培及び育種の基礎を学び,又荳科牧草melilotus属(スィートクローバ)を材料に細胞遺伝学的研究を行い,修士論文を纒め修士の学位を授けられた。帰国後,北海道農業を問わず日本農業に於(お)いて草地の造成,維持管理,利用等に関する研究の必要が増大し,農場の作物関係の部門の協力を得て,寒地型の基幹草種を用いて立毛の造成に関する一連の研究,及びアルファルファの刈取りと再成や越冬性に関する研究を行った。これらの成果と留学中に得た知見を併せて一冊の本に纒め,飼料作物入門の参考に供した。又昭和38年より平成元年の退官まで一貫して農学科学生に対し飼料作物学の講義を担当した。
 研究面でさらに,前に述べたスィートクローバ属19種の種間の細胞遺伝学的研究を継続し,相互転座と逆位が種の分化に重要な役割を果たしていることを明らかにした。又この研究の遂行には院生,卒論の学部学生及び留学生の協力を得た。
 平成元年3月の停年退官と同時に2ヵ年にわたり,中国の黄土高原の緑化に関する基礎研究に参加し,中国寧夏回族自治区の古原県で農家の聞き取り調査を行い畑作と畜産の農家の経営事例を身を持って調査出来たことは喜びの1つでありました。又この折,紫モメンズル,Astragaras adsargonss,の自生集団の細胞遺伝学的研究を行い,日本産の自生集団との関係を明らかにするなど興味のある問題が新たに展開し,今後に期待したい。
 このように農場に職を得て今日までに,教職員並びに院生学部学生のご協力により,或る程度の成果を農学部附属農場そして現在の北方生物圏フィールド科学センターであげ得たと存じます。皆様に重ねて心から感謝して,謹んで叙勲の栄に浴したいと存じます。

略 歴 等
生年月日 大正14年4月16日
出身地 北海道河西郡芽室村
昭和24年3月 北海道大学農学部卒業
昭和27年10月 北海道大学農学部附属農場助手
昭和38年8月 北海道大学農学部助教授
昭和40年3月 農学博士(北海道大学)
昭和47年1月 北海道大学農学部附属農場教授
昭和60年8月 北海道大学農学部附属農場長
平成62年8月
平成元年3月 北海道大学停年退職
平成元年4月 北海道大学名誉教授

功 績 等
 同人は,昭和27年10月北海道大学文部教官助手として同大学農学部附属農場に採用され,昭和32年9月から2年間アメリカ合衆国に留学,マメ科牧草の細胞遺伝学的基礎研究を行うとともに,当時日本で強く望まれていた飼料作物の新知見を習得した。昭和38年8月北海道大学助教授に昇任し,農場実習の授業及び同学部農学科の学生に対し飼料作物学の講義を担当した。同時に大学院農学研究科担当を命ぜられた。昭和47年1月北海道大学教授(農学部附属農場)に昇任し,引き続き同農場実習部主任として,平成元年3月の停年退官までその任を勤めた。
 その間,同人は昭和60年8月から昭和62年8月まで北海道大学農学部附属農場長として農場改革の難しい時期にその管理運営の責任を担った。また,北海道大学施設計画委員会委員,北海道大学交通計画委員会委員,同委員会委員長を歴任するほか,北海道大学施設計画委員会北18条道路問題専門委員会委員として,本学運営の枢機に参与し,その発展に尽力した。
 教育面において,退官まで一貫して,農場において農学理論に基づく農業の実践的教育すなわち農場実習を情熱をこめて行い多数の学科学生に多大の感銘を与えた。また,農学科学生に対し飼料作物学を27年間の長きにわたって担当し,留学中に得た知識を基に講義し,飼料作物学の発展に尽力した。同人の薫陶を受けた学生は現在各界でめざましい活動を続けている。
 研究面において,植物育種学と細胞遺伝学を基礎的手法として,マメ科牧草の1種スィートクローバ属19種の類縁関係を明らかにした。また,寒地型牧草の基幹草種の立毛造成に関する一連の研究を行い,草地開発事業による粗飼料,特にアルファルファの生産技術の向上に先駆的役割を果たした。
 学外においては,北海道草地研究会の創設に参画し,評議員,副会長として発展に努めた。また,日本草地学会評議員を歴任し,斯界(しかい)の発展に顕著な貢献をし,平成7年北海道草地研究会創立30周年記念に際し,北海道の草地畜産の発展に貢献したことに対し表彰を受けた。
 停年退官後は,北海道大学名誉教授となり,平成元年4月から平成3年3月まで文部省科学研究費補助金総合研究(A)「中国黄土高原の緑化に関する基礎研究」に加わり,長期滞在研究員として中国寧夏回族自治区古原県に滞在し,試験区全体の調整及びクロッピングシステムの調査研究に従事し,現地の研究者と共同でムラサキモメンズルの細胞遺伝学的研究を行なうなど,農学の分野での国際協力に並々ならぬ情熱を注いだ。
 以上のように,同氏は多年にわたりその真摯(しんし)な研究活動によって,特に飼料作物の分野で優れた業績をあげ学術の振興に寄与するととともに,確固たる信念に基づいた教育によって多数の人材を育成し,また学内外の各種委員を歴任し大学の管理運営並びに学会の発展に貢献をなし,その功績は顕著であります。

(北方生物圏フィールド科学センター)


○渡 辺 勝 也(わたなべかつや) 氏
○渡 辺 勝 也(わたなべかつや) 氏
 4月20日(水)に,私が今年の春の叙勲で瑞宝中綬章を授与されることになった旨の中山成彬文部科学大臣の通知を拝領した。この通知には5月23日(月)午前11時30分から東京プリンスホテルで伝達式が行われ,同日午後3時20分から皇居で拝謁が行われると記されていた。私の受賞がこの速達便でついに決定したと実感した。というのは一昨年から私の叙勲の推薦の準備が進められていた。特に優れた業績もなかった私の推薦文作りには苦労されたであろう。北大特に工学部の人事の方にはお世話になり,電話をいただいたりしているうちに漠然としたものが,しだいにはっきり見えるような気がしてきた。今年の4月5日(火)に工学部人事係から叙勲の内示があったと連絡を受け,準備段階から今日までの皆様のご支援の有り難さをしみじみと感じた。文部科学省からの正式な伝達は4月下旬とあり,その4月20日が来て,いよいよ下旬になったと思ったその日に冒頭の速達が配達されたので喜びは一層のものであった。
 長い冬がいま終わろうとしている。確かに冬は大変な試練であるし,今年の冬は例年にない厳しさであった。しかし,やがて80歳を迎える私は,除雪ができることをいつのまにか喜びに感じている自分を知った。毎週一度のスキー(とはいってもゲレンデスキーですが)もやることができた。転ばないで雪道を歩くこともできた。こんなことは厳しい雪国でこそ経験できることであり,これを幸せといわずしてなにが幸せであろうか。昨年の夏には,機会に恵まれてモンゴルのウランバートルに行き植樹作業に携わることができた。聞けばこの国では,司馬遼太郎が書いているように,草原を鍬(くわ)などで掘り返すと,草原は砂漠になり草原には復元しないそうで,草原は掘ってはいけないことになっている。それだけに植樹のやりかたに制限がある。東三郎北大名誉教授の考案した「紙根っこん」(詳細は省略)なるものを使って土を掘らないで苗木を植えてきた。モンゴルの厳寒を想像しながらうまく育ってくれることを念願している。話は変わるが2,3年前から水彩画塾に入り下手な絵を描き始めた。この塾が3月に30周年展を迎えたので,できるだけ30周年にふさわしい作品にしたいものだと,昨秋から冬の間はこれまでよりも力を入れて描き続けて充実した時間を持つことができたのも懐かしい思い出である。
 その冬が去って北海道中に春が訪れた。冬が厳しければ厳しいほど春を迎える喜びは大きい。このごろのTVや新聞は訪れた春を喜ぶ声と笑顔で満ちている。庭に逸早(いちはや)く咲くクロッカスの美しさと新鮮さに目を引かれるのもこの季節である。名誉なことにここで私は叙勲の光栄に浴することになった。北海道大学に長年勤めさせていただいたおかげであり,深く感謝申し上げる。教え子などから数々の祝いの言葉を頂戴(ちょうだい)している。幸せそのものである。

略 歴 等
生年月日 大正14年4月27日
出身地 秋田県
昭和23年3月 北海道大学工学部卒業
昭和23年4月 株式会社富岡鉄工所
昭和27年4月 北海道大学工学部助手
昭和28年6月 北海道大学工学部講師
昭和31年10月 北海道大学工学部助教授
昭和37年2月 工学博士(北海道大学)
昭和41年4月 北海道大学工学部教授
平成元年3月 北海道大学停年退職
平成元年4月 北海道大学名誉教授
平成2年4月 北海道工業大学教授
平成7年3月 北海道工業大学退職

功 績 等
 同人は,大正14年4月27日秋田県に生まれ,昭和23年3月北海道大学工学部生産冶金工学科を卒業後,同年4月に株式会社・富岡鉄工所に入社,翌昭和24年3月に退社,同年4月に北海道大学大学院特別研究生となり,昭和27年3月同大学院特別研究生修了後,同27年4月北海道大学工学部助手に任ぜられ,昭和28年6月講師,昭和31年10月に助教授に昇任されました。昭和41年4月には工学部金属工学第四講座の教授に着任され,本学教官として37年にわたり教育と研究指導に尽力され,平成元年3月停年により退職し,同年4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。
 同人は,冶金学の分野では銅製錬の物理化学的研究および鉄鉱石の予備処理の研究を,金属材料の分野では,合金の時効の研究,転位運動の素過程の研究,合金の相平衡の研究等,広範囲の研究に従事し,この間,昭和37年「ウスタイトの物性の研究」により,北海道大学から工学博士の学位を授与されました。
 同人は,昭和39年から耐熱金属間化合物の材料物性に関する先駆的研究に着手され,数々の新しい成果を発表して,この方面の研究の本邦における隆盛の端緒を開拓されました。現在,金属間化合物の研究は,質・量共に本邦が世界を大きくリードしているが,いち早くこの重要性に着眼され,黎明期(れいめいき)における指導者の一人として多大な貢献をされたことが特筆されるものであります。特に金属間化合物における熱欠陥の挙動を明らかにして,その熱処理法に重要な指針を与えたことは,その後の研究に極めて大きなインパクトを与えました。さらに一方向凝固法による金属間化合物共晶合金を開発し,高温特性が従来合金に優(まさ)ることを示し,実用化の先鞭(せんべん)をつけられました。一方,昭和57年頃からは計算機支援の材料科学の重要性を指摘され,スーパーコンピュータを用いた相平衡状態図の第一原理計算を推進されました。昭和59年のケンブリッジ大学における相変態国際会議でCu―Au系の平衡状態図の第一原理計算を発表したが,これは貴金属ニ元系に対する第一原理計算としては世界で初の試みであり,多くの注目を集めました。
 学外にあっては,日本金属学会理事,同学会北海道支部長を歴任されました。軽金属学会では,北海道センターの設立に努力し,理事および北海道センター長を歴任し,学術の発展に貢献されました。
 以上のように同人は,その真摯(しんし)な研究活動によって金属材料学,冶金学の分野できわめて優れた業績を上げ,学術の進歩に寄与するとともに,永年の地道な教育活動,熱心な研究指導によって多数の技術者,研究者を育成し,社会に大きく貢献されるなど,その功績はまことに顕著なものがあります。

(工学研究科・工学部)


○村 田 和 美(むらたかずみ) 氏
○村 田 和 美(むらたかずみ) 氏
 このたび春の叙勲の栄に浴しましたことは私の身に余る光栄であります。これは長年にわたりご指導,ご鞭撻(べんたつ)を賜りました恩師,先輩の諸先生,そして学内外において長い間,ご協力,ご支援を頂きました多くの方々のお蔭(かげ)と感謝し,心から厚くお礼申しあげます。
 私は昭和22年9月東京帝国大学第一工学部精密工学科を卒業し,直ちに商工省傘下の大阪工業試験所に入所,光学機械の研究を始めました。私に与えられた研究テーマはレンズ系の新しい性能表示法の提案とその性能測定法の確立でした。この研究に約10年没頭した結果,レンズ系の性能を電子回路と同様に,空間周波数伝達特性で表示するのが合理的であることを示し,この伝達特性を測定する新しい方法を考案し,実際の写真レンズの性能測定機を試作してストックホルムで開催された国際光学会議で発表しました。私はこの研究で学位を取得し,当時光学の分野では先進国と考えられていた西ドイツに渡り2年間の在外研究を果たすことが出来ました。
 帰国してから3年を経過した頃に北大工学部からの招請を受け,新設された応用物理学科の応用光学講座担任として昭和40年10月に北大に着任しました。その当時の工学部は木造の白亜館から,コンクリートの新館への建て替えが始まったばかりで,学科各講座の実験室は木造のあちこちの空き室を間借りしてスタートしました。私はこのような環境の中にあっても研究室の若い先生方や学生達とともに,北大に新しい光の研究拠点を創設するのだとの意気込みを持って教育研究を始めました。
 私達は新しい光応用技術の研究を目指し,新結像論,光情報処理,レーザー応用計測,ホログラフィー,ディジタル画像処理などの分野で次第に業績を挙げるようになりました。北大に着任してから数年後,大学紛争を経験しました。
 あの時は学生が授業をボイコットしたり,大学の建物を占拠したりして我々を困らせましたが,今は懐かしい良い思い出となっております。紛争後,学生諸君とはより親密になれたし,またその後の大学改革にも繋(つな)がったのではないかと思っています。研究室のポテンシァルが次第に上がって来ると内外の大学,研究所との学術交流が盛んになり,私達は海外に招かれて在外研究や講義をしました。また海外からの研究者を招いたり,何人かの留学生を受け入れたりしました。北大における光学関係の研究者が次第に増大し,まだ一度も日本で開催したことのない国際光学会議総会を札幌に誘致しようとの声がおこり,私がこの会議の組織委員長となって3年前から皆さんの協力を得て準備を進め,昭和59年8月に札幌市教育文化会館にて開催することが出来ました。この会議には海外の31カ国からの研究者264名も含めて660人を超す参加者を得て会議を成功させたことも忘れがたい思い出となりました。
 北大は東京から遠く離れているので,雑音に煩わされずに落ち着いて研究が出来たし,教官も学生も開学以来の北大スピリッツに培われているようで,またキャンバスが美しい自然に囲まれていることもあって,気持ちよく教育研究が出来たように思います。北大に着任してから定年退官するまでの23年半,私は確実に毎年歳を重ねておりましたが,毎春に研究室に迎える学生達はいつも20代の前半の若々しく明るい人ばかりでしたので,自分が年を取って来たことにも気づかないで,彼らと楽しい学園生活を過ごすことが出来ました。これらの学生諸君にもお礼を申し上げたいと思います。

略 歴 等
生年月日 大正14年5月16日
出身地 広島県
昭和22年9月 東京帝国大学第一工学部卒業
昭和23年4月 商工省大阪工業試験所商工技官
昭和24年5月 通商産業省工業技術庁大阪工業試験所通商産業技官
昭和26年4月 通商産業省工業技術庁大阪工業試験所主任研究員
昭和35年4月 通商産業省大阪工業技術院試験所第3部主任研究官
昭和37年2月 通商産業省大阪工業技術試験所第3部光学機械研究室長
昭和40年10月 北海道大学工学部教授
昭和60年4月 北海道大学評議員
昭和62年5月
平成元年3月 北海道大学停年退職
平成元年4月 北海道大学名誉教授
平成元年4月 北海道工業大学教授
平成8年3月 北海道工業大学停年退職
平成8年4月 北海道工業大学名誉教授

功 績 等
 同人は,大正14年5月16日広島県に生まれ,昭和22年9月東京帝国大学第一工学部精密工学科を卒業後,直ちに商工省大阪工業試験所に研究員として採用され,昭和26年4月主任研究員となり,昭和37年2月光学機械研究室長に昇任された後,昭和40年10月北海道大学工学部に新設された応用物理学科に教授として着任されました。爾来(じらい),応用光学講座を担任し,さらに昭和52年11月から57年9月までは応用計測学講座を兼担し,両講座における教育と研究を通じて,応用物理学科並びに大学院工学研究科応用物理学専攻の発展に多大な貢献をされ,平成元年3月31日限り停年により退職し,同年4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。
 同人は,一貫して光工学の分野の研究に従事し,光学の情報論的取り扱い,画像処理,並びにホログラフィに関する研究を精力的に進められました。
 まず,写真レンズのレスポンス関数に関する研究を我国でいちはやく手懸け,レスポンス関数測定装置の開発にも取り組み,これらの研究成果をまとめた論文「写真レンズのレスポンス関数測定装置の研究」によって昭和37年に,大阪大学から工学博士の学位を授与されました。これに関する研究の成果を踏まえて書かれた著書「Instruments for the Measuring of Optical Transfer Functions」(E.Wolf編 Progress in Optics 第5巻,昭和41年)は世界的に高い評価を得ております。また,日本で初めての写真レンズ対象の光学的伝達関数測定装置の実用機を作り上げ,光学産業の発展に多大に寄与されました。
 その後,研究が盛んになりつつあったホログラフィ技術を光学的情報処理へ適用することに取り掛かり,インライン・ホログラフィ法による泡箱の素粒子飛跡データ解析,ホログラフィックな光学的伝達関数測定法,ホログラムフィルターによる画像処理などの研究を行い優れた業績を挙げられました。さらに,大きな光学素子を用いることなく高解像の物体強度分布情報を得る技術である光学的開口合成法や,三次元物体を種々の方向から観測して得られる投影データから,物体の三次元構造を推定する投影からの像再生問題の研究を行い,当該分野において著しい貢献をされました。また,コンピュータによる画像処理にも早くから着目し,焦点外れ像や流れ像の回復に有効なアルゴリズムを開発されました。
 学外にあっては,応用物理学会,計測自動制御学会および日本写真測量学会の北海道支部長などを歴任し,学術研究の推進発展に寄与されました。
 以上,学生の教育,学術研究上の諸活動に加え,北海道大学の運営,さらに光学工業界,社会に極めて大きく貢献したもので,その功績はまことに顕著なものがあります。

(工学研究科・工学部)


○鈴 木   章(すずきあきら) 氏
○鈴 木   章(すずきあきら) 氏
 この度,図らずも,昨年6月の日本学士院賞受賞と重ねて叙勲の栄誉を拝受することになりました。誠に嬉(うれ)しいことであり,御高配を賜った関係の皆様に厚くお礼申し上げたいと存じます。
 私は,北大大学院理学研究科化学専攻博士課程を修了し,1959年に北大理学部化学教室有機化学講座の助手として職を得て以来,1961年,当時新設された工学部合成化学工学科有機合成化学講座の助教授に,ついで1973年,応用化学科教授に就任し,1994年3月退官までの計35年間北大に勤務したことになります。
 理学研究科での大学院生の時には,当時教授をされていた杉野目 晴貞先生の有機化学教室で助教授の松本 毅先生の御指導を受け,修士課程では,除虫菊の煙りの成分であるパイロシンの合成の仕事を始めました。その成果を日本化学会の春季年会で発表することになっていましたが,合成は成功したと思われるのに,なかなか結晶体が得られず,当時有機教室で唯一利用できた若山 誠治先生の研究室(山下生化学研究室内)にあった高性能の蒸溜(じょうりゅう)装置をお借りして徹夜で蒸溜を行いました。翌日の早朝少量の液体を得ましたが,依然結晶せず落胆しながらスパーテルでscratchしたところ固化結晶化した時の感激は今でも忘れることができません。これは学会出席のために上京する一日前のことでありました。博士課程に入ってからは,パーヒドロフエナントレン骨格を持った天然物の合成研究に従事しましたが,この仕事に関係して思い出されることは,当時ようやく有機化学の領域で利用されるようになったNMR(核磁気共鳴)利用についてです。当時,北大にこの装置はなく,我が国の国立大学でただ一台設置されていた東北大非水溶液化学研究所の羽里 源二郎先生(北大理・化学出身)の御好意でよく利用させて戴(いただ)きました。
 前記したように,私は1961年から工学部合成化学工学科に移りましたが,工学部ではじめて行った仕事は,このNMRに関係するものでありました。当時応用化学科の武谷 愿先生と合成化学工学科の伊藤 光臣先生は石炭化学の研究をされていましたが,これにNMRを利用することになったのです。その結果,従来法では得られなかった種々の知見を得,武谷,伊藤両先生が大変喜ばれたことを思い出します。
 1962年のある土曜日の午後のことでありました。研究室からの帰路,久し振りに丸善札幌支店を尋ねてみました。その時,化学書の棚に赤黒二色の装丁で学術書らしくない一冊の本を発見しました。これが H.C.Brown先生(1979年ノーベル化学賞受賞)の書かれた“Hydroboration”でした。何気なく取り出して読んでみると,先生特有の表現で書かれ,面白そうだったので購入して帰宅しました。夕食後,読みはじめると止まらなくなったことを今でも思い出します。このことが動機となって,やがて1963年8月から約2年アメリカ・インデイアナ州にあるPurdue大学化学科のBrown先生の研究室でHydroborationの研究をさせて戴くことになりました。その後,この研究が元になり私の終生の研究テーマとなる“有機ホウ素化合物を利用する有機合成”の研究が始まったわけです。同先生からは化学は勿論(もちろん)のこと科学哲学を含め多くのことを教えて戴きましたが,残念ながら昨2004年12月,92才で御逝去されました。私にとって誠に悲しく残念なことであります。
 以上私の研究生活の中での幾つかの思い出を略記しましたが,上記の先生方をはじめ,多くの方々の御指導,御鞭撻(ごべんたつ)に対して,また工学部応用化学科,合成化学工学科での多くの共同研究者および学生の皆さんの御協力に対して衷心より感謝の意を表します。

略 歴 等
生年月日 昭和5年9月12日
出身地 北海道
昭和31年3月 北海道大学大学院理学研究科修士課程修了
昭和34年4月 北海道大学理学部助手
昭和35年3月 北海道大学大学院理学研究科博士課程修了
昭和35年3月 理学博士(北海道大学)
昭和36年10月 北海道大学工学部助教授
昭和48年4月 北海道大学工学部教授
平成6年3月 北海道大学停年退職
平成6年4月 北海道大学名誉教授
平成6年4月 岡山理科大学教授
平成7年3月
平成7年4月 倉敷芸術科学大学教授
平成14年3月 倉敷芸術科学大学定年退職

功 績 等
 同人は,昭和5年9月12日北海道に生まれ,昭和29年3月北海道大学理学部化学科を卒業し,引き続き同大学大学院理学研究科に進学,同34年3月同研究科化学専攻博士課程を単位修得退学して同34年4月北海道大学理学部助手に採用,同35年3月同研究科博士課程を修了し,理学博士の学位を授与されました。その後,昭和36年10月北海道大学工学部助教授,同48年4月同教授に昇任され,応用化学科応用化学第三講座を担当,有機合成化学および有機工業化学の分野の発展に貢献され,平成6年3月31日限り停年により退職し,同年4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。
 同人は,一貫して有機合成化学における方法論の研究に従事し,オレフィンから容易に得られる有機ホウ素化合物のこの分野における重要性を世界に先駆けて認識し,独創的な発想と卓越した洞察力によりユニークで極めて有用な新反応を数多く開発されました。例えば,a,b-不飽和カルボニル化合物に対するマイケル型付加の可能性を予測し,実際に良好な結果で期待される生成物を与えることを見い出されました。その発見者として同人の業績は世界的に知られております。また,同人は有機ホウ素化合物を用いる電解反応をはじめて有機合成に利用し,ホウ素原子上の有機基をラジカル源あるいはカチオン源として利用できることを明らかにして各種有機化合物の合成法を開拓されました。さらに有機ホウ素化合物から容易に得られる四配位錯体を用いて,多くの有用な新規合成反応を開発されました。天然に存在する有用な生理活性物質等には共役ジエン構造をもつものが多いが,これらを容易に合成する一般的手法は知られていませんでした。同人は 1-アルキンのヒドロホウ素化によって得られるビニル型ホウ素誘導体とビニル型ハロゲン化物をパラジウム触媒と塩基の存在下に反応させると,定量的収率で立体および位置選択的に共役ジエン類を合成する画期的方法を開拓し広く注目されました。その後さらに,この反応がビニル型ハロゲン化物のみならず芳香族ハロゲン化物,アリル型およびベンジル型ハロゲン化物にも拡大応用できるばかりでなく,芳香族あるいはアルキルホウ素化合物にも利用できることを明らかにし,本反応の驚くべき汎用(はんよう)性を示されました。
 また,前記研究に関連して,1-アルキン類とハロゲン化ホウ素化合物との反応を検討し,シス-マルコニコフ付加体を定量的に与えることを発見されました。さらにこのハロボレーション法を初めて有機合成に利用し顕著な成功を収めたことも特筆に価するものであります。
 以上のように,同人は有機ホウ素化合物を用いる新規な合成反応の開発研究を通して有機合成における新たな方法論の開発に多大な貢献をされました。これらは今日の先端機能物質・材料科学を支える基礎技術として医薬,農薬,液晶,有機ELなどの機能性物質・材料の開発研究および製造に多用されており,その功績はまことに顕著なものがあります。

(工学研究科・工学部)


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