菊 池 俊 彦(きくちとしひこ) 氏(文学研究科教授)
昭和18年1月26日生 |
(略 歴) |
昭和42年3月 |
北海道大学文学部卒業 |
昭和42年4月 |
北海道大学文学部附属北方文化研究施設助手 |
昭和53年8月 |
北海道大学文学部助教授 |
平成3年4月 |
北海道大学文学部教授 |
平成4年2月 |
北海道大学評議員 |
平成6年1月 |
平成9年9月 |
博士(文学)(北海道大学) |
平成12年4月 |
北海道大学大学院文学研究科教授 |
昭和38年に入学以来,43年間もの長きにわたって来る日も来る日も北大のこのキャンパスに通い続けました。今でも北大構内には昔と変わらず,自然環境が豊かに残されています。春の雪融けになると原生林に水芭蕉が咲き,5月に農場では雲雀がさえずり,6月にはポプラの緑が天高く伸びて綿毛を飛ばし,アカシアが可憐な白い花びらを撒き散らし,楡は鬱蒼とメインストリートを覆い尽くして緑のトンネルとなる。中央ローンの水辺では今も変わらず,小学生が喜々として遊んでいる。農学部の前には,昔のままに木造建物が残っているのはうれしい。
木造の図書館で学生時代に旧満洲・蒙古の膨大な蔵書を次々に借りて読んだ。新しい図書館の5階,次いで現在の4階に移った北方資料室には助手の頃からどれほどお世話になったことだろう。北方資料室には北海道に関するあらゆる分野の文献が所蔵されているが,それに劣らず,サハリン・千島,カムチャツカ,ロシア沿海地方,アムール河流域,そして広くシベリアに関するロシア語,英独仏語の膨大な文献が収集されて揃っている。私が北東アジアの古代史を専門として,環オホーツク海やシベリアの考古学・民族学の分野にまで研究の枠を拡げることができたのも,北大図書館が全国に誇る北方関係文献の所蔵のお蔭である。そして私がその研究に専念できたのも緑豊かな,広大で閑静な北大キャンパスの恵まれた環境のお蔭と感謝しています。 |
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宮 澤 俊 雅(みやざわとしまさ) 氏(文学研究科教授)
昭和17年4月26日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
東京大学文学部(考古学)卒業 |
昭和46年6月 |
東京大学文学部(国語国文学)卒業 |
昭和50年3月 |
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了 |
昭和53年3月 |
東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和53年4月 |
北海道大学文学部助教授 |
平成3年4月 |
北海道大学文学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院文学研究科教授 |
1978年に文学部所属の教養部文学「国語講読」教科で「国語学」を講義すべく赴任。次の年から「国語講読」は無くなり,「日本文学」を担当,81年から特別講義「国語」を申請開講して実績を積み,83年から新教科「国語」が出来て,以来95年まで延べ16000人に日本語Philologyの講義を展開。教養部解体後,文学部の日本文化論講座に所属して「国語学」「国文学」「日本文化論」等の名で専門科目として,2000年からは大学院でも日本語Philologyを展開し,重点化の実績は示し得たと思っています。
Philology とはロゴスの学びを意味し,言語を歴史の視座から見る学です。日本語は1300年の歴史が記録され,Philologyも中世歌学・近世和学(国学)と800年の歴史がありますが,明治期に西欧の近代語研究者(linguist)の指導で,国語学と国文学に分れて制度化されました。20世紀後半には,国文学に文芸評論派が増え,国語学も,linguistが占めるようになり,2000A.D.には国立大学から制度としての国語学・国文学は消滅しました。Philologyも今は一旦野に下る時期のようです。というわけで,お別れです。 |
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須
田 力(すだつとむ) 氏(教育学研究科教授)
昭和18年1月8日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学教育学部卒業 |
昭和42年4月 |
北海道公立学校教員 |
昭和50年6月 |
昭和50年6月 |
北海道大学教育学部講師 |
昭和56年4月 |
北海道大学教育学部助教授 |
平成7年8月 |
北海道大学教育学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院教育学研究科教授 |
昭和50年から30年間,教養部,教育学部,大学院教育学研究科で楽しく過ごさせていただき有難うございました。北海道で育った私は,雪や寒さをバネに子ども達の健やかな発達や高齢者が活動的に生きる力を高めるための身体活動のあり方を模索する教育・研究で試行錯誤を繰り返してきました。教養部では新入生のスキーの合宿研修でさまざまな学科の先生方と教養教育を語り合う機会を得ました。体育,一般教育演習では演習林,低温研の先生方などのご協力で北大の特色を生かした一般教育を展開できました。最近は教職員,学生たち,地域の人たちが一体となって企画した「雪フェスタin北大」で冬のキャンパスに子ども達の歓声がはじける光景も定着しつつあります。これらの活動を実施する拠点として遠友学舎を存分に活用させていただきました。学生の体力は,北大の建学の精神である新渡戸稲造の「学問より実行」における「実行」のための重要な資質です。体力を高め,高められた体力を健康で活力あふれる地域づくりに生かしてくれるような学生が育ってほしいと願っております。 |
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森
谷 求iもりやきよし) 氏(教育学研究科教授)
昭和18年2月18日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学医学部卒業 |
昭和40年5月 |
北海道大学医学部助手 |
昭和47年6月 |
医学博士(北海道大学) |
昭和52年4月 |
北海道大学教育学部助教授 |
平成4年8月 |
北海道大学教育学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院教育学研究科教授 |
平成15年4月 |
北海道大学体育指導センター所長 |
平成17年3月 |
北海道大学に学生として入学して以来,美しい自然に囲まれたキャンパスの中で,大らかな開拓者気風に支えられて,夢中な時間を過ごしてきました。学ぶことの楽しさに目覚めた教養生時代に始まって,科学的真理に近づくための粘り強い研究生活を知った薬学部での学生生活と医学部生理学講座での助手時代を経たことで,教育と研究を仕事とする教員生活を教育学部・教育学研究科でおくることができたと考えています。大学1年生を対象にした教養教育(全学教育)では,自分の学生時代に重ねて取り組むことができました。「研究」に裏付けられて「教育」が可能と考えるため,研究の課題はいつも持ってきたつもりです。自分でできることが年々減る替わりに,学部・大学院教育や共同研究を通じて,「QOLを高める生活処方としての身体活動・芳香・音楽等々」について研究する学生・院生等と共に過ごす時間が増えました。これらの方たちが様々な分野で,有用な研究・教育成果をこれからも生み出してくれるものと期待しています。北海道大学のAmbitiousな風土がさらに発展していくことを祈念します。永い時間お世話になりました。 |
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佐々木 陽 一(ささきよういち) 氏(理学研究科教授)
昭和17年5月8日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
東北大学理学部卒業 |
昭和43年3月
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東北大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和46年3月 |
東北大学大学院理学研究科博士課程修了 |
昭和46年3月 |
理学博士(東北大学) |
昭和46年10月 |
イギリスリーズ大学化学教室博士研究員 |
昭和49年5月 |
東北大学理学部助手 |
昭和55年4月 |
東北大学理学部助教授 |
平成3年4月 |
北海道大学理学部教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科教授 |
平成11年6月 |
北海道大学評議員 |
平成13年5月 |
平成16年4月 |
北海道大学大学院理学研究科副研究科長 |
平成17年4月 |
北大の学生は感性に優れ伸びしろが大きいとは北大に赴任して直ぐ感じたことである。受験で疲れ切っていない,伸び伸びしていて素直である。北海道出身者だけでなく,北海道の地を憧れて北大にやって来た道外の学生にも共通の長所であると感じた。このような学生をやる気にさせ,能力を引き出してやるのが,北大の教員の務めであろう。それから15年,その初心は日常の多忙性に埋没し,生かせないまま過ぎてしまった。自戒の念が今強い。各大学は今特徴を出すのにしのぎを削っている。同じ土俵で戦っていては,そこから頭一つ抜け出すのは容易ではない。人材をきちっと育て世に送りだす。時間のかかる回り道のように見えて,一番実質的にみえる。北大出身者の活躍が目覚ましい,あの人も北大出身ですか,と言われる様になれば,北大はおのずから頭一つ抜け出すことになる。北大の学生は鍛えれば,彼等から新鮮な発想,独創性を教わることもできる。北大ならではの原石を磨き次々と大化けさせたい。それが北大らしい財産となる。北海道に根ざした感性の鋭さとまわりに惑わされない研究土壌,これを生かした発展を大いに期待したい。 |
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宮 下 正 昭(みやしたまさあき) 氏(理学研究科教授)
昭和17年4月28日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
東北大学理学部卒業 |
昭和43年3月 |
東北大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
東北大学大学院理学研究科博士課程中退 |
昭和45年4月 |
東北大学非水溶液化学研究所助手 |
昭和48年4月 |
理学博士(東北大学) |
平成2年9月 |
東北大学非水溶液化学研究所助教授 |
平成2年11月 |
長崎大学薬学部助教授 |
平成6年4月 |
北海道大学理学部教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科教授 |
定年を迎え,北大で過ごした日々が走馬灯のようによぎって行きます。私は小学校から高校まで北海道で過ごしました。父親が北海道電力で水力発電所の建設の仕事をしていましたので,しょっちゅう転校(小学校6校,中学,高校各2校)ばかりしていました。北海道のいろいろな所に行けた反面,友達ができたころ転校になるので高学年になってからつらかったことを覚えています。大学に入学して以来,28年間東北大学で過ごし,平成2年に長崎大学に転出しましたが,北海道の雄大さ,大自然そして冬の厳しさが忘れられず北帰行の夢がつのりました。学会があるたびに千歳空港の屋上に上がって大自然を眺めながら思い切り深呼吸するほど北海道への強い郷愁と思い入れがありました。その思いが天に通じたのか,平成6年4月付けで本学に赴任しました。それ以来12年間にわたりエルムやポプラが生い茂る素晴らしい環境の中で教育,研究に携わることができたことを心から感謝しています。これまで支えていただいた多くの方々,スタッフ,学生,院生の皆さんに改めてお礼を申し上げます。四季を彩るキャンパスで高邁な精神のもと,北の大地から素晴らしい研究成果が世界に発信されることを願って止みません。21世紀に向け我が愛する北大の一層の発展を祈念します。 |
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下 妻 光 夫(しもづまみつお) 氏(医学部教授)
昭和17年8月4日生 |
(略 歴) |
昭和42年3月 |
北海道大学工業教員養成所卒業 |
昭和42年4月 |
苫小牧工業高等専門学校助手 |
昭和46年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和58年6月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和59年4月 |
北海道大学医療技術短期大学部助手 |
昭和62年7月 |
北海道大学医療技術短期大学部助教授 |
平成9年4月 |
北海道大学医療技術短期大学部教授 |
平成15年10月 |
北海道大学医学部教授 |
昭和46年北大工学部電気工学科に電気物性工学講座が新設され,卒業生を輩出して間もない苫小牧高専助手から北大へ赴任して早35年が経とうとしています。本格的な研究生活がここからスタートしました。その後,新しく医療短大部診療放射線技術学科が新設,更に医学部保健学科の新設と,それぞれを立ち上げてきました。このように4回もの異なった機関で違った仕事を経験することが出来ました。私の力は大きく無かったかも判かりませんが,最大限の力を出させていただいたつもりです。このような,なかなか体験できない大きな仕事をさせていただき,多くの先生方に感謝をしております。
研究では,プラズマプロセス研究に携わることができ,私なりの手法を使い低温薄膜プロセスの分野に低周波プラズマCVD法として少しは貢献できたものと自負しております。
さて,現在,研究費・教員数の削減など,教育研究上の難問が山積しておりますが,これらの困難を乗り越えて北大が発展・進化していくことを確信しております。 |
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鎌 滝 哲 也(かまたきてつや) 氏(薬学研究科教授)
昭和17年10月6日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
千葉大学薬学部卒業 |
昭和42年3月 |
千葉大学大学院薬学研究科修士課程修了 |
昭和42年4月 |
千葉大学薬学部副手 |
昭和42年6月 |
千葉大学薬学部教務員 |
昭和44年4月 |
千葉大学薬学部助手 |
昭和48年2月 |
薬学博士(東京大学) |
昭和52年8月 |
慶應義塾大学医学部専任講師 |
昭和57年4月 |
慶應義塾大学医学部助教授 |
昭和60年10月 |
北海道大学薬学部教授 |
平成10年4月 |
北海道大学大学院薬学研究科教授 |
約20年の間,北大では様々な人々に大変お世話になりました。北大の優秀な学生のお陰で私の様なものが一人前の研究が展開出来たと思います。しかし,着任直後に思っていた「少しでも北大へのご恩返しを...」は余り出来なかったように思います。私の力不足のせいです。申し訳なかったと思います。
私は慶應大学から赴任致しましたので,国立大学と私立大学の両方を体験させて頂きました。慶應大学には慶應大学の校風があり,北大には北大の校風があるのですが,北大の方が多少校風が風化されてきているのかなと感じました。北大の古き良き伝統が後輩に受け継がれるようにして頂きたいと思います。今後も教育と研究に携わると思いますが,何かにつけ北大を想い出すだろうと思います。 |
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山 谷 和 彦(やまやかずひこ) 氏(工学研究科教授)
昭和17年4月20日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道学芸大学札幌分校卒業 |
昭和44年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和47年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程単位修得退学 |
昭和47年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和49年9月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和49年10月 |
北海道大学理学部講師 |
昭和55年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成6年2月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
固体物理学分野における超伝導と電荷密度波に関する実験的研究を行ってきた。大学院学生時代からの研究分野を,教職を得た工学研究科においても続けることができた。博士課程に進学するとき,指導教官の故三本木孝教授から「博士課程での研究テーマは先ずは自分で探しなさい。ただし,期限は1年間」と言われた。そこで,色々な論文を読んだり,他の研究室のセミナーに出席したり,先輩の研究所を訪問し議論して頂いたり,実験に悪戦苦闘している仲間にチョッカイだしたり,“遊び”ながら探し続けた。肝心のテーマは容易に探せず,やっと見つけた時には優に1年を越え,博士号修得には2年以上余分に費やしてしまった。しかし,その後,このテーマが発端となり北大発の電荷密度波発見につながり,近年ではトポロジー結晶の発見,COEプロジェクト(丹田聡教授)へと展開する。今では,“遊ぶ”ことの大切さを実感している。 |
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篠 原 邦 夫(しのはらくにお) 氏(工学研究科教授)
昭和17年10月13日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和40年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和45年9月 |
ロンドン大学キングスキカレッジ修士課程修了 |
昭和48年12月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和63年1月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成4年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
北大に入学して以来,45年間にわたり,学生と教官として最大限大学生活を公私にわたり楽しませていただきました。その間,イギリス,カナダ,ノルウェーと数度にわたり長期に海外研究もさせていただき,いつも,鮭のように北大で張り切って育てた研究成果を誇らしげに持参しては,北海道の良さを思い知らされて帰ってきました。それを支えてくれた多くの北大生達の底力に感動しながら,広大な農場の後ろに吹雪の合間に見える手稲山と大倉山のジャンプ台で美しい粉雪の魅力が大いに研究の夢を膨らませてくれました。最近は,夢を実現するプロセス構築への評価こそ,工学的に重要であり,社会人博士や留学生を通して,社会や世界に研究成果が反映されるようになり,益々張り合いがでて面白くなってきました。今後の独法化により,北海道らしい愛着を抱きながら,世界のヘソの北大として,したたかに展開していって頂くことを楽しみにしております。 |
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瀬 尾 眞 浩(せおまさひろ) 氏(工学研究科教授)
昭和18年1月11日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程単位取得退学 |
昭和45年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和46年12月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和51年10月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成2年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
学生時代を含め45年間の長きにわたり北海道大学に大変お世話になりました。卒論研究のために腐食科学の電気化学的研究で世界的に著名な岡本 剛先生の研究室に配属されたことは,その後の私の研究人生にとって幸運でした。岡本研究室から佐藤教男先生(北海道大学名誉教授)や柴田俊夫先生(大阪大学名誉教授)のような世界の腐食科学を先導する人材が数多く輩出され,北海道大学は世界の腐食科学のメッカと言われるようになりました。
私は平成2年に佐藤教男先生の後任として腐食研究室を引き継ぎ,今日まで私なりにその重責を果たすことができましたのも私を支えていただいた先輩諸先生,同僚,優秀な学生諸氏のお陰と深く感謝いたしております。
定年退職にあたり,社会情勢により北海道大学がどのように変革しようとも,これまで大学が培ってきた伝統のある科学の根を絶やさぬよう切にお願いいたします。 |
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工 藤 昌 行(くどうまさゆき) 氏(工学研究科教授)
昭和17年12月3日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和41年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和51年10月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和63年6月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和63年8月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成6年6月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
昭和41年4月に助手となって以来,丁度40年で停年を迎えることが出来ました。無事役目を終えたような気がして,これも諸先生の御指導,同僚,そして学生諸氏の協力の賜物と感謝しております。中学生のときから自分がこの世に存在したことを何かで残したいと考えていました。勤めてまもなくに明治,大正時代の論文を探し,それが北大にあることを知り,論文を書くことで自分の名前を後世に残せるかもしれないと気づいたときは大変感激しました。自分では判りませんでしたが,この仕事は私の天職かもしれません。勤務は終わるのですが,研究はまだまだ面白く,特にこれといった趣味もありませんので,これからは頭がぼけない程度に研究を続けたいと考えております。クラーク先生が20世紀の北大の礎を築いたとするならば,法人化を契機として今の人たちが北大の独自性はどこにあるのかを認識し,22世紀に向けての北大の礎を築き上げたいものです。ありがとうございました。 |
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成 田 敏 夫(なりたとしお) 氏(工学研究科教授)
昭和18年3月21日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
室蘭工業大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和42年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和50年3月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和59年5月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成3年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
昭和42年に工学部の助手として勤務して以来,39年に亘って教育・研究に従事できたことを大変幸せに思います。この間,私の専門とする材料工学の分野では,学科の名称は生産冶金工学科―冶金工学科―金属工学科―材料工学科―応用理工系学科へとかわりました。また,重厚長大から軽薄短小へ,最近では,ナノマテリアルが標榜されています。近い将来どの方向に進むのか(?),不確かさとともに興味津々でもあります。研究面では,高温腐食の機構論的研究の成果を実証することを目的に始めた拡散バリヤ型コーティングがより具体的な段階に到達し,嬉しく思っています。 |
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工 藤 勲(くどういさお) 氏(工学研究科教授)
昭和17年4月18日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和43年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程退学 |
昭和43年4月 |
通商産業省工業技術院電気試験所研究員 |
昭和48年10月 |
米国カリフォルニア工科大学ジェット推進研究所客員研究員 |
昭和49年9月 |
昭和53年1月 |
宇宙開発事業団衛星設計グループ副主任開発部員 |
昭和54年9月 |
昭和58年6月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和61年5月 |
通商産業省工業技術院電子技術総合研究所宇宙環境技術研究室長 |
平成8年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
約30年にわたる通商産業省在籍時代,ETS-III,SEPAC,JERS-1,SFU,USERSといった衛星で,心ならずも遭遇してしまった不具合によって得られた,いわば,「経験知」頼みで学生を教育してきた訳であるが,北大への出向後10年経ってみてこれで十分だったのかと自問しているところである。学生は失敗を乗り越える何かを掴んでくれただろうか?
宇宙産業が非力であったことから,教育界へのインパクトも小さく,学生の進学希望は強く感じながらも,良い策を見出せなかった。しかし,この10年間に日本の宇宙産業は民間主体の部分が国家予算の10倍を越え,さらに10年後にはこの倍を越える予測も出てきて,宇宙産業はようやく揺籃期を脱し,日本の次代のリーディングインダストリーへ向かって歩み始めたと思っている。恐らく,この波は大学にも押し寄せるはずで,新しい専攻はこの波を敏感に感じ取って欲しい。 |
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長谷川 和 義(はせがわかずよし) 氏(工学研究科教授)
昭和17年8月24日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和43年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和43年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和59年3月 |
工学博士(北海道大学) |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科助手 |
平成13年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
北大在籍44年,土木工学科助手に採用されてからも38年になる。この間にお世話になった方々に厚くお礼申し上げたい。河川形態の成因解明と応用というのが研究の主テーマになった。前半は平地河川の形態,特に蛇行現象の解明を手がけた。当時,諸説はあったが川がなぜ蛇行するかは不明であり,国内外の若い研究者がいっせいに研究に乗り出したころであった。大学紛争のさなか河道変遷のもととなる河岸浸食メカニズムの解明から始めて,平面形状と河床形状の相互関連,蛇行の発達条件などの理論化を進めた。東工大,京大,筑波大,ミネソタ大,ワシントン大,USGS,ジェノバ大などの俊英にもまれて取り組むことができたのは幸運であった。これらの理論研究は,当初日本がリードしていたと今でも思うが,共振理論,非線形解析へと発展するに伴い欧米陣の数理解析の底力を見せつけられた。その後数値解析の飛躍的発展をむかえ,河道変動シミュレーションがあたりまえのようにおこなわれるようになったことは感慨深い。後半の研究は山地河川の形態解析であった。砂防学などですぐれた取り組みはなされていたものの,水理学的研究はごくわずかであった。卒論学生とテントを張っての渓流測量など思い出も多い。大・中・小規模河床形態の重なりを見いだし,その成因を明らかにすることに努めた。河川環境の保全・再生気運の高まりのもとで,成果の応用が現れ始めたことに感謝したい。北大は一歩外に出れば最良のフィールドがある。地の利を生かした研究の進展を期待したい。もう一つ,辺境(?)ゆえのハンディもさることながら,法人化後,管理があらゆる面で強まっているように思えるのが気がかりである。自由な学風の発展を祈願したい。 |
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窪 田 英 樹(くぼたひでき) 氏(工学研究科教授)
昭和17年8月28日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
室蘭工業大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程単位取得退学 |
昭和45年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和46年4月 |
室蘭工業大学工学部講師 |
昭和47年4月 |
室蘭工業大学工学部助教授 |
昭和52年12月 |
工学博士(北海道大学) |
平成2年4月 |
室蘭工業大学工学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
6年前に赴任した頃はトップ何とかで,ある先生は『これは戦争である。戦争には勝たねばならない』と檄を飛ばされた。36年前にも助手として1年間お世話になったが,このときは大学紛争で,キャンパスは戦国時代さながらの雰囲気であった。結局,私は,教師としては戦時下の北大しか知らないことになる。昨今の状況ではさすがの北大も,いくさに強い人々を選ばざるを得ない,ということか。40年前に学生として5年間お世話になったが,様々な先生がおられて,なかでも私が強い影響を受けたのは,むしろ「査読」には馴染まない仕事をされている先生たちからだったような気がする。そのような先生の居場所はなくなってしまった。北大の大切な宝を失いつつあるという心配もあるが,私の周りの活躍している方々をみると単なる杞憂に過ぎないという思いの方が強い。この6年間,すばらしい学生諸君と出会うことができ,多くの方々にお世話になった。充実した期間であったと個人的には思う。研究室の若い仲間には特に感謝したい。 |
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城 攻(じょうおさむ) 氏(工学研究科教授)
昭和18年2月28日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和43年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和46年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程単位取得退学 |
昭和46年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和46年9月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和53年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成5年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
私は,主に建築物の耐震設計法や屋根上積雪重量の評価法に関する研究を続けてきました。しかし,地震や豪雪による災害は後を絶ちません。耐震設計法は確実に向上していますが,まだまだ我々の知識や技術が不足であることと,古い設計法で建てた民間建築物の莫大な改修費用の問題があるためです。また,教育では技術者倫理を含めて建築構造学を教えてきましたが,昨年末の耐震強度偽装事件に見られる一部の建築士や建設業者の倫理観の欠如は言語道断です。ただし,国民が建築物の安全に関心を持つ機会となったことは救いでした。
思えば入学してから44年間を北大で過ごしましたが,これは異常なことです。この間に,工学を専攻する者としては実務経験が重要と考え,建築の計画・設計・施工における実務への出向を何度か試みましたが成就できませんでした。他方,僅か10ヶ月でしたが,海外研究生活で得られた異文化の経験と多くの知人は,その後の研究教育における貴重な財産となりました。日本の大学人も,これからは積極的に異なる大学や職場を巡って研鑽されることを期待します。 |
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森 吉 昭 博(もりよしあきひろ) 氏(工学研究科教授)
昭和17年8月28日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和43年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和46年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程単位取得退学 |
昭和47年3月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和47年4月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和48年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成4年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
北海道ではスキーができるということで北海道に憧れ,北海道大学に入学して以来,現在まで北海道大学にお世話になりました。当時スキーといえば全て同じものだろうと思い込み,入部したのが山スキー部であり,ここで前総長の丹保先生よりニセコでスキーの無減速回転理論を教わったのが大変印象的です。この北海道の気象,風土は大変貴重であり,このような好条件に恵まれながら,長期間に亘り研究,教育に専念できましたことに対して,教職員,事務系職員の方々および学生諸君に大変感謝申し上げるとともに御礼申し上げます。特に学科および学部を超えて様々な人々に相談しながら,共同研究をさせて頂いたことは北海道大学でなければできなかったと今でも信じております。これからの北海道大学がすばらしい人々とこの環境を踏まえて,創立当時の「創造性のある大学」という精神を踏まえて世界の北海道大学へと変身していくであろうことをお祈りしております。 |
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淺 川 昭一郎(あさかわしょういちろう) 氏(農学研究科教授)
昭和18年2月2日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院農学研究科修士課程修了 |
昭和49年3月 |
北海道大学大学院農学研究科博士課程単位取得退学 |
昭和51年8月 |
北海道大学農学部助手 |
昭和52年9月 |
北海道大学大学院農学研究科博士課程修了 |
昭和52年9月 |
農学博士(北海道大学) |
昭和56年10月 |
北海道大学農学部講師 |
昭和61年4月 |
北海道大学農学部助教授 |
平成6年4月 |
北海道大学農学部教授 |
平成11年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
昭和36年に津軽海峡を渡って以来,今日までその大部分を学生・教員として北大で楽しく過ごさせて頂きました。お世話になった多くの方々に厚くお礼申しあげます。
教育研究では造園学,特に緑地の計画に関する分野を担当しましたが,大都市にあって広大な緑のキャンパスは,身近な教材として,緑化に係わる実践的活動の場としてもかけがえのない存在でした。樹木など緑の管理については多くの意見があり,合意形成の困難さも体験的に学ぶことができました。しかし,多くの学生が多感な青春時代の一時期を心豊かに過ごす上で,キャンパスの緑と美しさの大切さについて異論はないものと思います。関係者にはこれまで以上のご配慮やご努力をお願い致します。
これからの北大には国際的な研究基幹大学としての発展が求められることと思いますが,分野によっては広い視野に立った技術者教育の視点も欠かせません。北海道に立脚した伸びやかさと個性ある発展を大いに期待しております。 |
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三 島 コ 三(みしまとくぞう) 氏(農学研究科教授)
昭和18年3月31日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
昭和43年3月 |
北海道大学大学院農学研究科修士課程修了 |
昭和43年8月 |
北海道大学大学院農学研究科博士課程中退 |
昭和43年8月 |
酪農学園大学酪農学部助手 |
昭和44年4月 |
酪農学園大学農学部講師 |
昭和49年7月 |
北海道大学農学部助手 |
昭和57年3月 |
農学博士(北海道大学) |
昭和58年10月 |
北海道大学農学部助教授 |
平成5年4月 |
北海道大学農学部教授 |
平成11年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
昭和37年北海道大学に入学したが,学科は農学部卒の父の遠友夜学校教師仲間であった高倉新一郎教授が在籍していた農業経済学科に進学した。高倉先生はドイツ歴史学派の流れを汲む歴史学者であった。先生の退官のため,大学院修士課程では川村琢教授に師事し,マルクス経済学による農業市場論を学んだ。昭和49年から北大農業市場論講座の助手になったが,「歴史学とマル経」は私の研究教育に深く染みついている。とくにマル経はソ連崩壊後勢いを失ったが,グローバル資本主義の矛盾が噴出している現在,その再評価が図られてしかるべきであると思う。定年の年度に,30数年の研究を総括した『農業市場論の継承』と,今後の研究方向を展望した『地産地消と循環的農業』の2著を上梓することができた。ボランティア活動としては,遠友夜学校創立百年記念事業と北大構内の新渡戸稲造顕彰碑建立事業に,それぞれ事務局としてお手伝いできたことが思い出に残る。多謝。 |
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矢 沢 正 士(やざわまさお) 氏(農学研究科教授)
昭和18年3月16日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
昭和40年4月 |
北海道大学農学部助手 |
昭和58年3月 |
農学博士(北海道大学) |
昭和63年5月 |
北海道大学農学部助教授 |
平成11年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
北海道江別市生まれ,岐阜県育ち,高校入学時に再び江別に戻り,北海道大学に入学,農学部卒業と同時に新設講座の助手に採用され,以後41年間の長きにわたり北海道大学教員として勤めさせていただきました。途中,助教授,教授へと昇格するたびに新設の研究室に移り,研究内容も大幅にチェンジしましたので,転勤を2回経験したような印象があります。この間,多くの先輩,同僚,後輩の皆様のお世話になりましたことに,あらためて感謝を申し上げたいと思います。
大学における研究環境で優れているのは何かを考えてみますと,やはり大学院という組織を持ち,多様な価値観と研究志向を有する大学院生が集まってくることです。研究室の従来の研究方向に合わないテーマで研究したいという院生も出てきますが,そのことが逆に研究室の幅を広げてくれることにつながる場合もあり,個人的な反省点でもありますが,教員のトータルな力量・包容力が問われているのだと感じています。北海道大学の一層の発展を念じております。 |
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高 橋 邦 秀(たかはしくにひで) 氏(農学研究科教授)
昭和18年3月29日生 |
(略 歴) |
昭和42年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
昭和44年3月 |
北海道大学大学院農学研究科修士課程修了 |
昭和46年2月 |
北海道大学大学院農学研究科博士課程中退 |
昭和46年3月 |
農林省林業試験場北海道支場研究員 |
昭和55年12月 |
農学博士(北海道大学) |
昭和58年5月 |
農林省林業試験場企画室長 |
昭和60年4月 |
農林省林業試験場北海道支場造林第一研究室長 |
平成3年3月 |
農林水産省森林総合研究所北海道支所育林部長 |
平成7年3月 |
農林水産省森林総合研究所九州支所長 |
平成8年4月 |
北海道大学農学部教授 |
平成11年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
九州熊本の森林総合研究所支所から思いもかけず母校の北海道大学で教育と研究に従事することになり,あっという間の10年でした。国立研究所で上下関係のはっきりしている組織的運営環境に慣れてしまっていた自分にとって大学赴任後の2,3年は戸惑うことが多かったように思います。学生気質の変化にも面食らうことが多々ありました。しかし,慣れるにしたがって講義やゼミを通して,高等教育とは何かを自問し,学生諸氏との交流の中で得るものも多く,国際共同研究を実施する中では専門領域を越えたグローバルな研究交流の楽しさを味わうこともできました。これは先輩の皆様のご指導,同輩・後輩諸氏,学生諸君そして事務関係の皆様のご協力,ご援助の賜物と感謝いたします。ありがとうございました。
歴史は流れ去るものではなく,積み重ねられるものです。これから予想される厳しい教育・研究環境の中で伝統を生かし,豊かな教育・研究の力を発揮できる新たな北大カラーの創造を期待しております。 |
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石 井 寛(いしいゆたか) 氏(農学研究科教授)
昭和18年2月26日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院農学研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
北海道大学大学院農学研究科博士課程単位取得退学 |
昭和45年7月 |
北海道大学農学部附属演習林助手 |
昭和47年5月 |
北海道大学農学部助手 |
昭和54年3月 |
農学博士(北海道大学) |
昭和58年11月 |
北海道大学農学部助教授 |
平成5年4月 |
北海道大学農学部教授 |
平成11年4月 |
北海道大学大学院農学研究科教授 |
1961年に理類に入学してから45年が経とうとしている。この間にわが国は高度経済成長して,貧しい国から「必需品」の供給がほぼ充たされる豊かな国となった。それにともなって生産力を高めるよりも環境を保全し,生活の質を高めることが課題とされるようになった。
私が研究対象とする森林は環境であるとともに,資源でもある。研究を始めた頃は資源的側面が重視されたが,わが国が豊かな国になるにつれ,環境的側面が重視されるようになった。
45年という時間は個人の歴史では長いものであったが,社会の歴史ではあっという間である。今から45年後には日本の社会は一体どうなっているのであろうか。私は勿論,この世にはいないが,大いに関心のあるところである。 |
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斉 藤 昌 之(さいとうまさゆき) 氏(獣医学研究科教授)
昭和17年11月18日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和42年3月 |
大阪大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
大阪大学大学院理学研究科博士課程修了 |
昭和45年3月 |
理学博士(大阪大学) |
昭和45年4月 |
大阪大学蛋白質研究所研究生 |
昭和48年4月 |
愛媛大学講師 |
昭和49年5月 |
愛媛大学医学部助教授 |
昭和56年5月 |
医学博士(大阪大学) |
平成元年3月 |
北海道大学獣医学部教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院獣医学研究科教授 |
平成13年5月 |
北海道大学評議員 |
平成15年5月 |
平成元年に獣医学部に赴任から17年間,何とか無事定年退職を迎えることとなりました。
それ以前は他大学の理学部,医学部にいたこともあって,北大獣医学部についてはあまり知識のないままで,獣医学の教育や研究にどこまで貢献できるか不安一杯のスタートでした。しかし,専門としている生化学は,大学院共通講義などからも判るようにもともと学部の垣根が低い学問領域ですし,丸ごとの動物を対象とする獣医学では私の生理学的経験・知識が役立つことが判って,比較的早くフィットすることができました。研究テーマである「神経による代謝調節」についても,それまでのマウスやラットだけでなく,ハムスター,イヌ,ネコ,ウシなどを対象にできたのも獣医学部ならではのことでした。この間,試行錯誤しながらもある程度の研究成果を挙げ,多くの学生・院生を世に送り出すことができたのは,至らない私を支え導いて下さった良き先輩,同僚,学生のお陰に他なりません。ありがとうございました。
この数年間,北大も獣医学部も大きく変わりつつありますが,伝統を踏まえた特色ある教育・研究機関としてますます発展するよう祈念致します。 |
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北 島 秀 夫(きたじまひでお) 氏(情報科学研究科教授)
昭和17年5月6日生 |
(略 歴) |
昭和42年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和44年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和44年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和57年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成5年4月 |
北海道大学工学部教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科教授 |
平成16年4月 |
北海道大学大学院情報科学研究科教授 |
教育さえも産業政策という観点からのみ捉える困った国に住んでいます。大阪の私塾(現在の大阪大学)で学んだ福沢諭吉の時代には,素質に優れた若者が学問で身をたてるべく日夜熱心に勉強したと伝えられています。“身をたてる”は国家レベルの主流に参加し,主要な地位を占めることを事実上意味しています。この様な単一の価値観により国全体の若者を動かすことは危険であることは歴史が証明しています。現在の研究の世界でも,特定分野に巨額の研究費が注ぎこまれ,身を立てたとおぼしき研究者たちが研究誌をフィクション誌に変える作業に精を出す始末です。
現在の若者を福沢諭吉流の学問すすめだけで,勉学に繋ぎ止めておくことは不可能でしょう。大学にも“経営”が求められる時代ですが,多用な価値観が共存し,切磋琢磨する環境が失われたならば,株主である人類の将来に直接責任をもつはずの大学としては,経営破綻を意味すると思います。株主を大切に扱う北海道大学の将来に,一株主として期待します。 |
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山 内 晧 平(やまうちこうへい) 氏(水産科学研究院教授)
昭和17年9月4日生 |
(略 歴) |
昭和44年3月 |
北海道大学水産学部卒業 |
昭和46年3月 |
北海道大学大学院水産学研究科修士課程修了 |
昭和50年3月 |
北海道大学大学院水産学研究科博士課程修了 |
昭和50年3月 |
水産学博士(北海道大学) |
昭和50年4月 |
日本学術振興会奨励研究員 |
昭和51年8月 |
北海道大学水産学部助手 |
平成元年4月 |
北海道大学水産学部助教授 |
平成6年4月 |
北海道大学水産学部教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院水産学研究科長・水産学部長 |
平成11年3月 |
平成7年4月 |
北海道大学評議員 |
平成14年3月 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科教授 |
平成13年5月 |
北海道大学総長補佐 |
平成14年3月 |
平成14年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科長・水産学部長 |
平成18年3月 |
平成17年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究院教授 |
平成17年4月 |
北海道大学大学院水産科学院長・大学院水産科学研究院長 |
平成18年3月 |
平成17年5月 |
北海道大学副理事・創成科学共同研究副機構長 |
平成18年3月 |
北海道大学に入学して以来今日まで,良き師,先輩,同僚,後輩,そして学生達に恵まれまして有意義な大学生活を送ることが出来ましたのも,上記の多くの方々のご支援,ご指導のお陰と心から感謝申し上げます。
受験時代,朝日新聞に載っていたウナギの人工催熟の記事を目にし,水産学を志しました。博士課程進学後,故山本喜一郎先生にウナギの成熟機構に関する研究をやるように言われ,心躍ったのが昨日のようです。以来ウナギ一筋で研究を行ってきましたが,未だ目標に達していません。生命現象の奥深さをしみじみとかみしめています。しかし,このウナギの成熟機構に関する研究で恩師の山本先生と同じ紫綬褒賞をいただき,研究も一区切りと自分を慰めています。
研究もこれからという教授2年目に学部長を拝命し,これも北海道大学への恩返しと管理運営に全力を挙げてきました。学部長8年間,評議員3年間の計11年間,自分の描いている水産学部の将来を見据えて研究をあきらめ,学部改革に邁進してきました。議論の余地が多々あることは十分承知していますが,あの時の選択した道は正しかったと10年後,20年後の後輩諸君が評価してくれるものと信じて止みません。これからも尊敬,信頼される北大であることをお祈りいたします。 |
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関 伸 夫(せきのぶお) 氏(水産科学研究院教授)
昭和17年6月7日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
鹿児島大学水産学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院水産学研究科修士課程修了 |
昭和42年3月 |
水産学修士(北海道大学) |
昭和43年7月 |
北海道大学大学院水産学研究科博士課程中退 |
昭和43年7月 |
北海道大学水産学部助手 |
昭和48年6月 |
水産学博士(北海道大学) |
昭和62年4月 |
北海道大学水産学部助教授 |
平成4年4月 |
北海道大学水産学部教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科教授 |
平成17年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究院教授 |
私の母の実家が水産業を営んでいた影響で,水産物の鮮度と品質保持に関心を持っておりました。昭和40年,当時この分野で先端的研究をされておられた斉藤恒行教授のご指導を仰いだことが,今日に続く本学での長い研究と教育に携わるご縁となりました。その後,魚介肉の鮮度が魚肉の利用・加工と密接に関連していることから,魚肉タンパク質と酵素分野の研究を展開しました。この間,良き先輩,同僚,職員の皆さん,および多くの優秀な学生,院生の諸氏に恵まれ,水産食品と水産生化学分野にささやかな貢献ができました。それにも増して,研究室で楽しい時間が過ごせたことを何よりも感謝しております。水産食品は毎日食しているものです。あまりに身近ですので,研究の対象になるのかと思われるかも知れませんが,科学的な研究はまだ始まったばかりです。今後の北大での研究がますます発展するように期待しております。 |
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荒 木 義 雄(あらきよしお) 氏(地球環境科学研究院教授)
昭和17年8月13日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和42年4月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和55年3月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和57年1月 |
北海道大学理学部助教授 |
平成4年5月 |
北海道大学理学部教授 |
平成5年4月 |
北海道大学大学院地球環境科学研究科教授 |
平成17年4月 |
北海道大学大学院地球環境科学研究院教授 |
昭和36年に本学に入学して以来,通算して45年間,北大にお世話になったことになります。修士課程修了と同時に助手に採用され,39年間の長きに渡り,教員として勤務した結果となります。助手時代には,講座制度,企業との共同研究などを厳しく糾弾され,また,飢餓に苦しむ発展途上国の状況を根拠に日常的な研究活動を行うことすら拒否されたり,ときには,夜の明けるまでこのような生産性に乏しい学生の議論に付き合わされたことが記憶に強く残っております。
しかし,今ではそのようなアカデミック科学時代の体制が懐かしく思えるようになりました。現在では,高効率な研究遂行,研究目標への先鋭化,研究成果の宣伝などが重要視される時代となっております。このような状況は早熟の研究者にとってはきわめて有利に作用するが,晩熟の研究者は育たないような環境となるのではないかと危惧している次第です。
本学を去るにあたり,最良の師,先輩,同輩,友人,また,多くの優秀な後輩に恵まれたことを深く感謝申し上げるとともに,本学が良き方向へますます発展されますよう祈念いたします。 |
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八 木 駿 郎(やぎとしろう) 氏(電子科学研究所教授)
昭和17年5月20日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和44年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和47年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程修了 |
昭和47年3月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和47年8月 |
北海道大学応用電気研究所助手 |
昭和52年5月 |
九州大学理学部助教授 |
昭和63年12月 |
北海道大学応用電気研究所教授 |
平成3年10月 |
北海道大学応用電気研究所附属電子計測開発施設長 |
平成4年4月 |
平成4年4月 |
北海道大学電子科学研究所教授 |
平成4年4月 |
北海道大学電子科学研究所附属電子計測開発施設長 |
平成6年9月 |
平成15年4月 |
北海道大学電子科学研究所長 |
平成15年9月 |
教育を受けまた教育に携わる立場へと長い間籍を置いた北大を去る時,ついその将来の発展を思い描く。なんと言ってもその天賦の利点は美しいキャンパスである。自分にとっても昭和36年の入学時の中央ローンの緑の芝生の上での級友らとの語らいのひとときはいまだに新鮮な記憶である。その時からキャンパスは絶えず整備と自然成長が組み合わされ,この数十年間見事な成長を続けている。このめぐまれたキャンパスの上で,教育と研究の2本柱を壮大に組み立てる時,国内の他の大学に対して圧倒的に有利な地位を築くことが可能ではないか,と言う気がする。現在でも,教育に関して,例えば全学教育においては自分の入学の頃体験した制度とその実態に比べて格段な改善がなされているし,研究面でも学内各所に北大から世界に冠たる研究を発信している多数のグループが存在している。自分は長年電子科学研究所で研究を,理学研究科で大学院教育をさせて頂いて,この2本柱に携わることが出来て大変幸せであった。最後に,将来の長きにわたって北大が,この2本柱でますます発展することを願っています。 |
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菊 池 九二三(きくちくにみ) 氏(遺伝子病制御研究所教授)
昭和17年9月23日生 |
(略 歴) |
昭和42年3月 |
東北大学医学部卒業 |
昭和43年4月 |
東北大学抗酸菌病研究所研究生 |
昭和49年3月 |
東北大学大学院医学研究科博士課程修了 |
昭和49年3月 |
医学博士(東北大学) |
昭和49年4月 |
東北大学抗酸菌病研究所助手 |
昭和53年2月 |
バージニア大学医学部薬理学教室留学(3年間) |
昭和56年12月 |
東北大学抗酸菌病研究所助教授 |
平成元年5月 |
北海道大学免疫科学研究所教授 |
平成12年4月 |
北海道大学遺伝子病制御研究所教授 |
平成14年4月 |
遺伝子病制御研究所副所長 |
平成18年3月 |
平成16年4月 |
遺伝子病制御研究所附属疾患モデル動物実験施設長 |
平成18年3月 |
私は,平成元年5月,東北大学抗酸病研究所生化学部門より,北海道大学免疫科学研究所生化学部門に,塩川洋之教授(現:北大名誉教授)の後任として着任いたしました。それから17年間を過ごさせていただき,この3月で定年を迎え,退任することになりました。
在任中は,自然環境に恵まれた北大キャンパスで若い学生達とともに,研究に専念できました。北大は,ひとつのキャンパスにほとんどの学問分野をカバーしたすばらしい教育・研究機関であります。そのため,専門分野のみならず,周辺領域の研究者,さらには文系などの先生などとも気軽に交流することができまして,大変豊かな大学生活を送ることができました。心から感謝申し上げます。
かつて国破れ,多くの親や兄弟を失ったあの戦争が終わったのは,このたび大学を去る私達が3歳のときでありました。それから60年が経ち,幸いにして再び戦争に巻き込まれることなくこれまで過ごしてきました。しかし,その間も,地球上では戦禍は絶えることがありませんでした。北大の先人達が世界平和に刻した偉業を思うにつけて,北大が今後とも,人類の明るい平和な未来に向けて,時代を越え,民族を越えた普遍的な価値を探究し創造し得る学府として存在し続けられますよう,心より祈念しております。 |
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葛 巻 暹(くずまきのぼる) 氏(遺伝子病制御研究所教授)
昭和18年3月27日生 |
(略 歴) |
昭和42年3月 |
北海道大学医学部卒業 |
昭和50年3月 |
北海道大学大学院医学研究科博士課程修了 |
昭和50年3月 |
医学博士(北海道大学) |
昭和50年7月 |
北海道大学医学部附属癌研究施設助手 |
昭和54年6月 |
浜松医科大学医学部助手 |
昭和54年9月 |
浜松医科大学医学部助教授 |
昭和56年10月 |
北海道大学医学部附属癌研究施設教授 |
平成12年4月 |
北海道大学遺伝子病制御研究所教授 |
平成5年4月 |
医学部附属癌研究施設長 |
平成9年3月 |
平成14年4月 |
遺伝子病制御研究所附属ウイルスベクター開発センター長 |
平成18年3月 |
母校である北大の医学部旧附属癌研究施設に教授として呼んで頂いてから,24年が経過しました。当初は教授,助手各1名の不完全かつ7年時限部門の途中という厳しい状況下での出発でした。部門のスタッフと医学部臨床教室並びに歯学部口腔外科学教室からの大学院生や研究生および留学生と共に癌の研究を進め,2回の時限をクリア出来ました。この過程で助手の増員と外国人客員研究部門設置を実現していただき,遺伝子病制御研究所の設立時には部門の時限が解消されました。私共が研究を継続できたのは,大学本部,歯学研究科,アイソトープ総合センター,附属図書館,留学生センター,医学研究科,遺伝子病制御研究所の他多くの皆様の理解と支援の御陰と深く感謝致します。言うまでもなく,研究所の存在は大学にとって極めて大きな財産です。癌など難病の研究を継続する必要性は論を待ちません。北大唯一の医科学系研究所である遺伝子病制御研究所が,今後とも皆様の御協力を得て北大と共になお一層発展することを心から願っています。 |
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市 川 勝(いちかわまさる) 氏(触媒化学研究センター教授)
昭和17年4月11日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
東京大学理学部卒業 |
昭和42年3月 |
東京大学大学院理学系研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
東京大学大学院理学系研究科博士課程修了 |
昭和45年3月 |
理学博士(東京大学) |
昭和45年4月 |
財団法人相模中央化学研究所 |
昭和59年9月 |
昭和59年9月 |
アメリカ合衆国ノースウエスタン大学客員教授 |
昭和60年6月 |
昭和60年7月 |
北海道大学触媒研究所助教授 |
昭和61年5月 |
北海道大学触媒研究所教授 |
平成元年5月 |
北海道大学触媒化学研究センター教授 |
東京生まれの私にとって北海道の自然の豊かさ,海山の幸と素晴らしい人との出会いをエンジョイすることが出来ました。
私の専門は,触媒化学でありますが,新しいナノ細孔材料を利用する金属粒子や細線の鋳型合成(シップインボトル法)技術を開拓して,ナノ構造制御触媒の研究をいたしました。天然ガス,バイオガスやメタンハイドレートなどのメタン資源の有効利用は北海道にとって重要な研究課題であります。幸いなことに,MoやRe担持ナノ細孔触媒を用いてメタンから直接にベンゼンと水素を高活性・高選択率で製造する触媒技術を開発いたしました。この基礎研究をもとに北海道の民間企業と共同して「メタン直接改質法技術」の実証試験を行い,近い将来の商業化プラントの開発に発展いたしました。さらに,有機ハイドライドを用いる水素社会に向けての新しい水素貯蔵・供給技術の開発につながりました。
これからの北海道大学は学生を大切にして,創造性と活力にあふれた人材を育成して,地域社会と人類の未来のため益々の躍進を祈っております。 |
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原 暉 之(はらてるゆき) 氏(スラブ研究センター教授)
昭和17年9月30日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
東京大学文学部卒業 |
昭和46年4月 |
愛知県公立学校教員(愛知県立大学講師) |
昭和49年10月 |
愛知県立大学助教授 |
昭和58年10月 |
愛知県立大学教授 |
昭和62年4月 |
北海道大学スラブ研究センター教授 |
平成元年4月 |
北海道大学スラブ研究センター長,評議員 |
平成4年3月 |
平成9年4月 |
北海道大学附属図書館長,評議員 |
平成13年3月 |
北大125年,スラ研50年,そしていま
退職を間近に控えた2月,総合博物館に招かれ,折しもスラブ研究センターで開催されていた国際シンポジウムの参加者とともに企画展示「北大樺太研究の系譜」の開会式に出席する機会を与えられた。テープ・カットに参加するのは生涯ではじめての経験だったが,考えてみると北大とその学問の足跡を回顧するという意味では,全学の北大創立125年(2001年),所属部局であるスラブ研究センターの創立50年(2005年)につづいて,これは3度目の経験である。
一般に大学という組織にとって「建学の精神」が重要視されるのは,創業期や転換期における情熱や構想力がその後も長期にわたって大学のミッションの規定要因となるからであり,大学を構成する諸組織にとっても同じことである。前から2度の経験を通じて知ったのは,そのようなことであった。3度目の経験は,これとはまったく違って,100年という長いスパンの学問伝統の系譜を語るにしても,むしろそこから解き放たれた自由な発想によってこそ現在の視点から過去が照射される,という実感をともなっていた。
大学とそれを構成する諸組織にとってつねに問われるのは,「いま」という時点で教員集団の中に,あるいは教育研究の現場にたえず生成しつつある可能性豊かな萌芽を育て,ふくらませてゆくための「仕組み」と「道筋」ではないだろうか。北大を去るにあたって思うのは,このようなことである。 |
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小笠原 正 明(おがさわらまさあき) 氏(高等教育機能開発総合センター)
昭和18年2月12日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和43年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和43年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和49年10月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和50年3月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和54年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成4年3月 |
北海道教育大学教育学部教授(函館校) |
平成7年4月 |
北海道大学高等教育機能開発総合センター教授 |
平成11年5月 |
北海道大学総長補佐 |
平成12年4月 |
平成12年4月 |
北海道大学高等教育機能開発総合センター高等教育開発研究部長 |
学生時代と2期にわたる教員時代を合わせて,このキャンパスで約40年を過ごしました。入学式の前日,はじめて札幌駅に降り立ったとき,町というより町の予定地に大学が茫漠と広がっている風景に圧倒されました。やがて自分も開拓者だと思うようになって,人や物に対する見方が変わりました。北海道大学と北海道が持つ教育力のおかげだと思っています。
理学部や工学部の先生からは数々の恩恵を受けましたが,教養の授業で接することができた文系の先生からも多くを学びました。大分あとになって,それぞれの分野で第一級の専門家であることを知りました。自分は熱心でも素直でも無い学生でしたが,時に学問のエートスに触れて感銘を受けました。今でも同じ経験をする理系の学生が多いと思います。
放射線化学の分野では,在外研究を含めて,世界でもトップレベルの研究室の楽しさと厳しさを経験しました。電子線型加速器や極低温装置を使った実験では,いろいろな方にお世話になりました。特に技官の方々の腕前は,研究のレベルに直結していました。
考古有機遺物の産地同定の仕事は,教育大学で始めたものです。北大では本務の合間での仕事となりましたが,研究は思わぬ方向に発展し,2度ほどブレークスルーを経験しました。一緒に仕事をした工学研究科の学生諸君の若々しい情熱と好奇心に脱帽しました。
定年までの11年間は,大学教育と教育改革の仕事に没頭しました。その過程で,北大の良心とクオリティーを感じさせる教職員に多く出会えたことは幸せでした。
皆様のご健闘をいのります。 |
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由 田 宏 一(よしだこういち) 氏(北方生物圏フィールド科学センター教授)
昭和17年6月2日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
昭和41年7月 |
北海道大学農学部助手 |
昭和62年3月 |
農学博士(北海道大学) |
平成6年10月 |
北海道大学農学部附属農場助教授 |
平成13年4月 |
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター助教授 |
平成15年4月 |
北海道大学北方生物圏フィールド科学センター教授
同センター耕地圏ステーション生物生産研究農場長 |
平成17年4月 |
同センター副センター長,耕地圏ステーション長 |
路面電車に乗って駅西の陸橋を越え,北大正門前の停留所で降車。学生だったその頃から45年が過ぎた今,世の中の変わりようにあらためて感慨を覚える。大学の佇まいも,入れ物だけでなく中身も大きく変わってきた。教育と研究が大学使命の両輪とはいうものの,後者偏重で直進困難を感じていた矢先に,独立法人化されて経営が最重視される仕組みになった。事務量はますます多くなり,学生に接する機会がずいぶん減った。確固たる理想や信念があるわけではないが,将来を担う学生の教育にとって本当にこれでよいのか,展望が拓けるのか,懸念するのは私ひとりではないであろう。農場に所属していたので,教育,研究に加えて,慣れない施設の管理運営にも多くの時間を割かなければならなかった。多様性こそ大学の特質である。時代を先取りする気概も大事であるが,構成員それぞれの立場を尊重し,今少しの余裕をもって北大の進むべき道を論じていただきたいと願っている。これまで支えていただいた学生,同僚そして先輩の皆様に心から感謝します。 |
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市野瀬 英 喜(いちのせひでき) 氏(エネルギー変換マテリアル研究センター教授)
昭和18年2月2日生 |
(略 歴) |
昭和55年3月 |
東京大学大学院工学系研究科博士課程修了(工学博士) |
昭和58年3月 |
東京大学生産技術研究所助手 |
昭和64年1月 |
マックスプランク研究所招待研究員 |
平成4年2月 |
東京大学工学部助手 |
平成8年7月 |
東京大学大学院工学系研究科助教授 |
平成15年10月 |
北海道大学エネルギー変換マテリアル研究センター教授 |
私の生まれは九州の田舎の農・林村である。子供の頃は文字通り山野を駆けめぐって仲間たちとよく遊んだ。ポケットにはいつも肥後の守を放り込んであって,衆議一決しては細い竹や木を切ってチャンバラ用の刀を作ったものだ。勿論,肥後の守は毎日ぴかぴかに研いで手入れを怠らなかったものである。昨今のように刃傷沙汰がテレビで報道されることもなかったので,社会が刃物に対して過敏な反応を示すことはなく,親も学校も実に鷹揚であった。子供にとってナイフ(当時はコガタナといった)は第三のお友達だったのだ。長い東京生活を経て北海道の大自然の中に来てみると,九州の山野とは様相がかなり違うが,矢張り人間は自然の一部だという感じがする。そのせいか,実は新しいお友達が出来た。アナログのナイフをデジタル一眼レフカメラに持ち替えて,暇を見つけては北の大地をあちこち切り取っている。そのうち写真集を出そうかと考えている。 |
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兼 古 昇(かねこのぼる) 氏(理学研究科助教授)
昭和17年6月15日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和43年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和46年3月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程修了 |
昭和46年3月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和46年8月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和52年6月 |
北海道大学理学部講師 |
平成元年8月 |
北海道大学理学部助教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科助教授 |
昭和37年に北大教養部に入学して大学院修了までの9年間と,昭和46年からの在職35年を含めると,何と44年もの気の遠くなるような長い月日を北海道大学で過ごしたことになります。しかし,ars
longa vita brevis という格言の通り,専門とした物理学の巨大な世界の片隅で立ちすくんでいるというのが私の現状です。私にとって北大とは40年前の北大になってしまうのですが,人類の共有財産である学問と教育の原点を見据えて,よりよい北大を築いていただきたいと思います。退職にあたり,「魂の牢獄から今解放されるのだ」と言ったら,少々不謹慎かも知れませんが,ソークラーテースの気持ちがほんの少し分るような気がします。 |
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森 谷 武 男(もりやたけお) 氏(理学研究科助教授)
昭和17年7月10日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和43年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和45年5月 |
北海道大学大学院理学研究科博士課程中退 |
昭和45年5月 |
北海道大学理学部助手 |
昭和51年6月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和51年6月 |
北海道大学理学部講師 |
昭和60年4月 |
北海道大学理学部助教授 |
平成7年4月 |
北海道大学大学院理学研究科助教授 |
私が本学理学部の存在を知ったのは小学4年の時でした。生物学科の学生であった先輩につれられて研究室を見学させてもらったのです。薄暗い部屋には見慣れぬガラス容器に半分解けたカエルが入っていました。またデパートのような明るい水洗トイレが印象的でした。この訪問はおそらく無意識のうちに理学の雰囲気を脳裏にしのばせることになったのではないかと思います。北大に入る北海道人は実学志向が強く工学,農学,医学を志すことが多い中で,私は地球物理学を専攻することになりました。その理由のキイワードは“フィールド”と“自前の電子機器による物理量の観測”でした。幸運にも本学に採用されて以来観測・研究に,教育に携わることができました。北海道内での地震や電波の観測には本学研究林等の施設を始め民間の方々の御協力をいただきました。この間に深く影響を受けた諸先輩・同輩・後輩の皆様に深く感謝いたします。なお私が開発した地震予知のための電波観測は日本の地震予知計画の観測項目に世界でも初めて取り上げられ,継続することが決まっていることはうれしい限りです。 |
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小 林 優(こばやしまさる) 氏(薬学研究科助教授)
昭和18年3月7日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学医学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院薬学研究科修士課程修了 |
昭和43年9月 |
北海道大学大学院薬学研究科博士課程退学 |
昭和43年10月 |
北海道大学薬学部教務職員 |
昭和44年7月 |
北海道大学薬学部助手 |
昭和49年3月 |
薬学博士(北海道大学) |
平成10年4月 |
北海道大学大学院薬学研究科助手 |
平成11年4月 |
北海道大学大学院薬学研究科助教授 |
入学した頃の札幌は舗装も満足ではなく,春先の砂埃に参った記憶がある。北海道に生まれ,留学時以外に道外で生活することはついになかった。社会も大学も学生さんの様子もずいぶん変わった。物質的に良いほうに変わったことは疑いないが,一様に貧しかった30年代の日本を今と比べ,どちらが精神的に安定しているか判定に迷うところである。大学生にふさわしい常識が欠落している,と思ってしまうことがある。「タイム」の表紙に出ていた20世紀の有名人の写真を見せたところ,アインシュタイン以外は殆ど答えられなかった。だが,人間のメモリー容量は一定なのだから,パソコンやアイポッドや娯楽の知識を格納する分だけ,かつての常識を入れる余地が減っているのだろう。パソコンのトラブルのたびに,学生さんたちには助けられているのは事実であるが,知的な雑学の方にもう少しメモリーをさいてほしいものである。
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中 島 耀 二(なかじまようじ) 氏(工学研究科助教授)
昭和17年10月22日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程修了 |
昭和45年3月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和45年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和54年6月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科助教授 |
生まれて始めて津軽海峡を渡り,北大に入学したのは昭和36年4月のことでした。以来,45年の北大生活を過ごし,つつがなく停年を迎えることができました。この間,敬愛する先輩諸先生をはじめ,多くの教職員の方々,学生諸君のおかげで,充実した大学生活を送ることができましたことを心から感謝いたしております。ふり返ってみれば,人の世話になった記憶は多々あるものの,人の世話をした記憶は殆どありません。それにもかかわらず,すっかり偉くなってしまった旧い卒業生が未だに慕ってくれることは本当に嬉しく,“役得”の有難さを痛感しているこの頃です。
私の恩師はすでに80歳を超えられましたが,未だに論文を執筆なさるほど心身ともにご壮健です。私もこれでおしまいということではなく,今までと同じように知的好奇心を保ち,学ぶことと知ることの喜びを持ち続けられるよう願っております。今後もいろいろ教えを乞いに伺うことがあろうかと思いますが,従前どおりご厚誼のほど,何卒よろしくお願い申し上げます。末筆になりましたが,これからの北海道大学を支えてゆかれる皆様のご健勝と益々のご発展を祈念させて頂きます。 |
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吉 田 静 男(よしだしずお) 氏(工学研究科助教授)
昭和18年2月4日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道学芸大学学芸学部卒業 |
昭和40年4月 |
北海道大学助手 |
昭和55年4月 |
北海道大学講師 |
昭和57年4月 |
北海道大学助教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科助教授 |
北大教官になってから41年を経過したようである。略歴を書くと実にシンプルで,「早いものである」ということになるが,時代を追ってよく振り返ってみると「実に長い道程」であったといえる。特に,大学紛争は現在の大学改革の契機となり,この20年ほどで北大が法人化されるまでに変貌を遂げてしまった。事柄の変容には,2つの方向がある。強権的に替えさせられるか,自ら変わるかである。しかし,国立大学はすでに変容を認めない体質になっていたわけであるから,前者しか道は無かったように思われる。大学の法人化はトヨタが世界のトヨタになったように世界の北大になる可能性も生み出している。とはいえ,大学は企業とは異質であって,世界が認める大学になり得るかどうかが評価の対象となる。わけの分からないファクターで数値化して求めた総合点が高いというだけでは世界から評価を受け得ないであろう。北大が今後10年,20年の間にどのように変容するか,大いに期待しつつ,陰ながら応援をし続けたい。 |
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氏 平 増 之(うじひらますゆき) 氏(工学研究科助教授)
昭和17年9月17日生 |
(略 歴) |
昭和43年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和45年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和45年4月 |
北海道大学工学部助手 |
昭和58年9月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和59年9月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和60年9月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科助教授 |
昭和38年4月1日,岡山生れの私は,“北へ!”の期待感にあふれ急行列車を乗り継ぎ札幌駅に着きました。仮宿のため直行した恵迪寮では,寮生達のかって見たことのない形態の生活が繰り広げられていました。北大応援団に入団,人間対人間の関係に関する修行に終始することゝなりました。7年の歳月が流れ,修士課程修了の3月,磯部俊郎教授に呼ばれ,「どうだ,新たに講座ができるので助手になるか,それとも鉱山保安監督局にするか」とのお話しをいただき,自由度が大きいほうがよいので助手を御願いしました。助手となった昭和45年4月から昭和年代終りまでは鉱山保安学(特にガス突出)の研究に従事,平成に入ってからは,岩盤斜面の崩壊,落石予知に関するフィールド研究を進めてきました。学内外では,良き先生,先輩,後輩,同僚,友人の皆さんに恵まれました。話しの度,飲む度に話題がふくらみ研究や生活の原動力となりました。有難うございました。今後とも,北大が「人間性陶冶と学問研鑚」の場として発展していくよう祈念しています。 |
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冨 長 勇 作(とみながゆうさく) 氏(工学研究科助教授)
昭和18年2月22日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和45年3月 |
北海道大学大学院工学研究科博士課程単位取得退学 |
昭和46年4月 |
北見工業大学講師 |
昭和47年6月 |
北見工業大学工学部講師 |
昭和47年9月 |
工学博士(北海道大学) |
昭和48年1月 |
北見工業大学工学部助教授 |
昭和54年9月 |
文部省在外研究員(米国ペンシルベニア州立大学) |
昭和55年8月 |
昭和56年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科助教授 |
北見工業大学において10年間,北海道大学において25年間にわたり,鉱物・エネルギー資源の開発に関わる研究に取り組んできました。資源関連の国際会議では,開催国の中で代表的な鉱山の見学が用意されるので,必ず見学にも参加し,見学先で主な輸出先を尋ねると,いつも日本が含まれていました。地下資源を安全・経済的かつ無駄のないように開発するための研究は,資源の消費国ならびに生産国の両方にとっても有益であり,ひいては地球環境保全のための合理的な開発の仕組み作りに繋がるものと信じています。研究の発表を通して日本の資源開発への国際協力に微力ながら貢献したつもりですが,35年間の勤務期間の内,1年間の米国での在外研究期間を含めて計2年間以上国内の職場を離れていたことになり,この間,教官・事務官(法人化後は職員)の多くの皆様に大変ご迷惑をおかけしました。この場をお借りして,心よりお礼を申し上げます。どうも有り難うございました。 |
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竹之内 一 昭(たけのうちかずあき) 氏(農学研究科助教授)
昭和18年1月17日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学農学部卒業 |
昭和43年2月 |
北海道大学農学部助手 |
平成6年12月 |
博士(農学)(北海道大学) |
平成10年6月 |
北海道大学農学部講師 |
平成11年4月 |
北海道大学大学院農学研究科講師 |
平成13年10月 |
北海道大学大学院農学研究科助教授 |
私の研究室は1917年にアメリカのボルダーストンを,さらに1926年にオーストリアからグラッサーを招聘し,我が国の皮革研究の先鞭を切った。このことから,私のそばには,彼らの著作や他の著者の100年ほど前の欧米の書物が多数保管されている。皮革研究者が減ってくるなかで,古い世界の皮革のことを後世に引継いでおくことが必要と考え,「皮革科学」に昔の著明な革を連載で紹介した。こんなこともあってか,2001年の秋に正倉院展に招かれ,翌年から4年かけて正倉院に保管されている皮革関連の宝物(履物,楽器,馬具,武具,革帯,皮箱等)を調査することを依頼された。今の世に,天皇の許可が無ければ宝物庫を開扉できない正倉院のしきたりにはびっくりすることもあったが,1200年前の古代の宝物に直に触れることができた。とは言っても,化学分析や理化学試験などの破壊試験はもってのほかであり,これまでの経験と眼力に頼るしか無く,それが皮革であるのか,動物の種類は何か,鞣し方法はいかに等断定には苦労した。皮革関連だけでも200点を越える品々の工芸的みごとさと1200年を経過してもなお鮮明な色を残していることに感嘆し,世界に劣らない皮革製造技術が日本にもあったことを実感した。 |
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福 田 昭 治(ふくだしょうじ) 氏(情報科学研究科助教授)
昭和17年5月5日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
北海道大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和42年4月 |
北海道大学工学部講師 |
昭和47年4月 |
北海道大学工学部助教授 |
昭和52年9月 |
工学博士(北海道大学) |
平成9年4月 |
北海道大学大学院工学研究科助教授 |
平成16年4月 |
北海道大学大学院情報科学研究科助教授 |
北大工学部に勤務して39年になります。学園紛争時,建物の封鎖から免れるために実験データや計算結果を毎日持ち帰ったこと,2年間にわたるカナダU
of Sへの出張が許され,いわゆる国際感覚を養うことができたこと等を思い出します。黎明期にあったパワーエレクトロニクスの研究を41年間にわたって続けてその発展に寄与できたこと,多数の学生をパワエレ技術者として社会に送り出すことができたことを誇りに思います。研究室で優秀な技官,経験豊富な助手の先生,優秀な学生に恵まれたことはまことに幸運でした。特に卒業生諸君には大学では実験やシミュレーションでの手足として,卒業後は企業サイドから見た最新情報の提供者として,さらに企業との共同研究・研究費支援・資材提供等の橋渡し役として大変なサポートをいただきました。卒業生の皆様に衷心より感謝いたします。今後の北大の発展に心からエールを送ります。 |
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樫 木 勇(かしきいさむ) 氏(水産科学研究院助教授)
昭和17年5月27日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
室蘭工業大学卒業 |
昭和42年3月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和42年3月 |
理学修士(北海道大学) |
昭和42年4月 |
北海道大学水産学部教務補佐員 |
昭和42年7月 |
北海道大学水産学部助手 |
昭和63年12月 |
水産学博士(北海道大学) |
平成元年3月 |
北海道大学水産学部助教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科助教授 |
平成17年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究院助教授 |
1961年,親に見送られ故郷(士別)を離れて以来,室工大工業化学科,北大理修化学専攻,そして,1967年北大水産学部にお世話になって39年間,長いようで短くもありました。水産学部では化学工学,海洋化学を守備範囲とし,主として水環境保全,海水を利用した海洋鋼構造物の維持・保全に関して研究してきました。その間,1.会合性コロイド状凝集剤という新しい概念の提起,2.海洋鋼構造物の電気防食に伴う石灰質膜の二重層構造の発見とその生成機構の解明,3.海洋鋼構造物の電気防食の際の陽極配置に関する理論的考察─など若干の貢献ができたことは,周囲の皆様方のお陰と感謝申し上げます。言うまでもなく,大学の使命は教育と研究にありますが,教育は息の永い問題であり,目前の多様な学生に対する一面的評価・即断は潜在的能力の育成にとってはかえって危険でもあります。また,研究の真髄は大勢信じられていることへの疑いと真理の探究にあるわけですが,幸いにも北大には「Be
ambitious!」の伝統があり,この面でも皆様方の大いなるエネルギーで大きく切り込んで行けることを祈念しています。 |
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酒 井 信(さかいまこと) 氏(水産科学研究院助教授)
昭和17年4月28日生 |
(略 歴) |
昭和40年3月 |
大阪府立大学工学部卒業 |
昭和42年3月 |
大阪府立大学大学院工学研究科修士課程修了 |
昭和42年3月 |
工学修士(大阪府立大学) |
昭和42年4月 |
北海道大学水産学部助手 |
昭和53年12月 |
水産学博士(北海道大学) |
昭和58年2月 |
北海道大学水産学部助教授 |
平成12年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究科助教授 |
平成17年4月 |
北海道大学大学院水産科学研究院助教授 |
私が北大に赴任したのは昭和42年春,前年に新設された(旧)水産化学科化学工学講座,(故)三木正之教授お一人が着任しておられました。新設の講座は全て初めからのスタートでした。教育面に加えて,研究面でも水産学の体系もよく判らぬまま,手探りのスタートとなりました。
以来,39年が経過してしまいましたが,この間,三木教授をはじめ,先輩諸氏・友人・いろいろな仲間の親身なご指導,助言,叱咤激励,ご厚誼に支えられ退職の日を迎えることとなりました。皆様方に心から感謝申し上げます。
いま,その化学工学系の分野が改組により,ほぼ一代限りの分野となってしまい,一抹の寂しさを禁じえませんが,この改組が水産科学研究院の飛躍的な発展につながることを期待したいと思います。そして北大が真の学問の府として大きな成果を挙げられること,ならびに,皆様方のご健康とご健勝をお祈り申し上げます。 |
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成 瀬 廉 二(なるせれんじ) 氏(低温科学研究所助教授)
昭和17年12月31日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学理学部卒業 |
昭和43年9月 |
北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 |
昭和43年10月 |
北海道大学低温科学研究所助手 |
昭和53年6月 |
理学博士(北海道大学) |
昭和61年4月 |
北海道大学低温科学研究所講師 |
昭和62年4月 |
北海道大学低温科学研究所助教授 |
日本が初めて南極に観測所(昭和基地)を設置したのは1957年のことである。当時中学生だった私は,毎日のように伝えられる南極のニュースにどの程度影響されたのかは分からない。しかしその後,何となく寒いところに憧れ,北海道で学生生活を送ることになった。そしてやがて大学院に入る頃には,南極か北極に関わる何かをやりたい,という意思が明確になったように思う。
1965年頃,北大の地質学や植物学科のOBの中で南米パタゴニアの学術探検の機運が高まった。当時は交通手段も諸情報も限られ,かなり探検的要素の強いものであった。修士の学生の時にこの遠征隊に参加する機会を得たことが,後の私の40年間の活動の原点となった。2回の南極越冬と1回の夏,および10回のパタゴニア氷河調査など,特に意図したわけではないのだが,南半球の氷河を専科として今日に至ることになった。
今後いっそう,日本全国から若者達が夢を抱いて集まってくる北大となるよう願ってやまない。 |
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岩 佐 教 夫(いわさのりお) 氏(学務部長)
昭和21年1月29日生 |
(略 歴) |
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東北学院大学経済学部
卒業 |
昭和39年8月 |
東北大学 |
昭和61年10月 |
東北大学文学部教務掛長 |
平成元年4月 |
東北大学文学部庶務掛長 |
平成2年6月 |
東北大学文学部事務長補佐 |
平成2年7月 |
群馬工業高等専門学校学生課長 |
平成5年4月 |
弘前大学入学主幹 |
平成7年4月 |
弘前大学入試課長 |
平成7年7月 |
山形大学厚生課長 |
平成11年4月 |
群馬大学学生課長 |
平成12年4月 |
群馬大学学生部学生課長 |
平成13年4月 |
鳥取大学学務部長 |
平成15年4月 |
北海道大学学務部長 |
平成15年4月,創基127年,日本の代表的な大学に成長した北海道大学勤務となりました。そこは,法人準備の真最中でした。そして今,1月末で還暦を,3月末で定年を迎え北海道大学を退職することになります。
国家公務員として東北大学に奉職してから,群馬高専,弘前大学,山形大学,群馬大学,鳥取大学,北海道大学と7機関での一貫した学生支援業務に終止符を打つことになります。
とりわけ殆どの学部・大学院研究科が同じキャンパスに置かれ,素晴らしい環境にある本学に勤務できた喜びと共に去る寂しさがあります。
北大での3年間の主な学生支援を振り返ってみたいと思います。
1年目の5月,徳永教育担当副学長から佐伯副学長への交替があり,早速課外活動監督・コーチへの感謝状贈呈がありました。第1号はボクシング部,第2号は弓道部でした。次いで,キャリアセンター設置に向けて総長補佐の先生たちとの私学(慶応大・早稲田大)視察を行いました。また,寒い北海道での勉学援助のため高機能センター前にイルミネーションの設置や新聞を読まない学生が増えていることから,窓口横に新聞コーナーを設置しました。
2年目は,法人化に伴い学務部の改組を行い,就職支援のためのキャリアセンターが新設されました。次いで,老朽化した体育指導センターの改修がありました。また,台風18号により課外活動施設等が大被害を受け,学生たちと復旧作業に汗を流しました。七大学総合体育大会は,主管校となり14年ぶり4度目の優勝をしました。感謝状贈呈の第3号に陸上競技部。また,学生確保策として「大学進学説明会」を名古屋で開催しました。
3年目は,学生窓口重視策として学生支援課,教務課の課長及び補佐席をより窓口に接近した配置に改めました。次いで,大学祭における酒類の販売と持ち込みの禁止を行い,事件・事故ゼロの大学祭となりました。また,学生表彰制度の見直しとして,「北大ペンハロー賞」を新設し,今年1月中村総長自ら17の団体・個人を表彰しました。また,「北大新渡戸奨学金」及び「大塚奨励金」を新設,実施しました。
以上,あっという間の北大における学生支援の3年間でした。
私にとって北海道は,廃藩置県後に入植した我が郷土の方々の苦労とその後の発展を垣間見ることができたのも大きな意義となりました。それは,伊達藩(宮城県)が入植した札幌市白石区,道南の伊達市,当別町そして琴似屯田兵です。土日の休日は,ゴルフ,テニスのほか入植地を訪ねることができ,貴重な思い出でした。北大において,充分な学生支援ができず忸怩たる思いはありますが,今後の北大の益々の隆盛を学外応援団の一人としてエールを送っていきたいと思います。大変お世話になりました。 |
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佐 藤 雄 一(さとうゆういち) 氏(教育学研究科・教育学部事務長)
昭和20年8月16日生 |
(略 歴) |
昭和39年4月 |
北海道大学触媒研究所 |
昭和43年4月 |
北海道大学経理部管財課 |
昭和50年5月 |
北海道大学経理部主計課 |
昭和53年1月 |
北海道大学経理部管財課 |
昭和57年4月 |
北海道大学経理部主計課 |
昭和58年4月 |
北海道大学医学部附属病院総務課登別分院事務掛長 |
昭和60年10月 |
北海道大学水産学部経理掛長 |
昭和63年4月 |
北海道大学経理部情報処理課第二情報処理掛長 |
平成元年4月 |
北海道大学経理部主計課専門職員 |
平成2年4月 |
北海道大学経理部主計課監査掛長 |
平成4年8月 |
北海道大学経理部主計課総務掛長 |
平成6年4月 |
室蘭工業大学会計課課長補佐 |
平成8年4月 |
北海道大学医学部事務長補佐 |
平成10年4月 |
北海道大学経理部経理課課長補佐 |
平成13年4月 |
北海道大学電子科学研究所事務長 |
平成15年4月 |
北海道大学教育学研究科・教育学部事務長 |
昭和39年4月,元触媒研究所に採用になってから42年をもって教育学研究科・教育学部を最後に定年退職することになりました。
無事に定年を迎えることができますことは,職場を共にした良き上司,先輩,同僚の方々から頂いた心温まるご指導,ご支援の賜であり,心から感謝申し上げます。
室蘭工業大学の2年間を除き,40年間の緑豊かな北大キャンパスでの数々の思い出が走馬燈のように浮かび,感激深いものがあります。
このようなすばらしい環境の中で勤務できたことに感謝し,最後になりますが,北海道大学が今後益々のご発展と皆様方のご健勝とご活躍を祈念し,定年の挨拶とさせていただきます。 |
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寺 山 穰(てらやまみのる) 氏(医学研究科・医学部事務長)
昭和20年6月22日生 |
(略 歴) |
昭和45年4月 |
北海道大学庶務部庶務
課 |
昭和47年7月 |
旭川医科大学設置準備
室 |
昭和48年9月 |
旭川医科大学 |
昭和56年4月 |
北海道大学教養部 |
昭和60年4月 |
農学部附属演習林 |
昭和62年4月 |
庶務部庶務課 |
平成5年4月 |
北見工業大学庶務課 |
平成7年4月 |
北海道大学学務部教務課 |
平成9年4月 |
経理部経理課 |
平成10年4月 |
総務部総務課 |
平成12年9月 |
遺伝子病制御研究所 |
平成14年11月 |
歯学研究科・歯学部 |
平成16年4月 |
医学研究科・医学部 |
大学職員として北海道大学をスタートに,旭川医科大学,北見工業大学勤務を経て,終わりも北海道大学で迎えることになった。係単位も含めると,21ヵ所の異動,1ヵ所平均1年8ヵ月のあわただしい36年間であった。
もともと,特に大学に勤めたいという確固たる考えがあったわけではない。学生気分が抜けないまま,親しかった友達がいた札幌の街が気に入り,なんとなく面接を受けて,そのままという感じである。大学には大変失礼であったかと思う。
そんな中でも,いろいろな仕事を経験させていただき,また,多くの上司,先輩,同僚,後輩との出会いがあり,概して楽しい人生を送らさせていただいた。おかげさまで良き知己を得,大きな財産として大切にしていきたいと思う。齢を重ね,体力も気力も衰えてきた。ちょうどいい潮時。ありがとうございました。 |
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炭 田 修 身(すみたおさみ) 氏(北海道大学病院診療支援部長)
昭和21年1月1日生 |
(略 歴) |
昭和41年3月 |
北海道大学医学部附属診療エックス線技師学校卒業 |
昭和41年5月 |
民間(京都府相楽群精華町国民健康保険病院) |
昭和43年10月 |
昭和44年3月 |
北海道大学医学部附属診療エックス線技師学校専攻科卒業 |
昭和44年7月 |
北海道大学医学部附属病院文部技官 |
昭和54年4月 |
北海道大学医学部附属病院放射線部主任診療放射線技師 |
平成5年4月 |
北海道大学医学部附属病院放射線部診療放射線技師長 |
平成15年10月 |
北海道大学医学部・歯学部附属病院診療支援部診療放射線技師長 |
平成16年4月 |
北海道大学病院診療支援部診療放射線技師長 |
平成17年4月 |
北海道大学病院診療支援部長 |
昭和44年,北海道大学医学部附属病院に技術職員として採用され,この3月31日で定年退職となります。この37年ものあいだ,各部門皆様のご指導ご鞭撻,ご厚誼を賜り無事退職を迎えられたこと重畳に存じます。
採用当時は,今では画像診断の主流であるCT装置が全国でやっと少数の病院で導入されだした頃であり,MRI装置においては,磁力で画像を作る装置ができたらしいと耳にし,当然のことながらPET装置のPの字も知りませんでした。
平成5年より,放射線部は関係方面の方々のご尽力により,再開発において陳腐化装置更新が決定して,部員がやっと願う夢を見,連日徹夜で作業をしていたことが昨日のように思い浮かびます。
病院は病める人々が来られるところです。その皆様は,北大病院を信頼して命を委ね,そして高度先進医療への期待をしています。私は,非常に微力でありますが北大病院の医療に関わり合えたことを大変誇りに思っております。
最後に,北大病院の一層のご発展,そして職員皆様のご健勝を祈念しております。 |
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黄 倉 春 雄(おうくらはるお) 氏(工学研究科・情報科学研究科・工学部教務課長)
昭和20年4月22日生 |
(略 歴) |
昭和44年3月 |
北海学園大学法学部卒 |
昭和39年4月 |
北海道大学庶務部人事課 |
昭和53年4月 |
旭川医科大学総務部庶務課職員係長 |
昭和56年4月 |
旭川医科大学総務部庶務課庶務係長 |
昭和56年10月 |
北海道大学庶務部庶務課秘書掛長 |
昭和60年5月 |
北海道大学庶務部庶務課学務掛長 |
昭和63年4月 |
北海道大学庶務部入試課第二入試掛長 |
平成元年4月 |
北海道大学庶務部入試課第一入試掛長 |
平成3年4月 |
北海道大学農学部教務掛長 |
平成6年4月 |
北海道大学法学部教務掛長 |
平成9年4月 |
室蘭工業大学教務課課長補佐 |
平成12年4月 |
北海道大学学務部入試課専門員 |
平成14年11月 |
北海道大学学務部入試課課長補佐 |
平成16年4月 |
北海道大学工学研究科・工学部教務課長 |
平成17年4月 |
北海道大学工学研究科・情報科学研究科・工学部教務課長 |
時の流れの中で……,感謝を込めて
ボブヘイズ,チャフラフスカ…,そして三波春夫,これって何?
東京五輪の年(1964年)に小田舎から大都市札幌に出てきて42年が経ってしまいました。高度成長の時代から混迷の時代の両極を経験した42年間でした。この間,何度泣いて幾度笑ったことでしょうか。学園紛争で職場を奪われ学内を転々としたこと,学籍簿・成績原簿を守ろうとして鉄パイプで脅され,「これは私の命だから!」と必死に抵抗し首を絞められたこと,教養部の時間割作成で同僚と布団を持ち込んで幾晩か過ごしたこと,愛する家族の誕生……。悲喜こもごも,まだまだ思い出します。
42年間の勤務のうち,大半を教務関係の仕事に費やすことができたことは,大学人として本当に幸福でした。学生との語らい,先生と学生と職員のコラボレーションCampus
Visit の立ち上げ等々,辛い中でも喜びのひと時でした。
教えをいただき励ましてくださった先生方,そして共に悩み喜んだスタッフの皆さん,本当に「ありがとうございました!」。心から感謝しています。
もうすぐ春です。花は咲き小鳥が歌いだす,さわやかな季節に想いをはせ,どうぞお元気で,そして喜びと潤いの日々となりますように……。 |
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池 田 満(いけだみつる) 氏(函館キャンパス事務部事務長)
昭和20年12月16日生 |
(略 歴) |
昭和39年3月 |
北海道紋別高等学校卒業 |
昭和39年5月 |
北海道大学工学部 |
昭和46年5月 |
北海道大学経理部経理課 |
昭和51年5月 |
北海道大学医学部 |
昭和54年4月 |
北海道大学水産学部営繕掛国有財産管理主任 |
昭和58年5月 |
北海道大学農学部経理掛予算運用主任 |
昭和62年4月 |
室蘭工業大学会計課出納係長 |
平成2年4月 |
北海道大学経理部情報処理課第二情報処理掛長 |
平成5年4月 |
北海道大学経理部経理課給与掛長 |
平成7年4月 |
北海道大学経理部経理課第一用度掛長 |
平成9年4月 |
北海道大学水産学部事務長補佐 |
平成11年4月 |
北海道大学歯学部総務課課長補佐 |
平成12年4月 |
北海道大学歯学研究科・歯学部総務課課長補佐 |
平成14年4月 |
北海道大学理学研究科・理学部事務長補佐 |
平成15年4月 |
北海道大学水産科学研究科・水産学部事務長 |
平成17年4月 |
函館キャンパス事務部事務長 |
昭和39年5月,北海道大学工学部に採用され,この度,定年を迎えることになりました。
札幌で採用されて以来42年間,途中,函館,室蘭への転勤もありましたが,最後は,函館において退職することになりました。
この間,先輩,同僚,後輩など,数多くの方々に支えられ,公私ともに,楽しく過ごすことが出来ました。そして,これからの人生のためにも,貴重なる沢山の経験をさせていただきました。本当にありがとうございました。
国立大学が法人となり,また,大学を取りまく環境も一層厳しくなりますが,北海道大学が,今後,益々発展されることを祈っております。
最後に,皆様のご健勝と益々のご活躍を祈念し,退職の挨拶とさせていただきます。 |
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目 澤 誠 一(めざわせいいち) 氏(低温科学研究所事務長)
昭和21年3月29日生 |
(略 歴) |
昭和39年4月 |
北海道大学庶務部人事課 |
昭和39年4月 |
北海道大学庶務部庶務課 |
昭和42年6月 |
北海道大学庶務部人事課 |
昭和49年5月 |
北海道大学経理部主計課 |
昭和51年4月 |
北海道大学庶務部情報処理課 |
昭和52年4月 |
北海道大学歯学部附属病院 |
昭和56年4月 |
北海道大学庶務部国際主幹付 |
昭和59年9月 |
室蘭工業大学庶務課学事調査係長 |
平成62年4月 |
北海道大学工学部総務課研究協力掛長 |
平成2年4月 |
北海道大学庶務部庶務課研究協力掛長 |
平成2年6月 |
北海道大学庶務部研究協力課研究協力掛長 |
平成5年4月 |
北海道大学施設部企画課総務掛長 |
平成8年4月 |
北海道大学総務部研究協力課専門員 |
平成11年4月 |
室蘭工業大学庶務課課長補佐 |
平成12年4月 |
室蘭工業大学地域連携推進室長 |
平成15年4月 |
北海道大学低温科学研究所事務長 |
昭和39年4月に,北海道大学に採用となって以来,40年の公務員,2年の大学法人職員の勤務を終えることとなりました。
この間,北海道大学と2度の室蘭工業大学での勤務で,庶務,人事,情報処理,国際交流,研究協力,施設,地域連携等と種々の業務に携わらせて頂き,多くの方々と楽しく過ごさせて頂きました。
大学紛争,大学改革,国立大学法人化と色々なことがありましたが,その都度良き先輩,上司,同僚,後輩の方々に恵まれ,ご指導とご支援をいただき,無事定年を迎えることができました。有難うございました。人生の大半を北海道大学で過ごせたことを誇りに思います。
大学を取り巻く状況は厳しいものがありますが,北海道大学がますます発展することを願っております。 |