北大キャンパス内の遺跡  

恵迪寮での発掘から出土した刻書土器
―「夷」か「奉」か―

 日本列島のなかで最も北に位置する北海道では,縄文文化以降,本州以南とは異なる独自の文化が展開してきました。およそ7世紀から12世紀まで続いた擦文文化も,そうした文化の一つです。擦文文化とは,カマドが付く正方形の竪穴住居址や擦文土器と呼ばれる土器,鉄器,布織技術,雑穀栽培の普及を特徴とし,近年では本州との活発な交流がおこなわれていたことで注目されています。

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 北大キャンパス内の恵迪寮建設に先立って発掘調査されたサクシュコトニ川遺跡(K39遺跡恵迪寮地点)は,擦文文化の一大集落址です。この遺跡からは,ロクロで作られたお椀の形をした多数の土器が出土していますが,そのなかに「●」(写真を参照)の字が側面に刻まれているものが1点あります(写真)。
 擦文文化の遺跡から文字・記号のある資料が発見されることは珍しく,大変貴重なものとして,現在でも日本各地の博物館で開催される古代史や文字に関する特別展には,この資料がたびたび出品されています。
 この「●」(写真を参照)の字は,どのように理解すればよいのでしょうか。文献史学を専攻する研究者のあいだでは,これまで「夷」の異字体であるという説と,「奉」の異字体であるという二つの説がだされてきました。
 「夷」とした場合,東北北部の秋田城に朝貢した蝦夷が「饗給」を受けた際の賜与物として,この土器を受け取った可能性が有力視されています(佐伯有清1986「刻字記号「●」(写真を参照)の意義」『サクシュコトニ川遺跡』北海道大学)。一方「奉」とみた場合,神仏に食物などを奉って祈願する祭祀に使われた象徴的な文字となり,東北一円にも同じ字の刻書土器が分布していることから,北海道のこの地にも本州北部と同様の祭祀行為が執行されていたと解釈されています(鈴木靖民2002「北海道・東北北部の文字資料」『古代日本 文字のある風景』朝日新聞社)。
刻書土器がサクシュコトニ川遺跡にもたらされるにいたった背景について,この二説ではその理解に大きな違いがあります。

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 両説のうちどちらが正しいのかは,文献史学や考古学で今後さらなる議論をしていくことが必要でしょう。ただいずれにしても,本資料が古代の北海道と東北地方とのあいだで,政治もしくは信仰面で密接な関係があったことを物語っている,という理解にかわりはありません。擦文文化の頃の人々が,伸張しつつある古代国家・社会とどのようにかかわっていたのかを解明するうえで,きわめて重要な資料が,北大キャンパス内の遺跡から出土しているのです。


恵迪寮地点から出土した刻書土器焼き上げられた土器の器面に,鋭い工具によって「A」の文字が刻みつけられている。
恵迪寮地点から出土した刻書土器
焼き上げられた土器の器面に,鋭い工具によって「●」(写真を参照)の文字が刻みつけられている。
(埋蔵文化財調査室)

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