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秋の叙勲に本学から3氏

 このたび,本学関係者の次の3氏が平成20年度秋の叙勲を受けました。
勲 章 経     歴 氏    名
瑞 宝 中 綬 章 名誉教授(元 工学研究科長) 柴 田 拓 二
瑞 宝 双 光 章 元 学生部次長
小山田 浩 彦
瑞 宝 単 光 章 元 経理部総括車庫長 沼 田   清
 各氏の長年にわたる教育・研究等への功績と我が国の学術振興の発展に寄与された功績に対し,授与されたものです。
 各氏の受章にあたっての感想,功績等を紹介します。
(総務部広報課)

柴 田 拓 二(しばた たくじ)氏

しば  たく  氏
 この度,叙勲の栄に浴し,まことに恐縮に存じます。ご高配をいただいた関係の方々に厚く御礼申し上げます。
 私は,北大卒業後,民間企業に5年,北大に36年,北海道工業大学に13年にわたり勤務させていただきました。この間,恩師,先輩,同僚,後進の方々の懇篤なご指導,ご支援,ご協力を頂戴し,また学協会等を通じて多方面の尊敬すべき俊英の方々とのご交誼を得て多くを学び,今日に至りましたことを深く感謝しております。
 私は,昭和の60年,平成の20年の道中のいろいろな節目で,しばしば時流の変わり目に遭遇いたしました。小学校6年のときに学校が国民学校に変り,初等科第1回修了生になりました。昭和20年,中学3年修了で,この年新設された海軍兵学校予科に入学し,同校最後の78期生徒になりました。10月に中学4年に復学し,翌年北海道帝国大学予科に入学,昭和24年に前年9月に新設の北海道大学工学部建築工学科に第2期生として進学し,27年に旧制大学終焉前年の卒業生として社会に出ましたが,32年に北大に帰り,卒論講座とは分野の異なる講座に入って,初の母校出身教官として先生方の末尾に連なることになりました。37年3月に授与された学位は旧学位令による最終年次のものでした。
 私が参入した当時の建築学第二講座研究室では,恩師大野和男教授の先見性により,昭和27年3月の「十勝沖地震」で観察された鉄筋コンクリート構造部材の斜め亀裂(せん断亀裂)に着目し,その発生メカニズムを解明すべく,再現実験の方法を追求し,この破壊モードにおける耐力評価法の開発という独創的な研究に燃えていました。私は,その炎の中に飛び込んだことになります。その後,多くの研究機関が大野式加力法による広範な研究を進めることになりますが,当時は,米国で軍施設の崩壊事故時に観察された同様の破壊形式についての研究がイリノイ大学で行われていた他には,ほとんどありませんでした。最終的に,大野研究室が膨大な実験データを取りまとめて確立した「せん断耐力算定式」は,イリノイ大学が提案した算定式よりも同大学の実験結果に対してもよりよく適合するものでした。私は,この実験式の構成の理論的な裏付けを行い,適用条件の区分を行いましたが,これらの一連の仕事は,まことに楽しい思い出となっています。その後,鉄筋コンクリート関連を中心に建築構造に関わる種々のテーマの研究を歴年の優秀な研究室の同僚,学生諸君と共に進めることができたことは,本当に幸せなことでありました。
 北大勤務の後期と道工大勤務の時期はまさしく大学改革の波の中にありました。同僚各位と共に私なりに精一杯の努力を重ねたつもりでありますが,評価は多様であろうかと思います。労苦を惜しまずご尽力をいただいた方々に心から御礼を申し上げます。
 私の北大最後の年に,消すことのできない痛恨の悲事がありました。直接関係の方々は申すまでもなく,学部全員,ご尽力をいただいた学部外の有志の方々,そして当路の方々に大変なご心労,ご迷惑をお掛けいたしました。工学部初期の大先輩をはじめ同窓会の皆様には格別のご支援,ご助言をいただきました。併せてここにあらためて深く感謝申し上げます。
 凡庸の私が,この度,身に余る栄誉をいただき,まことにおこがましいことと存じますが,これを私のこれまでの道程においてご恩恵をいただいた全ての皆様へ御礼を申し上げる機会とさせていただきたいと存じます。

略 歴 等
生年月日 昭和4年5月3日
昭和27年3月 北海道大学工学部卒業
昭和27年4月 清水建設株式会社
昭和32年8月
昭和32年8月 北海道大学工学部講師
昭和33年4月 北海道大学工学部助教授
昭和48年4月 北海道大学工学部教授
平成2年4月 北海道大学工学部長
平成4年3月
平成4年4月 北海道大学大学院工学研究科長・工学部長
平成5年3月
平成5年3月 北海道大学停年退職
平成5年4月 北海道大学名誉教授
平成5年4月 学校法人北海道尚志学園北海道工業大学教授
平成10年3月
平成9年6月 学校法人北海道尚志学園北海道工業大学学長代理
平成10年3月
平成10年4月 学校法人北海道尚志学園北海道工業大学長
平成18年3月
平成18年4月 学校法人北海道尚志学園北海道工業大学名誉教授

功 績 等
 同人は,昭和4年5月3日に北海道に生まれ,昭和27年3月北海道大学工学部建築工学科を卒業し,同年4月清水建設株式会社設計部に勤務されました。昭和32年8月に同社を退職し,同月北海道大学工学部講師に採用され,昭和33年4月に助教授,昭和48年4月に教授に昇任され,平成2年4月から工学部長を併任し,平成5年3月に停年にて退官されました。その後同年4月から北海道工業大学教授として招かれ,平成10年4月から2期8年にわたり学長に就任され,平成18年3月に退職されるまで,ご本人の専門である建築構造学の研究・教育に留まらず,工学全般にわたる教育の発展に努められました。この間,平成3年7月から2期(第15,16期)6年間日本学術会議会員に就任され,平成5年4月に北海道大学名誉教授,平成18年4月に北海道工業大学名誉教授になられ今日に至っています。
 建築構造学の研究においては,わが国の建物の主要な構造として採用されている鉄筋コンクリート構造,鉄骨構造の挙動に関し,および建築物の設計で重要な荷重問題について独創性の高い研究を行い,この分野の発展に多大な貢献をしました。特に,鉄筋コンクリート構造部材のせん断抵抗機構の解明に貢献され,昭和50年にこの分野の最高の賞である日本建築学会賞(論文賞)を受賞されました。また,北海道などの積雪寒冷地で建築物の設計荷重として重要な積雪荷重について,現在設計で使用されている雪荷重評価法の基礎を築き,平成8年に北海道科学技術賞を受賞されました。
 教育においては,大学教員としての立場に留まらず,教育機関の長および学協会の一員としてわが国の工学の発展に貢献されました。北海道大学工学部長在任中,工学と人文・社会科学との調和ある発展が求められるとして,北海道大学工学部および大学院工学研究科の特色ある先駆的教育体制を提案し,実現させました。また,北海道工業大学学長として,わが国の高等教育に大きな役割を果たしている私学における教育の向上に多大の努力を傾注しました。日本工学教育協会および北海道工学教育協会では,評議員,理事,副会長(北工教)を務め,また,日本工学会,日本学術会議あるいは日本建築学会等の諸委員会において,わが国の工学教育の推進と人材育成に長い間貢献してきました。工学全般にわたる教育の国際化・技術資格と教育のあり方について数多くの論文を執筆し,これら一連の理念とその実現の業績に対して平成15年に日本工学教育協会功績賞,平成19年に日本建築学会教育賞(教育業績)を受賞されています。
 建築行政においては,国,北海道,札幌市の数多くの委員会委員・委員長を歴任し,建築の専門家の立場から全国および地域の建築行政に大きな貢献を果たしました。
 学協会においては,多くの学協会副会長・理事を歴任するとともに,日本学術会議会員,学術審議会専門委員,産業技術審議会専門委員としてわが国の学術・技術の全般に拘る発展に寄与しました。その功績により,平成9年に溶接学会から学術振興賞,平成11年に日本溶接協会業績賞を受賞された他,平成10年に日本建築学会,平成11年に日本コンクリート工学協会,平成12年に日本雪工学会,平成20年に日本地震工学会から名誉会員に推挙されています。
 以上のように,同人は研究者として建築構造学分野で優れた研究成果をあげられるに留まらず,教育者および指導者として建築および工学教育の国際化に尽力され,さらに,全国および北海道における建築行政の円滑な執行,多くの学協会の運営発展に尽くされ,その功績はまことに顕著であります。

(工学研究科・工学部)


小山田 浩 彦(おやまだ ひろひこ)氏

やま ひろ ひこ 氏
 このたび叙勲の栄に浴することになり,誠に光栄なことと存じます。これもひとえにご指導ご教示頂いた上司,諸先輩の方々,ならびにご支援下さった皆様のお陰と深く感謝申し上げます。
 昭和31年4月北海道学芸大学札幌分校に採用され,はじめに日本育英会の奨学生にかかわる事務を担当して以来36年間学生部一筋に過ごして参りました。当初は学生の厚生補導の意義も理解し得ないまま業務にあけくれたと思います。私も高校時代に,日本育英会の奨学金の貸与を受けていたこともあり,新入生から提出された奨学生願書の点検整備に力が入ったことでした。その後「厚生補導職員研究集会」等を通じて職務の重要性を勉強し,学生の修学環境の整備に取組んで参りました。
 帯広畜産大学では,外国人留学生のお世話もしましたが,或る年の正月に素晴らしい毛筆書体の年賀状を頂いて恐縮したことがあり,国際交流のはげみになったことがありました。学生の課外活動の拠点として,サークル棟,合宿棟の整備にも力を注ぎましたが,学生の要望をそのまま取入れることが難しかったことが思い出されます。しかし,道内国立大学が輪番で当番校となり,開催された「道地区大学体育大会」等で他大学の同様の施設を承知していたことから何とか竣工までこぎつけたこともありました。
 秋田大学では北海道とは全く異なる風土感覚に加えて,「米の秋田は酒の国」といった表現もある位,飲酒の習慣が強く,春先,新入生歓迎会と称して近くの公園で盛大にコンパを催し,泥酔した学生は「リヤカー」で収容する等,荒っぽいことが行われ驚いたことがありました。飲酒に伴うトラブルはどこの大学でも頭の痛い問題のひとつでした。その他では,サークル(航空部)の要望でグライダー1機を整備したことがありましたが,テストフライトに際して顧問教官から同乗を誘われました。丁重に辞退させてもらいましたところ,「安全」祈願のお祓いに呼ばれていた神主さんが乗ったとかお聞きしました。
 富山大学では一部の学生の主義主張に伴う活動が激しく,それに対応する学生部長をはじめとする関係委員の先生方を補佐することの難しかったことが思い出されます。課外活動の施設設備は大学の整備計画に取り上げられることが先決ですが,予算の枠組みの都合で難しいことも多々ありました上に何かにつけて学生とのトラブルが絶えることがなかったような気がいたします。
 体育施設をはじめとして施設の竣工時の喜びは別として,よくも36年間学生部一筋で通せたものと,これも冒頭で申し上げたとおり諸先輩をはじめとする皆様のご支援のお陰と,改めて厚くお礼申し上げる次第です。

略 歴 等
生年月日 昭和7年3月18日
昭和31年3月 北海道大学農学部卒業
昭和31年4月 北海道学芸大学雇
昭和32年8月 北海道学芸大学事務員
昭和34年8月 北海道学芸大学文部事務官
昭和37年4月 北海道学芸大学学生課厚生保健係長
昭和40年4月 北海道学芸大学学生課学生係長
昭和41年4月 北海道教育大学学生課学生係長
昭和42年4月 北海道教育大学学生課厚生保健係長
昭和43年4月 室蘭工業大学学生課課長補佐
昭和49年4月 帯広畜産大学厚生課長
昭和52年4月 帯広畜産大学学生課長
昭和54年4月 秋田大学学生課長
昭和57年4月 北海道教育大学教務課長
昭和60年4月 北海道大学学生課長
昭和62年4月 富山大学学生部次長
平成元年4月 北海道大学学生部次長
平成4年3月 北海道大学定年退職

功 績 等
 同人は,昭和7年3月18日満州国奉天稲葉町に生まれ,昭和31年3月北海道大学を卒業しました。その後,昭和31年4月北海道学芸大学札幌分校に雇として採用され,同32年8月同分校事務員となり,同34年8月文部事務官に任官,同37年4月同大学学生課厚生係長に昇任,同40年4月学生係長,同42年4月厚生保健係長,同43年4月室蘭工業大学学生課課長補佐に昇任,同49年4月帯広畜産大学厚生課長に昇任,同52年4月同大学学生課長,同54年4月秋田大学学生課長,同57年4月北海道教育大学教務課長,同60年4月北海道大学学生課長を経て,同62年4月富山大学学生部次長に昇任し,平成元年4月北海道大学学生部次長に就任し,同学生部次長を最後に同4年3月定年により退職されました。
 この間,同人は,昭和31年から36年の永きにわたり大学行政に携わり,一貫して大学学生部に所属し,厚生補導事務に心血を注がれました。
 具体的には,昭和49年4月から同54年3月までの5年間の帯広畜産大学厚生課長並びに学生課長としての在職中には,学生の国際交流の充実に力を注がれ,教官と綿密な打ち合わせ等を繰り返し行い,外国人留学生等の受入れ体制の整備を行うと共に,西ドイツミュンヘン大学へ初めて学生を派遣するなど学生の国際交流に尽力されました。また,サークル棟及び合宿棟竣工にあたっては,関係各方面との折衝に奔走し,設置するなど課外活動施設の整備・充実に尽力されました。
 昭和54年4月から在職した秋田大学では,学生課長として福利厚生施設(大学会館)の増設とその管理運営等に尽力され,東北地区大学の総合体育大会,スキー大会(鹿角市大湯大会)の開催するにあたり,関係機関等との連絡調整を密にし,大会の円滑な運営に力を注がれました。
 昭和57年4月から在職した北海道教育大学では,教務課長として,同大学が5分校体制の下で広大な北海道内に散在しているという特殊性から,困難な大学運営の中,同大学の充実,発展に尽力されました。特に,札幌分校,附属札幌小学校,附属札幌中学校,附属図書館及び本部事務局の札幌市北区あいの里地区への移転決定を受け,教育研究及び施設整備の充実等移転準備のために尽力されました。
 昭和60年4月から同62年3月までの2年間の北海道大学学生課長としての在職中には,新野球場,体育館の改修,第二体育館の設置等の体育・課外活動施設の整備・充実に尽力され,また,学生の学業問題,経済問題,心理・精神衛生問題等修学上又は日常生活上の諸問題について個人相談に応じ,これに対して助言,指導等を行う学生相談室の設置及びその関係規則並びに関係委員会の運営など管理運営面に尽力するとともに,全学の学部学生,大学院学生に周知し,学生相談の全学体制作りにも力を注がれました。
 昭和62年4月富山大学学生部次長に着任後,大学祭実行委員会による学内の様々な闘争により,昭和62年9月富山県警により,学生会館の大学祭実行委員会室等の捜査と学生2名が逮捕される事件が発生した際,同人は,就任して間もない緊急事態ではありましたが,これまで培った経験を活かし学生部長を補佐するとともに,冷静な判断と行動により事態の終息に手腕を発揮されました。その他,学生による黒田講堂改築に伴う紛争や学生自治会との交渉についても,積極的に問題解決に向け尽力されました。
 また,同人は,国の施策である留学生受け入れ10万人計画に資金面で対応するために設置された富山大学国際交流事業後援会(後に富山大学国際交流事業基金)の使用に当たり,外国人学生の奨学金や留学生の宿舎として留学生会館の設置等に向け尽力されました。
 平成元年4月から同4年3月退職するまでの北海道大学学生部次長としての3年間は,永年の懸案事項の一つであった水泳プールの設置,剣道場の設置,山小屋の改修等の体育・課外活動施設の整備・充実に尽力されました。
 また,昭和62年以降札幌地区男子寮は,入寮募集を巡って不正常な状態から2年間募集を停止しましたが,平成元年より入寮募集が行われていました。しかし,平成3年10月の入寮募集の際に学生寮自治会と入寮選考権を巡って,再び不正常な状態となりました。同人は,学生部長並びに学生委員会を補佐するとともに,自ら先頭に立って幾度となく寮生と話し合いを行うなど学生寮問題の解決に力を注ぎ,その結果,平成4年から北海道大学学生寮規則に則った入寮募集が行われ,正常な管理運営の遂行に尽力されました。
 以上のように,同人は,大学職員として,採用から退職に至るまで36年にわたり学生部に所属し,大学の厚生補導事務に携わり,永年にわたり大学の学生を主体とする大学行政の発展に寄与したものであり,その功績は誠に顕著であったと認められます。

(学務部学生支援課)


沼 田   清(ぬまた きよし)氏

ぬま    きよし 氏
 平成20年11月3日付けをもって秋の勲章「瑞宝単光章」を受賞させていただき,身に余る光栄と感謝いたしております。
 返りみますれば,昭和39年4月に北海道大学医学部に勤務以来,平成6年6月事務局と廻り,平成14年3月退官まで38年余り,大過なく北海道大学に勤務出来た事を誇りに思っております。此の度の叙勲受賞は私を支えて下さった同僚の皆様方と共に受けられるものであり,受賞を代表させて頂きました事を感謝申し上げます。最後に今回の受賞の労をお取り下さった皆様に,心よりお礼申し上げますと共に限りない北海道大学の発展を心からお祈り申し上げます。
 ありがとうございました。

略 歴 等
生年月日 昭和16年9月20日
昭和32年3月 札幌市立新琴似中学校卒業
昭和39年4月 北海道大学医学部用務員
昭和40年4月 北海道大学医学部技能員
昭和46年5月 北海道大学文部技官
昭和47年8月 北海道大学医学部自動車運転手
平成6年6月 北海道大学経理部経理課自動車運転手
事務局公用自動車車庫大型自動車部門第二主任
平成7年4月 北海道大学経理部経理課自動車運転手
事務局公用自動車車庫乗用自動車部門第二主任
平成8年4月 北海道大学経理部経理課自動車運転手
事務局公用自動車車庫乗用自動車部門副車庫長
平成9年4月 北海道大学経理部経理課自動車運転手
事務局公用自動車車庫乗用自動車部門車庫長
平成11年4月 北海道大学経理部経理課自動車運転手
事務局公用自動車車庫総括車庫長

功 績 等
 同人は,昭和16年9月20日,北海道札幌郡琴似村に生まれ,同32年3月札幌市立新琴似中学校を卒業後,農業に従事しました。しかし,積雪寒冷地の北海道においては,農繁期と農閑期で収入面等で大きな差があり,同人も機会があれば年間を通じて就業したいという希望を抱いていました。その頃,北海道大学医学部で冬期間の臨時運炭夫を募集していることを知り,昭和33年11月同大学医学部暖房室に冬期間臨時運炭夫として採用されました。その後も,臨時運炭夫や臨時用務員等としてたびたび医学部での職務に従事,まじめな勤務態度が認められ,昭和39年4月には,用務員として採用されることになりました。
 臨時運炭夫時代の職務を通じて,自動車運転に興味を抱いた同人は,昭和35年12月に普通自動車免許,同38年12月には大型自動車免許を取得し,用務員として採用された後は,学内札幌キャンパス石炭貯炭場から医学部へのトラックによる暖房用石炭運搬業務でその運転能力を存分に発揮しました。
 医学部における自動車運転業務のうち,日常業務としては,平成6年6月まで登別市に設置されていた「医学部附属温泉研究施設」との事務連絡等でしたが,最も重要な業務として,医学教育の基礎となる解剖実習に供するための解剖体の収集がありました。特に昭和50年代頃までは,解剖体の確保が困難な時代であったことから,献体のための篤志家組織である「白菊会」会員宅の他,篤志家からの貴重な献体の申し出に対応するため,遠距離走行はもちろんのこと,時には昼夜を問わず献体収集車の運転に従事することもありました。献体収集の対象は北海道内一円と広範であり,迅速な対応と同時に慎重な運転が要求されますが,同人は,その困難な業務に黙々と従事し,さらには運転のみならず献体の搬入・搬出の補助を行うなど,その真摯な姿勢には,関係教官からも絶大な信頼を置かれていました。
 また,昭和47年の札幌オリンピック冬期大会の際には,本学から官用車20台が財団法人札幌オリンピック冬期大会組織委員会事務局に配属され,大会の運営に協力することとなりましたが,同人もその一員として概ね2週間,連絡用車輌の運転業務に従事し,大会の成功に側面から貢献しました。
 平成6年6月には,北海道大学における運転業務の事務局一元化に際し,同人も経理部経理課自動車運転手に配置換となり,併せて事務局公用自動車車庫大型自動車部門第二主任を命じられました。その後は,同人の人格と勤務態度が評価され,平成7年4月乗用自動車部門第二主任,平成8年4月乗用自動車部門副車庫長,平成9年4月乗用自動車部門車庫長を歴任,平成11年4月から平成14年3月定年退職までは,総括車庫長として,部下の指導,安全運転管理,車輌管理の責任者としてその職責を全うしました。
 以上のように,同人は,38年の長きに亘り,主に自動車運転業務を通じて,教育研究の遂行を陰から支え,また,温厚誠実な人柄と率先して業務に取り組む姿は,皆の模範となり,その功績は誠に顕著であります。

(財務部主計課)


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