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春の叙勲に本学から8氏

 このたび,本学関係者の次の8氏が平成21年度春の叙勲を受けました。
勲 章 経    歴 氏   名
瑞宝大綬章 名誉教授(元総長) 丹 保 憲 仁
瑞宝中綬章 名誉教授(元電子科学研究所長) 朝 倉 利 光
瑞宝中綬章 名誉教授(元経済学部長) 長 岡 新 吉
瑞宝中綬章 名誉教授(元環境科学研究科長) 伊 藤 浩 司
瑞宝中綬章 名誉教授(元言語文化部長) 新 妻   篤
瑞宝双光章 元看護部長 平 山 妙 子
瑞宝双光章 元施設部長 遠 藤 健 二
瑞宝単光章 元工学部経理課ボイラー長 洽 地   守
 各氏の長年にわたる教育・研究等への功績と我が国の学術振興の発展に寄与された功績に対し,授与されたものです。
 各氏の受章にあたっての感想,功績等を紹介します。
(総務部広報課)

たん  のり ひと 氏
○丹 保 憲 仁(たんぼ のりひと) 氏
 昭和14年小学校1年生となり,札幌に定住するようになって70年になる。工学部白亜館前の中央道路にあった機関車に登ったり降りたり,友人のお父さんの教授室の医局のアルコール浸け標本をこわごわ眺めたり,理学部の鉱石標本やデスモスチルスの化石を見たり,山スキーを藻岩山で初めて習ったり,雪の結晶の研究を父兄である中谷宇吉郎先生が小学校の音楽室に幻灯機を持ち込んで講演してくださったり,ポプラ並木のほとりのサクシュコトニ川でトンギョを掬ったり,小学校のころから北大の庭で遊び育ててもらった。
 昭和26年自然の流れのように北大に入れてもらい,半世紀ちょうど50年をすごし,昭和32年に日本最初の環境工学の学科(衛生工学科)の創設にかかわり,21世紀の変わり目まで働いて総長を退き北大を去った。それまでの間,太平洋戦争(大東亜戦争),敗戦,朝鮮戦争,国土復興,経済成長,大学紛争,ミーイズム……とめまぐるしく日本と日本人の変転を経験した。
 根が不器用なのに,先の見える多くの畏友に触発されて,「したいこと」より「しなければならないこと」にいつも引きずられ,人参を目の前にぶら下げられたお馬のように,現役の北大50年と放送大学6年とさらに少しを,休むことなくただひたすら歩き続けることになった。北大キャンパス育ちの唯一の総長として,自然の流れの中で,北大に身も心も深くかかわってきたように思う。いただいた勲章の謂れは,「長い間にわたり仕事をひたすらしたこと」に対することにあるようで,顕著な業績とは書いてないらしいから,北大人を代表して有り難くいただくことにした。休まず働いたことを認めていただけたことを有り難く思っている。不器用で,浅学菲才の我流の塊であることから,多くの先輩,仲間,後輩にご迷惑と配慮不足のご不快をかけ続けたことと思う。心底から申し訳なく思っている。専門の水の研究も,独創性といえば聞こえが良いが,世の常識と違う体系を上下水道,水環境管理に見続けて50年,まだ世の中がついてこないのか,こっちが勘違いしているのか定かでない迷妄の中で,まだ現役で苦闘している。
 20世紀最後の北大総長として,国立大学の法人化前夜の大学を預かって悪戦苦闘した成果が,どのように国立大学法人の将来に役に立っていくのか,見守って行きたいと思う。生まれ故郷北海道の行く末,日本の未来を考えると,残り少ない人生の中でまだ「したいこと」より,「しなければならないこと」があるぞと耳元でささやく悪魔がいる。放送大学長として東京で暮らした6年間,土木学会長,国際水協会長,大学設置法人審議会長,国立大学教育研究評価委員長,国土審議会委員・北海道分科会長などとして,短い期間にそれまでの経験では捌ききれない濃密な勉強を強いられた。学習の成果を,『日本の教育の未来』と『世界と日本の水問題解決』の糸口を探るために役立てたいと思っている。自身に残っている時間はそんなにないが,ご指導いただいた方々,一緒に汗を流した仲間とともに21世紀の大転換期に少しでも経験を役立てられたらと,未老の後期高齢者はもぞもぞと動いている。皆さん,長い間本当に有難う御座いました。未だ暫時よろしくご支援ください。
 長い間家を預け放しにした老妻と,一二度でよいから,仕事でない国内外の旅行が出来たらと希求している。お互いに元気でいたいと願っている。北大のキャンパスに栗鼠を走らせたいと思ったがだめであった。最大の挫折である。愚考である。


略   歴   等
生年月日   昭和8年3月10日
昭和32年4月   北海道大学工学部講師
昭和33年4月   北海道大学工学部助教授
昭和44年4月   北海道大学工学部教授
平成3年4月 } 北海道大学学生部長 
平成5年3月
平成5年4月 } 北海道大学工学部長 
平成7年4月
平成7年5月 } 北海道大学総長 
平成13年4月
平成13年5月   北海道大学名誉教授
平成9年7月   日本学術会議会員(〜平成15年6月)
平成13年5月 } 放送大学長 
平成19年4月
平成19年5月   放送大学名誉教授
功 績 等
.学術分野における功績について
  1) 水環境工学・都市水工学の揺藍期から発展・成熟の過程に至るまで,この分野の教育・研究の先達として,また世界・アジア・日本のリーダーとして,我が国の環境工学の発展をリードし,日本の環境科学・行政・産業界に多くの指導的人材を送り出した。
  2) 都市における上下水道の先駆的研究者として,環境容量・都市水代謝システムという新概念を提案して都市の持続的な発展の方向性を1970年代の早い時期から示し,水環境の制御のための工学的手段としての各種水処理プロセスを,水質マトリックスに基づいて総合的機能評価・設計する画期的研究を行った。
  3) 1970年代に,丹保・渡辺のGCT値理論といわれる,20世紀から現在に至るまで世界の主力浄水処理法である急速濾過システムの基幹部分の理論設計法を世界で最初に確立した。
  4) 1960年代の粘土系コロイド,フミン質コロイドの凝集機構の解明から始まる一連の研究により,フロック集塊のフラクタルな性質を示すフロック密度関数とフロックの強度関数を世界で初めて提案し,現在もこの理論上で,国内外の多くの研究が行われている。
  5) 平成13年〜平成14年,第89代土木学会長として,「人口減少下の日本社会の基盤整備」に関わる多くの提言を行い,近代の次に来る時代に向かうための提言を続けている。
  6) 1947年に設立された国際水道協会(International Water Association: IWSA)と1965年に発足し国際水質協会(International Water Quality Association: IAWQ)となった世界最古のふたつの水学会の発展的統合をはかり,世界72ケ国・地域の機関と4,500人の個人会員を持つ国際水研究組織 International Water Association(IWA)の設立に尽力した。平成13年からは第2代会長を務め,2001年のベルリン会議,2003年のメルボルン会議を成功に導き,世界最大の水学会創設と発展の責任者として尽力した。
  7) 昭和50年からOTCA(引き続きJICAの発足)の下で,日本最初の海外技術教育使節団長としてインドネシア水道技術教育へ参加,昭和54年よりアジア工科大学(AIT)の環境工学科支援,昭和58年より中国西安建築科技大学,同済大学で文革直後からの中国若手教員・技術者の指導,昭和50年代からの国内におけるJICA水道技術コースの設立等,アジアの水技術教育の最前線で長期にわたり活動した。
 
.学長としての功績について
(北海道大学総長として)
  1) 構内環境整備:北海道大学40年来の懸案であった北18条道路のアンダーパス化(エルムトンネル)を実現させる,南・北キャンパスの一体化に主導的な役割を果たし,一体化された後の北キャンパスにおける「研究ビレッジ構想」「エコキャンパスの創成」「北海道大学キャンパス・マスタープラン96」の策定とそれに基づく構内整備に大きく貢献した。構内のサクシュ琴似川の復元,大野池の整備,平成ポプラ並木など構内の自然の回復と環境整備に尽力した。
  2) 産学連携の推進:地域社会や産業界の要請等に積極的に対応し,先端科学技術共同研究センター及び全国で初めて国立大学構内に第3セクターである「北海道産学官協働センター」を北キャンパスに設置し,北海道内各大学等からの研究成果を実際の経済・産業活動に有効利用するためのパイプラインとなる「北海道TLO」の設立運営に尽力した。
  3) 大学院重点化の推進:平成12年度に完成した北海道大学の大学院重点化に大きく貢献した。また,大学院重点化後における研究科の垣根を越えた共通授業の実施並びに学部教育におけるコアカリキュラム導入による全学共通の教養教育,シラバスの電子化の計画と実施を主導した。
  4) 学内施設の充実:北大のフィールドサイエンスの伝統を発展させ,全国に「フィールド科学研究センターを創設する文部科学省の検討」会の責任者を務め,その第一号として,北海道大学の北方生物圏フィールド科学センターを発足させた。北大が長らく懸案としてきた学内共同教育研究施設としての「総合博物館」を理学部本館を転用して創設した。さらに,全国共同利用施設として「低温科学研究所」の改組,学内共同利用施設として「情報メディア教育研究総合センター」,免疫科学研究所と医学部附属癌研究施設との統合により「遺伝子病制御研究所」,独立研究科として「国際広報メディア研究科」の設置等に尽力した。大学院地球環境科学研究科,薬学部,低温科学研究所,高等教育機能開発総合センター,獣医学部,工学部等の大型改修・校舎工事及び文系学部の総合研究棟の施設整備に尽力した。
  5) 創基120周年記念〜125周年記念事業を計画,新しい世紀への展開を図る5カ年計画を困難な経済情勢のもとで新理念のもと大学をあげての努力で実行し成功に導いた。
 
  (放送大学長として)
  1) 平成15年10月,放送大学学園が特殊法人から特別な学校法人へ移行するにあたり,学長たる理事として理事長を十分に補佐し,移行が円滑に実施されるよう尽力した。
  2) 平成16年度に「専攻とカリキュラムのあり方検討ワーキンググループ」を立ち上げ,教育の責任体制の確立を図る領域科目群を設定し,新しい教育理念の下にカリキュラムの体系化を行い,学部・大学院の課程を刷新し,社会や学習者のニーズに応えるとともに,学問領域を明確にした。
  3) 国立大学等との間に単位互換共同研究プロジェクトを計画,平成17年度より実施し,特別聴講学生数の大幅な増加をもたらした。また,平成18年7月に「連携・資格プロジェクト」を設置し,其の第一弾として,看護師学校・養成所との連携協力により,准看護師の看護師への昇格教育を画期的に推進した。これらの結果,学長在任時に80を超える大学等との単位互換協定を新たに締結した。
  4) ラジオ授業科目についてのインターネット配信実験を行い,平成19年度から全てのラジオ授業科目をインターネット配信するなど,メディア戦略を率先して推進した。
  5) AAOU(アジア公開大学連合)の常任理事として,ICDE(国際遠隔評議会)の日本代表として,多くの国際会議に出席し,日本の通信教育の国際化,放送大学の国際交流に多大なる貢献を果たした。放送大学の英文名を「The Open University of Japan 」とし,国際通用性を高めた。
 
.行政協力等における功績について
  1) 国立大学協会第7常置委員会委員及び委員長として,現在の教授,准教授,助教からなる教員新システムを国大協総会に提案・了承され,各関係機関に働きかけ,その創設に尽力した。
  2) 大学設置・学校法人審議会会長として,我が国の大学設置行政の大転換期に6年間にわたって大学・学部等の設置に指導的な役割を果たした。とくに法科大学院,専門職大学院,通信制大学院等の新大学院制度の発足にあたり,最初の制度運用と許認可の責任者を務め,新システムを小委員長として直接審議し新展開の中心を務めた。
  3) 大学基準協会会長,大学評価・学位授与機構 国立大学法人教育研究評価委員会委員長,大学機関別認証評価準備委員会委員等として,わが国の大学評価の創生期から実施全般の責任者として,国,公,私立大学評価の中枢を担って新しい大学の発展に尽くした。
  4) 「国際的な大学の質保証に関する調査研究準備委員会」委員長(平成15年度),G8エビアン・サミットにおいて「持続可能な開発のための科学技術」についての行動計画が合意されたことに伴い,地球観測分野の専門家で構成された「地球観測国際戦略策定検討会」座長(平成15年度),「大学への早期入学(飛び入学)及び高等学校・大学の接続に関する協議会」座長(平成17年度),21世紀COEプログラム委員,特色ある大学教育支援プログラム実施委員会副委員長,「専修学校の振興に関する検討会議」座長など文部科学省の教育行政に大きく貢献した。
  5) 内閣府の「地球温暖化研究」,「自然共生型流域圏・都市再生技術研究」等の重点的研究開発を推進する「総合科学技術会議」専門委員(平成13年度)として,「自然と共生した都市・流域圏研究」座長を務め,環境イニシアティブの展開を牽引した。
  6) 国土交通省の「国土審議会」委員および,「社会資本技術開発会議」委員(平成13年度)を務め,国土審議会北海道分科会長として北海道開発の基本方針を策定する責任者を務めている。さらに,首都圏整備部会長として,首都圏のさまざまな発展に尽力した。
  7) 北海道総合開発委員会委員長,北海道功労賞受賞者推薦委員会委員長,北海道科学技術審議会会長,札幌市公害対策審議会会長,札幌市環境審議会会長等を務め,地方の教育行政・地域社会及び学術研究等の発展に多大な寄与をした。

(総務部職員課)


あさ くら とし みつ 氏
○朝 倉 利 光(あさくら としみつ) 氏
 この度の叙勲で受章することになり,感激するとともに,まことに光栄に存じております。これはひとえに北海道大学における教育と研究に対するもので,改めて私の研究室におられた教職員と学生の諸氏に心から感謝を申し上げます。また,すばらしい環境を与えてくださった北大,そしてそこでご指導,ご支援,ご協力を頂いた多くの方々に深く御礼を申し上げる次第です。さらに,この度の叙勲において,推薦などの手続きの労をお取り下さった大学の担当者の方々に,厚く御礼を申し上げます。
 昭和30年代の後半,東京で研究生活を送っておりましたが,研究が行きづまり,海外での研究を考え,日本を離れる前に初めて北海道を旅行しました。その途中で寄った北大で,新しく誕生する工学部応用物理学科への招聘を受け,昭和41年に助教授として着任しました。新学科は,斬新さに富んだ環境と雰囲気に包まれ,教官も学生も溌剌としていました。しかし,数年するうちに,大学紛争などで教育研究は停滞気味になり,それからの脱出に苦しんでいました。この苦悩からの脱皮を模索しているときに,応用電気研究所からの招聘があり,それを受けることにしました。工学部での5年間は,新学科の建設や大学紛争を通して,数多くの教職員と親密な交流をもつことができ,その後の大学生活において工学部は故郷のような精神的支柱となりました。
 昭和46年,応用電気研究所(現在の電子科学研究所)に教授として着任しました。それから停年まで26年間,そこで若い優秀な教職員と大学院生と一緒に独自の幅広くかつ学際的な研究を展開し,多くの研究成果を積み上げることができ,研究者人生を満喫することができました。さらに,多くの外国人研究者や留学生を迎え,自由な国際的雰囲気の中で種々の交流と研究活動を展開することができました。このような研究生活を送ることができたのは,研究所がすばらしい研究環境を保っていたことによります。精神的には十分にオリジナリティを追求できる研究環境にあったこと,また研究費などは必ずしも充分ではありませんでしたがいろいろな支援体制があったことなどによります。また,教授会は年齢に関係なくいろいろな課題について自由な議論を展開し,研究を最重要課題としてそれを強力に推進するための改革を実行してきました。この過程で,応用電気研究所は平成4年に改組転換し電子科学研究所となり,研究分野を学際的研究に重点を置きながら,横断的・複合的方向への拡大発展をめざしてきました。このようなすばらしい環境をもった研究所で研究する幸運に恵まれたことを,特にその当時の教職員の方々から受けた恩恵は計り知れないものがあり,改めて心から感謝を申し上げる次第です。
 北大を退職後,平成9年に北海学園大学工学部及び大学院工学研究科の教授に就任し,さらに平成17年には同大学学長に就任し,現在に至っております。学部及び大学院においては専ら教育に従事しましたが,学長になってからは教育研究行政・運営に従事しており,同大学の発展に全力を注いでいます。

略   歴   等
生年月日   昭和9年1月20日
昭和36年3月   東京大学生産技術研究所助手
昭和41年4月   北海道大学工学部助教授
昭和46年7月   北海道大学応用電気研究所教授
平成4年4月   北海道大学電子科学研究所教授
平成6年4月 } 北海道大学電子科学研究所長 
平成9年3月
平成9年3月   北海道大学停年退職
平成9年4月   北海道大学名誉教授
平成9年4月 } 北海学園大学教授 
平成16年3月
平成11年4月 } 北海学園大学大学院工学研究科長 
平成14年3月
平成17年4月   北海学園大学長
平成17年4月   学校法人北海学園理事
功 績 等
 同人は,昭和9年1月20日福島県に生まれ,同32年3月国際基督教大学教養学部自然科学科を卒業し,同35年5月ボストン大学物理学教室大学院を修了しました。昭和36年3月東京大学助手に採用され生産技術研究所に勤務し,同40年3月には東京大学より工学博士の学位を授与されました。昭和41年4月北海道大学工学部助教授に昇任し,同46年7月北海道大学応用電気研究所教授に昇任しました。平成4年4月には同研究所の改組により北海道大学電子科学研究所に配置換となり,同6年4月より電子科学研究所長として改組後の研究所の充実・発展に尽力され,同9年3月31日停年により退職し,同年4月北海道大学名誉教授の称号が授与されました。平成9年4月北海学園大学工学部及び大学院工学研究科教授に就任し,同11年4月から3年間大学院工学研究科長を務め,同16年3月同大学を停年により退職した後,同17年4月北海学園大学長及び学校法人北海学園理事,評議員に就任し,現在に至っています。
 同人は電子情報光学,特に光物理学・光工学の基礎研究とその広範囲な応用研究を行い,レーザー光の物理的特性やレーザー光の伝搬・回折・散乱などの物理現象を多角的な視点から解明するとともに,それらの計測・情報処理技術・医工学への応用研究を展開し,種々の新しいレーザー応用計測技術や情報処理システムを開発するなど,新時代の先端的な光化学技術の発展に大きく貢献しました。
 その一例として挙げられるのが,レーザー光の散乱によって生じるランダムな干渉現象であるスペックル現象の研究です。同人は,レーザー光の物理的特性やレーザー光の伝搬・回折・散乱などの物理現象を多角的に解明し,種々の新しいレーザー応用計測技術や情報処理システムを開発し,光物理学・光工学の基礎研究とその広範囲な応用研究に貢献しました。特に,レーザー散乱によって生じるスペックル現象の統計的性質を詳細に解明し,その応用に関する多くの新しい技術を開発し,統計光学の分野を確立しました。
 この他,レーザー光とフラクタル物体との相互作用に関する集中的な研究による新しい学問分野「フラクタル光学」を確立したこと,レーザードップラー顕微鏡,レーザースペックル表面粗さ計,録音蝋管音声再生機など多くのレーザー応用計測・光情報処理法や機器の開発したこと,B.ピウスツキおよび北里闌の録音蝋管の発見およびレーザー光による音声再生を通してアイヌ文化などの言語学・民族学・文化人類学に貢献したことなど多くの業績を残されました。
 さらに同人は,国際交流に関する活動を多方面から行ってきており,特にインドネシア大学大学院の設立及びその後の教育・研究の指導に尽力され,日本と東南アジア諸国の学術交流における先鞭的な役割を果たしています。また,平成2年には国際光学委員会副会長,同8年には同委員会会長,同2年にはアジア太平洋光学連合の副会長等を歴任し,国際的立場で世界の先頭に立って,最新の光科学分野の発展に貢献しました。
 学内にあっては,平成6年4月より評議員として本学運営の枢機に参画しているほか,安全点検専門委員会,キャンパスマスタープラン委員会をはじめ種々の学内委員会委員として北海道大学の発展に尽力されました。
 以上のように,同人は40年以上にわたり研究教育・運営に尽くすと同時に,わが国及び世界の学術研究の発展に貢献されました。
 

(電子科学研究所)


なが おか しん きち 氏
○長 岡 新 吉(ながおか しんきち) 氏
 この度は,叙勲の栄を賜り,たいへん光栄に思っております。
 1963年からの北海道大学在職30年を振り返りますと,講義,ゼミ,大学紛争,評議員時代,経済学部長時代などを通じ,様々なことがあったのだろうと思います。しかし,その記憶も遠いものになり始めている現在,私が強く思うことは日本経済史を研究する上で,北大は私に貴重な資料を提供してくれるかけがえのない職場環境だったということです。
 私が山口和雄先生の後任として北大経済学部に来たのは1963年4月ですが,その時にまず驚いたことは図書館にわが国の経済史の資料が膨大にあることでした。それは,前任の弘前大学とは比べものにならないほどの資料の山でした。この資料は,おそらく北大が札幌農学校時代から農業経済研究に関わる文献やデータを蓄積してきた結果だと思います。図書館には,「東京経済雑誌」「東洋経済新報」などの明治・大正期にまで遡る経済史の資料が整理されており,私はそれらを借り出しては研究室で読みました。この経済史の資料を基に,学位論文としてまとめた「明治恐慌史序説」を著すことができたのも,北大に職を得たお陰だと考えております。
 私に北大の赴任を勧めて下さったのは,東京大学の大学院生時代に薫陶をうけた土屋喬雄先生と当時北大で日本経済史の非常勤講師をされていた東京教育大学の楫西光速先生でした。土屋先生は,私の指導教官である安藤良雄先生の恩師でもあり,安藤ゼミで何度か講義をしていただきました。楫西先生は,同じ土屋先生門下の先輩にあたります。私は,院生時代から両先生と日本通運(株)の社史編纂に携わっており,弘前大学に赴任した後もこの仕事を続けておりました。ある日,楫西先生から突然電話があり,「長岡君,北大に行かないか?」と聞かれました。私は,私学でも良いから東京の大学を,と当時は考えておりましたが,土屋先生や楫西先生の熱心な勧めと旧帝国大学である北大の魅力から,赴任する決心をしました。
 こうして北大で長年にわたる研究と教育の場を持つことができたのです。明治・大正期から昭和期につながる複雑な経緯を経済史の角度から追究してきた私には,本当にかけがえのない時間と場所を与えられたという気持ちで一杯です。そして今,私は「昭和」という時代に深い関心を寄せており,「昭和史」を新たな角度から快り出す方法を考慮中です。
 瑞宝中綬章という身にあまる栄誉を拝受できましたことは,偏にこのような研究環境と同僚の学兄や家族の支えによるものと考えております。ここに深く感謝し,御礼を申し上げる次第です。

略   歴   等
生年月日   昭和5年4月19日
昭和33年4月   弘前大学文理学部講師
昭和37年4月 } 弘前大学文理学部助教授 
昭和38年3月
昭和38年4月   北海道大学経済学部助教授
昭和45年4月   北海道大学経済学部教授
昭和61年1月 } 北海道大学大学院経済学研究科長・経済学部長 
昭和62年12月
平成6年3月   北海道大学停年退職
平成6年4月   北海道大学名誉教授
平成6年4月 } 北海学園大学教授 
平成13年3月
功 績 等
 長岡新吉氏は昭和5年4月19日岩手県盛岡に生まれ,昭和28年3月東京大学経済学部卒業,昭和30年3月同大学大学院社会科学研究科修士課程(理論経済学・経済史学専攻)修了,昭和33年3月同大学院同研究科(同専攻)博士課程単位修得退学,同年4月弘前大学文理学部講師,昭和37年4月同助教授を経て,昭和38年4月北海道大学経済学部助教授,昭和45年4月同教授,昭和52年8月同大学評議員(2期4年間),昭和61年1月同大学経済学部長(同大学大学院経済学研究科長・同大学評議員併任,2年間)就任,平成6年3月北海道大学停年退職まで経済学・経済史の教育・研究に努め,北海道大学名誉教授となった平成6年4月北海学園大学経済学部教授,平成13年3月同大学停年退職まで日本経済史の教育・研究に努められた。停年退職後は釧路公立大学経済学部で日本経済史の集中講義担当の講師,北海学園大学大学院経済学研究科で経済学演習の講師を勤めるなど引き続き高等教育に従事,また経済史関係学会からの依頼に応じて学術雑誌に書評を執筆するなど,講壇内外で後進を指導,今日に至っている。
 同人は,近代地租改正事業の研究から学究活動を開始して学界に登壇したあと,産業資本確立過程の史的分析へと向かい,その理論的・実証的研究は有力な学説として学界に受け入れられた。それは『明治恐慌史序説』(東京大学出版会,1971年)として公刊され,東京大学より経済学博士の学位を授与され,日本産業革命研究史に確固たる地歩をかためるものとなった。これは日本資本主義発達史に関する同氏の研究の一環であったが,その後の研究蓄積に基づき『産業革命』(教育社,1979年)という明晰な総括をなした新書を世に問い,日本産業革命論を簡潔に叙述して自説を展開しながら,新書形式による出版で啓蒙の才をも発揮した。さらに,日本資本主義論争のいわば主役であった山田盛太郎の名著『日本資本主義分析』(岩波文庫)に対する該書成立過程の分析的考察ならびに異本ある該書の論理構成にひそむ矛盾の剔抉をはたすことにより,この古典『分析』への根底的批判を打ちだし,1930年代中葉からの久しき『分析』論争史に一矢を放つこともされた。この優れた批判論文を跳躍台にして,往年の学問の青春時代より醸成された問題意識と,長年ゆるりとたくわえられた社会科学のみならず人文分野にも及ぶ学殖,これらを縦横に駆使して可能となった『日本資本主義論争の群像』(ミネルヴァ書房,1984年)で,論争当事者だけでも少なくないのに関係者を広範囲にわたって取り上げ,社会科学・人文学の各分野にわたる学究たち,社会運動家らの思想と行動を執拗に追跡しては小説にまで拡張した豊富な文献で裏付けを取りつつ,昭和戦前期の日本知識人の苦闘の足跡を復元し,その思想に肉薄していった成果は同氏をして一介の経済史研究者の枠を大きく越えるものと学界ならびに読書界で評価された。本書で経済思想の分野へも鍬を入れられた同氏はその後,石橋湛山を取りあげるなどしながら,リベラリズムを中心とした日本社会経済思想史の研究を進めておられる。
 経済学・経済史の教育においては主に北海道大学経済学部で日本経済史の講義,一般経済史の講義,経済学演習を担当しつつ学部学生を薫陶して良き社会人への基礎たらしめ,また北海道大学大学院経済学研究科で日本経営史をも担当しながら,幾人もの大学院生を陶冶して研究者に育成した。このような教育活動と平行して,上記のような厳密な考証に支えられた問題提起的な論文・著作を発表して,研究にも邁進した。その間,経済史総論の大学教科書として定評ある『一般経済史』(ミネルヴァ書房,初版,1983年。第35刷,2005年)の編著者となった。そして,北大経済学部に経済史あり,との世評を高めることになったのである。学会役員としては昭和48年1月から平成6年12月まで社会経済史学会の理事を務められ,北海道大学を会場とする同学会の学術大会も成功裡に導いたのであった。
 北海道大学経済学部長としては学部の念願でもあった懸案の大講座制を遂に成しとげられ,大学行政面での同人の最大の功績と見なされている。また,釧路公立大学と青森公立大学の設置準備委員会委員となり,両市の近隣市町村からなる事務組合設置方式によるという新公立大学の設立にも尽力された。
 以上のように,同人は経済学・経済史の教育・研究を通じて,我が国の高等教育ならびに学術の発展,また大学行政に寄与したところ確たるものがあり,その功績は誠に顕著である。
 

(経済学研究科・経済学部)


 とう こう  氏
○伊 藤 浩 司(いとう こうじ) 氏
 この度は春の叙勲の栄に浴し,光栄の極みと存じております。これも一重に大学における恩師 舘脇操先生をはじめ,諸先生,諸先輩,また多くの研究仲間や社会生活活動における各位のお蔭と改めて感謝の意を表する次第です。さらにまた,昭和33年,北大農学部助手に採用されて以来,35年間,北大において研究生活を送ることが出来たことを幸せと感じている所です。
 私の研究分野は主として記載・分類・生態であり,その研究対象は,手つかずの自然であったので,研究を通じて自然環境の理解が大学院環境科学研究科の設立に多少とも役に立ったのかも知れません。しかし,振り返ってみますと手つかずの自然は必ずしも人間に対して融和的・友好的でないわけで,塩湿地群落の研究には,目も口もあけていられない程の蚊の大群の襲撃やその痛み痒みに悩まされたり,雨の日は雨具を身につけながら,うっとうしい思いで林の下,密生する笹の藪こぎをしたりした苦労の連続が今でも身体の何処かに潜在しています。
 多様な植物群落の姿を一つ一つ調査しながらも,目についた植物種個々の分類にも時間を費やし,1940年代迄混乱していた路傍の雑草“ミチヤナギ類”の整理分類,“ヒメキンミズヒキ”の再確認などの成果を得たりしたものでした。
 教室の北方林に関する研究成果も次第に集積され,舘脇先生の所謂“針方温交林”が浮彫りにされ,これらの調査研究に用いられた“ベルトトランセクト法”が一つの武器となって私自身,中部山岳や日光あるいは中国長白山に残る亜高山針葉樹林の特性の一端を探ることができました。
 昨夏,閉塞性動脈硬化症に襲われ,その上,二次的な負傷がもとで右足膝下以下を切断ということになり,現在,車椅子及び義足生活を余儀なくされています。毎年春の叙勲の日辺りから,天気の良い日には家族一同打揃って春の円山公園を訪れ散策をしたり,桜花の並木を眺めたり,殊にまたカツラの若芽の紅紫色の春の紅葉やほの甘い香りを楽しんだ日々をみずみずしい想いで綴っています。

略   歴   等
生年月日   昭和5年5月28日
昭和24年3月   釧路市雇員
昭和25年10月 } 釧路市主事補 
昭和27年4月
昭和33年4月   北海道大学農学部助手
昭和39年1月   北海道大学農学部助教授
昭和52年4月   北海道大学大学院環境科学研究科教授
昭和61年4月 } 北海道大学大学院環境科学研究科長 
平成2年3月
平成5年4月   北海道大学大学院地球環境科学研究科教授
平成6年3月   北海道大学停年退職
平成6年4月   北海道大学名誉教授
平成6年4月 } 清修女子大学(札幌国際大学)教授 
平成12年3月
功 績 等
 同人は,昭和5年5月28日に北海道に生まれ,昭和31年3月北海道大学農学部を卒業,昭和33年3月北海道大学大学院農学研究科修士課程を修了し,北海道大学助手,助教授を経て昭和52年4月に北海道大学大学院環境科学研究科教授に昇任,北海道大学評議員を歴任し,昭和61年4月に北海道大学大学院環境科学研究科長に就任され,平成2年3月まで務められました。平成5年4月からは新設の北海道大学大学院地球環境科学研究科教授となり,平成6年3月に北海道大学を定年にて退職されるまで北海道大学の教育・研究に努め,平成6年4月に北海道大学名誉教授になられ今日に至っています。
 同人は,植物群落学,植物生態学,植物分類学,環境科学の分野において幅広く教育・研究活動に従事し,数多くのすぐれた研究成果を発表しています。
 同人は,特に植物群落学における群落記載法の確立と基群集−群集分類システムの確立に力を入れ,昭和31年以来の継続研究により,北海道を中心とした塩湿地群落および湿原群落を主対象として,それまで模索状態であった野外観察記載法を完成し,分類手法として基群集−群集分類システムを確立し,日本における異色ある研究者として学会で注目されてきました。
 また,植物分類学における北方系高等植物群を対象とした分類,整理に力を入れ,昭和37年以来の継続研究により,千島,樺太,北海道を含む北方植物群について,種の細分化の方向を脱却し,種グループとしての捉え方に基づく分類整理法を提唱し,定着させました。
 さらに,同人は草創期の環境科学における環境保全学,生態系管理学分野の理念の普及定着と整備に力を入れ,昭和52年に日本でも早い時点での設立となる,独立大学院として新設された,北海道大学大学院環境科学研究科教授に就任以来,草創期の手探り状態であった環境科学における環境保全学,生態系管理学分野の教育・研究をリードし,実地に河川,地域,森林域の環境影響評価(アセスメント)調査法などを通して,環境保全学,生態系管理分野の理念を整備し,普及定着させました。
 学内においては,昭和61年4月から平成2年3月まで大学院委員会委員,保健委員会委員,施設計画委員会委員及び入学者選抜委員会委員,平成4年2月から平成5年3月までは本学点検評価委員会専門委員会委員を務め,昭和54年6月から昭和56年5月,昭和58年4月から平成5年5月までの約11年の長きにわたって,北海道大学評議員としてその重責を果たされました。大学院環境科学研究科長在任中は,研究教育の内外交流に努め,研究科創設より10年を迎えた事を機に将来構想検討委員会を立ち上げるなど,北海道大学では大学院重点化構想の最初の発足となる,地球環境科学研究科の設置へ向けて布石をうち,本学の管理・運営に参加尽力されました。
 学会活動においては,社団法人環境科学会の創立に尽力し,平成5年12月からは理事としてその運営に参与され,平成4年からは日本植物学会評議員を務めるなど,斯学の発展に寄与しています。
 学外活動としては,昭和53年5月から昭和63年5月まで文部省在外研究員候補者選考委員会委員,平成4年4月から北海道文化財保護審査委員会委員及び北海道環境影響評価審議会委員平成5年4月から浜頓別町史編集委員長,平成5年5月から北海道開拓記念館特別研究推進委員会委員,平成5年8月から大島漁港建設環境調査検討委員会委員の各種役職を歴任し,環境行政・文化事業の分野に大きく貢献しました。
 以上のように,同人は,北海道大学農学部を卒業以来,長期にわたり植物群落学,植物生態学,植物分類学,環境科学の分野に関する数々の優れた業績をあげ,教育・学術の発展,後進の啓発と斯学の発展に尽くすとともに,大学の管理運営にも貢献し,また学外にあっては学会並びに社会の公的委員会などの各種要職を務めるなど,その功績は極めて顕著なものと,高く評価されます。
 

(環境科学院・地球環境科学研究院)


にい づま   あつし 氏
○新 妻   篤(にいづま あつし) 氏
 このたび,叙勲の栄に浴し,まことに恐縮に存じます。ご高配を賜りました皆さま方に厚く御礼を申しあげます。
 私は第2次世界大戦終了後の間もないころにドイツ文学を専攻し,昭和37年から2年間スイスとドイツに留学しました。中立国スイスは戦争で荒廃した周辺諸国の中央にあって,自然は美しく,生活は悠然と落ち着いておりました。ドイツに移ってみると,スイスとは打って変わって,人々は復興の意欲と活気に満ち溢れておりました。巨大な破壊の後のその非常な活気に,私は一種の空しさを感じつつも,その熱気に圧倒される思いでした。日本もそのころドイツと同様に復興の意欲と活気に溢れておりました。
 いま,それから半世紀が過ぎ去り,ドイツはスイスに劣らぬ高い生活水準を実現し,日本もドイツに劣らぬ経済大国にはなったのですが,日本人の生活はドイツに比較して,ゆとりに欠け,かならずしも幸福とは言えないと思わざるをえません。そのように思う理由は2つあります。
 1つは日本人のいわゆる「働き過ぎ」の問題です。周知のように,日本人の年間総労働時間は約2000時間,ドイツ人のそれは約1600時間とされています。必要な収益・成果を挙げるのに日本人はドイツ人よりも年間400時間も多く働いているのです。日本人の労働効率は甚だしく悪いことになります。ドイツでは労働形態も自由度が大きいので,個人の事情と勤務時間を都合よく組み合せて生活することが可能です。
 次は生活の土台である住宅の問題です。戦後の日本の住宅は30年くらいで建て替えることが多いようですが,そのときにまた多額の費用がかかり,最期に家屋はほとんど無価値になります。ドイツの住宅は2〜300年は使用できるので,家を手放す際にほぼ建築費用を回収できます。ドイツの住宅も現在で築後2〜300年のものは木造ですが,決して安くはなく新築住宅の7〜8割くらいの価格がついています。日本人は住宅のために生涯に多額の資産を失っているわけで,もしその資産を保持でき,そのうえ労働時間が適正であるなら,日本人にもゆとりある生活が可能となるでしょう。今年6月からようやく長期優良住宅法が施行されるので,今後は少しは良くなると思われますが,しかし,その歩みがどうなるのか,安心はできません。
 この50年間に日本とドイツの間にこのように大きな差が生じたのです。これは人生の価値の差と言わなければならないでしょう。これについて警告の書物がいくつも出ていても事態は改善されていません。先端分野と社会や生活の関係については科学技術ガヴァナンスのような場で議論されますが,生活の基本的な身近な問題は日本では軽視されています。たとえば,地下鉄,バス,市街電車,列車のような日常的な交通車両でも,ドイツの車両は乗降口が広く,車内に広い多目的スペースがあるので,自転車,大型のベビーカー,車椅子もそのまま持ち込めます。日本の交通車両の構造とは親切さ・利便性が違います。日本とドイツの交通手段に関する視野・視点の違いなのでしょう。
 このような日本の遅れを正すには,迂遠なようですが,学生が専門分野の勉強に入る以前に,全学教育の場で生活文化比較の視点に立つ授業に参加して,日本人自身の生活について問題意識をもつことが必要だと思うのです。半世紀にわたる日本とドイツの生活の質の変化を比較すると,大学は,日本人の生活の基本条件の改善にもっと目を向けてほしいと願う次第です。

略   歴   等
生年月日   昭和4年4月24日
昭和31年1月   北海道大学文学部講師
昭和39年10月   北海道大学文学部助教授
昭和51年12月   北海道大学文学部教授
昭和56年4月   北海道大学言語文化部教授
昭和56年4月 } 北海道大学言語文化部長 
昭和60年3月
昭和56年5月 } 北海道大学評議員 
平成4年12月
平成3年1月 } 北海道大学教養部長 
平成4年12月
平成5年3月   北海道大学停年退職
平成5年4月   北海道大学名誉教授
功 績 等
 同人は,昭和4年4月24日北海道札幌郡藻岩村に生まれ,昭和28年3月北海道大学文学部文学科独文学専攻を卒業,同年4月同大学大学院に進学,昭和30年12月同大学院を中退,昭和31年1月北海道大学文学部講師として採用され,昭和39年10月助教授,昭和51年12月教授に昇任,昭和56年4月同大学言語文化部に配置換されると同時に同大学言語文化部長,同5月同大学評議員を併任,昭和58年4月より昭和60年3月まで再び言語文化部長および評議員を併任,平成3年1月より平成4年12月まで同大学教養部長および評議員を併任し,平成5年3月31日限り停年により退職した。
 同人は,学生時代から引き続いて,37年間にわたり北海道大学に教師として勤務し,母校に限りない愛着を示し続けた。一貫してドイツ語・ドイツ文学の教育研究に従事し,学生,院生,ドイツ語・ドイツ文学研究者に大きな影響を与えた。
 こうした業績の基盤のひとつは数度にわたる欧州ドイツ語圏への研究渡航であった。昭和37年9月からスイス政府給費留学生としてチューリヒ大学シュタイガー教授のもとで,さらに引き続きアレクサンダー・フォン・フンボルト財団奨学生としてミュンヘン大学クーニッシュ教授のもとで研鑽を積んだが,この2年間にわたる研究留学を端緒とする研修渡航,国際会議参加は主なものだけでも7回を数える。本学とドイツ・ミュンヘン大学との交流協定締結は,これらの国際的学術交流のもたらした成果の一つである。平成元年1月こうした学術交流への貢献に対してアレクサンダー・フォン・フンボルト財団から国際学術協力賞「フンボルト・メダル」を授与されている。
 同人のドイツ文学分野での研究領域は,19世紀市民社会を背景として成立した詩的リアリズムの系譜につらなるスイスの詩人ゴットフリート・ケラー,同じくスイスの詩人コンラート・フェルディナント・マイヤー,そして19世紀末から20世紀にかけて活躍したドイツの現代詩人ライナー・マリーア・リルケである。昭和30年代の日本の独文学者たちの主たる関心はドイツ本国の文学に向けられており,19世紀であればドイツロマン派に研究のエネルギーが注がれていた。しかし同人の関心はドイツとは異なる国民国家形成過程を辿ったスイスの両詩人に向けられ,そこにどのような異質性と普遍性が見出されるかを問いつめようとした。ケラー研究においては,主要作品の一つである『ゼルトヴィーラの人々』の物語分析的手法による解明に寄与した。さらに代表作『緑のハインリヒ』の解釈においては,ドイツ教養小説の祖ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』との比較において物語の構造分析に取り組み,ドイツとスイスの精神構造の差異を明確化した。さらに『緑のハインリヒ』における精神的自由を論じた独文論文では,近代社会における人間疎外の表現という斬新な視覚から問題を捉えなおし,人間疎外の表現形式に関してはケラーがリルケの先駆をなしているという独創的な見解を示した。この論文はドイツ本国においても反響を呼び,文献シリーズとして研究者必読のメッツラー叢書に採り入れられ,ケラーに関する必読文献として認められている。さらに1850年ごろのケラーの抒情詩が世紀末象徴詩の先駆的表現であることも指摘し,内外の注目を浴びた。
 マイヤーに関しては,『マイヤー名詩選』(大学書林,S46)の刊行によって,それまで注目されることの稀であったマイヤーに対する関心を飛躍的に高めたことは特筆に価する。ドイツ語圏におけるマイヤー研究の詳細な検討を踏まえた上で,マイヤーの抒情詩と小説という異なったカテゴリーをそれぞれ正確に分析した。マイヤー抒情詩の技法に関しては存在論的分析手法を駆使し,現実と非現実の間に位置する静謐なる魂の探求の試みとしてその本質を定義した。歴史小説群の解釈にあたっては,正確無比な構造分析を通じて,矛盾と非一貫性を人間存在の核心と捉える視点からマイヤー小説の特質を解明し,我国のマイヤー研究を常にリードし続けた。
 さらに同人は早くからリルケにも関心を寄せ,特に研究の空白地帯であった初期リルケの研究においては斯界の先頭に立った。その結実が平成3年刊行の河出書房新社版『リルケ全集』における「第一詩集」および「白衣の公爵夫人」の訳業である。このふたつの優れた翻訳は同全集が平成3年度の日本翻訳出版文化賞を受賞するのに大きく貢献した。
 同人の研究業績はドイツ文学の分野にとどまらず,芭蕉とリルケの空間概念の比較,新渡戸稲造のゲーテ受容などにも及んでおり,いずれもドイツ本国の論文集に収録されている。さらにドイツ語ドイツ文学教授法に関しても,昭和58年のミュンヘン大学シュトッカー教授招聘など多大な功績を残した。
 昭和45年4月以降は大学院文学研究科も担当し,同人の強い影響下に巣立った若き研究者も多い。日本独文学会での活躍はもとより,昭和49年には北海道ドイツ文学会の設立に寄与し,その発展に貢献した。また,北海道大学言語文化部長,教養部長をはじめ学内の幾多の委員会で委員として尽力したが,とりわけ昭和49年からは一般教育特別委員会,教養課程特別委員会,教養課程改革調査委員会委員として教養部改革に貢献し,平成3年から退職までは学部教育課程専門委員会委員長として本学に貢献した。
 以上のとおり,同人は多年にわたり教育研究に携わり,独文学者としてのその功績はまことに顕著である。
 

(国際広報メディア・観光学院,メディア・コミュニケーション研究院)


ひら やま たえ  氏
○平 山 妙 子(ひらやま たえこ) 氏
 この度は叙勲の栄誉を賜りまして誠にありがとうございます。身に余る光栄と思っております。これはひとえに関係者の皆様のご支援ご尽力の賜物と深く感謝と御礼を申し上げます。
 私は国立京都病院勤務を除くと約37年間北海道大学病院にお世話になりました。学生時代から数えますと,40年以上を緑豊かな北大のキャンパスに通ったことになります。
 女性が自立でき,人の役に立てる職業として母と同じ看護師を目指しました。楽しくやりがいをもって充実した仕事人生が送れたことは,何にもまして幸運であったと思っております。家族や友人,先輩・同僚・後輩そして北大病院に関係する全ての皆様に感謝を申し上げます。
 振り返ってみますと,入職当時は看護職員の数は少なく,医療環境は今とは比較にならない状況で,看護の社会的認知度も低い時代でした。良い看護を追求し実践していきたい,看護の社会的評価を少しでも上げることができればという気持ちで仕事をしてまいりました。看護方式の検討や看護基準等の整備,看護研究や勉強会などその時々で必要なことをチームメンバーとともに取組み進めてまいりました。看護業務自体がまだまだ未整備であり,看護職員の数も不足でした。さまざまな課題を抱える中で,子育てしながらの勤務はなかなか厳しいものでしたが,患者さんとの関わりを通した学びは大きく,医師をはじめとする魅力的なチームメンバーとの交流を通して自分も成長しながら働けることに喜びを感じ,一度も仕事を辞めたいと思うことはありませんでした。
 看護管理者として長く勤務いたしました。管理者の役割は良い看護を提供するための職場作りですが,人材育成が鍵といえます。北海道大学の教育理念「フロンティア精神・実学の重視・全人教育・国際性の涵養」の根底に流れる精神は,看護にも通じ,人材育成や組織運営に活かすように努めてまいりました。常に時代の要請に応えた,質の高い看護を実践していくために何をするべきかを考えて取り組んできました。一つ一つの計画を実現するためには理念や意思決定,実現するための組織力など全てが必要です。北大の看護部には歴史と長年培ってきた伝統があり,素晴らしい先輩・同僚・後輩が周りに大勢いてくれたことが私にとって最大の幸運と言えます。
 平成19年,診療報酬に新設された7:1看護加算の取得が困難を乗り越え短期間に実現できましたが,これは組織力の端的な表れと自負いたしております。また大学病院の使命でもあり,道内の看護水準を上げるための地域貢献も看護部として可能な限り引き受けて行ってまいりました。様々な場所で活躍されている先輩や後輩に会えるのは幸せなことです。
 近年,看護系大学が増え北大も国立大学では最後になりましたが医学部保健学科となり,大学院も整備されてきて今後ますます素晴らしい後輩を輩出されていくものと期待しております。看護職の副院長も多く誕生し,医療の場だけでなく保健・福祉の場においても看護職に期待されることが大きくなってきました。看護職の専門領域がより明確化され,それぞれが責任と権限を持って意欲的に仕事をしており,私が入職当時に願っていたことが少しずつ実現しているとうれしく思っております。
 最後になりましたが,北海道大学・北海道大学病院,看護部の発展をご祈念申し上げお礼の言葉といたします。

略   歴   等
生年月日   昭和23年1月1日
昭和44年5月 } 北海道大学医学部附属病院看護婦 
昭和45年3月
昭和45年4月 } 国立京都病院看護婦 
昭和47年7月
昭和47年8月   北海道大学医学部附属病院看護婦
昭和51年5月   北海道大学医学部附属病院看護部看護婦
昭和60年4月   北海道大学医学部附属病院看護部看護婦長
平成7年4月   北海道大学医学部附属病院看護部副看護部長
平成13年4月   北海道大学医学部附属病院看護部看護部長
平成15年10月   北海道大学医学部・歯学部附属病院看護部長
平成16年4月   北海道大学病院看護部長
平成17年4月   北海道大学病院病院長補佐
平成20年3月   北海道大学定年退職
平成20年4月   北海道ハイテクノロジー専門学校副校長
功 績 等
 同人は,昭和23年1月1日佐賀県に生まれ,昭和41年3月に北海道三笠高等学校を卒業後,同年4月北海道大学医学部附属看護学校に入学し,昭和44年3月に同校を卒業,同年4月北海道大学医学部附属病院に採用され,泌尿器科病棟に勤務しました。
 昭和45年4月国立京都病院へ転任し,昭和47年8月北海道大学医学部附属病院に戻り,第三内科病棟で勤務しました。ここでは国立京都病院で体験した看護提供方式「プライマリ・ナーシング方式」の体制を整えるため,後輩指導,業務改善等に尽力しました。
 昭和52年泌尿器科病棟副看護婦長に昇任し,疾患別の看護基準を作成し,看護実践力の高いチーム作りに努めました。昭和59年4月精神科・神経科病棟に異動後,翌年4月看護婦長に昇任し,デイケアサービス,レクリエーション療法及びプライマリ・ナーシング方式の充実に尽力し,また,精神科訪問看護のシステム化に取り組みました。
 その後,平成2年4月外来へ異動となり,地域への継続看護を視野に入れた看護実践指導や,糖尿病セルフヘルプグループ設立など看護師個人が主体的に看護を実践する環境整備に尽力し,外来看護の質向上に貢献しました。
 平成7年4月副看護部長に昇任,また,北海道では初となる日本看護協会認定看護管理者の資格を取得しました。
 その後,平成13年4月に看護部長に昇任,患者と看護師が共同で進める「患者参加型看護計画」を全病棟で実施し,看護のインフォームドコンセントを推進する等,患者中心の看護をシステム化するとともに,看護実践能力評価システムの構築,看護師の倫理教育や個人情報保護の遵守を進めました。また,特定専門領域をもつ看護師の育成や,ゼネラルリスクマネジャー,衛生管理者,退院調整看護師,各種コーディネーター等,院内を組織横断的に活躍する看護職を配置し,より専門性の高い看護の提供に尽力しました。さらに,退院を見込んだ看護の推進による入院日数の大幅な短縮,物流管理による支出削減等,業務・経営改善にも積極的に参画し,また,看護基準の改訂等,看護サービスの質の保証にも尽力しました。
 このように,看護部長昇任以来,看護の責務と戦略的方針を明確化した看護管理を行い,平成17年4月からは病院長補佐を兼務して,院内行事の実施や,患者からの投書および改善策の公開等,患者サービスの向上に貢献し,去る平成20年3月31日に定年退職を迎えました。
 同人は,39年の長きにわたり,看護業務に従事し,患者の直接ケアや看護職員の教育指導を積極的に行いました。
 北海道看護協会においては,多くの要職を歴任し,平成20年5月,日本看護協会長表彰を受け,また,看護協会の管理者研修の講師として活躍した他,日本看護協会機関誌『看護』等において,管理者としての立場から様々な提言をしています。
 同人の教えを受けた多くの優秀な看護管理者が,北海道大学病院はもちろん,道内各地の病院で活躍しており,これらの功績は誠に顕著であると認められます。
 

(北海道大学病院)


えん どう けん  氏
○遠 藤 健 二(えんどう けんじ) 氏
 このたび,春の叙勲の栄に浴することになり,身に余る光栄に存じます。
 これも偏に永年に亘る諸先輩,同僚の皆様方のご指導,ご協力によるものと深く感謝申し上げます。
 振り返って見れば,私は,北海道学芸大学(現北海道教育大学)に友人の紹介で就職したのが,キッカケでした。その頃は,旧制師範学校から新制大学への変革期で,未だ仕事の右も左も分からぬ若い時代のことであり,施設課の諸先輩には,仕事ばかりではなく,色々と手取り足取り教えを受けたものです。
 昭和37年に札幌工事事務所に転勤を命ぜられました。当時は,国立高等専門学校の設立に伴い,道内に函館高専,旭川高専の2校が第1期校として創設されました。
 着任早々,旭川高専を任せられ,営繕工事しか経験のない私にとっては,新校舎の計画から始まり,設計,積算,現場監理と一連の整備事業を上司の指導を受けながら完成させたことは,苦しみながらも貴重な体験となりました。
 新設の旭川医科大学の整備事業を前任の先輩から引継ぎ,折しも第1次のオイルショックにあたり,工事の契約もままならず,講義棟は完成しましたが,後から発注したエネルギーセンターは,建物と基幹整備を含めた計画にもかかわらず,躯体のみで予算が一杯となり,煙突も共同溝も調整(追加予算)に頼らざるを得ない状況となりました。10月には煖房を通さなければ授業になりませんので,止むなく先行工事を実施したところ,本省から課長補佐が視察に来られて,現地を見て,『煙突も出来ている,共同講も八分どおりできている,これはみんな「タダ」ね。』と言われ,私は必死になって,『冬は待ってくれません。』と弁解したことも懐かしく思い出されます。
 北見工業大学では,雄大な北の大地と厳しい寒冷地の勤務を経験し,室蘭工業大学では,全国で初めての校舎の耐震改修工事を計画し,実施の運びとなりました。
 横浜国立大学では,リクルート事件で,高名な本省事務次官が視察に来学され,その折り,大学の施設の概要説明をしたこともありました。
 弘前大学では,バブル期最中の病院再開発事業で,予算不足に,本省との交渉に明け暮れ,一方,津軽弁,のジョッパリの気風に3年間楽しく勉強させていただきました。
 北海道大学施設部は,2度の勤めで,最初は,建築課の課長補佐時代の5年間,2度目は,定年前の2年間でした。
 昭和50年,札幌工事事務所からの配置換で,この年は会計検査の後始末に明け暮れました。かの勇名○○調査官の現場写真による破壊検査で,大恐慌に陥ったものです。しかし,その教訓を経て,その後の工事執行体制が大いに改善されたことは否めない事実です。
 2度目の着任は,平成3年,札幌で生まれ育った私の郷里での最後のご奉公!!
 11年振りの帰札で,まず驚いたことは,宿舎前の交通量の多くなったこと,一晩中切れることのない騒音に寝不足の毎日で,慣れるまで2か月ほどかかりました。
 施設部の同僚は,昔からのなじみも多く,また学部の方々にも課長補佐時代に親交のあった人達が大勢いて,大変心強く思いました。しかし,2年間は,瞬く間に過ぎてしまいました。病院再開発は軌道に乗っているものの,予算が足りなく本省との調整のやりとり,特別整備事業発足による理学部,工学部の再開発,停滞していたキャンパスの長期計画の全学への呼びかけ,工学部のマスタープラン作成と本省との計画協議会の設定などなど,めまぐるしい毎日の連続でした。
 振り返ってみると,前期,後期の7年間にわたる北大時代は,私の人生にとって,最も華やかな思い出となる時代でした。
 四季折々に美しい彩りを見せるキャンパスの中で,多くの先輩,同僚と出会い,そして,すばらしい仕事に恵まれたことを感謝します。

略   歴   等
生年月日   昭和7年7月9日
昭和24年7月   北海道学芸大学給仕
昭和25年5月   北海道学芸大学技術見習
昭和27年4月   北海道学芸大学雇
昭和32年8月   北海道学芸大学技術員
昭和34年9月   北海道学芸大学文部技官
昭和37年10月   文部省管理局教育施設部札幌工事事務所文部技官
昭和41年4月   文部省管理局教育施設部札幌工事事務所工営係長
昭和49年1月   文部省管理局教育施設部札幌工事事務所専門職員
昭和50年4月   北海道大学施設部建築課課長補佐
昭和55年4月   北見工業大学施設課長
昭和57年6月   室蘭工業大学施設課長
昭和60年4月   横浜国立大学施設部施設課長
昭和63年4月   弘前大学施設部長
平成3年4月   北海道大学施設部長
平成5年3月   定年退職
功 績 等
 遠藤健二氏は,昭和7年7月9日北海道に生まれ,昭和23年3月札幌市立工業学校を卒業し,同24年7月に北海道学芸大学給仕として採用され,勤務の傍ら札幌伏見高等学校に通い,同27年3月に同校を卒業しました。
 その後,昭和27年4月北海道学芸大学雇,同32年8月同技術員,同34年9月文部技官に任官され,同37年10月に文部省管理局教育施設部札幌工事事務所に転任し,同41年4月同工営係長,同49年1月同専門職員,同50年4月北海道大学施設部建築課課長補佐,同55年4月北見工業大学施設課長に昇任し,同57年6月室蘭工業大学施設課長,同60年4月横浜国立大学施設部施設課長を経て,同63年4月弘前大学施設部長に昇任し,平成3年4月北海道大学施設部長に就任し,同5年3月定年により退職しました。
 北見工業大学施設課長在任中は,太陽エネルギーの有効利用を研究するための附属研究施設の将来計画を教員と共同で取りまとめ,本事業の実現に多大なる貢献をしました。北見工業大学の代名詞ともなるソーラーパネルは,この施設での基礎実験から発展したものであり,現在も同大学を象徴する建物として数々の研究者を輩出しております。
 室蘭工業大学施設課長在任中は,弓道場,構造物試験室,課外活動施設及び工学部校舎など数々の施設整備事業に携わり,また,外断熱工法による校舎の大型改修工事を全国の国立大学等に先駆けて実施しました。この事業は,国立学校優秀施設作品として文教施設部長賞を受賞しました。
 横浜国立大学施設部施設課長在任中は,学務部庁舎,附属横浜小学校校舎,大学会館及び総合情報処理センターの新築,附属鎌倉小学校の耐震改修工事など多くの施設整備事業を手がけ,施設整備の現場責任者として施設部長を補佐し,関係教員との調整を難なくこなし,事務職員からの信頼も絶大なるものがありました。
 弘前大学施設部長在任中は,医学部附属病院新営工事及び理学部校舎新営工事に従事し,教員の困難な要望等に親身になって応え,同大学職員が待ち望んでいた病院の建設を成功に導きました。
 平成3年に北海道大学施設部長に就任し,病院再開発の最盛期でありましたが,難しい文部省との折衝や調整を難なくこなし,この結果,平成5年に医学部附属病院新病棟が完成しました。
 このほか,理学部や工学部の再開発事業等にも従事し,また,停滞していたキャンパス整備長期計画の実現に向け全学の調整に尽力し,工学部マスタープランの作成及び文部省との計画協議会の設置などに大いに貢献しました。
 同大学在職中施設部では,毎年増加する施設整備事業の実施と山積する諸問題の解決に向け,同人が各課長をリードし部内一丸となって取組み,同人の学内での評価は絶大なるものがありました。さらに,施設部長として,事務局長を補佐するとともに,教育研究の発展に施設整備という側面から寄与し,施設部の責任者として適切な指示,指導あるいは関係教員への施設整備上の助言等を行い,北海道大学の発展に多いに貢献しました。
 以上のように同人は,永年にわたって大学の施設整備の進展に精励するとともに,率先して部下の指導育成に尽力し,その功績はまことに顕著であります。
 

(施設部施設企画課)


こう    まもる 氏
○洽 地   守(こうち まもる) 氏
 この度の春の叙勲において,瑞宝単光章を授かりましたことは,大変光栄なことと心から感謝申し上げます。
 これもひとえに諸先輩方からご指導,ご協力いただいたお陰と退職後も長年にわたり応援してくださった工学部総務課人事係の皆様方のお陰と思っています。本当にありがとうございました。
 私は,昭和36年11月に北海道大学工学部に採用になり,ボイラ室勤務になりました。ボイラとは何かも知らず,ストーブを少し大きくした物と言われていたのですが,初めてボイラを見た時は想像をはるかに超える大きさに驚いた事を覚えています。私が在職中に取り扱ったボイラ燃料は,石炭(粉炭)に始まり,重油(A,B,C),灯油,A重油の混合油,LPガス,天然ガスといった種類のものでした。燃料の種類が替わればボイラも替わり,附属される機器類も新機種となり,それをマスターすることが大変だったのが思い出されます。
 ことに,平成8年11月から従事した現在のパワーセンターでのボイラ3基と附属機器類の取扱いは大変でした。当時の取付け業者の方々には,大変な迷惑をおかけしたと思います。機器類取付け現場での操作が遠隔操作になり,そのコンピューターをマスターできるまで,日数をかけ取付け業者の方に指導いただきました。
 また,その頃から飲料用水,実験用水,雑用水,市水なども安全に給水するために,薬品による処理,送水に神経を使うようになりました。滅菌用塩素酸ソーダの注入量も送水される水の種類も違いましたので,ことに飲料用水には気配りしました。私にとっては,校舎内を暖房する事と同等に神経を使う業務でした。
 薬品類(ボイラ用,水質処理用)の取扱いや薬品貯蔵場所の決定には営繕係と話合いを繰り返したこと,色々な薬品の取扱いに関しては,名前を知っていてもその作用までは知識不足で薬品納入業者の指導を受けたことも思い出されます。
 その他に,地下ピット内の各種配管(蒸気,温水,給水,排水),16台の真空ポンプ,熱交換器取付け場所の計器類の運転状態を1日2回以上見回りしていた事を懐かしく思い出されます。当時,12月から2月までは,毎日のように外気温度が−10℃以下になり,20リットル位入るバケツに熱湯を入れ,凍結した配管等を溶かしたことも懐かしい思い出です。当時のボイラ容量が工学部全体を暖房できず,1時間の間隔で,教室系統,実験室系統に分けて暖房しておりましたが,学生,職員の方々は寒かっただろうと思います。現在は,熱量的には余裕があり,暖房は十分出来ていると思います。工学部玄関を入る教職員,学生が暖かさにホッとする顔を見るのが私の喜びでした。
 思い出すままに書きましたが,40年あまりの間,大きなアクシデントもなく勤務できた事は,先輩方の正しい指導の賜物と思っています。現在は外注業者主体のパワーセンターですが,札幌の冬は暖房なしでは過ごせません。これからも,安全に教職員や学生を暖めてください。


略   歴   等
生年月日   昭和17年3月28日
昭和36年11月   北海道大学工学部用務員
昭和38年4月   北海道大学工学部技能員
昭和45年11月   北海道大学文部技官
昭和47年8月   北海道大学工学部ボイラ技士
昭和52年4月   北海道大学工学部経理課ボイラ技士
昭和63年4月   北海道大学工学部経理課ボイラ技士ボイラ室副主任
平成5年12月   北海道大学工学部経理課ボイラ技士ボイラ室主任
平成8年4月   北海道大学工学部経理課ボイラ技士ボイラー長
平成12年4月   北海道大学大学院工学研究科・工学部経理課ボイラ技士ボイラー長
平成14年3月   北海道大学定年退職
功 績 等
 同人は,昭和17年3月28日,北海道に生まれ,昭和32年3月札幌中学校を卒業した後,北海道野幌高等学校に進学,同36年3月に同校を卒業して農業に従事した後,同年11月北海道大学工学部用務員に採用され,同38年4月技能員に昇任,同45年11月文部技官に任官,同47年8月北海道大学工学部ボイラ技士に配置換,同52年4月同学部経理課ボイラ技士に配置換,同63年4月工学部ボイラ室副主任,平成5年12月同ボイラ室主任,同8年4月同ボイラー長,同12年4月には大学院重点化による組織名称の変更に伴い,北海道大学工学研究科・工学部経理課に配置換となり,平成14年3月31日限り定年により退職するまでの間,一貫してボイラー関係業務に従事されました。
 この間,同人は向上心旺盛で,本学に採用されてから,昭和38年3月2級ボイラー技士免許,同43年2月乙種危険物取扱主任者免状,同年4月1級ボイラー技士免許,同47年10月ボイラー整備士免許をそれぞれ取得し,また,教育研究機関としての大学の機能が充分に発揮できるよう,暖房,給排水設備等の操作点検,整備及びこれらの設備の危害防止等の職務に黙々として専念し,技術の向上及び大学の環境作りに精励されました。
 採用時から,工学部暖房室におけるボイラー関係業務に従事してこられましたが,特に,同学部においては,昭和51年から省エネルギー対策を目的とした全学集中暖房計画の一環として,工学部ボイラー棟から旧教養部ボイラー棟までの暖房蒸気輸送用の配管工事が進められ,工学部と旧教養部を地下ピットで連絡し,工学部ボイラーから旧教養部,図書館北分館及び体育館に蒸気を送り,エネルギー節約を図ったものですが,この時,ボイラーの運転及び保守管理の合理化,熱放散予防措置について,同僚ボイラ技士と共に事前に充分な検討を重ねて鋭意努力し,省エネルギー対策に尽力されました。
 また,学部施設等の全面改築の途上であり,研究棟,実験棟及び講義棟等の改築,増築に伴う既設建物の解体による配管設備の切替えに際しての適切な助言,建築現場における仮設配管の維持,保守通気を通じて,学部の教育研究等に支障のないよう充分注意を払い,監督補助等の任にあたりました。さらに,平成5年より工学部再開発が始まり,最初に材料・化学系棟の新築工事が着手され,一部旧校舎の解体に際しても現場における指導,助言を積極的かつ的確に行い,また,その後に行われた情報エレクトロニクス系棟の新築工事,工学研究科A棟(研究,管理棟)の改築工事においても,暖房設備の切替え,設置に関して充分な打合わせ及び助言を行うなど,再開発の一環に大いに尽力されました。
 近年,本学においてもボイラー業務の外注化が進んでいるが,平成8年4月からはボイラー長として,外注者との業務連携,指導監督,ボイラーの安全運転の徹底を推進,保守管理の合理化,省力化,エネルギー節約のための創意工夫,災害に備えての消火設備の一層の充実を図るなど,その功績は大きく,また,同人は温厚実直な人柄で,その真摯な勤務態度及び適切な指導,助言等は同僚から厚い信頼を得ていたものです。
 このほか,在職中においては,ボイラ技士の技能向上を目的として結成されている北海道大学汽缶士会に所属し,昭和61年5月から平成5年5月までは会計業務を担当して会長を補佐するなど,同会の運営に参画して,本学ボイラー業務従事者の技術向上等に貢献されました。
 学外にあっては,昭和58年10月社団法人日本ボイラ協会北海道支部から優良ボイラー技士表彰を受け,模範として学内外から多くの信望を集めました。
 以上のように同人は,北海道大学において,40年余の永きにわたりボイラー関係業務を通じて大学における教育研究現場の環境作りに専念し,言わば縁の下の力持ちといった職務に従事されてきたもので,その功績はまことに顕著であります。
 
(工学研究科・工学部)

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