教授 津田芳郎氏は,科学研究費による現地調査のため中華人民共和国に出張中のところ,体調を崩され,北京市内の中日友好病院に入院されましたが,平成21年3月22日午後9時55分(日本時間),多臓器不全のために同病院にて急逝されました。ここに同氏の生前のご功績を偲び,謹んで哀悼の意を表します。
津田芳郎氏は宮城県の人で,昭和24年8月31日,同県一迫町(現栗原市)に生まれました。今日の歴史学界において,中国史,とりわけ宋代史研究の最も代表的な研究者の一人でした。
津田氏は,昭和47年3月に東北大学文学部東洋史学科を卒業,昭和49年3月に東北大学大学院文学研究科修士課程を修了,昭和50年3月に東北大学大学院文学研究科博士課程を中退して,同年4月に北海道大学文学部助手として札幌に赴任され,昭和58年3月まで文学部東洋史学講座の助手を務めました。その後,いったん札幌を離れ,名古屋大学教養部で講師(昭和58年4月〜)・助教授(昭和61年6月〜平成元年3月)を務めた後,平成元年4月に北海道大学文学部助教授として再び札幌に戻られ,以後,教授(平成7年8月〜)・大学院文学研究科教授(平成12年4月〜)を歴任されました。助手時代を含めると実に28年,同氏は生涯の大半を,北海道大学の教育・学術の発展に尽力されたことになります。
津田氏は,学内行政においても優れた手腕を発揮されました。北海道大学評議員(平成12年4月〜平成14年3月)・北海道大学総長補佐(平成14年5月〜平成16年3月)・北海道大学研究戦略室室員(平成16年4月〜平成21年3月)を歴任したほか,近年は北京大学との大学間交流協定の締結,北京オフィスの運営などにも参与され,その貢献は本学の国際交流にまで及びました。
津田氏の研究の専門は,宋代法制史および中国近世身分法史であり,精緻な実証と高度な抽象化によって中国史の大きな枠組みを鮮やかに読み解かれました。また同氏は,昭和60年,在外研究滞在先の上海図書館で明版『名公書判清明集』と邂逅した後,この難解な史料の全面的な解析作業に立ち向かわれました。宋代の裁判判例集である本史料は,津田氏による再発見と研究とによって,国内外において新たな研究の潮流を生み出しました。
津田氏のこうした研究成果の多くは,平成13年以後,次々とまとめられた複数の大著,すなわち『宋-清身分法の研究』(北海道大学図書刊行会,平成13年3月,全348頁),『宋代中国の法制と社会』(汲古書院,平成14年9月,全480頁),『訳注『名公書判清明集』戸婚門−南宋代の民事的紛争と判決』(創文社,平成18年2月,全680頁),『訳注『名公書判清明集』官吏門・賦役門・文事門』(北海道大学出版会,平成20年3月,全267頁)として上梓され,いずれも斯界においてきわめて高い評価を受けています。それらの中で『宋-清身分法の研究』によって,平成14年3月,東北大学から博士(文学)の学位を取得しました。
津田氏はまた,学外にあっても,宋代史研究会世話人(事実上の会長職)や東洋史研究会評議員を務めるなど,斯界の発展にも大きく寄与されています。
津田氏は,学風としては学問的厳しさをもってその特徴とされましたが,人柄としてはそのような厳しさを大きく包み込む温かさを具え,同氏が講座研究室にコーヒーを飲みに現れると,その周りには学生たちの笑い声が絶えませんでした。その人柄は,同氏が主任教授を務めた東洋史学講座の学生・同僚のみならず,学界活動を通じ,多くの人びとを惹きつけ,海外にも「津田ファン」を自称する研究者がいたほどです。4月4日の札幌での葬儀の後,学内に会場を移して行われた「津田芳郎先生 お別れの会」には,津田氏の薫陶を受けた関係者や所縁の人々が国内外から多数参列し,その遺徳を偲んで黙祷が捧げられました。
本来ならばこれまでの教育・研究成果がより大きな実りをもたらす期間となったはずの,退職までの4年間を残し,突然この世を去られたことが,津田氏ご本人にとってどれほど心残りであったかは,心中を察するに余りあるところです。ここに謹んで,生前のご功績とお人柄を偲び,先生のご冥福をお祈り申し上げる次第です。
(文学研究科・文学部)
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