本学関係者の次の4氏が平成21年度秋の叙勲を受けることが,11月2日(月)に発表となりました。 |
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勲 章 |
経 歴 |
氏 名 |
瑞 宝 中 綬 章 |
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菊 地 勝 弘 |
瑞 宝 中 綬 章 |
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久 田 光 彦 |
瑞 宝 単 光 章 |
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岡 田 きょう子 |
瑞 宝 双 光 章 |
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圓 山 秀 一 |
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各氏の長年にわたる教育・研究等への功績と我が国の学術振興の発展に寄与された功績に対し,授与されたものです。
各氏の受章にあたっての感想,功績等を紹介します。 |
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(総務部広報課) |
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○
菊地
勝弘
氏
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この度,秋の叙勲の栄を賜り大変光栄に思っております。ご高配下さった関係の皆様方に厚く御礼申し上げます。平成9年春の紫綬褒章受章の時も驚きと感激を隠せなかったのですが,今回もまた感激しております。
11月9日(月)午前に国立劇場・大劇場で勲章の伝達式が行われ,午後には皇居・春秋の間で天皇陛下への拝謁がありました。その席上,文部科学省関連の受章者750名を代表して私が御礼の言上を行い,緊張の一瞬を経験しました。
私の研究生活は昭和32年4月,出来たばかりの北海道大学大学院理学研究科地球物理学専攻の孫野長治先生から気象学の指導を受けることから始まりました。孫野先生は,恩師の中谷宇吉郎先生が「ある現象を研究するには,先ずその現象をよく見ること」を実践されたように,先生も常々私たちに「雲の中の出来事は雲の中に入ってみなければ分からない」と説いていたのです。この言葉が以後の私の研究生活の原点になりました。
その年の夏,先生は手稲山頂に,90cm×180cmのパネル12枚を山頂で繋ぎ合わせた僅か1坪の雲観測室と,同じく1坪の宿泊室を作りました。電気,水,トイレはHBC手稲山テレビ送信所から借りることで解決しました。手稲山の吹雪は,煙突を残して小屋を埋めてしまうことが度々だったのですが,雲粒や雪結晶の電荷を観測するのには格好の場所だったのです。翌年には鉄筋ブロック2階建の本建築になりましたが,費用が足りず,私が山頂に泊まりこみで鉄筋やブロック運びで帳消しにしてもらったのです。これが後の手稲山北大雲物理観測所になったのです。この門標は中谷先生の揮毫によるもので,孫野先生は大変悦に入っておりました。次の冬には山麓から山頂まで,200m毎に観測点を設け,降雪時の温度,湿度と結晶形の観測が行われました。中谷先生が人工雪の実験を元に完成させた雪の成長条件を表す中谷ダイヤグラムが,天然に適用できるかが孫野先生の最大の関心事だったのです。観測の結果,中谷の雪結晶の一般分類は,孫野の気象学的分類へと発展しました。研究室で最年長だった私は,卒業研究や実習で参加した学生をまとめ,先生に大変重宝がられました。そんな経験が買われ,院生時代から第1次北大アラスカ氷河調査隊や厳冬期の北極域のピーターズ湖で湖氷調査も行いました。助手,助教授になってからも,ほとんどの国内・外の現地観測を指揮し成功裏に収めることが出来たのです。
そんなことで,1967年7月から69年4月まで第9次日本南極観測隊員に選ばれ,世界で初めて雲物理学の越冬観測という幸運に恵まれました。幸い越冬期間中に数多くの雪結晶を発見し,その後ニューヨーク州立大学から招聘されて,アメリカ南極観測隊員として2度にわたって南極点基地で観測することが出来ました。以前,中谷先生が私に書いて下さった「地の底海の果には何があるか分からない」を身をもって体験し,そのとおり多くの発見をすることができたのです。その後は科学研究費による北極域の雪の結晶や降雪機構の解明に転じ,私たちのレーダーを毎冬のようにカナダ,スカンジナビア北極域,グリーンランドやバレンツ海に浮ぶノルウェー領の測候所だけの小島,ベアー島まで移設したりして,北は北緯80度のスピッツベルゲン島から南は南極点までの研究観測を秋田県立大学の定年まで遂行することができました。
北海道大学で37年間,秋田県立大学で8年間,この間多くの学部,大学院生,外国人研究者,留学生と闊達な環境のもと,多くの成果を上げることができました。このような環境で陰に陽に協力された皆様方に深く感謝いたします。先日,滝野霊園に眠る孫野先生を訪ね,今回の叙勲を報告してきました。お墓の傍には私が昭和基地から持ち帰った石が置いてあり,先生と一緒に喜んでいるように見えました。残念なことは中谷先生から孫野先生へと受け継がれてきた研究領域が私を最後に北大から消えてしまったことです。 |
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生 年 月 日 |
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昭和9年7月14日 |
昭和37年 5 月 |
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北海道大学理学部助手 |
昭和41年 7 月 |
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北海道大学理学部助教授 |
昭和42年 7 月 |
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日本南極地域観測隊越冬隊員 (昭和基地) |
昭和44年 3 月 |
昭和50年 1 月 |
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アメリカ南極観測隊夏隊員(南極点基地) |
昭和53年11月 |
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アメリカ南極観測隊夏隊員(南極点基地) |
昭和55年 4 月 |
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北海道大学理学部教授 |
平成 2 年 4 月 |
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北海道大学評議員 |
平成 3 年 5 月 |
平成10年 3 月 |
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北海道大学停年退職 |
平成10年 4 月 |
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北海道大学名誉教授 |
平成11年 4 月 |
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秋田県立大学生物資源科学部教授 |
平成15年 4 月 |
} |
秋田県立大学評議員 |
平成17年 3 月 |
平成17年 3 月 |
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秋田県立大学停年退職 |
平成18年 7 月 |
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秋田県立大学名誉教授 |
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功 績 等 |
同人は,昭和9年7月14日北海道に生まれ,昭和32年4月北海道大学大学院理学研究科地球物理学専攻修士課程に入学,同34年3月同課程を修了し,同41年3月には「On the Positive Electrification of Snow Crystals in the Process of Their Melting (雪の結晶の融解による正電荷現象に関する研究)」により,北海道大学から理学博士の学位を授与されました。昭和37年5月北海道大学理学部助手に採用,同41年7月助教授,同55年4月に教授に昇任し,地球物理学科気象学講座を担当しました。平成7年4月からの大学院重点化に伴い,大学院理学研究科地球惑星科学専攻惑星流体科学講座に所属,気象学の研究教育の指導にあたり,同10年3月31日停年により退官,同年4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。
北海道大学を退官後は,平成11年4月1日新設された秋田県立大学に招聘され,生物資源科学部で大気・水圏環境学講座の教授として学部,大学院生を指導しました。
同人は,北海道大学において,大学院在籍時から助手の期間にかけて「雷雲内の電荷発生機構に関する研究」を行い,雷雲下層の融解層の下に正電荷が蓄積されるメカニズムとして,負電荷を有する降雪粒子が融解することによって正電荷に変わることを低温室実験から明らかにし,雷雲内の電荷構造の研究に新たな発展をもたらしました。また,理学部地球物理学科及び大学院理学研究科において,気象学の講義を担当するとともに,熱心に大学院生,学部学生の教育指導に当たり,同人の指導を受けた学生の多くが学位を授与され,各大学,研究所,民間会社において活躍中であります。また,外国人留学生,研究員を数多く受け入れ,博士,修士の学位の取得に尽力しました。平成2年4月から同3年5月にかけて,北海道大学評議員として大学運営の枢機に参画し,同大学の管理,運営,発展に尽力しました。秋田県立大学に招聘されてから,秋田県から青森県にまたがる白神山地世界自然遺産登録地を対象として,ブナ林の酸性雨に対する耐性の研究を行い,さらに平成15年4月から同17年3月までは評議員として同大学の発展に寄与してきました。
同人は,昭和42年7月から同44年3月まで第9次日本南極地域観測隊員として昭和基地に赴き世界で初めて雲物理学分野の越冬観測を行い,御幣型の雪の結晶をはじめ,多くの新しい雪の結晶を発見し,これまで知られていなかった低温型雪結晶の研究の契機となりました。また,当時広く信じられていたオーストラリア連邦理工学研究所のE.G.バウエン博士の降水粒子の氷晶核としての宇宙塵説を,南極での長期間の観測から否定する見解を発表しました。
その後,同人はアメリカ南極観測隊員として二度にわたって南極点基地,また毎年のように文部省科学研究費補助金の海外学術調査によって厳冬期の北極圏カナダ,グリーンランド,北欧に赴き,低温型雪結晶とエーロゾルに関する現地観測を継続しました。その結果,南極点基地における「晴天降水現象」のメカニズムを明らかにし,多結晶初期氷晶の発見,十八花結晶,二十四花結晶といった多花結晶を発見するなど,低温型雪結晶を含む成長機構に関する新たな知見を得ました。
昭和54年には,北海道大学において,厳冬期のカナダ北極圏に世界で初めて気象レーダーを移設し,さらに同大学が所有するドップラーレーダーも移設して,全く手が付けられていなかった北極域の降雪現象の研究を進め,極域の水蒸気輸送と降雪機構を明らかにし,わが国の北極圏の降水現象研究に先鞭をつけました。また,平成14年から同17年にかけては北極海の北緯74度30分,東経19度01分に浮かぶ,ノルウェー領ブジョルナヤ島(英語名:ベアー・アイランド)に同大学の鉛直ドップラーレーダーを設置しての観測を続け,北極圏の降水現象研究に重要な役割を果たしています。一方,国内においては,その年間降雨量が,北海道外に比較してもひけをとらないオロフレ山系南東斜面の地形性降雨に対して,統計的な解析からレーダー観測を一貫して行い,下層の湿った南東気流の強制上昇と太平洋側に開いた谷地形における気流の収束効果を定量的に明らかにしました。日本海北部の降雪現象については,従来観測が困難であった雪雲の内部構造についてドップラーレーダー観測などによって明らかにし,降雪機構を解明しました。平成4年には北海道日本海側の石狩周辺において北海道大学と名古屋大学を中心とする文部省科学研究費重点領域研究「自然災害の予測と防災力」の一環として,日本初の複数のドップラーレーダーを用いた降雪の本格的な集中観測チームを組織し,これまで良く知られていなかった雪雲の微細構造,降雪機構,及び降雪雲に伴ってしばしば発生するダウンバーストに関する多くの知見を得,豪雪の発生予測に関する研究の指針を示しました。これらの研究が基盤となって,降雪現象に関する教科書を執筆しました。また,同人は通常の小型気象レーダーを用いた降雪予測方法の開発を指揮し,札幌市独自のレーダーによる降雪予測システムの科学的・技術的可能性を明らかにし,システムの導入に貢献しました。このシステムは北方圏に位置する世界の降積雪に悩む大都市の羨望の的となっています。さらに,エーロゾル・大気電気学に関しては,降水粒子の電荷に関する研究を永年にわたって行い,特に汚染大気中のエーロゾルの変動特性を明らかにするうえで重要な,雪の結晶によるエーロゾルの除去作用に関する研究を行いました。また,地球温暖化問題,気候変動に対する雲の効果に早くから注目し,海上の層積雲の凹凸に対する太陽光の反射特性など,東北大学や名古屋大学との共同研究を通してその効果を明らかにしてきました。
これらの業績に対して,昭和49年5月日本気象学会賞,同61年第1回寒地技術賞(学術部門),同62年7月日本大気電気学会学術研究賞,平成2年10月韓国気象学会栄誉賞,同9年4月紫綬褒章(気象学研究功績),同年10月日本雪氷学会功績賞,同年北海道科学技術賞,同12年日本気象学会藤原賞(功績賞)をそれぞれ受賞しました。さらに,平成5年7月から同7年6月まで日本大気電気学会会長を,以降現在まで同会顧問として,また,昭和55年6月から平成10年3月まで日本気象学会理事,平成6年6月から同10年6月まで同学会北海道支部長を歴任,昭和56年6月から同59年10月まで日本学術会議地球物理学研究連絡委員会委員,昭和59年11月から同63年7月及び同年10月から平成3年10月まで日本学術会議気象学研究連絡委員会委員,平成3年4月から同年10月及び平成5年10月から同6年3月まで科学技術会議専門委員,昭和57年2月から同59年1月及び平成6年1月から同8年1月までは学術審議会専門委員に就任するなど,学会運営や学術行政に関する貢献も並々ならぬものがあります。また,第10回国際大気電気学会大会委員長,第11回国際雲物理会議編集委員を務めるなど,国際的にも学術・文化の発展に多大な貢献をしました。
以上のように,同人は地球物理学,とりわけ気象学における研究業績によりわが国の学術上の進歩に寄与するところ大であるとともに,気象学における教育,研究及び学術,教育行政にも貢献するなど,その功績は誠に顕著であります。 |
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(理学院・理学研究院・理学部) |
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○
久
田
光
彦
氏
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このたび,叙勲の栄に浴しました。大変光栄なことと存じます。
少年期,中学2年から4年の半ばまでをもっぱら勤労動員で過ごし,さらに旧制高校の入学は軍学校出身者の処遇を巡る足止めで半年後となりました。今の時代なら間違いもなく大学でリメディアル教育の対象者となったはずの私が,このような晴れがましい栄誉を頂く日を迎える事が出来たのは,ひとえにお世話になったすべての方々,中でも39年にわたっての北海道大学の諸先生,同僚および学生諸君をはじめ多くの方々のお力添えのお陰です。皆さんに厚くお礼申し上げます。
昭和27年東京大学を卒業して直ちに三浦半島油壺の臨海実験所助手として務めました。そこには,海軍特攻基地として米占領軍に接収破壊される運命の実験所を歴史的な一枚の自筆文書で救った都立大の団勝磨・ジーン先生夫妻が研究室を構えて居られました。折しも朝鮮戦争末期だったにも関わらず,外国人研究者も加わり,開放的でかつ活気に満ちたその研究室は私にとって理想の世界と映りました。
2年後の昭和29年初夏,先任の玉重三男教授を追って北大に赴任しました。
戦禍の跡の見えぬ札幌の中心を占めた美しいキャンパス,そしてクラーク博士の言葉に接したとき感じたのは,ここならば団先生に倣った世界が築けるかもしれない,という夢(大志?)のような思いでした。
ところで私自身の研究は東大時代からの単細胞生物,筋繊維の電気生理学に始まりましたが,やがてスタッフ,大学院生を加えて研究集団が形成されて行くにつれて,無脊椎動物の神経系の研究,ことに行動の形成と発現に神経系が果たしている役割を調べる方向に向いて行きました。折しもヒトの脳研究が第一の隆盛期を迎えていたときでもあり,わずか100万個ほどの神経系を持つ無脊椎動物,ことに昆虫や甲殻類のような節足動物が,時にヒトを凌駕する行動能力を持つ仕組みを明らかにして脳科学に寄与しようと目指しました。
彼らの行動の定量化のために新しい記録装置をいろいろ作り,神経活動解析の新しい手法を探って自らも努力しましたが,他分野の方々にもずいぶん力をお借りしました。北大の医学生理学関係の研究者をはじめ,阪大の鈴木良次教授など工学関連研究者とも交流し,またバイオミメテックスの研究者と連携することで研究上多くの示唆を得ることが出来ました。なかでも工学部出身の下澤楯夫氏にスタッフに加わってもらったことが大きな助けになりました。
こうして,研究室自体も,いつのまにか,一般の生理学用語に加えて,いろいろな分野の専門用語が飛び交い,さらに各国の研究者も頻繁に訪問,滞在して外国語による会話も常時耳にする場所になりました。昆虫や甲殻類のノンスパイキングニューロンや中枢内局所回路の解析をいち早く進めたお陰で,ニューロエソロジー(神経行動学)研究の一つの中心として,国内的にも国際的にも認知される存在とすることが出来ました。
ところで,生物学研究の促進には,必要な生物材料の確保,供給と,実地の実験,観察のための施設が不可欠です。さいわい多くの方々の理解と協力を得て,北大に実験生物センターを設置することが出来,私たちのみならず学内の研究者に多大な利便をもたらすことが出来ました。この施設の設置,運営に関わっていただいた方々,それに積極的に利用していただいた方に改めて感謝します。
私も北大退職後,東京理科大学長万部校舎に転じて,7年の間,全寮制教育という野心的なシステムでの教育に専念してから,すでに約10年になります。そのあいだに,北大理学部では,この国で最強の神経行動学研究陣が整えられました。これらの人々が,無脊椎動物中枢を「微小脳(マイクロブレイン)」と位置づけ,いっそうの活動を続けているのはたいへん嬉しいことです。
「変化」が叫ばれる時代の中,法人化をへて数々の改革を成し遂げた北海道大学が,教育,研究の両面で展開を遂げて,さらなる隆昌,発展を迎えられることを願っております。
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略 歴 等 |
生 年 月 日 |
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昭和4年10月30日 |
昭和27年 4 月 |
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東京大学理学部附属臨海実験所助手 |
昭和29年 7 月 |
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北海道大学理学部助手 |
昭和31年 4 月 |
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北海道大学理学部講師 |
昭和35年 9 月 |
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北海道大学理学部助教授 |
昭和51年 3 月 |
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北海道大学理学部教授 |
昭和56年 4 月 |
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北海道大学実験生物センター長 |
平成 3 年 3 月 |
平成 4 年 4 月 |
} |
北海道大学理学部附属臨海実験所長 |
平成 5 年 3 月 |
平成 5 年 3 月 |
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北海道大学停年退職 |
平成 5 年 4 月 |
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北海道大学名誉教授 |
平成 5 年 4 月 |
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東京理科大学教授 |
平成 7 年 3 月 |
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功 績 等 |
久田光彦氏は,昭和4年10月30日愛知県名古屋市に生まれ,昭和27年3月東京大学理学部動物学科を卒業の後,同年4月に東京大学理学部附属臨海実験所助手として採用されました。昭和29年7月,北海道大学理学部助手に転任し,同31年4月同講師,更に同35年9月同助教授を経て,同51年3に月教授に昇任し,理学部生物学科動物生理学講座を担当,平成5年3月31日停年により退職されたものであります。この間,同人は永年にわたって,感覚生理学,神経・筋生理学,神経生物学などを含む動物生理学の広い分野で教育・研究に努め,優れた人材の育成に尽力しました。また,教育においては,学部専門講義の動物生理学,感覚生理学において,その明快かつ斬新な切り口での授業が学生からも高い評価を受けました。同人の専門分野は無脊椎動物の神経系でしたが,講義では,無脊椎動物のみならずヒトを含む脊椎動物まで広くカバーして,学生の知的好奇心を奮い立たせました。
同人の研究領域は,ゾウリムシ・ヤコウチュウなどの原生生物およびクラゲなどいわゆる下等動物(生物)における生命現象の生理学的な解析から出発し,特にヤコウチュウの鞭毛活動電位の発見は電気生理学の先駆的研究として当時世界的な注目を集めました。その後,さらに両生類筋繊維での興奮−収縮連関,哺乳動物の涙腺細胞の交感神経支配などにも実験対象を広げながら,1960年代半ばからは,トンボやザリガニなど節足動物行動の神経生物学に集中するようになりました。また,神経生物学の中でも,新しい分野である神経行動学の研究に力を注ぎ,ザリガニやコオロギなど節足動物を中心とする無脊椎動物の行動の神経機構の研究では,我が国においては勿論,国際的にもリーダーシップを発揮してきました。ことに,これら動物の中枢神経系の構成神経要素とその機能に関する解析による局所神経回路の研究は,神経行動学のみならず,神経系の研究に新しい局面を広げたもので,多くの原著論文,さらに国内,および国際会議での基調,招待講演として発表され,他大学,さらに広く国外研究者との共同研究,研究交流を活発にさせました。文部省の科学研究費補助金による特定研究「動物行動の発現機構」(代表・森田弘道九州大学教授,昭和54〜57年度)において,アメリカザリガニProcambarus clarkiiの中枢神経系に存在するノンスパイキング局所介在神経は,通常のニューロンとは異なり,活動電位を発生することなくシナプス後細胞の活動を制御するという特徴を有することを,甲殻類では世界に先駆けて見出し,引き続いて,活動電位を発生するスパイキング局所介在神経をも見出し,従来まったく知られていなかった無脊椎動物中枢における局所的情報処理機構を初めて明らかにし,研究班班長として,同研究の進展に多大な貢献をしました。これによって,同人は,昭和63年,日本動物学会賞を受賞しました。
また,同人は,国内研究グループの代表のみならず,欧米の研究者と相諮って国際ニューロエソロジー学会を創立し,事務局長としてその発展に寄与し,この分野の研究の強化と推進に国際的に尽力しました。さらに,同人は,停年により退官する直前まで,当時最先端であったマイクロコンピュターを用いた神経生理学実験システムの構築,レーザー光の微小領域照射法と細胞内蛍光染色法とを組み合わせたin situレーザーザッピング法による神経回路網の解析,コオロギ用に新たに開発した球形トレッドミルを用いた音定位行動の解析,など多くの画期的研究を手がけ,多大の業績を残したものであります。日本が多額の出資をして始められたヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム(HFSP)においても,同人は代表者として英米独の研究者をまとめた大規模プロジェクトを実施し,我が国の無脊椎動物行動の神経機構研究を,国際的にも格段に進歩させました。
さらに,学会活動として,日本生理学会評議員,日本比較生理生化学会評議員日本動物学会評議員,および日本動物学会北海道支部長など,多くの学会の要職を歴任,諸学会の活動と発展に寄与してきました。特に,日本比較生理生化学会は,日本動物生理学会という名称で1979年に発足したもので,同人はその設立に多大の貢献をされ,札幌市教育文化センターにて開催された第1回の全国大会では,大会委員長を務めました。
同人の功績は単に教育研究の領域に留まらず,学内では北海道大学における生物学研究及び教育の一層の充実と振興を目して,学内共同利用施設としての北海道大学実験生物センターの創設に尽力し,昭和56年4月同センター長となり,平成3年3月までの5期にわたってセンター長に任ぜられ,その運営と発展に努めました。平成4年4月よりは理学部附属臨海実験所長として,同実験所の研究教育体制の充実に努めました。さらに,文部省在外研究員候補者選抜委員会委員長をはじめ学生部委員会委員,広報委員など各種全学委員,また理学部将来計画委員会委員などの学部委員等として本学の管理運営の枢機に参画し,大学行政に多大に寄与したものです。
学外においては,文部省学術審議会専門委員,国立大学協会専門委員,日本学術振興会流動研究員等審査会専門委員,通産省新情報処理技術調査委員会委員として,動物生理学教育のみならず,広く関連分野でも活躍したものです。
以上のように,同人は,動物学,動物生理学の分野において優れた業績を挙げ,我国における学術の進歩発展に貢献するとともに,数多くの後進の指導育成に尽くしたものであり,その功績は誠に顕著であります。 |
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(理学院・理学研究院・理学部) |
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○
岡
田
きょう
子
氏
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この度,秋の叙勲の栄に浴しましたことは身に余る光栄でございます。このような栄誉に恵まれましたことは,ひとえに多くの皆様のご指導ご支援の賜物と心から感謝し,お礼申し上げます。
昭和48年北大病院に就職し,約36年間の永きに亘りお世話になりました。入職時は婦人科病棟所属でしたが,不安一杯の一人夜勤,深夜勤務の朝一番の仕事は,医療器具類の煮沸消毒から始まり,器具に粉が吹いていたものです。やがて複数夜勤が定着し,病棟で消毒していた器具類のほとんどが材料部で賄われることになり,消毒された
鑷子が光っていることに感動したものです。
平成6年に新病棟が完成し,患者・医療者に快適な環境をもたらされたほか,私の過ごした年月を顧みますと,ハード・ソフト両面で随分変化を遂げてきたことを実感します。変化の数々を述べますと枚挙に遑ないので割愛しますが,時代の変化に伴う要請に応えた最先端の医療環境の中で,看護師としての人生のほとんどを過ごすことができたことは幸せでした。
スタッフ時代は,患者さんが少しでも安寧に過ごせるようにと考えることは少しも苦ではなく,患者さんから宝物のような言葉に励まされ,上司,先輩,同僚,医師の皆様には色々なプランを受けとめて頂き,私なりに達成感ある想い出が多いことは本当に幸せです。そして看護婦長・副看護部長と23年間の長い間管理職として勤務させて頂きましたが,この間未熟な私に頂いた温かいご支援ご協力なしには何もできませんでした。看護婦長時代は,上司の後姿を見ていることと,自身が看護婦(師)長になることの違い,決断することの難しさに挫折感も味わいました。看護婦(師)長とは何をする人なのかを見出すのに時間もかかりました。失敗を繰り返しつつ相互支援の中でスタッフと共に多少なりとも成長させて頂いたように思います。業務整理の一環として実践した申し送り短縮や廃止などの取組みでの学びは印象深いできごとの一つです。一つの取組みの成功体験は,次の難局に遭遇した時に勇気と自信をもたらしてくれました。
平成11年の横浜市立大学病院の医療事故を契機に,北大病院においても医療事故防止に向けた多職種の方々との会議が多くなり,数々の業務改善が図られたのは記憶に新しいことです。真の意味での北大病院チーム医療への幕開けであったように思いました。平成9年副看護部長となり,医療事故防止に向けた会議を始めとして感染・NST・褥瘡・看護師の静脈注射に関する委員会など様々な委員会に参加させて頂きました。多職種の皆様と接することはたくさんの刺激を受ける機会となり,改めて看護師は何を期待され,何をする職種であるのか心に刻むことにもなりました。
平成19年,診療報酬改定により新設された看護師7対1入院基本料取得を目指し,初めて看護師募集に道内外の学校に回ったこともなつかしい想い出です。看護師の大量増員は歴史的なできごとでありますが,当時新採用された看護師も今年で3年目となります。より良い看護の発展のために現在,未来へと貢献してくれるものと確信しております。
最後にこれまでご指導ご支援を頂いた皆々様,また,この度の叙勲受章ための労をおとり下さいました関係各位に感謝いたしますと共に北海道大学の益々のご発展を祈念申し上げます。
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略 歴 等 |
生 年 月 日 |
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昭和23年12月13日 |
昭和48年 7 月 |
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北海道大学医学部附属病院看護婦 |
昭和57年 4 月 |
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北海道大学医学部附属病院看護部副看護婦長 |
昭和61年 4 月 |
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北海道大学医学部附属病院看護部看護婦長 |
平成 9 年 4 月 |
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北海道大学医学部附属病院看護部副看護部長 |
平成15年10月 |
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北海道大学医学部・歯学部附属病院看護部副看護部長 |
平成21年 3 月 |
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北海道大学定年退職 |
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功 績 等 |
岡田きょう子氏は,昭和23年12月13日に北海道空知郡芦別町(現,芦別市)に生まれ,釧路市立高等看護学院を昭和47年3月に卒業,昭和48年7月より北海道大学医学部附属病院に採用され,婦人科病棟に勤務しました。ここでは,子宮がん広汎手術後の後遺症に悩む患者が,地域復帰後も必要な看護が受けられるように,保健婦との連携確立に努めました。昭和55年5月,第一内科病棟に異動となり,ここでは人工呼吸器管理について,安全な看護や患者の生活に視点をおいた後輩指導,業務改善等に尽力しました。
このような実績が評価され,昭和57年4月,第二内科病棟副看護婦長,昭和61年4月には看護婦長に昇任しました。
この間,現在も継続されている糖尿病教室を開催し,患者のセルフケア能力の向上に貢献しました。また,昭和63年から平成5年まで北海道大学医療技術短期大学部講師を併任され,糖尿病患者のセルフケアや心理面の重要性について教鞭を執りました。
平成4年4月,脳外科・神経内科病棟へ異動となり,看護の質向上と人材育成に力を注ぎました。急性期医療における新卒者の職場適応に着眼し,職場適応支援を目的としたプリセプターシップのシステム化に取り組み,平成8年にその経緯と成果を看護系雑誌に投稿しています。平成9年にはオランダで開催された脳外科国際看護学会で「意識障害患者の在宅ターミナルの試み」,「小児モヤモヤ病患者と家族のQuality of Life」を発表しました。
平成9年4月,看護管理者として卓越した能力が認められ,副看護部長に昇任,新卒者の教育や職場適応の課題解決に向けた研修を企画,看護学生の臨地実習の受け入れの整備等看護職教育及び看護学生教育の充実を図りました。また看護職のキャリア開発を目的に,実践能力評価システム「北大版看護実践能力開発ラダー」を構築しました。
更に「看護師による静脈注射実施のための施設基準」を作り,静脈注射エキスパートナース制度を導入し,看護職が責任をもって役割拡大できる基盤を整備しました。平成21年には,その経緯と成果が看護総合科学研究会誌に「看護師による安全な静脈注射実施にむけた北海道大学での取り組み−静脈注射エキスパートナース育成を中心とした教育体制の構築」として掲載されました。
このように,副看護部長昇任以来,質の高い看護サービスの保証にむけて,一貫してエビデンスをもって,人材育成,看護職のキャリア開発を推進し,平成21年3月31日付けで定年退職しました。
同人は,社会的活動も精力的に行い,特に北海道看護協会においては,職能委員・委員長(昭和59年から同62年),教育委員(平成元年から同6年),看護制度委員・委員長(平成10年から同15年),札幌第4支部長(平成15年から同17年)等を歴任しており,これらの功績が認められ,平成21年度北海道社会貢献賞(優良看護職員)を受賞しました。
以上のように同人は,37年の永きに亘り,看護管理・教育の充実に尽くし,その功績は誠に顕著であります。 |
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(北海道大学病院) |
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○
圓
山
秀
一
氏
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この度は,平成21年秋の叙勲の栄に浴し,誠に身に余る光栄に存じます。
もとより浅学非才の私にとって,このような栄誉に恵まれることが出来ましたことは,偏に上司,諸先輩の方々の長年にわたるご指導や多くの同僚皆様方のご支援の賜物によるものと心から厚くお礼を申し上げます。
顧みますれば,昭和28年4月に北海道大学医学部附属病院に勤務する機会に恵まれて以来,文部事務官として経理部経理課,そして,小樽商科大学,釧路高専,旭川医科大学,弘前大学と廻り,北大歯学部事務部長を経て平成5年3月の退官までの40年余り,大過なく奉職できましたことを今も誇りに思っております。
特に印象深く心に残りましたのは,昭和40年代の大学紛争,学生間の闘争などの混乱の時期がありました。全職員がその対応に追われる中,私も毎日を無我夢中に過ごしておりましたことが鮮明に記憶に刻まれております。また,会計業務におきましては,多くの概算要求事務に携わりその実現に微力ながら貢献出来ました喜びは今でも忘れることが出来ません。
北大を定年退官後は,北海道大学クラーク記念財団に勤務し充実した日々を過ごす事が出来ましたことは,誠に感慨深いものがあります。これらのことは,私を支えて下さった上司,同僚の方々そして関係各位の皆様のご支援の賜物と家族共々感謝致しております。
最後になりましたが,今回の受章の労をお取り下さった皆様に心よりお礼申し上げますと共に,北海道大学の益々の発展を心よりお祈り申し上げます。
誠に有り難う御座いました。
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略 歴 等 |
生 年 月 日 |
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昭和7年9月3日 |
昭和28年 4 月 |
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北海道大学医学部附属病院作業員 |
昭和32年 7 月 |
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北海道大学医学部附属病院事務員 |
昭和35年 8 月 |
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文部事務官 |
昭和40年 4 月 |
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北海道大学医学部附属病院業務課入院患者掛長 |
昭和41年10月 |
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北海道大学経理部経理課収入掛長 |
昭和46年 4 月 |
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北海道大学経理部経理課給与掛長 |
昭和49年 4 月 |
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北海道大学施設部企画課工事司計掛長 |
昭和52年 4 月 |
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北海道大学工学部経理課経理掛長 |
昭和54年 6 月 |
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小樽商科大学会計課課長補佐 |
昭和57年 4 月 |
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釧路工業高等専門学校会計課長 |
昭和60年 4 月 |
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旭川医科大学業務部医事課長 |
昭和63年 4 月 |
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弘前大学医学部附属病院総務課長 |
昭和63年 4 月 |
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弘前大学医学部総務課長 |
平成 3 年 4 月 |
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北海道大学歯学部事務部長 |
平成 5 年 3 月 |
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北海道大学定年退職 |
平成 5 年 4 月 |
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財団法人北海道大学クラーク |
平成 7 年 3 月 |
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記念財団常任理事 |
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功 績 等 |
同人は,昭和7年9月3日北海道に生まれ,北海道札幌西高等学校定時制に入学し,同28年4月に北海道大学に作業員として採用されました。
昭和32年7月北海道大学事務員となり,同35年8月文部事務官に任官,同40年4月同医学部附属病院業務課入院患者掛長,同41年10月同経理部経理課収入掛長,同46年4月同課給与掛長,同49年4月同施設部企画課工事司計掛長,同52年4月同工学部経理課経理掛長を経て,同54年6月小樽商科大学会計課課長補佐に昇任されました。
その後,課長登用試験を受けて,昭和57年4月釧路工業高等専門学校会計課長に昇任し,同60年4月旭川医科大学業務部医事課長,同63年4月弘前大学医学部附属病院総務課長及び医学部総務課長を経て,平成3年4月に北海道大学歯学部事務部長に就任し,同5年3月定年により退職されました。
同人は,昭和28年に北海道大学に採用された以降,40年の永きにわたって大学及び高等専門学校の教育行政に携わり,弛まない努力や忍耐を持って様々な課題や問題に対して的確な処理を行いました。同人の真摯な姿勢は,多くの上司や同僚から全幅の信頼を寄せられるところとなり,また,その温厚な性格は部下によく慕われておりました。
釧路工業高等専門学校会計課長に昇任した際は,以後3年間にわたり,同校の設備の充実及び円滑な運営に尽力し,同校に多大な貢献をされました。
同校在職中の功績としては,昭和61年4月の情報工学科新設に向け,同57年1月に新設した第2視聴覚教室におけるVTR装置やOHPをはじめとする各種視聴覚機器を充実させ,同58年12月には,大学間コンピュータネットワークの構築及び学内における実験室・研究室のネットワーク化に大きく貢献することとなるデータステーションを設置,同59年には汎用電子素子開発装置を設置し,教員及び学生の研究環境の整備を進めるなど,情報工学科新設を機に,同校における教育・研究環境を大きく前進させました。
昭和60年4月から3年間の旭川医科大学業務部医事課長在職中は,再編成されたばかりの医事課内をよくまとめ,組織体制を充実させるために尽力されました。また当時は同大学附属病院が開院して10年前後にあたり,病院としての形がほぼ完成し軌道に乗せる時期の山積する業務に精力的に取り組み,多大な貢献をされました。
同人は医事課長としてその温厚誠実な人柄により部下はもとより教職員からの信頼も厚く,同学の現在の充実・発展に大きく貢献されました。
昭和63年4月から在職した弘前大学では,医学部附属病院総務課長を3年にわたって務められました。就任当時は医学部・医学部附属病院事務一元化実施1年目であり,事務分掌の再配分等様々な難題がありましたが,問題点の把握及び改善に鋭意努力し,適切な人員配置並びに事務分掌を確立されました。要所では事務部長及び事務部次長を的確に補佐し,同大学の医学教育・研究・診療の発展に大きく貢献した功績は誠に大であります。
平成3年4月に北海道大学歯学部事務部長に就任されました。同学部在任中には,平成3年7月の大学設置基準の大綱化によって,大学改革,自己点検評価等の動きが加速していく中で,歯学部及び附属病院における点検評価体制の確立に大きく貢献されました。特に,点検評価内規の制定及び平成4年4月の点検評価委員会の発足の際は,関係教員と連携し,後に発行される同学部等に関する最初の自己点検評価報告書の作成の礎を築くことに尽力されました。
さらに,平成2年11月に大韓民国の全北大学校歯科大学との学術交流協定が締結されたことに伴い,平成4年9月に同大学の創立10周年記念式典及び学術講演会に代表団を派遣するなど積極的な大学間交流に尽力され,以後の同大学からの教官受け入れ等の活発な交流に多大な貢献をされました。
以上のように,同人は永年にわたり大学及び高等専門学校の教育行政に精励し,かつ有能な後輩の指導育成に尽力するなど,その功績は多岐にわたり誠に顕著であると認められます。 |
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(歯学研究科・歯学部) |
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