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秋の叙勲に本学から6氏

 本学関係者の次の6氏が平成22年度秋の叙勲を受けることが,11月3日(水)に発表となりました。

 
勲   章 経   歴 氏   名
瑞 宝 中 綬 章 名誉教授(元 電子科学研究所長) 安 藤   毅
瑞 宝 中 綬 章 名誉教授(元 理学部教授) 鈴 木 治 夫
瑞 宝 中 綬 章 名誉教授(元 工学部教授) 藤 田 嘉 夫
瑞 宝 単 光 章 元 看護師長 川 口 洋 子
瑞 宝 双 光 章 元 施設部長 地 引   宏
瑞 宝 双 光 章 元 工学部事務部長 佐 藤 信 彰
 
 各氏の長年にわたる教育・研究等への功績と我が国の学術振興の発展に寄与された功績に対し,授与されたものです。
 各氏の受章にあたっての感想,功績等を紹介します。
 
(総務部広報課)
 
○安 藤   毅(あんどう つよし)氏
安 藤 毅(あんどう つよし) 氏 この度,秋の叙勲を拝受しましたことを大変光栄に思っております。これは永年北海道大学で研究に携わり,そして応用電気研究所およびそれが改組した電子科学研究所の所長を務めさせて頂いたことに対するものと考えております。お世話になりました諸先生,同僚諸氏,研究を支えて下さった方々,またこの叙勲を推薦し諸手続を進めて下さった方々のお力添えによるものと,心から御礼申し上げます。
 学生時代も含めますと,四十年以上も北大にお世話になりました。当時は教養課程の二年目の中頃に学部に移行することになっていましたが,丁度その頃湯川秀樹先生が日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞されたためか,ある種の物理ブームが起き,理系では物理志望者が多かったと思います。私は数学科に進みました。
 ある時,数学科の教官・学生が集まった会で,後に大学院で私の指導教授になって下さった中野秀五郎先生が「教授というのは,自分の考え出した理論を講義する人のことだ。他人の考え出した理論を受け売りしている人は教授とは言えない」といった主旨のことを述べられました。後日,私も教授に昇任させて頂いてからは,果たして自分がその基準に合格しているかと絶えず気に掛かりました。省みて忸怩たるものがあります。
 私は新制の一期生として卒業しました。将来は大学での研究職に就きたいと思っていた私にとっては,卒業したその年に制度としての大学院が発足し,更に五年間学生の身分が保障された事は幸運でした。
 私が停年退職した頃から,大学院重点化で大学院の様相は大きく変わり,学位をどんどん出すという方向に行っていると聞いています。学位の事に関して書いて置きたいことがあります。中野先生は以前から「博士の学位は研究者社会に入るパスポートである」という意見を持っておられました。新制の学位に関しては理学部教授会でもいろいろな意見があったようですが,先生が強く主張されたお蔭か,大学院博士課程を修了した年に,私に北大の新制理学博士の第一号が授与されました。学位に対する先生の考えは現在ではもう常識となっているようで,今昔の感があります。
 中野先生は,戦時中から終戦直後という困難な時期に,「線形束空間」という壮大な理論を打ち立てられました。私もそれを勉強し,その独創性に圧倒されたのですが,反面これは完結した理論で,私が新たに付け加える隙がないという絶望感に捉えられました。そのため私はこの分野から離れて行ったのですが,先生の構想の基本にあった,数学的対象の背後にある「順序構造」に着目して理論を組み立てるという思想は学んだつもりです。
 学位を取得する直前に,応用電気研究所数学部門の助手に採用して貰うことができました。北大で研究職に就くことができて大変幸せでした。
 応用電気研究所では,各部門が互いに干渉せずに自由に研究を進めるという方式でやっておりました。今からすれば大変牧歌的と言われるかもしれませんが,このやり方にも大きなメリットがあったと思います。私の研究は,電気の応用の研究というイメージからは遠いものでしたが,助手の久保文夫氏(現在富山大学教授)と一緒に組み立てた「作用素平均」の理論は,その出発が抵抗回路網の結合の発想に由来するもので,少しは研究所の目的に沿った事ができたのではないかと自らを慰めています。
 大学院重点化よりも前に,国立大学の附置研究所に対する点検整備が行われ,応用電気研究所は電子科学研究所に改組しました。電子科学研究所は現在,ナノ科学やバイオ科学の分野の研究で,北大のみならず日本の先端を進んでいると聞いています。益々のご発展を心からお祈りします。
 
略 歴 等
生 年 月 日   昭和 7 年 2 月 1 日
昭和33年 8 月   北海道大学応用電気研究所助手
昭和39年 9 月   北海道大学応用電気研究所助教授
昭和44年 2 月   北海道大学応用電気研究所教授
昭和63年 4 月 北海道大学応用電気研究所長
平成 4 年 4 月 北海道大学評議員
平成 4 年 4 月 北海道大学電子科学研究所長
平成 6 年 3 月 北海道大学評議員
平成 7 年 3 月   北海道大学停年退職
平成 7 年 4 月   北海道大学名誉教授
平成 7 年 4 月 北星学園大学経済学部教授
平成14年 3 月
 
功 績 等

 同人は,昭和7年2月1日北海道に生まれ,同28年3月北海道大学理学部を卒業,同33年8月北海道大学大学院理学研究科博士課程を単位取得退学し,直ちに北海道大学応用電気研究所助手に採用され,同年9月には北海道大学から新制の第1号の理学博士の学位を授与されました。昭和39年9月同研究所助教授,同44年2月同教授に昇任し応用数学部門を担当されるとともに,北海道大学大学院理学研究科を担当し,数学専攻に属する多くの学生の教育ならびに研究指導に努め,その中から優れた研究者を輩出されました。昭和63年4月に北海道大学応用電気研究所長,引き続き平成4年4月から改組により同6年3月まで同大学電子科学研究所長に就任され研究所の組織運営の見直し,充実・発展に尽力された後,同7年3月31日停年により退職し,同7年4月北海道大学名誉教授の称号が授与されました。
 北海道大学を退職された後は,北星学園大学の経済学部教授となり,数学等を担当して後進の育成に邁進されました。
 同人は北海道大学において関数解析学を専攻し,その研究分野の中でも作用素論および,作用素論の方法を駆使しての行列解析に数々の独創的な輝かしい成果を挙げられました。当該研究に特徴的なのは,関数空間およびそこでの作用素の順序構造への注目であり,ヒルベルト空間の作用素の構造の研究でも顕著な成果を挙げられました。
 また,昭和50年代以降は,ヒルベルト空間上の線形作用素の集団の順序構造,特に作用素不等式の研究を推進され,作用素単調関数の理論の深い解析を基に,正定値作用素対にたいする作用素平均の概念を導入し,その理論を展開されました。
 北海道大学においては,昭和63年4月より6年間,評議員として同大学運営の枢機に参画したほか,大学院整備構想検討委員会をはじめ種々の学内委員会委員として同大学の発展に尽力されました。
 そのほか,昭和60年度及び62年度の各1年間日本数学会評議員として同学会の発展に尽くされ,また平成2年2月より2年間文部省学術審議会専門委員,昭和63年9月より平成3年8月まで及び平成6年9月より平成9年8月まで日本学術会議数学研究連絡委員会委員を勤めるなど学術行政にも貢献されました。
 また同人は,その専門分野の種々の国際学術誌の編集に参加,国際的な研究集会の組織委員を歴任するなど活発な活動を行い,世界の数学の研究の発展に寄与されました。
 以上のように同人は35年以上にわたり,北海道大学等の研究教育・運営に尽くすと同時に,わが国及び世界の学術研究の発展に貢献し,その功績は誠に顕著であります。

 
(電子科学研究所)
 

 
○鈴 木 治 夫(すずき はるお)氏

鈴 木 治 夫(すずき はるお) 氏 このたび,秋の叙勲の栄を賜り大変光栄に思っております。これもひとえに,多くの方々の永年にわたるご指導,ご支援,ご協力の賜と,心から御礼申し上げます。そして北海道大学の素晴らしい研究環境の中で仕事ができました事,心から感謝いたしております。
 北大理学部数学科の戦後はじめての拡充改組で新しく出来た多様体論講座に,教授として北海道大学に赴任したのは,1967年,36歳のときでした。はじめての大仕事は,北大の研究教育の中に「トポロジー」を持ち込んで根づかせる事にありました。
 トポロジーは比較的新しい数学の分野で,当時,クラシックに対して若者達を熱狂させた「ロック」に例えられたりもしています。1960年代,数学のノーベル賞といわれるフイールズ賞の多くをトポロジーの専門家が受賞する等,急速に発展し,トポロジーの発想は,分子生物学や経済学等々にも応用されていきました。
 「ものすごく遠い過去とか,ものすごく遠い未来は実際には見る事が不可能だが,同様に,極々大きいものや極々小さいものも実際には見る事ができない。」が,そういった分野の研究にトポロジーの活躍の場があります。
 「一本のロープを使うだけで宇宙の形を丸いか丸くないか確認出来る筈だ。」と云う,かの有名な「ポアンカレ予想」もトポロジーにおける予想の一つ。(グレゴリー・ペレルマンによって証明される迄,実に100年もの間,多くの天才達が必至に取り組んだ大問題。)ポアンカレはトポロジーの創設者です。
 今,若い研究者達は,トポロジーの分野で,何とも奇妙な不思議な問題に取り組んだり,予期せぬ結果を得たりで,その魅力に引かれています。退職後16年経ちますが,私も現在,超弦理論(非常に小さいところに関係する重要な理論)のトポロジーに引かれ,研究生活を続けている次第です。
 振り返れば,私の研究生活のスタート時において,20世紀を代表する二人の大数学者であるチャーン教授とトム教授の指導を受けられた事は非常に大きいものがありました。『多様体の父』とも云われるチャーン教授とのはじめての出会いは,私がシカゴ大学に幾何学を学びに留学した1955年,24歳の時でした。帰国後も10回程彼に会う機会があり,その都度励まされました。チャーン教授が立ち上げたMSRI(数理科学研究所)の1988−1989のプロジェクトに参加する事も出来ました。チャーン教授は1956年,私にトム教授(フイールズ賞を受賞したトポロジーの第一人者)を紹介してくれ,彼からの助言は大変役立ちました。彼の子供との交わり,ミシガン湖でいっしょに泳いだ事等々思い出されます。後にトム教授を北海道大学に招いた時のこと,洞爺湖に案内した時,彼は火山を見て『これは,カタストロフイーだ。』としみじみ語っていたのが印象的です。(トム教授は,カタストロフイー理論の創始者としても有名。)チャーン教授とトム教授,二人の偉大な師との出会いから,トポロジーと云う新しい分野にぐいぐいひかれていきました。
 その後,マイケル・アテイヤー卿・教授(フイールズ賞受賞者)をはじめ数多くの師,先輩仲間,学生達に恵まれ,今日迄好きな研究を続けてこられた事を心から感謝しております。私の退職後間もなく,北海道大学は法人化され,皆様方には色々ご苦労を重ねておられるとおもいます。一層の北海道大学の発展を陰ながらお祈り致しております。

 
略 歴 等
生 年 月 日 昭和 6 年 1 月21日
昭和28年 4 月 東北大学理学部助手
昭和33年 4 月 東北大学富沢分校講師
昭和37年 4 月 九州大学理学部助教授
昭和42年 4 月 北海道大学理学部教授
平成 6 年 3 月 北海道大学停年退職
平成 6 年 4 月 北海道大学名誉教授
 
功 績 等
 鈴木治夫氏は,昭和6年1月21日に山形県に生まれ,同28年3月に東北大学理学部を卒業し,同28年4月に東北大学理学部助手,同33年4月に同富沢分校講師,同37年4月に九州大学理学部助教授を経て,同42年4月北海道大学理学部教授に昇任し,同学部数学科多様体論講座を担当,平成6年3月31日停年により退職され,平成6年4月に北海道大学名誉教授になられ今日に至っている。
 昭和32年にシカゴ大学において,著名な幾何学者 S.S.チャーン氏の指導の下でPh.D を取得し,さらに昭和36年7月に東北大学より理学博士の学位を授与された。シカゴ大学留学中,当時の微分位相幾何学の推進者であったトムやスメールと身近に交流し,日本における微分位相幾何学の方向性を見定めた。帰国後は,自身の研究推進のみならず,とりわけ北海道大学において後進の指導に努めた。事実,同人のもとから,力学系理論,多様体の群作用理論,結び目理論,特異点理論,葉層理論などの分野で現在活躍している多くの研究者が育っている。
 同人は,微分位相幾何学において,多様体の高階の非特異はめ込みの問題や葉層の不変量に対する独創的な解釈などの輝かしい成果をあげた。主要な業績は次の7つに分けられる。
(1)ホモトピー理論: H−空間のホモトピー類に対してヤコビの恒等式を満たす積を定義し,ホワイトヘッド積がヤコビの恒等式を満たすことを証明した。
(2)多様体のコホモロジー類を部分多様体で実現する問題: 閉多様体上のベクトル束に対し,そのスティーフェル・ホイットニー類のシューベルト部分多様体による実現可能性について研究した。
(3)多様体の高階の非特異はめ込みの問題:多様体の高階の接束をKO理論における対称べき作用素を使って表現し,ユークリッド空間への高階の非特異はめ込みの存在・非存在について研究した。
(4)概接触多様体:2つの多様体の連結和や四元数射影空間の積と連結和について概接触構造の存在・非存在を論じた。
(5)円周群が作用する多様体: ある種の多様体上の2つの円周束が同型であるための条件を,全空間に関するスピン多様体の同境理論を用いて論じた。
(6)葉層の2次特性類:種々の葉層の2次特性類について研究した。例えば,ある2次特性類について,葉層のホロノミー擬群に対するモデュラー関数や葉層のフォン・ノイマン代数等に関連した研究を行った。葉ごとに微分可能な特異鎖の理論を展開し,ハイチ・ハーダーのヴェイユ作用素に関する新しい解釈を与えた。
(7)シンプレクテイック構造等:シンプレクテイック束の高次チャーン・サイモン・マスロフ類の研究を進めた。また,ポアッソン構造に付随してリー亜群の中心拡大の研究を推進した。
 同人は,学内にあっては,昭和50年以来19年間大学院問題検討委員として大学の将来のために貢献し,学外にあっては,日本数学会評議員として同学会の発展に尽くした。
 以上のように,同人は50年以上にわたり数学,特に多様体論に多くの研究業績をあげ,わが国及び世界の学術進歩に多大の貢献をしたと同時に,27年にわたり北海道大学の教育・運営の発展に尽くした。その功績はまことに顕著である。
 
(理学院・理学研究院・理学部)
 

 
藤 田 嘉 夫(ふじた よしお) 

藤 田 嘉 夫(ふじた よしお) 氏 このたび,はからずも叙勲の栄に浴し,身に余る光栄と思っております。ご高配をいただいた関係の皆さまがたに,心から御礼申し上げます。
 私と北海道大学との関わりは,旧制中学4年の時に,全道中学校陸上競技大会に参加したのが始まりです。直線200mのトラックがある旧北大陸上競技場で,400mリレーに出たのですが,1次予選で敗退してしまいました。
 私は,昭和24年,新制大学1期生として入学以来,平成4年に停年退職するまでの43年間,北海道大学にお世話になりました。その間,いろいろなことがありました。入学当時は,新制大学教養科としての施設は全く無く,旧農専や医専のほか,各学部の教室を駆け廻って講義を受けました。学部に移行してからは,その点は解消されましたが,旧制の学生と比べて新生は相当に劣ると,先生にお叱りを受ける毎日となりました。昭和28年には,国立大学の旧制最後の学生と新制1期生が同時に卒業することになり,卒業生の数が2倍以上になりました。まだ景気も良くない時で,就職状況は最悪でした。旧制の残りと新制が分けあうといった状況でした。
 この様な状況のなか,私は新制大学院への道を選びました。修士課程を経て博士課程へと進み,縁あって,昭和32年に北大に採用されることになりました。
 恩師,横道英雄先生には,大学院に入学以来一貫して指導を受けることになります。
 まず,大学院後半には,コンクリート桁の設計法について,鉄筋コンクリートとプレストレストコンクリートに共通した評価方法について勉強しました。次いで,当時盛んに使用されるようになったプレストレスコンクリート橋のPCグラウトや異形鉄筋の使用についてのマニュアルの作成などに尽力しました。
 横道先生の退職後も,先生の意志を受継いで,北海道におけるコンクリート工学発展のため,海岸コンクリートの耐久性向上や新しい形式のコンクリート構造物などの普及に努めました。
 私のこれまでの人生で一番に感じていることは,終戦後の悲惨な思い出もありますが,わが国の高度成長の波に乗って,右肩上がりの経済状態が続くなかで,自分の好きなコンクリート工学の教育と研究の道を歩んで来られたことです。本当に幸運でした。
 今回の栄誉は,これまで長年にわたって私を支えて下さった方々,皆さんに賜ったもので,私個人のものではないと思っています。ご支援いただいた皆さま方に,心から感謝しております。
 これから先は,平均寿命も越えた年令になりましたので,健康に留意し,なるべく人様にご面倒をお掛けしないように,静かに行きたいと願っています。

 
略 歴 等
生 年 月 日 昭和 4 年 2 月10日
昭和32年 4 月 北海道大学工学部講師
昭和32年10月 北海道大学工学部助教授
昭和33年 3 月
昭和34年 4 月 北海道大学工学部助教授
昭和41年 4 月 北海道大学工学部教授
平成 4 年 3 月 北海道大学停年退職
平成 4 年 4 月 北海道大学名誉教授
 
功 績 等
 北海道大学名誉教授 藤田嘉夫 氏は,昭和4年2月10日北海道に生まれ,同28年3月北海道大学工学部土木工学科を卒業の後,同30年3月同大学院工学研究科土木工学専攻修士課程を修了,同32年3月同専攻博士課程を退学し,同年4月には,同大学工学部土木工学科講師に採用,同年10月助教授に昇任,同33年3月退職されました。昭和34年4月同大工学部土木工学科助教授に採用され,同37年3月「単純曲げを受ける鉄筋コンクリート桁およびプレストレストコンクリート桁の極限強さ設計法に関する研究」により同大学より工学博士の学位を授与されました。昭和41年4月同大工学部土木工学科教授に昇任,7年間交通構造工学講座を担任されました。同48年4月からは,19年間にわたりコンクリート工学講座を担任,平成4年3月31日停年により退職され,同年4月北海道大学名誉教授となられました。
 この間,同人は,常に厳しい姿勢で教育,研究にあたり,多くの有能な人材を世に送り出されました。研究活動の面では,コンクリート構造学,コンクリート工学,コンクリート橋などの分野で多くの研究業績をあげるとともに,研究成果の実社会への反映に尽力され,わが国ならびに北海道における社会基盤の整備に重要な役割を担っているコンクリート技術の進展に多大な貢献をしました。
 コンクリート構造学の分野では,鉄筋コンクリート桁およびプレストレストコンクリート桁の曲げに対する挙動,特にその耐力と耐久性に重要なひび割れ評価に基づいた極限強さ設計法に関する一連の研究を行い,わが国において先駆的業績を収め,その研究成果はPRC設計法として世界的に高い評価を受けている新しい設計法に発展して実橋に適用され,コンクリート技術の発展に大きく貢献しました。
 これらの先駆的な研究業績により,昭和39年には,土木学会吉田賞を受賞しました。
 昭和30年代半ばには,当時注目されるようになった異型鉄筋に着目し,鉄筋コンクリートとしてのひび割れ特性と疲労性状について詳細な開発研究を進め,北海道独自の設計,施工指針を作成し,また北海道におけるPCスノーシェッドおよびPCスノーシェルター標準設計図面集を編集するなど,地域社会に密着した新しいコンクリート技術の普及にご尽力されました。
 コンクリート工学の分野では,北海道における海洋コンクリートの凍害調査,コンクリート舗装調査,北海道全域におけるコンクリート耐久性調査などを行うとともに,フライアッシュ,高炉スラグなどの産業副産物のコンクリート材料としての有効利用,FRP筋の利用など,コンクリート構造物の耐久性向上のための技術指導にご尽力されました。
 コンクリート橋の分野では,パーシャルPC桁に関する力学的挙動の研究成果を北海道の上姫川橋,上鳥崎橋,紋別大橋などに適用し,その技術指導にご尽力されました。また,アメニティー空間を積極的に取り入れたPC斜張橋,札幌市のミュンヘン大橋の技術検討調査委員会委員長として,またわが国で最大規模の一面吊PC斜張橋,北海道開発局十勝大橋設計・施工検討委員会委員長として,技術指導に尽くされました。
 これら一連の寒冷地コンクリートの学術研究および技術指導の功績に対して,平成2年北海道新聞文化賞(科学技術)が授与されました。
 一方,学会活動においては,土木学会評議員,同表彰委員会委員,同吉田賞選考委員会委員,同コンクリート委員会常任委員会委員,同コンクリート教育研究小委員会委員長,土木学会北海道支部商議員,同幹事長,同支部長,日本コンクリート工学協会理事,同協会賞選考委員会委員,北海道土木技術会コンクリート研究委員会委員長などの要職につかれました。
 学内においては,北海道大学体育指導センター運営委員会委員,同大学院委員会委員,北海道大学工学部広報委員会副委員長,同企画委員会委員長などを務められ,北海道大学ならびに工学部の発展に寄与されました。
 以上のように同人は,学生の教育,学術研究上の諸活動,大学の運営,さらに学会,地域社会における貢献は極めて大なるものであり,その功績はまことに顕著であります。
 
(工学院・工学研究院・工学部)
 

 
川 口 洋 子(かわぐち ようこ)  氏

川 口 洋 子(かわぐち ようこ) 氏 この度,秋の叙勲の授与という栄誉を与えられ,これもひとえに北海道大学病院に長年勤務させていただき,諸先輩並びに同僚の皆様方のご指導ご支援の賜物と心より感謝申し上げます。
 私は1969年に就職以来39年間北海道大学病院にお世話になりました。学生時代を含めますと42年間北大キャンパスの四季と学べる環境のなかで過ごすことができたことを幸せに思っています。
 振り返ってみますと,職場は第二内科,皮膚科・形成外科,第二外科,泌尿器科,眼科,再び第二内科の各病棟を経験し,最後は外来で勤務を終えました。新人時代には,厳しい中にも心やさしく優れた先輩と出会い,職業人としての基礎と探求心を持ち続けることの大切さを教えて頂きました。看護部では,長期の研修や海外視察などの機会を与えていただいたことで,時代の変化に合わせたチャレンジを重ねることができました。なかでも1994年,国立大学では先駆けとなった糖尿病教育入院システムを医師,看護師,薬剤師,理学療法士,管理栄養士と共に立ち上げたことです。互いの専門性を活かしたチーム機能を発揮し,患者さんがその人らしい生活の中でセルフケアの力をつけていく支援をしました。北大キャンパス内のファカルティハウス「エンレイソウ」で初めて「糖尿病患者会」の新年会をしました。栄養士がレストラン側と調整し,バイキング形式で美味しい食事と語らいを楽しみました。その体験は次の年からは患者さんがホテル側とランチメニューの内容を調整するようになりました。
 私の新人時の苦い経験としまして,患者さんから突然「私は癌なんでしょ」と問われ,何も言葉を返せなかったことがあります。再びその時の内科に看護師長として戻ってから,癌の告知について医療者として問われる状況が生じました。15年ほど前のことでした。教授にご相談し医局の先生方と話し合うことになりました。問題の深さゆえ何度も話し合いを重ねました。その過程から,お互いの考えも理解しあえるようになり,ローテーション中の研修医の先生からも新鮮な意見をもらいました。更に教授のお計らいにより,法学部の教官の先生・学生も参加して,「告知と患者の権利」について一緒にディスカッションする機会を設けて頂きました。専門が違う方も入ってのディスカッションは「患者の知る権利」について深く考えるきっかけと話し合うことの大切さを学びました。その後,社会的にもインフォームド・コンセントと自己決定支援について議論が進み,看護師として患者さんへ自己決定を支える支援が実現してきていると嬉しく思っております。
 これらの経験と多くの患者さんとのかかわりを通して学ばさせて頂き,それが私の看護師としての涵養となりました。
 北大の自由でチャレンジ的環境と,巡り合った多くの方に育てて頂いたことをあらためて思うところでございます。
 現在,医療法人 北海道内科リウマチ科病院に所属し,あらためて北海道大学病院の恩恵を実感しているところでございます。
 最後になりましたが,北海道大学,北海道大学病院並びに看護部の益々のご発展をご祈念申し上げます。

 
略 歴 等
生 年 月 日 昭和22年 4 月24日
昭和44年 4 月 北海道大学医学部附属病院
昭和61年 4 月 北海道大学医学部附属病院看護部看護婦長
平成15年10月 北海道大学医学部・歯学部附属病院看護部看護師長
平成20年 3 月 北海道大学定年退職
平成21年 8 月 医療法人清仁会西村病院看護部長
(平成22年1月1日 医療法人清仁会北海道内科リウマチ科病院に改称)
 
功 績 等
 川口洋子氏は,昭和22年4月24日に砂川市に生まれ,同44年3月に北海道大学医学部附属看護学校を卒業後,北海道大学医学部附属病院に勤務しました。昭和50年7月副看護婦長,同61年看護婦長に昇任,平成20年3月31日定年退職されました。その後,嘱望され平成21年8月より医療法人清仁会北海道内科リウマチ科病院の看護部長として勤務,現在に至っています。
 同人は,当初勤務した第二内科病棟では,退院後いち早く社会生活へ適応出来るように,慢性疾患患者の日常生活に視点を置いた,患者・家族指導にリーダーシップを発揮しました。
 昭和50年7月に皮膚科形成外科病棟の副看護婦長に昇任,看護部疾患別看護基準作成委員を通して看護業務の標準化を進め,業務改善を実践,さらに看護職の人材育成に努め看護実践力の高いチーム作りを推進しました。
 昭和61年4月,眼科病棟の看護婦長に昇任し,患者のセルフケア能力に合わせた点眼補助器具点眼補具の考案や,網膜剥離に対するガスタンポナーゼ治療後約一週間腹臥位による苦痛の緩和をはかるために,安全性・保持性を検証した頭部保持装具を考案,頭部保持装具を着用することで歩行を可能としました。
 その後,第二内科病棟,医科外来で看護師長を歴任し,この間多数の看護研究を指導し,本院における糖尿病教育を発展させ,患者のセルフケア能力向上に大きく貢献しました。
 外来における看護記録電子化を推進し,平成14年看護情報研究会において「患者看護支援システムの外来機能の開発について」等を発表しました。外来における患者看護支援システムの開発は,個別患者支援はもとより,外来看護の標準化,医療安全のための業務基準等が整備され,看護業務の改善と看護の質向上に貢献しました。
 同人は,社会的活動も精力的に行い,北海道看護協会においては,石狩北地区支部副支部長(平成元年〜同2年),教育委員長(平成12年〜同16年)を歴任しました。
 糖尿病看護に関しては,日本糖尿病教育・看護学会評議員(平成9年〜現在に至る),日本糖尿病療養指導士認定機構理事(平成14年〜同20年)を歴任しました。さらに,北海道糖尿病看護研究会を設立し,北海道の糖尿病看護をリードし,発展させました。
 平成21年には,第14回日本糖尿病教育・看護学会学術集会会長を担当すると共に,地域の糖尿病看護の質の向上と発展に大きく貢献したことが評価され,日本糖尿病教育・看護学会功労賞を受賞(平成21年9月19日)しました。
 以上のように,同人は,本院ならびに北海道における看護の質向上,患者サービスの向上,人材育成に尽力したものであり,その功績は誠に顕著であります。
 
(北海道大学病院)
 

 
地 引   宏(じびき ひろし)

地 引 宏(じびき ひろし) 氏 このたび,平成22年秋の叙勲において端光双光章の栄に浴しましたことは,誠に光栄な事と心から感謝を申し上げる次第です。これもひとえに永年に亘りご指導ご鞭撻をくださいました諸先輩の方々ならびにご協力等を戴きました同僚各位のお陰と深く感謝致しております。
 私の生い立ちを振りかえってみれば,何の変哲もない77年間だったような気がしてならない。大東亜戦争という波にもまれ,自分から希望したとは言え,今では米どころで有名な新潟県塩沢町という田舎に集団疎開をし,暫くの間は田園地帯の生活を満喫できたが雪が降り始めるとこの年は稀にみる豪雪で,道路は屋根から下ろした雪がうず高く積もって電線を跨いで歩いた記憶がある。この雪が消える頃から食料事情も悪くなり,戦後11月になって痩せ細った身体で我が家に戻ることが出来た。戻ったときの東京は焼け野原,このときの印象が強かったために建築を志した事の一因になったのかも知れない。幸いにして昭和21年4月旧制の工業学校建築科に入学したのですが,途中教育改革で六三制となり,中学の3年間と高校の1年生の4年間は下級生の居ない学校生活を送ったことも忘れがたい。
 昭和27年3月に無事工業高校の建築科を卒業することが出来たのですが,この時期は就職難で高校の先生も就職活動に熱がなかったように覚えている。このため,縁あって腰掛けのつもりで文部省建築課に席を置かせてもらい,職場の下働きの形で仕事をしながら大学に行き,勉学と仕事を両立させながら卒業まで頑張りました。この間に雇になった事もあって国家公務員として人生をスタートしました。
 文部省の工営課(建築課が名称変更)は,国立大学に施設担当部課がない大学や担当部課があっても量的に出来ない大学の施設整備を直轄で担当し,設計から現場の管理までを実施していた。私が携わった大学は東京教育大学の雑司ヶ谷分校,付属中学校,千葉大学医学部,東京教育大学農学部,山梨大学学芸学部の校舎の建設を担当しました。この当時の建築工事を顧みると当然ながら,建築資材や工法,職人などの技術の違いがあって完成した建物は現在と比べると,月とスッポン程の差が感じられます。
 昭和38年4月から学校建築の指導助言の仕事に変わり,主に公立学校の建設計画などの手助けを行いました。特にベビーブームの影響で地方公共団体は学校建設に躍起となっていた時でした。
 昭和47年5月,沖縄の本土復帰で琉球政府立の琉球大学が国立移転したため,琉大施設部企画課長として赴任しました。琉大は首里から西原に移転することが移管の条件になっており,敷地の設定や利用計画などを進めました。昭和49年9月に岐阜大学に配置換となり,附属病院の整備と共にタコ足キャンパス解消のため黒野という遊水地を嵩上げして統合する仕事を行いました。昭和53年4月に東京商船大学に移り,共同溝,重要文化財の明治丸の整備,船留りポンド護岸など土木工事が主の業務を行いました。その後国立科学博物館では,展示業務を担当することになり,昭和天皇の叡覧になった「中国の恐竜展」(ジュラ紀後期のマメンチザウルス)をはじめとした特別展や子供達が「触れる」「体験する」ことを目的にした「たんけん館」の整備を行いました。東京学芸大学で1年4か月を過ごした後に北海道大学に配置換となり,赴任には青函トンネル開通直後のこともあって鉄道で札幌入りをした。
 着任直後の第一印象は,厚生年金会館での入学式で「都ぞ弥生」の演奏の中,皆で合唱したことは,さすが伝統ある大学は違う,特に歌詞は知らなくてもメロディを知っている者にとっては,これから北大の一員として職務に精励恪勤しようと肝に銘じた次第でした。
 北海道大学に在籍していた3か年は,広大な風土と人情の機微に触れることが出来たことと,仕事と趣味とに多忙を極めることが出来たと自負しています。
 今年,文化勲章とノーベル化学賞を受賞された鈴木章名誉教授と根岸英一バデュー大学特別教授のお2人が共に北海道大学に関与していたと聞いた時は歓喜に堪えられませんでした。この事を契機にして北海道大学が益々発展,飛躍することを祈ります。

 
略 歴 等
生 年 月 日 昭和8年6月28日
昭和27年 4 月 文部省管理局教育施設部建築課技術補佐員
昭和29年 4 月 文部省管理局教育施設部工営課技術補助員
昭和33年 1 月 文部省管理局教育施設部工営課技術員
昭和34年 7 月 文部省管理局教育施設部工営課文部技官
昭和35年 5 月 東京教育大学施設課文部技官
昭和37年 4 月 文部省管理局教育施設部工営課文部技官
昭和37年 4 月 東京教育大学施設課文部技官併任
昭和38年 4 月 文部省管理局教育施設部指導課文部技官
昭和43年 4 月 文部省管理局教育施設部指導課指導第一係長
昭和47年 5 月 琉球大学施設部企画課長
昭和48年 6 月 琉球大学施設部施設課長
昭和49年 9 月 岐阜大学施設部施設課長
昭和53年 4 月 東京商船大学施設課長
昭和56年 4 月 国立博物館事業部技術課長
昭和59年 4 月 国立博物館教育普及部技術課長
昭和61年12月 東京学芸大学施設部長
昭和63年 4 月 北海道大学施設部長
平成 3 年 3 月 辞職
 
功 績 等
 地引 宏氏は,昭和8年6月28日東京府に生まれ,同27年3月都立小石川工業高等学校建築科を卒業し,同年4月に文部省管理局教育施設部建築課に技術補佐員として採用され,勤務の傍ら明治大学工学部建築学科に通い,同33年3月に同大学を卒業しました。
 その後,昭和29年4月同工営課技術補助員,同33年1月技術員,同34年7月文部技官に任官され,同35年5月に東京教育大学施設課に転任し,同37年4月に管理局教育施設部工営課に転任及び東京教育大学施設課に併任し,同38年4月に管理局教育施設部指導課に配置換,同43年4月同指導第一係長,同47年5月琉球大学施設部企画課長に昇任し,同48年6月同施設課長,同49年9月岐阜大学施設部施設課長,同53年4月東京商船大学施設課長,同56年4月国立科学博物館事業部技術課長,同59年4月同教育普及部技術課長,同61年12月東京学芸大学施設部長に昇任し,同63年4月に北海道大学施設部長に就任し,平成3年3月に辞職しました。
 この間同人は,昭和27年から39年の永きにわたり文部省及び国立大学等の職員として勤務し,特に同47年5月から退職までの18年11月の間は,課長あるいは施設部長として卓越した行動力と実行力,そして広範な知識と,なにより北は北海道大学から南は琉球大学といった広範囲の地域におよぶ職務経験をもって部下の指導と育成に努めるとともに,時の事務局長を側面から支援しながら大学教育等の基盤を支える施設整備に心血を注ぎ,歴任した各大学等の発展並びに教育・研究施設の充実に貢献しました。
 琉球大学施設部企画課長在任中は,昭和47年5月15日の就任当日が沖縄の本土復帰の日であり,同48年6月16日に同施設課長に就任しました。当時の沖縄県内の状況は混沌としており,同人は,特に施設における建築の分野において指導的役割を担い,優れた業績を残すとともに,人材の育成,理工学部校舎等新築工事・非常勤講師宿泊施設新営工事等の施設整備に多大な貢献をなしました。
 岐阜大学施設部施設課長在任中は,大学の統合移転に深く関わり,統合用地のブロック別利用計画立案・実施を精力的に行い,教育学部(附属学校),医学部,附属病院,学生部,農学部など相当多数の新営工事等事業を難なく手がけ,完成に導いた功績は多大であり,大学の発展に大いに貢献しました。
 東京商船大学施設課長在任中は,航海学科実習棟工事,運行性能実験水槽棟新営工事,係船池護岸改修工事,附属図書館冷房設備工事及び重要文化財「明治丸」保存・修理など多くの施設整備事業を手がけ,大学の発展に多いに寄与しました。
 国立科学博物館事業部技術課長及び同教育普及部技術課長在任中は,同博物館の展示及び標本の計画,維持管理等に従事し,特に,昭和60年5月にオープンした「見つけよう・考えよう・ためしてみよう たんけん館」の展示政策等に尽力し,青少年への理科教育振興のための展示の充実に大いに貢献しました。
 東京学芸大学施設部長在任中は,昭和30年代に建設した附属の校舎の改修工事が次々と始まっていた時期であり,各校舎等の実施設計及び工程管理に携わり,教員との綿密な打ち合わせを重ね,安全管理に配慮した適切な工程管理により,粛々と工期内での完成に導きました。
 昭和63年に北海道大学施設部長に就任し,医学部附属病院の再開発事業において,外来診療棟に続く第二期整備事業として四万平方米を超す病棟の建て替えに着手しました。当時は,バブル最盛期で,建築工事の入札は鉄骨の高騰で不調となり,応札者との話し合いを重ね契約締結に約1ケ月を要したが,難しい文部省との折衝や調整を難なくこなしました。
 以上のように同人は,永年にわたって大学等の施設整備の進展に精励するとともに,率先して部下の指導育成に尽力し,その功績はまことに顕著であると認められます。
 
(施設部施設企画課)
 

 
佐 藤 信 彰(さとう のぶあき)

佐 藤 信 彰(さとう のぶあき) 氏 平成22年秋の叙勲の栄に浴し光栄に存じます。ひとえに北大事務局はじめ各部局の皆様方のご指導ご協力の賜と衷心より厚くお礼申し上げます。
 昭和27年8月北大医学部附属病院に採用され同35年4月理学部に配置換,当時の理学部長の原田準平先生から同37年4月に新設される旭川工業高等専門学校への転任の要請があり転任。当初創設準備室では教員の任用が中心,特に給与決定は国立学校教員の均衡を保つため給与計算が難しく試行錯誤の毎日でした。このほか事務系職員採用面接や入学準備・備品整備など連日徹夜を含め遅くまで仕事にかかり何事も少ない事務系職員全員一致団結してその実を挙げました。翌年赴任の庶務課長は公文書の取扱,法規等作成の専門家で文書の取扱等を教え導かれ実践に役立ったこと等々創設事務に携わり多くの貴重な経験と知識を会得したことが教訓となったのも理学部庶務係の配置換が転機となったことが印象強く心に残っています。
 昭和51年11月1日旭川医科大学附属病院開設に伴い同大学へ転任。320床を担当する看護師や医療従事者等の採用面接試験に従事し附属病院の診療体制に寄与でき幸せに思っています。
 薬学部では,第5次定員削減最終年次の1名をどの職種に充当しようかと対策に苦慮しましたが,事務系職員から削減せざるを得ない状況となり職員組合本部や該当者と度重なる話合いで給与が多少アップする技能職員への配置換で了承を得,定員削減問題を解決したこと。この後,昭和59年9月に消防署の防火査察があり,研究教育用のアルコール,エチレン等の可燃性薬品を普通倉庫に保管していたことが,危険物取締法違反で即刻撤去命令が出され,他の危険物貯蔵所に保管を依頼し翌日移管。翌年2月に薬学部東側に屋内危険物貯蔵所を新設。同月防火管理者講習を受けましたが悔しい思いが心に残っています。
 医学部では,同学部附属病院新設に伴う学部から病院への通路の改築等で慌しい日の連続でした。特に,毎年8月に実施のイチャルパへの道内各地からの参列者の旅費支給の要求があり,基金からの支出解決に苦慮したこと,また,他学部で経験できない業務として時間外に白菊会員から献体申出の時に対応のためのポケットベルを持参し,連絡があり次第献体引き取りに赴いたことがありました。この様な特殊業務は医学部でなければ経験できないことで,教官の研究,学生実習等に貢献寄与できたと誇りに思っています。
 農学部では,学部・大学院改革の黎明期で他大学農学部に先駆けて学部改革に取り組んだと記憶しています。頻繁に学部改革検討の協議が行われ,7学科42講座を8学科47講座に再編し,改組に際し教育実習施設の農場・演習林ならびに酪農科学研究施設を廃止し,所属教官定員を振替する概算要求ができました。特記事項として,静内牧場長近藤誠司教授の適切な指導の下で技術職員一同が心ぐみで飼育した競走馬が競り市で壱千万円の高値で競り売られ多額な歳入を上げたことが強く心に刻まれています。
 工学部では新制大学以来の学部・大学院の組織を大学院重点化とし,学科組織を専任大学院併任形式で大学院に重点を置くよう組織換えし,丹保学部長を中心に適切な指導の下で材料・化学系専攻群,物質工学専攻,分子科学専攻と学部3学科を材料工学,応用化学の2学科に再編成し,石炭化学研究施設の廃止,金属科学・電磁流体実験研究施設を統廃合しエネルギー先端工学研究センターを新設する等画期的な概算要求に非力乍ら協力でき幸運でした。
 最後に,叙勲関係者には大変お世話になりました。厚くお礼申し上げますと共に北海道大学の益々のご発展を祈念いたします。

 
略 歴 等
生 年 月 日 昭和8年11月27日
昭和32年 7 月 北海道大学事務員
昭和34年 8 月 文部事務官
昭和37年 4 月 旭川工業高等専門学校庶務係長
昭和38年 4 月 旭川工業高等専門学校人事係長
昭和40年 4 月 旭川工業高等専門学校庶務課人事係長
昭和41年 4 月 北海道大学低温科学研究所庶務掛長
昭和44年 9 月 北海道大学理学部庶務掛長
昭和48年 4 月 北海道大学工学部人事掛長
昭和51年10月 旭川医科大学総務部庶務課課長補佐
昭和54年 4 月 北海道大学教養部事務長補佐
昭和55年 4 月 北海道大学庶務部人事課課長補佐
昭和58年 4 月 北海道大学薬学部事務長
昭和62年 4 月 北海道大学医学部事務長
平成 2 年 4 月 北海道大学農学部事務長
平成 4 年 4 月 北海道大学工学部事務部長
平成 6 年 3 月 北海道大学定年退職
 
功 績 等
 同人は,昭和8年11月27日北海道に生まれ,同27年3月札幌伏見高等学校を卒業後,同27年7月北海道大学医学部附属病院に採用され,同32年3月には,札幌短期大学商業科を卒業されました。その後,同35年5月理学部に配置換の後,同37年4月旭川工業高等専門学校庶務係長に昇任,同41年4月北海道大学低温科学研究所庶務掛長に転任,同51年10月旭川医科大学総務部庶務課課長補佐に昇任,同54年4月北海道大学教養部事務長補佐,同55年4月庶務部人事課課長補佐,同58年4月薬学部事務長,同62年4月医学部事務長,平成2年4月農学部事務長を歴任し,同4年4月工学部事務部長に昇任し,平成6年3月定年により退職されました。
 この間,同人は北海道大学,旭川医科大学及び旭川工業高等専門学校におよそ42年の永きにわたり勤務し,特に昭和58年4月から退職までの11年の間,部局事務責任者である事務長または事務部長として卓越した行動力と実行力,そして広範な知識と経験をもって部下の指導と育成に努めるとともに,時の部局長を側面から支援しながら管理運営にあたり,歴任した各部局の発展並びに整備充実に努められました。
 薬学部では,薬品庫の新築,薬学部附属植物園の温室を改築増設するなど,教育研究発展のため同学部教育研究施設の充実に寄与され,また,昭和59年11月に薬学部創立30周年記念式典を開催した際には,総括責任者として中心となって開催に携わるなど,薬学部運営にご尽力されました。
 医学部では,教室系職員のグルーピング化,組織及び学部・事務局との交流と改善の策定等の検討を行いました。また,アイヌ人骨慰霊祭に伴う基金の寄付促進や各地から慰霊祭に参加する者の旅費支給,ウタリ協会との対応,献体慰霊祭の開催,献体引き取りにご尽力されました。
 農学部では,農学部学科改組に向けて,組織整備,大学院重点化構想との関連調整,概算要求案作成などに尽力し,平成4年4月の学科改組実現に多大な貢献をされ,また,共同実験等新営が認められたことに伴う設備計画,概算要求などにご尽力し,教育研究の環境整備にも努めました。
 工学部では,大規模学部の事務部長として,学部長を支援するとともに,教育研究の発展に側面から寄与し,なかでも,学部一貫教育,大学院重点化等の改革にあたっては,人材ならびに物的資源を効率的に集中し,研究・教育が一層活性化される体制の構築にご尽力されました。また,石炭研究施設の廃止,金属化学研究施設と電磁流体実験施設を統廃合したエネルギー先端工学研究センター設置の概算要求と多岐にわたる事務量の増加に関わらず,事務部の責任者として適切な指示,指導あるいは関係教官への事務的な面での助言等を行い,工学部の発展に多いに貢献されました。
 同人は,謹厳実直であり,教官及び事務職員の信頼は絶大で,その協力体制のもとに数々の施設,組織整備の実現に努めました。
 以上のように同人は,永年にわたり大学行政の進展に精励したことに併せて,部下の指導育成にも尽力し,その功績はまことに顕著であります。
 
(工学院・工学研究院・工学部)
 

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