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春の叙勲に本学から5氏

 このたび,本学関係者の次の5氏が,平成25年春の叙勲を受けることについて,4月29日(月)に発表となりました。
勲   章 経    歴 氏   名
瑞 宝 中 綬 章  名誉教授(元 スラブ研究センター教授) 望 月 喜 市
瑞 宝 中 綬 章  名誉教授(元 地球環境科学研究科教授) 喜 多 英 明
瑞 宝 中 綬 章  名誉教授(元 電子科学研究所教授) 小 山 富 康
瑞 宝 中 綬 章  名誉教授(元 工学部教授) 荒 谷   登
瑞 宝 双 光 章  元 北海道大学病院診療支援部長 鈴 木 春 樹
 各氏の長年にわたる教育・研究等への功績と我が国の学術振興の発展に寄与された功績に対し,授与されたものです。
 各氏の受章にあたっての感想,功績等を紹介します。

(総務企画部広報課)

望月 喜市 氏

感 想

 この度,図らずも叙勲の栄を賜り感謝に堪えません。ひとえに先学・同輩のご指導のおかげと思っています。ソ連・ロシア関係で業績が評価されたことは,我が国におけるこの分野の学問的発展にも何らかのプラス効果があろうかと嬉しく存じます。
 現在研究の最前線を担っているこの分野の中堅研究者が,私の時代の研究水準をはるかに超えるとともに,国際的に大いに活躍していることは喜ばしい限りです。
 私の研究の出発点は,貧乏や失業・倒産現象をどうしたら無くすことが出来るかという問題意識でした。社会主義への傾倒とケインズの完全雇用政策からソ連の数学的計画経済の研究を志すようになりました。1973年から1年3カ月ほど,文部省の派遣研究員としてモスクワ大学経済学部に在籍し,大学内の学生寮に夫婦で住むことになりました。ブレジネフ長期政権下のモスクワの市民生活を体験出来たことは,ソ連の研究者として幸せなことでした。東欧圏やアジアからの学生,日本からの留学生もそこそこ学生寮におり,互いに交流し青春を謳歌しました。治安状態は非常によく,女性の深夜の1人歩きも何の心配もありませんでした。構内を乳母車に赤ちゃんを乗せた学生夫婦なども散見されました。消費財の品質・種類の不足と並んで,西側の専門書や文学作品も殆ど見かけませんでしたが,宇宙船スプートニクなど軍事部門だけが突出していました。
 モスクワ大学では,数学的計画経済でトップクラスの研究者に師事しましたが,十分なソ連の統計データがなく,止むなくアメリカのデータを使って自己の計画理論を彫琢する有様でした。1975年米国のチャリング・クープマンスと共にノーベル経済学賞を受賞したレオニード・カントロヴィッチ(Leonid Vital'evich Kantorovich)の資源の最適配分に関する理論の計画経済への適用を私は研究しました。ソ連の理論経済学者は優秀でしたが,その研究の経済行政への応用は,化石のような企業経営官僚機構に阻まれ全く実現しませんでした。
 次に忘れられないのは,70年余り続いたソ連が,意外なほどあっけなく崩壊し,民主主義と市場経済の新路線を歩むことになったことでした。当時,ハバロフスクを中心に市場経済のレクチャー活動をスポンサーと通訳のトリオで巡回したものでした。市民の生活はどん底で,市電やバスの破れた窓は板で打ちつけられ,満員バスでは,着ぶくれた通勤者で息も出来ないありさまでした。
 ロシア経済は,プーチン大統領の登場によってどん底経済から這い上がりました。今では世界長者番付けにも複数の億万長者が登場し,モスクワの歓楽街はネオン輝く不夜城になりました。現在のプーチン長期政権は,アジア太平洋方面に軸足を移動し,欧州とアジアに両足を踏まえる文字どおりユーラシアの巨人国家に変貌する政策を追求しています。その中で,ロシアにとって日本は,中国と並んで重要な国となっています。
 今後,私は生涯現役のつもりで,日ロの相互理解の拡大,ロシア経済論,ソ連崩壊の経済的分析など学術研究と市民活動の両分野で努力する覚悟です。

功績等

 望月喜市氏は主にソ連・ロシア経済の3つの分野で優れた業績を残されています。
 第1は社会主義経済システムの研究で,数理経済的手法を駆使した理論的な研究だけでなく,ソ連・東欧諸国の経済システムの改革に関して密度の濃い現状分析を行われました。1960年代にソ連で実施された経済改革を対象とした研究成果は,学位論文「計画経済と社会主義企業」にまとめられ,一橋大学から経済学博士号を授与,ソ連経済の卓越した研究者として学界における不動の地位を築かれました。
 第2はソ連・ロシア経済の実証的,統計的研究です。特に,ソ連経済の再生産構造,国民所得循環に関して基礎的かつ綿密な研究を行われました。これらの基礎研究とそれに基づく軍事費推計などの一連の業績は,国内はもとより国際的にも高い評価を受け,ソ連経済に関する統計情報が限られていた時期における研究は,日本のソ連経済実証分析の先駆的業績と位置づけられています。また,スラブ研究センターでは,同氏が主導し日本初の試みである「ソ連経済統計データベース(SESS)」が作成されました。
 第3は日本とソ連・ロシアとの経済関係の研究です。経済関係発展に何が必要かという実務的な関心から,日本に近いシベリア・極東経済の研究でも多くの先駆的な業績を残されました。また,ロシア極東地域研究者との間で様々な共同研究を組織,数多くの成果を刊行,日本とソ連・ロシア,あるいは北海道とシベリア・極東との経済交流の発展に理論的指針を与えるものとなりました。
 本学経済学部,教養部においてはソ連・ロシア・東欧諸国の経済に関する講義で教育に尽力され,多くの学生に多大な薫陶を与えられました。また,数十回にわたる国外出張,研修旅行により,ソ連・ロシアはもとより,ヨーロッパ,北米,アジアの国々に赴かれ,ソ連・ロシア研究に携わられるとともに,国際学術交流を深められました。とりわけ,ロシア極東地域は毎年のように訪問,北海道と同地域との学術交流促進のうえで多くの功績を果たされました。
 長年にわたり社会主義経済学会(現在は比較経済体制学会)幹事を務められ,社会主義経営学会,日本経済政策学会,ソ連・東欧学会,日本国際経済学会など幅広く学会活動に参加されました。また,国際ソ連東欧研究学会世界大会ならびに米国スラブ学振興学会年次大会に積極的に参加,スラブ研究の国際交流を推進,日本のスラブ研究の水準向上に寄与されました。
 学内においてはスラブ研究センター内外の諸委員のほか,昭和58年4月から同60年3月までスラブ研究センター長を務められ,北海道大学評議員として全学の管理運営に参画されました。平成5年には北海道大学永年勤続者表彰を受けられました。

略 歴

生年月日   昭和6年4月1日
昭和32年5月 東京都立立川高等学校教諭
昭和37年3月
昭和37年4月   立命館大学経営学部専任講師
昭和39年10月   立命館大学経営学部助教授
昭和44年4月   小樽商科大学助教授
昭和47年6月   小樽商科大学商学部教授
昭和53年4月   北海道大学スラブ研究センター教授
昭和58年4月 北海道大学スラブ研究センター長・北海道大学評議員
昭和60年3月
平成6年3月   北海道大学停年退職
平成6年4月   北海道大学名誉教授

(スラブ研究センター)

喜多 英明 氏

感 想

 この度,叙勲の栄に浴し,身に余る光栄に存じております。大学及び大学院の学生として勉学に,さらに長年教員として,教育ならびに研究に携わることになり,その間多大かつ適切な機会とご指導をいただきましたことを,恩師の堀内寿郎教授をはじめ,先輩の諸先生,関係各位の皆様に深く感謝申し上げます。
 私は戦後旧制の北海道大学予科に入学しましたが,入学後肋膜炎にかかり休学,翌年新制大学の1年(昭和25年)に編入され理学部化学科,同大学院修士課程を経て,北海道大学触媒研究所助手に採用されました。所長は理学部化学科物理化学教室教授の堀内寿郎先生で絶対反応速度論では世界に冠たる先生でした。私が戴いた研究は,水を電気分解するときの陰極で起る水素電極反応2H+2e→H2で数ある反応の中で最も簡単な反応ですが,電極が触媒として作用しています。したがって,金属触媒作用を解明するには格好な反応と云えることから,金属の殆どで測定されている結果を総合的に解析して触媒活性を判定し明確な規則性の存在を確立するに至りました。これを契機に有機物の電解還元反応に拡張し,いわゆる“エレクトキャタリシス”の基本的な概念に明快な指針を導入することが出来ました。
 昭和49年4月から北海道大学理学部教授に任命され,特に教養部における教務委員を仰せつかり,全学的な各種委員会に関与することから最も多忙な時期を過ごした次第でした。
 末尾となりますが長年にわたる御激励・御協力をいただいた皆様に重ねて御礼を申し上げますと共に,北海道大学の益々の御発展を,心からお祈りいたします。

功績等

 喜多英明氏は,昭和6年9月22日に北海道に生まれ,同29年3月北海道大学理学部を卒業,同31年3月北海道大学大学院理学研究科修士課程を修了し,北海道大学助手,助教授を経て同49年4月に北海道大学理学部教授に昇任,その後新設の北海道大学大学院地球環境科学研究科に配置換,平成7年3月に停年にて退職されるまで本学の教育・研究に努め,同年4月に北海道大学名誉教授になられました。
 同氏は,電極触媒反応の速度論及び電気化学エネルギー変換の分野において幅広く教育・研究活動に従事し,数多くのすぐれた研究成果を発表しています。なかでも,水電解による水素製造との関連で現在でも関心の高い水素電極反応の研究に従事して数多くの実験的・理論的研究を行い,反応機構の解明に大きく貢献されました。また,各種有機化合物の電解還元反応の反応機構も精査し,水素電極反応の結果と合わせ,金属電極は反応機構を異にする2群に大別されるという一般則を提案されました。この一般則は種々の電極触媒反応に対し,金属の電子構造と反応機構の関係について一般的指針を与えている点で現在においても極めて重要なものとなっております。さらに同氏は,これらの研究を基盤として,燃料電池反応や環境修復反応などについて,原子レベルで規制された金属単結晶から固体高分子電解質膜に金属を分散付着した膜電極に至るまでの多方面の研究を展開し,基礎的及び実用的な両面において,国の内外を問わず高く評価される研究を遂行されました。これらの研究に対して昭和50年に電気化学会賞,同63年に触媒学会功績賞及び平成17年に電気化学会功績賞を受賞されております。
 学内においては,北海道大学評議員,教養部長補佐,教養部教務委員長など多数の委員を歴任され,一般教育の充実をはじめとする北海道大学の発展に尽力されました。また,触媒学会,電気化学会,日本化学会,北海道青少年科学文化財団で理事,産業技術総合開発機構固体高分子型燃料電池部会長を務められるなど学術,地域教育の発展にも大きく寄与されております。
 以上のように,同氏は電気化学,触媒化学,物理化学の分野において多くの優れた研究業績を挙げて学術の進歩と発展に多大の貢献をするとともに,永きにわたり学生の教育・指導及び後進の育成に尽くし,さらに部局ならびに全学の運営に携わり大学の発展に大きく寄与されており,その功績は誠に顕著であります。

略 歴

生年月日   昭和6年9月22日
昭和31年4月   北海道大学触媒研究所助手
昭和38年4月   北海道大学触媒研究所助教授
昭和49年4月   北海道大学理学部教授
平成5年1月 北海道大学評議員
平成7年3月
平成5年4月   北海道大学大学院地球環境科学研究科教授
平成7年3月   北海道大学停年退職
平成7年4月   北海道大学名誉教授

(環境科学院・地球環境科学研究院)

小山 富康 氏

感 想

 半世紀以上にわたり,北海道大学に於いて研究する場をいただき,今また齢80歳を迎えるに当たり,生存者叙勲の栄誉を賜ること,まことにありがたく御礼申し上げます。思えばこの数十年,日本人の生活と科学技術の進歩はまことに目覚ましく,小学生が素粒子,ダークマター,地球の誕生47億年などと口にするようになりました。平均寿命は80歳を超え,昭和22年の50歳を大幅に超えております。私自身手作りの草履で,時には裸足で小学校への2kmを歩いたころと比べ,信じられないほどの感慨を覚えます。生活環境の飛躍的改善とともに現代の科学の進歩は本当に目覚ましく,私など遺伝子研究やiPS細胞の誕生などの発展から取り残されたと感じております。このような時代遅れの人間が叙勲の顕彰をいただくことは真に恐れ多いと感じております。
 お世話になった望月政司教授の,生命の維持は酸素の取り込み,及び酸素と如何に付き合うかに掛かっている,という言葉が今も耳に残っております。在職中はレーザー光を用いての肺血流速度の測定,細胞膜脂質の搖動の測定,ラット心筋の毛細血管の虚血再灌流応答などの研究を行ってきました。定年退職後は高等看護学校などで生理学の授業を担当しながら,旭川医科大学で行われる,足底壊疽の血管外科治療法としての静脈への動脈吻合法について検討してきました。この処置により,静脈を通して安静時の足筋に酸素を補給できるという結論を得ました。この疾患は欧米人に発生頻度が高いので,外国での学会で大きな反響を得ました。また呼吸の比較生理学的研究として卵殻の呼吸孔についての研究を進めております。卵殻内の胚も酸素を必要とするので,鶏,ダチョウの卵殻には径数百ミクロンの呼吸孔があることが判っております。水中に産卵されるトンボの卵殻の内面にも,呼吸孔と思われる径数十ナノメーターの微小孔が無数に見つかりました。酸素溶解度の小さい水中に置かれる卵は沢山の微小孔を用意することにより酸素摂取を可能にしているとみられます。では巨大恐竜の化石化した卵殻に呼吸孔は確認されるのであろうか,老化した私の脳に興味が燻っております。この期に及んでなお,このような想いを巡らせながら生活できるのも,一重に北海道大学に在籍できたことと,21世紀に生きることのできた幸運に恵まれた賜物と感謝しております。同時に北海道大学の自由な研究環境が永遠であることを心から願っております。

功績等

 小山富康氏は,昭和8年7月8日神奈川県に生まれ,同31年3月東京大学農学部水産学科卒業後,同33年3月東京大学大学院生物系研究科修士課程を修了し,同33年6月同大学大学院生物系研究科博士課程を中途退学後,北海道大学応用電気研究所助手に採用されました。昭和36年10月助教授,同50年3月教授に昇任し,同57年10月から同60年9月までは同研究所附属電子計測開発施設長として施設の充実・発展に尽力し,平成9年3月停年により退職され,同年4月北海道大学名誉教授となられました。
 この間,同氏は呼吸循環系の基礎的研究と計測法の開発を行われました。初期には赤血球のガス交換の解析に意を注ぎ,酸素化速度の測定法開発,酸素化効率に対する表面境界層の影響等について成果を上げられました。微小血管の血流速度測定手段として,レーザードップラー顕微鏡流速計を導入し,ウシガエルの肺微小血管中の局所的な高炭酸ガス,低酸素症の影響に関する実験等を行われました。この方法は,生体内の毛細血管網を直接測定でき,循環器疾患を解明するのに大いに役立ちました。
 さらに,赤血球膜等の構成分子の運動を解明するために,サブナノ秒時間分解偏光解消法を用いられました。リン脂質の長さを人工的に変えると,振動速度・細胞膜の蛋白質の機能効率も変わる等,興味深い性質を明らかにし,この方面の研究に先鞭をつけられました。
 定年退職後も,国際生体酸素輸送学会等に参加し,研究成果を世に問われています。近年は閉塞性動脈硬化症の治療法について共同研究を進められ,同学会で,足底の静脈に動脈をつなぎ逆行性に酸素を供給する理論的根拠を提示された際には,正常な血液走行とは異なる逆転の発想に参会者の驚きと賛辞を得られました。この方法については,実際の治療にも活用され,成果が上がりつつあります。
 学外においては,種々の国際的な学会の理事,評議員,事務局長等を歴任するなど活発な活動を行い,世界の呼吸生理研究の発展に寄与されました。
 教育面においても,多くの学生の教育・研究指導に当たり,優れた研究者を輩出され,退職後も北海道大学医学部や看護師専修学校等において,今日に至るまで教壇に立たれています。
 以上のように,同人は38年以上にわたり本学の研究教育・運営に尽くすと同時に,第一線を退いた現在も,わが国及び世界の学術研究の発展に貢献し続けており,その功績は誠に顕著であります。

略 歴

生年月日   昭和8年7月8日
昭和33年7月   北海道大学応用電気研究所助手
昭和36年10月   北海道大学応用電気研究所助教授
昭和50年3月   北海道大学応用電気研究所教授
昭和57年10月 北海道大学応用電気研究所附属電子計測開発施設長
昭和60年9月
平成9年3月   北海道大学停年退職
平成9年4月   北海道大学名誉教授

(電子科学研究所)

荒谷  登 氏

感 想

 このたび,叙勲の栄に浴し,身に余る光栄に存じます。
 大学卒業後3年間の実務経験を経て,再び大学院に戻り,昭和38年からの36年間,よき師と同僚,学生,卒業生に恵まれた研究生活を送り,成長させていただいたことを感謝しております。特に,卒業後に研究者の道へと導いてくださった大野和男先生,自由な発想で研究に取り組むことを尊重しつつ適切な助言を与えてくださった堀江悟郎先生には感謝しており,人生の師として尊敬しております。
 大学院での課題は,京都大学の総長をされた故前田敏男先生が満州時代から取り組んでおられた室温変動理論の実用化で,暖房停止後の室内での凍結事故防止という,まさに毎日の我が家で起こっていた問題への取り組みでした。
 大学院を出てすぐ待ち受けていたのは,昭和47年の札幌冬季オリンピックに向けての地域暖房化への課題でした。北海道から“住宅団地の集中暖房の可能性に関する調査研究”の委託を2年契約で2度にわたって受け,集中暖房設備を持つ集合住宅を探し出して,暖房設備の運転状況と室温の長期測定をしました。この経験は,私にとって暖房や断熱と建物の熱的な性質や生活との関わりを知る研究への貴重な出発点になりました。
 雪と寒さを克服すべき地域の欠点であると考えていた当時の私が,温かさを求めて最初に建てた100mm断熱・温水暖房の試験住宅に住んで発見したことは,断熱の効果は省エネルギーよりも環境の穏やかさであり,暖房とは温かくすることではなく室内から寒さを除くこと,外の寒さに親しむためのものであるということでした。また,聖書の創世記第1章31節にある”神がお造りになったすべての物をみられたところ,それははなはだ良かった”という言葉に接して,私が地域の欠点だと考えていた雪や寒さを神は良さであると言っておられることを知り,それまで欠点対応であった私の生活や研究の発想を良さ発見型に切り替え,雪や寒さを地域の財産と考えるようになりました。
 私のこの転換は,昭和48年に起こった石油危機の3年前のことでした。そこから,無償の富としての自然エネルギーの素晴らしさや北海道の良さを生かす夏対応への取り組み,本州の伝統に学ぶ民家や町家の熱環境の調査など,学生や多くの研究者を巻き込んだ共同研究が始まりました。
 昭和54年の第2次石油危機の年,次に起こるかもしれない第3次石油危機には家族皆がスキーウエアを着て過ごすことを覚悟して,全室暖房のコンクリートブロック造外断熱の試験住宅をつくり,結露を忘れる生活と伝統的な熱対流換気の応用で夏の暑さを忘れる生活を経験しました。
 こうした私の研究関心は,やがて北海道の基幹産業である第1次産業の活性化につながり,その後,有機農業を求めて長沼町に移り住むことにもなりました。私の研究が地域との会話から生まれたものであるだけに,その成果の発信も常に地域に向けられたものであったと感じています。
 今回の受章は,私個人よりも地域と研究者との対話に与えられるものであると思い,このような大学と地域との対話が他の分野にも広がっていくことを願っています。

功績等

 荒谷 登氏は昭和31年3月に北海道大学工学部建築工学科を卒業し,3年間の大成建設株式会社勤務の後,同34年4月に北海道大学工学研究科修士課程に入学,同36年修了,同年4月より北海道大学工学部に講師として採用され,同37年に助教授,同49年4月に教授に昇任され,建築工学科建築環境学講座を担当して建築環境・建築設備の分野の発展に努力され,平成9年3月に定年退職,同年4月より名誉教授として今日に至っています。
 研究面では,北海道大学にて主として建物の熱特性と熱環境計画に関する研究に取組まれ,寒冷地の住居の熱環境改善と室温及び熱負荷の非定常伝熱解析の分野で独創的かつ先端的な研究を行い,この分野の発展に貢献しました。
 物理的な明確さを欠く従来の熱負荷計算法に対して,自然取得熱による室温上昇を考慮し,間欠暖房時の日平均室温低下率と予熱負荷割増係数を定義して,間欠と連続運転の違いを明確にし,逐次積分法と呼ぶ室温及び熱負荷の非定常伝熱計算法を国際会議にも発表して,当時普及し始めた電算機による解析を容易にしたほか,室温が安定する断熱建物では内・外気温,取得熱,熱負荷それぞれの日平均値を用いた定常伝熱解析での暖冷房計算が可能であることを示して,物理的な根拠に立った熱環境計画を可能にしました。
 昭和37年と同40年には冬期札幌オリンピックに向けて,北海道から“住宅団地の集中暖房の可能性に関する調査研究”の委託を2度にわたって受け,その成果に対して昭和44年には空気調和衛生工学会論文賞が与えられ,学内でも大学全体の地域暖房計画専門委員としてその検討に当たってきました。
 昭和48年には住居の熱環境計画への研究で北海道大学から工学博士の学位を受け,これに対して同51年度の日本建築学会論文賞が与えられ,その成果の社会貢献に対して平成9年に北海道新聞文化賞が与えられています。
 建築学会の支部活動では,環境分野の他の研究者と共に積極的に地域シンポジウムを開催して各地に出向き,地域の発展と地域リーダーの育成を図るとともに,外断熱を含む寒地住宅の性能改善と普及に指導的な役割を果たし,ともすると中央指向,国際化指向に陥る大学の活動に対して,地域文化の育成に関わる大学の使命の大切さを訴えてこられました。
 氏が北海道建築指導センターから出版した寒地系住宅の熱環境計画に関する5冊の小冊子は,一般市民向けに書かれたやさしい内容ですが,その中で繰り返し訴えられている地域性や自然エネルギーの個性の尊重,持っている特質をより一層顕著にする“奪い合うことのない成長”などは,これからの持続可能な成長への大切な指針であると思います。

略 歴

生年月日   昭和8年10月3日
昭和31年4月 大成建設株式会社
昭和34年3月
昭和36年4月   北海道大学工学部講師
昭和37年6月   北海道大学工学部助教授
昭和49年4月   北海道大学工学部教授
平成9年3月   北海道大学停年退職
平成9年4月   北海道大学名誉教授

(工学院・工学研究院・工学部)

鈴木 春樹 氏

感 想

 この度平成25年度春の叙勲の栄に浴し,身に余る光栄と思っております。私がこのような機会に恵まれたのはひとえに諸先輩,同僚,後輩など多くの皆様方のご指導,ご支援の賜物と感謝し,心から厚くお礼申し上げます。
 私は昭和46年の卒業と同時に北海道大学病院に採用され,検査部(現在は検査・輸血部)の細菌検査室に配属になりました。現在細菌検査に使用する培地は市販の製品を使用していますが,当時はほとんどが自家製でした。月曜日にはその週に使用する培地をオートクレーブで滅菌して作るのが日課でした。これがなかなか時間を要し,午前中はほぼ培地作りだったと記憶しています。1年後に生化学検査室に移動になり,そこで検査の自動化に触れることになりました。生化学検査はそれまで用手法で行っていた検査を分析機器を使用して行う自動化へと移り変わる時代でした。初期の自動分析機は米国製でしたが,故障が多く,修理できる担当者が東京にしかおらず故障したら東京から来るのに半日から1日かかったため,その間はまた用手法で分析したりで結構苦労しました。その後日本製の自動分析機が登場し,それが故障も少なく大変優れていたため,自動分析機の普及が進み,検査の自動化,迅速化に貢献しました。大量のデータを処理するためにコンピュータが導入され,システム化が推進され,検査データを正確に迅速に提供することが可能となりました。平成9年に検体検査部門が新棟移転した際に自動化をさらに進めた検体検査搬送システムを導入しました。これにより検査結果の報告時間を大幅に短縮,人員の省力化を図り,新たに遺伝子検査等を実施しましたが,特筆すべきは外来患者の採血を中央化したことでした。及川元看護副部長ら看護部の方々と協議を重ね看護部の協力を受けて10月より開始しました。開始当初は診察室から離れており,移動距離が長い,待ち時間が長い,部屋が暑い,採尿室が狭い,汚い,採血技術が未熟等多くの苦情がありましたが,採血室と採尿室の改装,実技講習を実施しての採血技術の向上,採血者の増員等を行って一つ一つ改善を重ね現在に至っています。今は中央採血が診察前検査の一環として定着したものとなりました。エコー検査では渡邊前診療支援部長の後を引き継ぎ,放射線部との協力体制でエコーセンターを設置することができました。エコー検査は増加の一途をたどり,検査の待ち日数が長かったのが待ち日数の短縮化が図られ,診療科の要望に応じられたと思っています。
 平成16年の法人化に併せて診療支援部が設立され,多くのコメディカルスタッフが所属しており,200名を超える部門となっています。診療支援部は院内各部門の専門業務を行い,病院機能の欠かせない部門を担っています。業務の効率化のみならず,医療安全,専門化した技術への対応,さらに近年は病院経営への貢献等も求められており,これらの対応に追われた日々でした。
 40年間北海道大学病院に勤務し,北大の四季にふれながら無事に定年を迎えることができました。これもひとえに病院各位のご協力とご支援の賜物と心より感謝しております。
 最後になりますが,北海道大学,北海道大学病院の益々のご発展を祈念申し上げます。

功績等

 鈴木春樹氏は,昭和25年5月13日に北海道稚内市に生まれ,同46年3月北海道大学医学部附属衛生検査技師学校を卒業し,同46年4月に北海道大学医学部附属病院臨床検査技師に採用され,平成23年3月まで勤務されました。
 同氏は検査の自動化,システム化の流れの中で主導的な役割を担い,積極的にこれを推進し,検査データを正確に速く臨床に提供するように努められました。
 平成9年には同氏の指導の下に一貫した検体搬送システムが導入され,人員の省力化が図られ迅速性が増しました。これにより省力化された人員を振り分けたことにより,HIV患者の薬剤耐性遺伝子検査,血液関連疾患患者の遺伝子解析を実施し,診療に大きく貢献されました。また,外来採血の中央化による採血の待ち時間短縮が図られ,各科看護師の効率化と患者サービスの向上に貢献されました。さらに,細菌検査においては土日祝日,細菌検査担当者が交代勤務で平日と同じ業務をこなす365日体制を国立大学病院として初めて確立されました。このシステムが高く評価され,細菌検査室の365日体制を採用する病院が増えています。
 同氏の功績が認められ平成19年4月に北海道大学病院診療支援部検査部技師長兼診療支援部副部長,同22年4月には北海道大学病院診療支援部長に就任されました。
 またエコー検査では放射線技師との協力体制を築き,同氏が診療支援部長になった平成22年には,これらを集約化する目的でエコーセンターが設置されました。造影検査件数は道内一の実績を誇っています。
 同氏は採用当初から,北海道大学医学部附属衛生検査技師学校(現北海道大学医学部保健学科)における臨地実習教育を担当し,平成8年からは北海道大学医療技術短期大学部衛生技術学科(現北海道大学医学部保健学科)において非常勤講師として学生教育に携わり,臨床検査技師の養成に大きく貢献されています。院外では社団法人北海道臨床衛生検査技師会の常務理事,事務局長を歴任され,技師会の発展に寄与されてきました。また同氏は北海道知事から委嘱を受け,北海道精度管理システム運営委員,北海道衛生検査所精度管理専門委員として北海道内の登録衛生検査所の精度管理調査にも尽力されています。
 同氏は40年もの永きにわたり,臨床検査の向上と進歩に寄与し,後進の育成に尽力されてきました。その功績は誠に顕著であると認められます。

略 歴

生年月日   昭和25年5月13日
昭和46年4月   北海道大学医学部附属病院
昭和47年8月   北海道大学医学部附属病院検査部臨床検査技師
平成2年6月   北海道大学医学部附属病院検査部主任臨床検査技師
平成7年4月   北海道大学医学部附属病院検査部副臨床検査技師長
平成15年10月   北海道大学医学部・歯学部附属病院診療支援部副臨床検査技師長
平成19年4月   北海道大学病院診療支援部臨床検査技師長
平成22年4月   北海道大学病院診療支援部長
平成23年3月   北海道大学定年退職

(北海道大学病院)

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