文学研究科教授高橋 英光 (たかはし ひでみつ) 氏

私は学生時代を北海道大学で過ごしましたが,北大生になった昭和46年頃は学生運動の影響で休講が続き,大学生活に馴染むのに苦労しました。当時は文類という大きなユニットに入学しましたが,文学部に進むことを決めた時には,級友から就職がないぞと言われたのを覚えています。しかし,英語学そして言葉と心の働きを考える学問(後の認知言語学)への興味が止まらなく大学院に進み,その後,35才の時に縁があって北大教員となりました。文学部・文学研究科の教員として過ごした29年間は大学改革の嵐が吹き荒れ,小講座の解体と大講座化,大学院重点化,カリキュラム改革,法人化と続き,これと平行して大学・学問のデジタル化が急速に進みました。
これらの変化に適応するのは楽ではありませんでしたが,文学部・文学研究科にいられて本当に幸運でした。たくさんのすばらしい学生と出会い,各分野の最前線で活躍されている同僚,図書館のすばらしい蔵書・施設に囲まれ,狭い流行に流されずに大きな目標を立てて自分がやりたい学問を続けることができました。やるべきことはまだ山積していますが,これまでお世話になった諸先生と事務職員の方々に心より御礼申し上げます。人生の大半を過ごした文学研究科と北海道大学のますますのご発展をお祈りします。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年12月14日 | |
| 昭和50年3月 | 北海道大学文学部文学科卒業 | |
| 昭和53年3月 | 北海道大学大学院文学研究科修士課程修了 | |
| 昭和55月10月 | 北海道大学大学院文学研究科博士後期課程中途退学 | |
| 昭和55年11月 | 北海道大学文学部助手 | |
| 昭和57年10月 | 小樽商科大学商学部講師 | |
| 昭和62年4月 | 北海道大学文学部助教授 | |
| 平成4年8月 | 米国カリフォルニア大学サンデイエゴ校言語学科にて研修 | |
| 平成5年8月 | ||
| 平成8年6月 | 北海道大学文学部教授 | |
| 平成12年4月 | 北海道大学大学院文学研究科教授 | |
| 平成16年12月 | 博士(文学)(北海道大学) |
文学研究科教授佐藤 錬太郎 (さとう れんたろう) 氏

赴任してから29年が経過し,30年目の春を迎えました。平成12年に大学院重点化が実現した頃から中国や台湾からの留学生が増え始め,今では日本人学生よりも留学生の方が多くなりました。また,私自身も中国語を常用するようになり,中国語圏の国際会議に参加する機会が増えました。平成21年には台湾大学に客員教授として招聘され,専門とする陽明学の演習と講義を担当しました。台湾の研究者との交流は今も続いています。平成23年3月11日の東日本大震災の大津波の時にも,台湾から安否を気遣うメールが届きました。政府も電力会社も経済的観点から原発を維持しようと躍起になっていますが,福島第一原子力発電所では,今なお放射能の影響が深刻です。将来世代への倫理的道義的責任を放棄して良いのでしょうか。また,中国の海洋進出に対抗すべく,日本政府は兵器の輸出条件を緩和して軍事産業を保護する政策を進めています。一旦戦争になれば,日本列島全体が核兵器の惨禍を被る可能性があります。軍備をどんなに強化しても,日本を守りきることなどできません。内村鑑三の言うとおり,人を殺す戦争に正義の戦争などありません。平和主義を堅持すべきです。
北大が今後も世のため人のためになる人材を輩出することを願いつつ筆を置きます。北大の益々の発展と皆様のご健康を祈ります。
略 歴
| 生年月日 | 昭和28年3月8日 | |
| 昭和52年3月 | 東京外国語大学外国語学部中国語学科卒業 | |
| 昭和55年3月 | 東京大学文学部第1類(文化学)卒業 | |
| 昭和57年3月 | 東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了 | |
| 昭和62年3月 | 東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学 | |
| 昭和62年4月 | 北海道大学文学部助教授 | |
| 平成9年6月 | 北海道大学文学部教授 | |
| 平成12年4月 | 北海道大学大学院文学研究科教授 | |
| 平成21年3月 | 国立台湾大学中国文学系客員教授兼務 | |
| 平成21年7月 | ||
| 平成25年9月 | 北京外国語大学日本学研究中心客員教授兼務 |
文学研究科教授山田 貞三 (やまだ ていぞう) 氏

私は,昭和46年に北海道大学の文類に入学し,文学部のドイツ文学を専攻しました。理由は単純で,それまで道東の田舎町で時折読み耽っていたドイツ文学の作家たちのテクストを原文で味わってみたかったからです。当時のキャンパスには,まだ藪や雑草の生い茂る空き地もあって,かなり野放図な雰囲気の中で学生生活を送ったような気がします。
あり難いことに昭和53年,長崎大学教養部に採用され,在職中の2度のドイツ留学で,ドイツ文学の研究に専念し,ベルリンの壁が崩壊する前後のドイツを目の当たりにすることができました。
北大文学部への着任は,平成7年3月20日−あの地下鉄サリン事件の当日で,忘れられない日付です。それから20年の日々は,恵まれた教育研究環境の中で充実した生活を送らせていただきました。一つだけ想定外だったことは,平成16年の国立大学法人化以降,大学評価の仕事を担当する仕儀となり,定年間近になってなお,ひょうか,ひょうか,と急き立てられていることです。大学の自己評価が国家によって法制化されるというのは,本来,忌々しき事態と言わざるをえませんが,この評価結果が,大学運営の根幹を揺るがす影響力をもっていることも事実です。微力ながら最後まで奉職し,これまで受けた皆様のご厚情に応えたいと願っております。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年5月26日 | |
| 昭和50年3月 | 北海道大学文学部卒業 | |
| 昭和52年3月 | 北海道大学大学院文学研究科修士課程修了 | |
| 昭和53月9月 | 北海道大学大学院文学研究科博士課程退学 | |
| 昭和53年10月 | 長崎大学教養部助手 | |
| 昭和55年3月 | 長崎大学教養部講師 | |
| 昭和61年12月 | 長崎大学教養部助教授 | |
| 平成3年1月 | 長崎大学教養部教授 | |
| 平成7年3月 | 北海道大学文学部教授 | |
| 平成12年4月 | 北海道大学大学院文学研究科教授 | |
| 平成17年4月 | 北海道大学大学院文学研究科副研究科長 | |
| 平成20年3月 | ||
| 平成21年4月 | 北海道大学役員補佐 | |
| 平成26年3月 | ||
| 平成26年4月 | 北海道大学総長補佐 | |
| 平成28年3月 |
医学研究科教授西村 正治 (にしむら まさはる) 氏

私は昭和52年に北海道大学医学部を卒業して,当時の村尾誠教授率いる第一内科に入局しました。その後,砂川市立病院,国立函館病院での臨床研修を経て大学病院に戻り,昭和60年7月から同63年3月までのボストンへの留学期間を除いて,ずっとこの医学研究科と病院のなかで研究,臨床,教育に従事してきました。医学部を卒業した当時はひたすら良き臨床医になりたいと熱望していたので,まさかこのように人生の大半を大学組織のなかで送ることになるとは夢にも思いませんでした。私が臨床医としての道に加えて,教育・研究に生きがいを見つけられたこと,これまでの人生を心から幸せであったと感じるのも多くの素晴らしい人々との出会いがあったからです。
つらいと感じたことは,平成13年に臨床分野の教授として就任して以後,関連病院人事に一定の責任を持たざるを得なかったことです。医師不足,とりわけ私の専門とする呼吸器内科医の不足は深刻であり,多くの期待に十分に応えることができませんでした。一方,我が教室から筑波大学,慶應義塾大学等へ呼吸器内科教授を輩出できたことは(故)村尾誠名誉教授,川上義和名誉教授の積み上げてきた呼吸器病学の輝かしい伝統を維持できたという意味で誇りとするところです。
退職後もあと2年間は素晴らしい仲間と環境に囲まれつつ,本学における最後のご奉公をしたいと思っております。
略 歴
| 生年月日 | 昭和28年1月30日 | |
| 昭和52年3月 | 北海道大学医学部卒業 | |
| 昭和52年10月 | 砂川市立病院内科医員 | |
| 昭和53年10月 | 国立函館病院内科医員 | |
| 昭和54年4月 | 北海道大学医学部附属病院第一内科医員(研修医) | |
| 昭和54年5月 | 北海道大学医学部附属病院第一内科医員 | |
| 昭和60年6月 | 医学博士(北海道大学) | |
| 昭和60年7月 | 米国マサチューセッツ総合病院呼吸器科 | |
| 昭和63年4月 | 北海道大学医学部附属病院第一内科助手 | |
| 平成4年8月 | 北海道大学医学部附属病院第一内科講師 | |
| 平成9年6月 | 北海道大学医学部附属病院第一内科助教授 | |
| 平成13年1月 | 北海道大学大学院医学研究科教授, | |
| 北海道大学病院内科T科長 | ||
| 平成22年4月 | 北海道大学病院副病院長 | |
| 平成25年3月 |
医学研究科教授有賀 正 (ありが ただし) 氏

私と北海道大学との関わりは,札幌オリンピックが開催された昭和47年の北大入学からでした。今も,発表を見に雪解けでグチャグチャになった道を歩いて行ったのを覚えています。北大を卒業し,すぐに北大小児科に入局したのが昭和53年で,北大医54期です。以降,関連病院で研修したり,医員,研究生で診療・研究をしたり,留学したりしましたが,基本は北大小児科でした。平成11年に松本脩三名誉教授が設立してくださった寄附講座:遺伝子治療講座で崎山幸雄教授の指導の下で客員助教授となって研鑽を積み,5年後の平成16年から小児科の教授に就任しました。青天の霹靂と言われました。この12年間で北大小児科の伝統を守り,さらに発展させられたかどうか,皆様の評価を待ちたいと思います。
世間をアッと言わせることや,就任前の寄附講座時代に実施した遺伝子治療を超えることはできませんでしたが,3代目の山田尚達名誉教授が立ち上げた理念“オールラウンドの小児科医(小児の総合医)”を育てること,そして研究のレベルアップの努力はしたつもりです。支えてくれた数え切れない多くの方々に感謝するとともに,北大の益々の発展を祈念しております。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年7月10日 | |
| 昭和53年3月 | 北海道大学医学部卒業 | |
| 昭和63年9月 | ハーバード大学医学部リサーチフェロー | |
| 平成元年9月 | ||
| 平成2年9月 | 医学博士(北海道大学) | |
| 平成11年4月 | 北海道大学医学部遺伝子治療(寄附講座)客員助教授 | |
| 平成16年4月 | 北海道大学大学院医学研究科教授 |
医学研究科教授玉木 長良 (たまき ながら) 氏

昭和53年に京都大学医学部を卒業し2年間の内科研修後,博士課程での4年間の研究を経て,核医学,特に循環器領域の機能画像診断を中心に,PETや分子イメージングの研究,教育に従事してきました。平成7年10月から医学研究科核医学分野の教授として20年間お世話になりました。ちょうど北大病院にサイクロトロンやPET装置を導入する時期にも恵まれ,優秀な教室員や研究者に囲まれて,PETや分子イメージングに関する先駆的な研究に従事することができました。平成18年からは産学連携プロジェクトの一つ,未来創薬・医療イノベーション拠点形成の医療側の総括責任者を務める機会を得ました。この10年の大型研究プロジェクトを通して,これからの大学が求められる産学官の連携や,学部や大学の垣根を越えた幅広い分野の人材育成に尽くすことができました。また,平成23年から2年という短期間ではありましたが,医学研究科長・医学部長を務め,大学医学部の諸問題に取り組む貴重な経験もさせていただきました。
北海道大学は先駆的な教育研究をする恵まれた環境があります。若手の教職員がこれから活動の輪を広げ,北海道大学がさらなる発展を遂げられることをお祈りします。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年7月26日 | |
| 昭和53年3月 | 京都大学医学部医学科卒業 | |
| 昭和55年3月 | 神戸市立中央市民病院臨床研修医 | |
| 昭和59年3月 | 京都大学大学院医学研究科博士課程修了 | |
| 昭和59年3月 | 医学博士(京都大学) | |
| 昭和59年4月 | 京都大学医学部助手 | |
| 昭和59年11月 | 米国ハーバード大学医学部研究員 | |
| 昭和61年9月 | ||
| 平成3年7月 | 京都大学医学部講師 | |
| 平成7年9月 | 北海道大学医学部教授 | |
| 平成18年4月 | 北海道大学役員補佐 | |
| 平成19年4月 | ||
| 平成19年4月 | 北海道大学病院副病院長 | |
| 平成22年3月 | ||
| 平成23年4月 | 北海道大学大学院医学研究科長・医学部長 | |
| 平成25年3月 |
医学研究科教授丸藤 哲 (がんどう さとし) 氏

平成11年に医学研究科救急医学分野初代教授を拝命しました。救急医学分野は北海道では初めての救急医学講座です。全くの0から救急医学と救急医療を開始しましたが,皆様の温かいご支援をいただき,救急医学・医療体系を構築できました。この場を借りて御礼申し上げます。開講当時は救急医学が独立した学問体系であると理解する方は皆無でしたが,任期を通じて独立性の敷衍に貢献できたと思料します。「救急とはシステムである」が私の持論ですが,北海道及び札幌市の救急医療システム構築に微力ながら貢献できたことを嬉しく思います。
救急医学分野開講当時の北海道大学病院は,北海道大学教職員・家族,学生・留学生の急病や北海道大学構内の救急事故に対応する能力を持ち合わせていませんでした。平成12年の三次救急医療開始にあわせて,北海道大学の全ての救急傷病者に対応可能な救急部(現 先進急性期医療センター)を立ち上げました。お世話になった北海道大学へのご恩返しが出来たと考えています。母校北海道大学の益々の発展を祈念いたします。
歯学研究科教授鈴木 邦明 (すずき くにあき) 氏

学生時代を含めて44年間,途中3年間の留学を除いて,このキャンパスでお世話になりました。つらかったことなどは忘れてしまい,いい思い出だけがよみがえります。
学生時代はワンダーフォーゲル部に所属し,様々な学部の先輩・同期・後輩と語らい,四季折々の北海道の山々を歩きました。人とのつながり,山とのつながりの原点で私の宝物です。また,全学教育を受けた旧教養部の裏に昔の恵迪寮があり,寮生でもないのに講義のない時間帯には友人のいた大部屋によく行きました。開け放しの窓から初夏の気持ちの良い風が入り,恵迪の森の郭公の声が聞こえてきました。北大構内はまさに学生の庭であり,懐かしい日々です。
歯学部を卒業した後は開業歯科医になるつもりでしたが,4年間だけのつもりで入った大学院でNa,K-ATPaseという酵素と恩師に出会い,研究の面白さにはまったことがきっかけで教育・研究に携わることになりました。豊かな自然にあふれたキャンパスでずっと過ごせたことは幸せなことで,北大には感謝の念でいっぱいです。社会が変わり,大学も変わり,これからは大変だと思いますが,北大のますますの発展をお祈りします。ありがとうございました。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年11月22日 | |
| 昭和54年3月 | 北海道大学歯学部歯学科卒業 | |
| 昭和55年3月 | 北海道大学大学院歯学研究科博士課程中途退学 | |
| 昭和55年4月 | 北海道大学歯学部助手 | |
| 昭和59年6月 | 歯学博士(北海道大学) | |
| 平成7年4月 | 北海道大学歯学部助教授 | |
| 平成12年4月 | 北海道大学大学院歯学研究科助教授 | |
| 平成13年8月 | 北海道大学大学院歯学研究科教授 | |
| 平成19年4月 | 北海道大学教育研究評議会評議員 | |
| 平成26年3月 | ||
| 平成19年4月 | 北海道大学大学院歯学研究科副研究科長 | |
| 平成23年3月 | ||
| 平成23年4月 | 北海道大学大学院歯学研究科長・歯学部長 | |
| 平成26年3月 |
歯学研究科教授飯田 順一郎 (いいだ じゅんいちろう) 氏

平成11年11月1日に北海道大学に着任して以来,あっという間の16年間余でした。赴任初日に北13条門を入った途端,黄金色のイチョウ並木が迎えてくれた時の感動が忘れられません。大所帯の教室員には好意的に受け入れてもらい,教授会にも温かく迎えていただきました。今日まで心地良く研究・教育・臨床に従事することができたことに,心から感謝いたします。
振り返りますと,この間,我々を取り巻く研究・教育・臨床の環境は大きく変化したものだと感じます。医学・歯学教育における全国レベルでの共用試験の実施,学会における専門医制度の立ち上げなど,一連の改革の作業に関わりながら,そこに大きなエネルギーを注いだ気がしています。また,矯正歯科治療は歯科の中でも技術的に専門性の高い診療ですので,その卒後臨床教育体制の充実にも力を注いで来ました。更に大学院生にも恵まれ,地道に基礎的な研究を進められたことは幸せなことでした。加えて最後の4年間は北海道大学病院の歯科担当副病院長を拝命し,北大病院外来新棟の新築にも関われたことは特筆すべき経験でした。今後の2年間,特任教授として最後の締めくくりの時間を有意義に使っていきたいと考えています。伝統ある北海道大学の今後益々の飛躍的な発展を期待しています。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年7月24日 | |
| 昭和53年3月 | 東京医科歯科大学歯学部歯学科卒業 | |
| 昭和57年3月 | 東京医科歯科大学大学院歯学研究科修了 | |
| 昭和57年3月 | 歯学博士(東京医科歯科大学) | |
| 昭和57年4月 | 東京医科歯科大学歯学部附属病院助手 | |
| 昭和58年1月 | 東京医科歯科大学歯学部助手 | |
| 平成4年11月 | 東京医科歯科大学歯学部講師 | |
| 平成7年2月 | 東京医科歯科大学歯学部助教授 | |
| 平成11年11月 | 北海道大学歯学部教授 | |
| 平成12年4月 | 北海道大学大学院歯学研究科教授 | |
| 平成23年4月 | 北海道大学教育研究評議会評議員, | |
| 平成24年3月 | 北海道大学大学院歯学研究科副研究科長 | |
| 平成24年4月 | 北海道大学病院副病院長 | |
| 平成28年3月 |
獣医学研究科教授葉原 芳昭 (はばら よしあき) 氏

アナログ時代からデジタル時代
大学院生時代は,まだアナログ主流であった。一部のマニアはTK-80を活用していたようだ。ある大学に勤務した頃,各社が恐る恐る製品を出し始めた。高価なため個人での購入は無理であったが,幸い,機能は限定されているが,比較的安価なCASIO FX-702Pという簡易プログラミング可能な機種が売り出され,妻に無理を言って入手した。極めて簡単な有意差検定プログラムをBASICで作成して利用したが,正確かつ瞬時に結果を得ることができ,将来の普及を予感した。当時,計算機は高価なおもちゃという感覚で,事務機器としての購入は憚られた。科学研究費での購入など私の領域ではもってのほかであった。ところが,研究室でソーテックの計算機を何故か購入したことから,幾分込み入ったプログラムにチャレンジした。なかなか思い通りに動かないプログラムの不備と修正法を夜半に思いつき,研究室に戻って忘れないうちに素人ながらデバッキングした。一区切りついた頃には空が明るくなり始めていたのは良い思い出である。それを当時取り組んでいたラジオイムノアッセイの標準曲線作成とホルモン濃度算出に役立てた。まだまだ続きがあるが,使い方次第では恐ろしいデジタル機器の発達とともに歩んできた三十数年であったようにも思う。
水産科学研究院教授矢部 衞 (やべ まもる) 氏

私の北大での生活は,昭和47年春に学生運動のため入学式もないまま始まりました。水産学部を卒業し大学院に進学後,魚類の比較形態学と系統分類学に一貫して取り組んできました。特に,北海道の魚とも言えるカジカ類を研究対象にしたことで,北大のイメージに合致した教育・研究ができたと考えています。また,生物多様性の重要性が認識されてきた頃でもあり,水産科学における生物多様性教育の一端を分類学の観点から実践してきました。研究活動においても,国内はもとよりロシア極東域,千島列島,ベーリング海などでのフィールド調査を通じて新種の魚類を数多く記載し,北東アジアの魚類の種多様性の解明に若干なりとも貢献できたと考えています。
また,研究室に入った頃は5万点程度であった魚類の標本が,現在では約22万点までに充実し,HUMZコレクション(北海道大学総合博物館魚類学術標本)として国内外に認知されるまでになりました。これらの標本は長年の間,著しく老朽化した標本館に保管されていましたが,皆様のご理解のもと学内経費で新営していただけることになり,3月末に完成いたします。私にとって新標本館の完成を退職前に見届けることができるのは何よりの喜びです。
入学以来43年間,学舎,職場として過ごしてきた北海道大学を卒業するにあたり,この間を様々な形でご指導,ご鞭撻いただいた数多くの皆様に深く感謝申し上げます。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年12月29日 | |
| 昭和51年3月 | 北海道大学水産学部水産増殖学科卒業 | |
| 昭和53年3月 | 北海道大学大学院水産学研究科修士課程修了 | |
| 昭和58年3月 | 北海道大学大学院水産学研究科博士後期課程単位取得退学 | |
| 昭和58年4月 | 日本学術振興会奨励研究員 | |
| 昭和59年3月 | 水産学博士(北海道大学) | |
| 昭和59年9月 | 北海道大学水産学部助手 | |
| 平成4年4月 | 北海道大学水産学部講師 | |
| 平成7年4月 | 北海道大学水産学部助教授 | |
| 平成18年4月 | 北海道大学大学院水産科学研究院教授 |
水産科学研究院教授今井 一郎 (いまい いちろう) 氏

凌雲の志を抱いて函館の地を踏み早7年,気付けば定年の時を迎えました。北海道大学で多くの学生さん達と邂逅し,研究を飛躍的に進展できたことにまず感謝します。瀬戸内海や九州沿岸を中心に発生する有害赤潮の防除に関して,アマモ場や藻場の殺藻細菌を活用する為の基礎的研究,海底で眠る珪藻類の休眠期細胞を有光層に持ち上げ発芽復活させ,栄養細胞の増殖を通じて水中の栄養塩の消費により有害赤潮の発生を抑制する為の研究,陸水ではアマモ場のアナロジーで水草の殺藻細菌を活用したアオコ予防に関する研究を大沼で発展させました。海藻やアマモ,水草や葦に生息する有用な殺藻細菌を,赤潮やアオコの抑制戦略として活用することは,近い将来の環境に優しい世界のトレンド技術になると確信します。また,北極海での有毒プランクトン(特に麻痺性貝毒原因種)のシスト研究は,北極海で大規模な貝の毒化が起こることの警鐘となり,アラスカ沿岸住民の食の安全に寄与できたと信じています。
函館では,専門書の単著での出版,及び赤潮貝毒研究の最高峰となる専門書の編集出版という夢を果たしました。大学院教育においては,博士課程学生の学位論文審査で副査として著名な米国人科学者のヴェラ・トレイナー博士(国際有害有毒藻類学会会長)を招聘できたことに大変満足しています。北海道大学の教育研究におけるグローバル・スタンダードの構築に向け,新たな展開を例示できたと自負します。
最後に,北海道大学での教育研究生活に感謝し,本学の更なる発展を祈りつつ筆を置きます。
略 歴
| 生年月日 | 昭和28年1月6日 | |
| 昭和52年3月 | 京都大学農学部水産学科卒業 | |
| 昭和54年3月 | 京都大学大学院農学研究科水産学専攻修士課程修了 | |
| 昭和55年3月 | 京都大学大学院農学研究科水産学専攻博士課程中途退学 | |
| 昭和55年4月 | 水産庁南西海区水産研究所研究員 | |
| 昭和63年4月 | 水産庁南西海区水産研究所主任研究官 | |
| 平成元年7月 | 農学博士(京都大学) | |
| 平成2年4月 | 水産庁南西海区水産研究所赤潮環境部赤潮生物研究室長 | |
| 平成6年10月 | 京都大学大学院農学研究科助教授 | |
| 平成14年4月 | 京都大学大学院地球環境学堂助教授 | |
| 平成21年4月 | 北海道大学大学院水産科学研究院教授 |
水産科学研究院教授門谷 茂 (もんたに しげる) 氏

私が北大に入学した昭和46年の札幌は,オリンピック関係の工事などで活気に溢れていた。授業への出席率はあまり高くなかったが,その代わりにひたすらあらゆるジャンルの本を読んだ。研究者になるという漠然とした気持ちだけで入学したので,専門を選択するのにはずいぶん時間がかかった。結局「有機地球化学」という,全く食えない分野を選んでしまった。博士課程3年時に初めて応募した助手公募で何故か採用され,赤潮研究の権威であるボスのもとで植物プランクトンの培養法などを一から修行することになった。研究は,瀬戸内海などの沿岸浅海域の低次生物生産と環境因子の相互応答などを中心とする,海洋生態学と生物地球化学を融合した形で進めた。とりわけ干潟や河口域などの陸と海の接点,境界領域を主要なフィールドとして新たなアプローチを試みてきた。北大に移ってからは,道東の汽水域を中心として亜寒帯域の浅海生物生産構造を解明する努力を重ねた。未だ道半ばというのが,正直なところであるが,研究のプラットホーム作りはそれなりに出来たのではないかと自負している。
昨今,「選択と集中」ということで,業績の出にくいマイナーな学問分野は,極めて厳しい環境に置かれているが,このような部分にこそ,次世代のブレイクスルーの萌芽があるはずである。数々のフロンティアを開拓してきた北大で,マイナーな学問分野でも息長く研究が進められるような環境作りを切に願っている。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年9月23日 | |
| 昭和50年3月 | 北海道大学水産学部水産科学科卒業 | |
| 昭和52年3月 | 北海道大学大学院水産学研究科修士課程修了 | |
| 昭和55年3月 | 北海道大学大学院水産学研究科博士課程単位取得退学 | |
| 昭和55年4月 | 香川大学農学部助手 | |
| 昭和57年9月 | 水産学博士(北海道大学) | |
| 昭和62年7月 | 香川大学農学部助教授 | |
| 平成6年11月 | 香川大学農学部教授 | |
| 平成14年4月 | 北海道大学大学院水産科学研究科教授 | |
| 平成17年4月 | 北海道大学大学院水産科学研究院教授 |
地球環境科学研究院教授田中 俊逸 (たなか しゅんいつ) 氏

昭和55年理学部化学科の助手として採用され,最初の10年ほどは主に教養部の化学実験の準備や企画,そして指導を担当した。大講座制で分析化学,無機化学,物理化学,有機化学の分野の多くの先生方から学んだことがその後の研究教育に大いに役立った。とりわけ恩師の吉田仁志先生,多賀光彦先生の研究室で両先生の指導を受けるとともに,その研究室に集まっていた多彩で才能豊かな学生達と一緒に研究できたことは幸運であった。平成5年地球環境科学研究科に異動してからは,研究の方向性に苦慮したが,それまでに行ってきた計測化学,分離科学に基づいて環境修復学を立ち上げることができた。21世紀COEプログラムを契機に環境科学院が平成17年に創設され,異分野融合の新たな専攻に参画しながら,JENESYS,EPEES,PAREなど横文字のプログラムに関与する羽目となった。あっと言う間に36年が過ぎ去ったが,いずれもいまだ道半ばであり達成感はないが,退職を機に多くは後進に道を譲ることにしたい。
長きにわたり,私に教育と研究をする機会を与えてくれた北大と,私の研究教育活動を支えてくれた多くの方にこの場を借りて謝意を示したい。
略 歴
| 生年月日 | 昭和28年4月1日 | |
| 昭和51年3月 | 東北大学理学部化学科卒業 | |
| 昭和54年3月 | 北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 | |
| 昭和55年9月 | 北海道大学大学院理学研究科博士後期課程退学 | |
| 昭和55年10月 | 北海道大学理学部助手 | |
| 昭和62年6月 | 理学博士(北海道大学) | |
| 平成4年11月 | 北海道大学理学部助教授 | |
| 平成5年4月 | 北海道大学大学院地球環境科学研究科助教授 | |
| 平成11年11月 | 北海道大学大学院地球環境科学研究科教授 | |
| 平成17年4月 | 北海道大学大学院地球環境科学研究院教授 | |
| 平成25年10月 | 北海道大学大学院地球環境科学研究院副研究院長 | |
| 平成27年9月 |
理学研究院教授羽部 朝男 (はべ あさお) 氏

宇宙物理学の分野で,銀河の形成と進化に関わる理論研究を続けました。博士課程の頃に,国産のスーパーコンピューターが使えるようになり,計算方法を工夫して,当時としては世界的に見ても大規模な計算を行って研究をしました。例えば,銀河中心の巨大なブラックホールが周りのガスに与える影響を調べ,銀河構造と関連させて,ガスが巨大ブラックホールに急速に流れ込む可能性を示しました。このような過程は,宇宙の初期の銀河で巨大ブラックホールを急速に成長させる可能性の一つとして考えられています。また,銀河の形成進化にとって重要と考えられる「分子雲衝突による星形成」を調べ,その特徴を明らかにしました。最近それとよく対応する構造が名古屋大学の観測グループによって発見され,共同研究に進んでいます。さらに,宇宙論的に形成される銀河団の構造への宇宙モデルの影響なども調べました。これは,ダークマターやダークエネルギーの存在が明確になりつつあることを意識したものでした。宇宙に関する知見が大きく広がる時期に,研究に携わることができたのは大変幸運だったと思います。
大学をめぐる状況が大変厳しくなっていますが,学術を大切にする社会であってほしいと願っております。
略 歴
| 生年月日 | 昭和28年1月22日 | |
| 昭和50年3月 | 北海道大学理学部卒業 | |
| 昭和53年3月 | 北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 | |
| 昭和56年3月 | 北海道大学大学院理学研究科博士課程単位修得退学 | |
| 昭和56年4月 | 日本学術振興会奨励研究員 | |
| 昭和57年3月 | ||
| 昭和57年12月 | 理学博士(北海道大学) | |
| 昭和60年2月 | 北海道大学理学部助手 | |
| 平成3年8月 | 北海道大学理学部講師 | |
| 平成6年4月 | 北海道大学理学部助教授 | |
| 平成7年4月 | 北海道大学大学院理学研究科助教授 | |
| 平成18年4月 | 北海道大学大学院理学研究院助教授 | |
| 平成19年4月 | 北海道大学大学院理学研究院准教授 | |
| 平成23年4月 | 北海道大学大学院理学研究院教授 |
理学研究院教授泉屋 周一 (いずみや しゅういち) 氏

この度,無事定年退職を迎えることとなりました。4月からは,理学研究院特任教授として再雇用される予定なので,なにか実感がわかないと言うのが正直な感想です。
思えば,18歳で北大に入学して以来,最初の職場である奈良女子大学に居た6年余りと,英国に2度,長期滞在した1年半を除けば,ずっと札幌に居住し,北大キャンパスで研究・教育に励んできました。学生時代は大学紛争の影響もまだわずかながら残っていた時代で,当時の学生は自分も含めて随分と生意気だったように思えます。特に,最初の職場が女子大学だったため,北大に赴任した当初は,ほとんどが男子学生のクラスで教えることに少々不安な気持ちでいたことを思い出します。しかし,昭和60年当時の学生は,自分の時代と比べると,とても紳士的で,その後,可もなく不可もなく今日まで講義を続けることができました。一方,数学という抽象的な学問を研究してきた身としては,「日本は物作りの国である」という風潮にどうしても違和感を持ちながらの毎日でした。頭脳さえあれば,高額な実験設備などなくとも,いくらでも世界的な成果を上げられ,おまけに世の中の様々な構造に本質的に影響する,コストパフォーマンスの良い数学という分野の価値をもっと日本の社会は認めても良いと思います。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年7月7日 | |
| 昭和50年3月 | 北海道大学理学部卒業 | |
| 昭和53年3月 | 北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 | |
| 昭和53年11月 | 北海道大学大学院理学研究科博士課程退学 | |
| 昭和53年12月 | 奈良女子大学理学部助手 | |
| 昭和59年9月 | 理学博士(北海道大学) | |
| 昭和60年2月 | 北海道大学理学部講師 | |
| 昭和62年2月 | 北海道大学理学部助教授 | |
| 平成7年4月 | 北海道大学大学院理学研究科教授 | |
| 平成18年4月 | 北海道大学大学院理学研究院教授 |
メディア・コミュニケーション研究院教授園田 勝英 (そのだ かつひで) 氏

私が北大で英語を教え始めた頃から比べると,北大の英語教育は大きく変貌した。辞書をひたすら引きながら英文を読み進む練習をする「講読」と言われる形態の授業が表舞台から去り,様々な方法や手段が試され実践されるようになった。その変化をもたらした根本的要因は,ムーアの法則に象徴されるコンピュータの発達とそれによる社会の変化であった。今やかつてのスーパーコンピュータはポケットの中におさまり,我々の言うことを「理解」する。その一方で,過去半世紀の間に長足の進歩を遂げた言語学には,いまだに多くの根本的問題が未解決のまま残されている。英語教育学も,どういうことをどれくらいの時間をかけて学習すれば英語が「出来る」ようになるのか,今もって明確に答えられない。
このような渾沌とした状況の中で―いや,むしろそうであったからこそ―英語に関連する教育と研究に,自由にまた意欲的に取り組むことができたと思う。これを支え可能にしてくださった,同僚の諸先生,事務の方々,学生の諸君に感謝したい。しかし,この混乱はいずれ何らかの形で収束するだろうが,そのときに北大の英語教育はどのようになっているだろうか…思いは尽きない。
略 歴
| 生年月日 | 昭和28年2月8日 | |
| 昭和51年3月 | 東京教育大学文学部英語学英文学専攻課程卒業 | |
| 昭和53年3月 | 東京学芸大学教育学研究科修士課程修了 | |
| 昭和53年4月 | 小樽商科大学商学部助手 | |
| 昭和54年4月 | 北海道大学文学部講師 | |
| 昭和59年4月 | 北海道大学言語文化部講師 | |
| 昭和59年12月 | 北海道大学言語文化部助教授 | |
| 平成13年10月 | 北海道大学言語文化部教授 | |
| 平成19年4月 | 北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授 |
メディア・コミュニケーション研究院教授上田 雅信 (うえだ まさのぶ) 氏

昭和60年4月に赴任し,31年間北大にお世話になりました。最初の1年間は古河講堂に研究室があり,授業や会議の度に現在の高等教育推進機構のある建物まで自転車で通ったことを懐かしく思い出します。
私は,1950年代の半ばに誕生した,自然科学としての言語研究を標榜する生成文法と呼ばれる分野の研究に携わりました。総合大学としての知的刺激に満ちた北大の研究環境で,日本語の統語論から言語の生物学的基礎や生成文法の概念的・哲学的基盤に至るまで,広い範囲の研究テーマに自由に取り組むことができたことは大変恵まれていたと感謝しています。生成文法草創期の思想的な背景を調べていた折に,北大の図書館の書庫には1950年代前後の欧米の心理学や哲学の重要な文献がほぼ揃っており,訪れる人を待っているかのように書架に静かに並んでいるのを見て感銘を受けたことを思い出します。
大学院が新設されてからは,指導学生とともにそれまでの専門分野とは異なる語用論の分野(ポライトネス理論,指示詞,関連性理論)の研究にも触れ,研究領域を広げることができたことも幸運でした。これまで皆様から様々な形でご支援をいただいたことに心から感謝いたします。
略 歴
| 生年月日 | 昭和28年1月16日 | |
| 昭和50年3月 | 同志社大学文学部英文学科卒業 | |
| 昭和54年3月 | 上智大学大学院外国語学研究科言語学専攻修士課程修了 | |
| 昭和55年4月 | 小樽商科大学商学部助手 | |
| 昭和60年4月 | 北海道大学言語文化部助教授 | |
| 平成2年9月 | マサチューセッツ大学アマースト校大学院言語学科博士課程修了 | |
| 平成13年4月 | 北海道大学言語文化部教授 | |
| 平成19年4月 | 北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授 |
保健科学研究院教授八田 達夫 (はった たつお) 氏

昭和51年に教育学部を卒業し,胆振管内の知的障害者施設に就職しました。7年間の勤務でしたが,その時の経験は現在の専門に進む原点になりました。作業療法士の資格を得るために,昭和58年に医療技術短期大学部に入学しました。卒業後,助手に採用され,その後,作業療法学,理学療法学の分野では初の4年制課程であった広島大学医学部保健学科に異動,平成16年に保健学科に戻りました。北大での教員生活は合計19年になります。
医療技術短期大学が設置された昭和56年は国際障害者年であり,その翌々年から「国連障害者の十年」が始まりました。リハビリテーションが一層の発展を遂げた時期でした。量的拡大は進みましたが,これからは質が更に問われてくると思います。現在取り組んでいる車いすシーティング研究は助手時代から始めました。北大に戻ってから車いす・オフィスチェアの製品化を進めましたが,博士課程の大学院生が積極的に取り組む中,研究としても発展させることができました。これからの超高齢化社会においては,高齢者が楽に座れて,生活機能も発揮しやすい車いす・いすが求められます。これにはいくらかの貢献はできたかと思います。北大と保健科学研究院の一層の発展を祈念しております。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年7月2日 | |
| 昭和51年3月 | 北海道大学教育学部卒業 | |
| 昭和51年5月 | 社会福祉法人富門華会精神薄弱者更生施設富門華寮生活指導員 | |
| 昭和61年3月 | 北海道大学医療技術短期大学部卒業 | |
| 昭和61年6月 | 北海道大学医療技術短期大学部助手 | |
| 平成2年4月 | 北海道大学医療技術短期大学部講師 | |
| 平成6年4月 | 広島大学医学部講師 | |
| 平成9年4月 | 広島大学医学部助教授 | |
| 平成12年6月 | 博士(医学)(広島大学) | |
| 平成14年4月 | 広島大学医学部教授 | |
| 平成16年4月 | 北海道大学医学部教授 | |
| 平成20年4月 | 北海道大学大学院保健科学研究院教授 |
工学研究院教授奈良林 直 (ならばやし ただし) 氏

民間企業の研究所で原子力発電所の安全性向上研究や,より安全性を高めた原子力発電所の受動的安全系機器システムの研究開発プロジェクトに27年間従事し,この間,国際会議で多数の専門家と知己を得ました。また,数多くの原子力発電所の不具合対応に従事し,それを解決して論文発表や論文投稿しました。人材育成の必要性を痛感し,平成17年に北海道大学に赴任しました。大学でも安全性を高めた原子炉の研究開発を推進しました。原子力ルネッサンスと呼ばれる時代でした。しかし,平成23年3月11日の東日本大震災に起因する福島第一原子力発電所の事故が発生し,事態は一変しました。事故後5年経っても,未だに故郷に戻ることができず,避難生活を強いられている方々が大勢おいでになる状況です。原子力発電所の安全性を格段に向上させるように,国の委員会で発言すると共に,福島の復興支援を進めて参りました。福島の被災者の方と30名でウクライナに行き,チェルノブイリ原子力発電所や首都キエフの放射線医学センターの病院を訪問し,東京で「福島復興シンポジウム」を開催致しました。福島の方々が幸せを取り戻すまで,専門家としての研究活動を続けたいと思っております。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年5月1日 | |
| 昭和51年3月 | 東京工業大学工学部卒業 | |
| 昭和53年3月 | 東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了 | |
| 昭和53年4月 | 株式会社東芝の研究所 | |
| 平成17年8月 | ||
| 平成3年3月 | 工学博士(東京工業大学) | |
| 平成17年9月 | 北海道大学大学院工学研究科助教授 | |
| 平成19年2月 | 北海道大学大学院工学研究科教授 | |
| 平成22年4月 | 北海道大学大学院工学研究院教授 |
工学研究院教授古坂 道弘 (ふるさか みちひろ) 氏

若い頃に英国オックスフォードの近くの町で約1年過ごしたことがありました。冬は本当に暗い時期で,12月に向けてどんどん日没が早くなります。そんな時期を乗り切るためにクリスマスがあります。日が落ちる時間と反比例してどんどん街がクリスマスに向かって盛り上がっていきます。日本の大学のガラパゴス的「定年儀式」はその盛り上がりを思い出させます。「お年頃」になった教授たちは人が集まる場では「ご挨拶を」する機会がウナギ登りになります。委員会の委員になるのもお年頃の先生の御役目です。それが定年退職を境にがっくり減ることになります。人生80年を超えている現在,元気な年寄りたちはどうすればよいのでしょう。何もしないのは勿体ないですが,後輩たちの活躍の場を奪うのもどうでしょうね。
そんな中で,私には実現できるかどうか分からない夢が一つあります。小学校に入る前の子供から,専門の研究者,100歳のお年寄りまで,世の中の現象を理解する助けとなる「一つの同じ教材(?)」を作ることです。私は若い頃の物理を学ぶ過程で,「分からないこと(概念)」を「理解しよう」とすることをやめることができなくなり,結果的に研究者の道を歩んでしまったように思います。しかし,何が「基本の概念か」が見えてくると,物理も,あんなに大嫌いだった歴史も,スキーの滑り方も,料理も,掃除も,ファッションも,「渾然一体となった何か」で繋がっているように思えてきました。そんな「教材」ができたら,きっと接した人の人生がとても豊かになるのではないかと,そんな妄想を抱いています。退職に向かって,ビッグバンに向かって,バクシン中です。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年5月31日 | |
| 昭和52年3月 | 東北大学理学部卒業 | |
| 昭和54年3月 | 東北大学大学院理学研究科博士課程前期2年の課程修了 | |
| 昭和57年5月 | 東北大学大学院理学研究科博士課程後期3年の課程単位修得退学 | |
| 昭和57年6月 | 東北大学理学部助手 | |
| 昭和59年4月 | 東北大学大学院理学研究科博士後期課程修了 | |
| 昭和59年4月 | 理学博士(東北大学) | |
| 昭和63年4月 | 高エネルギー物理学研究所ブースター利用施設助手 | |
| 平成5年8月 | 高エネルギー物理学研究所ブースター利用施設助教授 | |
| 平成9年4月 | 高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所助教授 | |
| 平成11年6月 | 高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所教授 | |
| 平成14年4月 | 高エネルギー加速器研究機構大強度陽子加速器計画推進部教授 | |
| 平成16年4月 | 大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構 | |
| 大強度陽子加速器計画推進部教授 | ||
| 平成17年4月 | 北海道大学大学院工学研究科教授 | |
| 平成22年4月 | 北海道大学大学院工学研究院教授 |
スラブ・ユーラシア研究センター教授家田 修 (いえだ おさむ) 氏

私が30年前に北海道大学へ赴任したとき,まず思い浮かべたのは,私が大学院時代に学んだクラーク博士の教育指針です。博士は3つのことを教えたそうです。それは農学,キリスト教,そして軍事教練です。最初の2つは有名ですが,軍事教練はあまり知られていないかもしれません。当時の教程をみると,確かに兵式訓練の教科がありました。私の恩師によれば,軍事教練は単なる体力増強ではなく,独立自営の精神的鍛錬を目指すものだったそうです。それがアメリカ農民の精神でした。つまり,武器をとってでも自らと農場を守る気概です。軍事教練の教程は廃止され,時代は大きく変わりました。しかし,私の北大赴任時,自治を尊ぶ北大の気風は肌身で感じました。また先輩諸学が上下を問わず,自由闊達に議論をする校風に驚きました。この伝統を守ってゆくのが後学の使命だと考えました。
以来,4半世紀以上が経ち,平成26年に2度目の部局長就任という経験も踏まえて痛感するのは,今や大学の自治と良識が危殆に瀕していることです。大学ランキングや6年計画に振り回されず,老若男女が初心に立ち帰り,独立自営の自治精神に基づく,世界に開かれた大学を再建いたしましょう。
略 歴
| 生年月日 | 昭和28年1月15日 | |
| 昭和52年3月 | 東京大学経済学部卒業 | |
| 昭和60年9月 | 東京大学大学院経済学研究科理論経済学経済史学専門課程 | |
| 第2種博士課程単位取得退学 | ||
| 昭和61年4月 | 広島大学経済学部助手 | |
| 昭和62年3月 | 博士(経済学)(東京大学) | |
| 平成2年10月 | 北海道大学スラブ研究センター助教授 | |
| 平成7年2月 | 北海道大学スラブ研究センター教授 | |
| 平成14年4月 | 北海道大学スラブ研究センター長 | |
| 平成16年3月 | ||
| 平成26年4月 | 北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授 | |
| 平成26年5月 | 北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター長 | |
| 平成27年1月 |
人獣共通感染症リサーチセンター教授杉本 千尋 (すぎもと ちひろ) 氏

北海道大学には獣医学部,大学院修士課程以後,獣医学研究科准教授,人獣共通感染症リサーチセンター教授と27年にわたりお世話になりました。農林水産省の研究員時代にナイロビにある国際動物病研究所で3年間過ごしたのを契機に,アフリカの水になじんでしまい,本学教員となってからも科学研究費海外学術調査,国際感染症ネットワークプロジェクトなどでアフリカを中心として原虫病に関する研究活動を行ってきました。この間,多くの大学院生,博士研究員をザンビア,ウガンダ,南アフリカなどでの研究調査活動に連れ回し,海外大学の共同研究先にも放り込んできました。異色の指導方針だったかと思いますが,実験室にこもらない研究教育者を育ててきたことで本学や獣医学界に貢献できたのではないかと考えております。
4月からは特任教授として人獣共通感染症グローバルステーションの運営と感染症国際学院の立ち上げにも引き続き関わりますが,ザンビアを中心に展開する「顧みられない熱帯病対策プロジェクト」メンバーとしてアフリカトリパノソーマ症,いわゆる「眠り病」の研究にも力を入れたいと考えております。今後ともよろしくお願い申し上げます。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年8月22日 | |
| 昭和51年3月 | 北海道大学獣医学部獣医学科卒業 | |
| 昭和53年3月 | 北海道大学大学院獣医学研究科修士課程修了 | |
| 昭和53年4月 | 農林水産省家畜衛生試験場 | |
| 平成2年9月 | ||
| 昭和59年3月 | 獣医学博士(北海道大学) | |
| 昭和60年8月 | 農林水産省熱帯農業研究センター | |
| 昭和63年9月 | 国際動物病研究所 | |
| 平成2年10月 | 北海道大学獣医学部獣医学科助教授 | |
| 平成12年11月 | 帯広畜産大学原虫病研究センター教授 | |
| 平成17年9月 | ||
| 平成13年4月 | 岐阜大学大学院連合獣医学研究科教授 | |
| 平成17年9月 | ||
| 平成17年10月 | 北海道大学人獣共通感染症リサーチセンター教授 | |
| 北海道大学獣医学部獣医学科教授 | ||
| 平成25年5月 | 北海道大学人獣共通感染症リサーチセンター長 | |
| 平成28年3月 |
量子集積エレクトロニクス研究センター教授佐野 栄一 (さの えいいち) 氏

雪がほとんど降らない地方に生まれ育った者が縁あって北大に職を得,月日が経つのは早いもので,この原稿を書く歳になってしまったのかというのが正直なところです。赴任当初は,経費・既存設備などの制約から民間研究所で行っていた研究を継続することはほぼ不可能で,新たな研究テーマの探索に腐心しましたが,頭を使って,外部資金で少しずつ計測器など研究環境を整備すれば良いと割り切りました。最近は,未開拓な周波数領域であるテラヘルツ領域の研究に携わり,心踊るデータを学生たちが出してくれています。この研究領域にしても,持続可能な情報通信社会を創り出すためにもやるべきことは多く,残念ではありますが,次世代に委ねたいと思います。
前職時代のヒューマンネットワークが縁結びとなって,カーボンナノチューブに関して他部局(環境科学院)の先生と共同研究できたのは楽しい思い出です。専門分野の異なる方と協働すると,発想の違いに驚いたり,新たなアイデアが生まれたりするものです。個人レベルでも優秀な研究者が集まっている北大ですが,総合大学という強みをより活かすためには,学内の異分野共同研究をより活性化する必要があると思います。情報の流通が悪くて,発芽していない研究テーマがあるような気がします。
皆様方の益々の発展を祈念します。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年12月4日 | |
| 昭和50年3月 | 東京大学工学部卒業 | |
| 昭和52年3月 | 東京大学大学院工学系研究科修士課程修了 | |
| 昭和52年4月 | 日本電信電話公社 | |
| 平成13年6月 | ||
| 平成10年9月 | 博士(工学)(東京大学) | |
| 平成13年7月 | 北海道大学量子集積エレクトロニクス研究センター教授 |
北極域研究センター教授齊藤 誠一 (さいとう せいいち) 氏

昭和46年に本学水産類に入学して,学部,修士課程,博士課程と進学しました。昭和59年に博士号取得後,天気予報の財団法人日本気象協会で衛星情報サービス業務に関わり,10年程勤めた後に,平成5年に水産学部に助教授の職を得て赴任しました。以来,衛星リモートセンシングの漁業への応用を目指して,カツオなどの回遊魚の漁場予測に関する研究,さらには亜寒帯海域や北極海における気候変動への海洋生態系の応答研究を進めました。教育面では,漁業航海学講座を衛星海洋学講座へ変更して,衛星海洋学に関する授業を開始しました。衛星情報だけでなく,水産海洋地理情報システム(GIS)技術を応用した空間統計学を導入して,より定量的な漁場予測に関する研究とその社会実装までを行いました。本年までに直接指導した博士号取得者は,留学生8名を含む計23名です。私の研究の殆どは博士論文研究に負うところが大きく,共同研究者としての大学院生なしにはこれまでの研究は進展しなかったといっても過言ではなく,彼らに対して改めてここに深謝します。
退職1年前に新設の北極域研究センターのセンター長を仰せつかり,住みなれた函館から学士1,2年生を過ごした札幌に戻り感慨深いものがあります。退職後も引き続きセンター長(特任教授)として北極域研究センターの盤石な基盤作りに寄与してゆく所存です。
略 歴
| 生年月日 | 昭和28年2月16日 | |
| 昭和50年3月 | 北海道大学水産学部卒業 | |
| 昭和53年3月 | 北海道大学大学院水産学研究科修士課程修了 | |
| 昭和56年3月 | 北海道大学大学院水産学研究科博士課程単位取得退学 | |
| 昭和56年4月 | 日本学術振興会奨励研究員 | |
| 昭和57年4月 | 財団法人水産科学研究奨励会研究員 | |
| 昭和59年3月 | 水産学博士(北海道大学) | |
| 昭和59年8月 | 財団法人日本気象協会研究員 | |
| 平成5年2月 | 北海道大学水産学部助教授 | |
| 平成12年1月 | 北海道大学水産学部教授 | |
| 平成12年4月 | 北海道大学大学院水産科学研究科教授 | |
| 平成17年4月 | 北海道大学大学院水産科学研究院教授 | |
| 平成27年4月 | 北海道大学北極域研究センター教授 | |
| 北海道大学北極域研究センター長 |
理学研究院准教授川村 信人 (かわむら まこと) 氏

昭和48年3月に北海道大学理学部地質学鉱物学教室の3年生に進級して以来40数年,そのあいだ紆余曲折が無かったわけではなく,また自己の資質に疑問を持った時期もありましたが,節目節目でなんとなく幸運な(都合のよい?)出来事が起きて,北海道大学でずっと地質学研究の道を歩むことができました。なにはともあれ定年退職ということになりましたが,自らの来し方を見詰めると,もっと他にやり方があったのではないか,努力が足りなかったのではないか・・・と忸怩たる思いです。
私の専門分野である「地質学」については,ある意味没落の時期でもありました。しかしその社会的な存在意義自体が揺らいでいるわけではなく,たとえその形は変わっていくとしても,自然科学の中で重要な立ち位置に居続けるのではないかと楽観しています。そのプロセスに自分が関わることはもうないのかもしれませんが,希望を持って見守っていきたいと思います。
略 歴
| 昭和50年3月 | 北海道大学理学部卒業 | |
| 昭和52年3月 | 北海道大学大学院理学研究科修士課程修了 | |
| 昭和58年3月 | 北海道大学大学院理学研究科博士課程修了 | |
| 昭和58年3月 | 理学博士(北海道大学) | |
| 昭和59年4月 | 日本学術振興会奨励研究員 | |
| 昭和61年3月 | ||
| 昭和61年4月 | 北海道大学理学部助手 | |
| 平成6年4月 | 北海道大学理学部講師 | |
| 平成7年4月 | 北海道大学大学院理学研究科講師 | |
| 平成15年10月 | 北海道大学大学院理学研究科助教授 | |
| 平成18年4月 | 北海道大学大学院理学研究院助教授 | |
| 平成19年4月 | 北海道大学大学院理学研究院准教授 |
保健科学研究院准教授坂田 元道 (さかた もとみち) 氏

北海道大学に赴任して10年の月日が流れ,いよいよ定年退職を迎えることとなりました。自分が大学の教員になることなど考えてもいなかった10年前でした。28年間にわたる病院での臨床経験を少しでも学生に伝えたいと大学の一般的な講義とは異なる講義を展開したつもりです。私の講義のどこか一部でも,学生さんが将来就職して社会人(診療放射線技師など)となった時に何らかの“脳のフェイント”になれば良いと考えております。
教育の素晴らしさは,人が人を育てるというところにあると思います。これこそ人間にしかできない仕事という思いがします。学生は指導次第でどれほどまででも伸びるもの,しかしながら,私の指導の未熟さのゆえになかなか思うようにいかないことも多かったと思います。教育がすばらしいことである反面,人間の一生に良かれ悪しかれ影響を与えてしまうという恐ろしさがあるのだと思います。
10年間,最高の教員生活でした!ありがとうございました。最後に皆様のご健康をお祈りして,筆を置かせていただきます。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年10月2日 | |
| 昭和50年3月 | 北海道大学医学部附属診療放射線技師学校卒業 | |
| 昭和50年12月 | 札幌医科大学医学部附属病院診療放射線技師 | |
| 平成14年3月 | 放送大学教養学部卒業 | |
| 平成15年7月 | デューク大学メディカルセンター研究員 | |
| 平成17年9月 | 北海道大学医学部助教授 | |
| 平成19年3月 | 博士(医学)(札幌医科大学) | |
| 平成19年4月 | 北海道大学医学部准教授 | |
| 平成20年4月 | 北海道大学大学院保健科学研究院准教授 |
工学研究院准教授藤吉 亮子 (ふじよし りょうこ) 氏

昭和56年に札幌に移り住み,平成元年に北海道大学工学部助手に採用されて以来,北海道大学の広大なキャンパスで公私ともに充実した時を過ごしました。実際には,2年後(平成30年3月)に大学を去ることになりますが,自然環境が比較的多く残されたこのキャンパスそのものに,まず感謝したいと思います。そして,このような恵まれた環境で多くのことを学び,世界中に飛び立つ優秀な人材がこれからも数多く輩出されることを期待しています。
長い研究生活の中でたくさんの人とめぐり合い,いろいろなサポートをいただきました。心から感謝申し上げます。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年9月14日 | |
| 昭和50年3月 | 群馬大学工学部卒業 | |
| 昭和52年3月 | 名古屋大学大学院理学研究科博士課程前期課程修了 | |
| 昭和55年3月 | 名古屋大学大学院理学研究科博士課程後期課程単位修得退学 | |
| 昭和55年12月 | 理学博士(名古屋大学) | |
| 昭和56年1月 | 有限会社ライフサイエンス研究所 | |
| 昭和56年7月 | ||
| 昭和57年4月 | 北海道大学工学部非常勤講師 | |
| 平成元年11月 | 北海道大学工学部助手 | |
| 平成9年4月 | 北海道大学大学院工学研究科助手 | |
| 平成19年4月 | 北海道大学大学院工学研究科助教 | |
| 平成19年12月 | 北海道大学大学院工学研究科准教授 | |
| 平成22年4月 | 北海道大学大学院工学研究院准教授 |
北海道大学病院准教授松浦 亨 (まつうら とおる) 氏

この度,長きにわたりお世話になりました北海道大学を定年退職することとなりました。
高校時代進路に悩み,生物物理学を志して回り道しましたが,医学進学課程へ入学しました。基礎医学を専攻しようと決めていましたが「人がいっぱいで」と断られ,ならば「分からない事が山のようにある」分野を専攻しようと,脳神経外科学講座のなかの田代邦雄先生率いる神経内科部門に飛び込みました。2年目,4年目でチーフレジデント,5年目で日本初の神経内科専門病院の立ち上げ,地域の中核病院での診療科開設など,ほとんど寝る暇もない毎日でした。今では160名を超えた道内の専門医も,当時は私で6人目でした。当時より,仕事を楽にするために工学部のご指導のもとネットワークを,獣医学部衛生学教室では分子生物学・ウイルス学を学ばせていただきました。いわゆる「日米貿易戦争」と呼ばれる時代に,文部省の依頼をうけ出向,外務省に転じ,日米交渉も経験しました。現職は病院長補佐として病院経営の安定とセキュリティの確保,新しく国際化のための医療通訳養成に従事しております。
退職後も特任として微力ながら任に当たらせていただきますが,これまでの多方面の皆様の御支援に感謝申し上げるとともに,北海道大学がより輝かしい未来を切り開かれますことを祈念して,退職の御挨拶とさせていただきます。
略 歴
| 生年月日 | 昭和27年8月9日 | |
| 昭和54年3月 | 北海道大学医学部医学科卒業 | |
| 昭和54年7月 | 北海道大学医学部附属病院医員 | |
| 昭和56年10月 | 民間病院 | |
| 昭和62年3月 | ||
| 昭和62年4月 | 北海道大学医学部附属病院医員 | |
| 平成7年4月 | 北海道大学医学部附属病院助手(文部省専門官待遇政府調達教官として出向) | |
| 平成8年10月 | 外務省外務事務官(併) | |
| 平成10年4月 | 北海道大学医学部助教授 | |
| 平成13年4月 | 北海道大学大学院医学研究科助教授 | |
| 平成19年4月 | 北海道大学病院准教授 |
財務部経理課長大日向 孝治 (おおひなた こうじ) 氏

昭和49年に千葉大学に採用され,その後は,北海道大学,室蘭工業大学,国立教育研究所,東北大学,弘前大学と9回転任し,42年間中,他大学が15年,北大での27年は,主に財務部が12年,北大病院が10年半,他に低温科学研究所,工学部とお世話になりました。この42年間,諸先輩,同僚,後輩,また先生方には,ことある毎にご支援ご指導をいただき,無事にこの3月をもって定年を迎えることができ,感謝の言葉もありません。
採用された頃は,ガリ版で原稿を書き,輪転機で印刷した時代でしたが,タイプライターと,ワープロは異動の度に6メーカーを扱い,今ではパソコンへと時代の流れと共に進化をし,何とか対応してきました。また,病院勤務も延べ16年半と長いことから,平成7年1月17日の阪神・淡路大震災では北大病院医療ボランティアに参加して神戸に行き,同17年8月16日の宮城県沖地震では,東北大学病院で負傷した患者の受入れに奔走し,同23年3月11日の東日本大震災では,弘前大学病院でライフライン確保等の病院運営に携わったことも良い経験となりました。
ダーウィンの言葉で,『生き残れるのは変化に対応できる者』とあります。残りの人生,どれだけの変化に対応して生きていけるか,それもまた楽しみでもあります。
最後に,北海道大学の益々の発展とお世話になった皆様のご健勝とご活躍を心からお祈り申し上げます。長い間本当にありがとうございました。
略 歴
| 生年月日 | 昭和30年7月4日 | |
| 昭和49年5月 | 千葉大学人文学部 | |
| 昭和52年3月 | 千葉大学工業短期大学部卒業 | |
| 昭和52年10月 | 北海道大学医学部附属病院管理課 | |
| 昭和56年5月 | 北海道大学低温科学研究所 | |
| 昭和59年5月 | 北海道大学工学部経理課 | |
| 昭和60年10月 | 北海道大学経理部経理課 | |
| 平成2年11月 | 室蘭工業大学会計課 | |
| 平成5年4月 | 北海道大学医学部附属病院管理課 | |
| 平成8年4月 | 国立教育研究所庶務部会計課管理係長 | |
| 平成11年4月 | 北海道大学経理部第一契約課専門職員 | |
| 平成13年4月 | 北海道大学医学部附属病院管理課企画掛長 | |
| 平成15年4月 | 東北大学歯学部・歯学研究科業務課長 | |
| 平成15年10月 | 東北大学病院医療サービス課長 | |
| 平成17年4月 | 東北大学病院医事課長 | |
| 平成18年4月 | 北海道大学病院医事課長 | |
| 平成20年4月 | 弘前大学医学部附属病院経理調達課長 | |
| 平成21年4月 | 弘前大学医学部附属病院経営企画課長 | |
| 平成23年4月 | 北海道大学財務部調達課長 | |
| 平成24年4月 | 北海道大学財務部経理課長 |
医学系事務部長山内 一昭 (やまうち かずあき) 氏

私は,釧路工業高等専門学校に採用となり,北大,旭川医科大学を経験させていただきました。どの部署も素晴らしいところではありましたが,私にとっての原点は,なんと言っても「北大人事課」です。そこでの経験が自分を決定づけたと思っています。自ら「四天王」と呼ぶ掛長とそれに対抗する「ベロベロ四銃士」と称する主任とが織りなす個性豊かな集団(雑種の坩堝)の中で,仕事への姿勢,ものの考え方,コミュニケーション能力,組織とは何かを学ぶ機会を与えていただきました。その中で一番の思い出は,寒冷地手当における一時本邦外の解釈をめぐる人事院北海道事務局とのやり取りです。当時,寒冷地手当は北大に聞けと言われるほどで,当方からの質問に対し人事院の担当係長が返答に窮し,「寒冷地手当は人事院規則ではなく総理府令なので解釈権はありません」と言わしめたことです。また,人事課で出会った良き同僚,後輩にも恵まれ「若人会」という親睦会から何組ものカップルが誕生したのは喜ばしい限りです。
ここに,定年を迎えるにあたり,皆様方に感謝するとともに,次のエールを送ります。
法人化以降,事務局も部局事務も以前にまして業務が多忙化し,かつ,迅速性を求められ,加えて人件費の抑制も課せられています。事務系職員にとっては厳しい環境下ではありますが,出会いや経験を重ね,周りを思いやり,健康に気を付け,謙虚に,腐らず,常に前を向いて進んで行けば,明日はきっと,いい風が吹いてきます。
略 歴
| 昭和54年6月 | 釧路工業高等専門学校 | |
| 昭和56年9月 | 北海道大学 | |
| 平成8年4月 | 北海道大学水産学部庶務掛長 | |
| 平成11年4月 | 北海道大学総務部総務課秘書掛長 | |
| 平成13年4月 | 北海道大学総務部人事課能率掛長 | |
| 平成14年4月 | 北海道大学総務部人事課任用掛長 | |
| 平成15年4月 | 旭川医科大学総務部庶務課課長補佐 | |
| 平成17年4月 | 北海道大学総務部人事課課長補佐 | |
| 平成19年4月 | 北海道大学総務部職員課課長補佐 | |
| 平成20年4月 | 北海道大学低温科学研究所事務長 | |
| 平成22年4月 | 旭川医科大学総務部総務課長 | |
| 平成24年4月 | 北海道大学総務企画部企画課長 | |
| 平成25年4月 | 北海道大学医学系事務部長 |
歯学研究科・歯学部事務長不動 康則 (ふどう やすのり) 氏

昭和52年に北海道大学に採用になり,途中旭川工業高等専門学校での3年間の勤務を経て,この3月に定年を迎えることになりました。
20代の頃,工学部で化学系の先生や講座・学科所属の事務職員の方々と仕事をし,大変お世話になりました。また,医学部附属病院では医療系の先生や技術職員の方々に色々な教えを受けました。今思い起こすと至らないことが多々ありましたが,この若い頃の大部局での貴重な経験や様々な職種の方々との出会いが,その後の大学職員人生に大きな力を与えてくれました。
それから,医療技術短期大学部や触媒化学研究センターの事務部で多様な仕事に携わることができ,大学職員としての視野を広げることができました。
また,旭川高専から復帰後は,大型計算機センター勤務で情報基盤の重要さ,北方生物圏フィールド科学センター勤務で地方施設の役割や地域貢献の意義を勉強させていただきました。最後,情報科学研究科や歯学研究科で部局の管理業務に従事させていただき,部局運営の大変さも実感しました。
今までの部局事務部での素晴らしい経験や思い出が私の大切な財産になっています。このように多くの先生や職員の方々に支えられて定年まで職責を全うすることができ,感謝に堪えません。
略 歴
| 生年月日 | 昭和31年1月25日 | |
| 昭和49年3月 | 北海道札幌啓北商業高校卒業 | |
| 昭和52年7月 | 北海道大学工学部総務課 | |
| 昭和56年5月 | 北海道大学医学部附属病院医事課 | |
| 昭和61年4月 | 北海道大学医学部附属病院総務課 | |
| 平成元年4月 | 北海道大学医療技術短期大学部 | |
| 平成2年4月 | 北海道大学医療技術短期大学部庶務掛庶務主任 | |
| 平成4年4月 | 北海道大学触媒化学研究センター総務掛人事主任 | |
| 平成7年4月 | 北海道大学医学部附属病院総務課人事掛任用主任 | |
| 平成8年4月 | 旭川工業高等専門学校庶務課人事係長 | |
| 平成11年4月 | 北海道大学大型計算機センター庶務掛長 | |
| 平成14年4月 | 北海道大学総務部人事課専門職員 | |
| 平成15年4月 | 北海道大学総務部人事課福祉掛長 | |
| 平成16年4月 | 北海道大学総務部職員課職員厚生掛長 | |
| 平成18年4月 | 北海道大学施設部施設企画課施設企画係長 | |
| 平成19年4月 | 北海道大学施設部施設企画課課長補佐 | |
| 平成20年8月 | 北海道大学北方生物圏フィールド科学センター事務長補佐 | |
| 平成22年4月 | 北海道大学工学系事務部総務課課長補佐 | |
| 平成23年4月 | 北海道大学工学系事務部情報科学研究科事務課長 | |
| 平成25年4月 | 北海道大学歯学研究科・歯学部事務長 |
農学事務部事務長岩渕 徹也 (いわぶち てつや) 氏

昭和53年4月に北海道大学に幸運にも採用され,本年の3月で定年を迎えることになりました。
北海道大学で31年,旭川医科大学と帯広畜産大学での7年間,通算38年に亘る大学での勤務の間,多くの良き先輩,同僚,後輩,先生方に恵まれ,皆様のご指導,ご協力,ご支援により大過なく過ごさせていただきましたことを,心より感謝申し上げます。
思い出されることはたくさんありますが,様々な職務を経験できた中,昭和から平成に変わり,2000年問題であたふたし,G8大学サミット開催業務や法人化のための業務を手探りで行ったことなどが強く心に残っております。
最後に,この4月から第3期中期目標計画期間が始まる節目の年になりますが,北海道大学の益々のご発展と,お世話になった皆様方のご健勝とご活躍を心からお祈りいたします。本当にありがとうございました。
略 歴
| 生年月日 | 昭和31年2月10日 | |
| 昭和53年3月 | 明治大学法学部卒業 | |
| 昭和53年4月 | 北海道大学庶務部人事課 | |
| 昭和56年5月 | 北海道大学工学部総務課 | |
| 昭和61年4月 | 北海道大学庶務部人事課 | |
| 平成3年4月 | 北海道大学理学部 | |
| 平成6年4月 | 北海道大学庶務部庶務課 | |
| 平成7年4月 | 北海道大学総務部総務課 | |
| 平成8年4月 | 旭川医科大学総務部庶務課係長 | |
| 平成12年4月 | 北海道大学総務部人事課掛長 | |
| 平成15年4月 | 北海道大学総務部人事課専門職員 | |
| 平成16年4月 | 帯広畜産大学企画総務部総務課課長補佐 | |
| 平成19年4月 | 北海道大学学務部学生支援課課長補佐 | |
| 平成19年12月 | 北海道大学学術国際部国際企画課課長補佐 | |
| 平成21年4月 | 北海道大学メディア・観光学事務部事務長 | |
| 平成23年4月 | 北海道大学北キャンパス合同事務部事務長 | |
| 平成26年4月 | 北海道大学農学事務部事務長 |
北海道大学病院診療支援部長堀 享一 (ほり きょういち) 氏

私は理学療法士及び臨床工学技士として民間の病院で就労したあと,平成11年4月より北海道大学医学部附属病院に理学療法士として入職いたしました。当時,北海道大学病院は国立大学で数少ない「リハビリテーション医学講座」とリハビリテーション科専用病床を有する大学病院として注目を集めており,そういった職場で働くことに大きな緊張と意欲を感じていたことを覚えています。
平成16年度からの国立大学法人化を前にした平成15年10月より,北海道大学病院に医師・薬剤師・看護師等を除く医療技術系職員を一元的に組織する「診療支援部」が設置され,その業務に関与することになりました。診療支援部は設置後12年間を経過し,職員数は設置時の約2倍の240名を超え,12職種の多様な職員が多彩な臨床場面で働いています。国立大学法人化以降の変動は,種々の医療環境の変化もあいまって,北海道大学病院に大きな変動をもたらしたと思いますが,変化を続ける環境のなかで周囲の方々のご援助をいただきながら定年退職を迎えることができました。この場をお借りして感謝の気持ちをお伝えすると共に皆様のご多幸をお祈りいたします。
略 歴
| 生年月日 | 昭和31年3月31日 | |
| 昭和53年4月 | 民間病院 | |
| 平成11年3月 | ||
| 昭和53年6月 | 室蘭工業大学機械工学科卒業 | |
| 昭和63年3月 | 名古屋大学医療技術短期大学部理学療法学科卒業 | |
| 平成11年4月 | 北海道大学医学部附属病院理学療法部主任理学療法士 | |
| 平成15年10月 | 北海道大学医学部・歯学部附属病院診療支援部副診療支援部長・ | |
| 理工部門技師長 | ||
| 平成26年4月 | 北海道大学病院診療支援部長 |
北海道大学病院看護部長川畑 いづみ (かわはた いづみ) 氏

昭和52年北海道大学医学部附属看護学校卒業以来,39年を北海道大学病院でお世話になりました。循環器内科病棟,小児科病棟,外来,放射線科検査室,眼科病棟,脳神経外科・神経内科病棟,看護部を経験いたしました。この間,患者さんやご家族から沢山の人生を学び,看護を深く考える機会をいただきました。また,諸先輩や同僚からの教えに支えられて大好きな職業を定年まで続けられたことに感謝しております。看護部長としての8年間は北海道大学第2期中期計画の中にあり,病院経営の安定,高度医療提供を担う専門性の高い看護職の育成,チーム医療を目標に看護部の組織づくりを行ってきました。残された課題はありますが,バトンを繋ぐ区切りは付けられたと思っています。
最後に,北海道大学病院は,診療・教育・研究において最先端を走り続けることでしょう。その一翼を担うであろう若い看護師たちが医療の進歩・社会情勢の変化を柔軟に受け止め,チーム医療のキーパーソンとして看護を発展していってくださることを期待しております。
長い間,大変お世話になりまして誠にありがとうございました。北海道大学,そして北大病院の益々の発展を心からお祈りしております。
略 歴
| 生年月日 | 昭和30年5月12日 | |
| 昭和52年3月 | 北海道大学医学部附属看護学校卒業 | |
| 昭和52年4月 | 北海道大学医学部附属病院看護部 | |
| 平成3年11月 | 北海道大学医学部附属病院看護部副看護婦長 | |
| 平成6年4月 | 北海道大学医学部附属病院看護部看護婦長 | |
| 平成11年4月 | 北海道大学医学部附属病院看護部副看護部長 | |
| 平成17年3月 | 北海道医療大学大学院看護福祉学研究科修士課程修了 | |
| 平成20年4月 | 北海道大学病院看護部長 |