名誉教授 鈴 木 朝 英 氏(享年92歳) |
鈴木朝英(すずきともひで)北海道大学名誉教授は,2000年9月11日に呼吸不全に陥り,札幌において逝去した。
以下に閲歴を記し,哀悼の意に代える。
鈴木朝英名誉教授は,1909年4月23日,東京府に生まれ,高等師範学校附属中学校・浦和高等学校を経て,1933年3月に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業した。ただちに,東京府豊島師範学校に勤務し,歴史の授業を担当した。同時にイギリスのインド支配,フランスのインドシナ統治の歴史研究に携わり,「英領印度の成立過程」(『世界歴史大系』第8巻,平凡社,1934),「仏蘭西の印度支那侵略」(『世界文化史大系』第19巻,誠文堂新光社,1938)などを発表した。
1940年5月に財団法人善隣協会回教圏研究所研究員に転じ,インドシナ半島の回教圏の調査研究に従事した。1944年3月には陸軍司政官に任ぜられ,敗戦までマレーにおいて回教圏における共同体・社会階層の研究に従事した。復員したのは1946年2月14日である。1946年4月から1950年9月までの間は,国立教育研修所(現在の国立教育研究所)研究員として,社会科の方法について調査研究と普及活動に従事し,「社会科における歴史学習」(『社会科』第2巻,社会科教育研究社,1948年)などを発表した。
1950年9月15日,初代教育学部長となった城戸幡太郎に請われて北海道大学教育学部教授(教育史学講座)として着任した。1973年4月1日に停年退官するまで,イギリス支配下のインドにおけるインド国民会議派の教育運動と村落共同体とのかかわり,および比較教育学の方法に関する教育と研究に従事し,「植民地インドにおけるイギリスの教育政策」(『講座 世界の教育』第1巻,共立出版,1958),『比較教育』(国土社,1958),『民主教育の理論』上下(明治図書,1967)などを発表した。
1961年4月1日から1964年3月31日まで教育学部長を務めた。1961年4月1日から1964年3月31日まで,1965年6月1日から1967年5月31日まで,1967年10月1日から1969年10月1日まで,1970年1月15日から1972年1月14日まで,評議員を務めた。また,1967年10月2日から1969年10月1日までは,堀内寿郎学長の下で学生部長の重責を担った。
この間,1965年3月31日から1987年6月1日までは日本比較教育学会理事を,1974年11月1日から1988年3月31日までは北海道教育学会会長を務めた。
停年退官後の1973年4月7日から4年間,名寄女子短期大学学長を務めた。その後,1977年4月7日から1985年3月31日まで札幌商科大学人文学部(現在の札幌学院大学)教授を務めた。
既に明らかなように鈴木朝英名誉教授は,教育学部の現在にいたる歴史の前半を支えたのみならず,長く管理運営の中枢にあって北海道大学の発展に力を尽くした。
研究者としては,インド・インドシナの村落共同体に関する精緻な知識と実態調査を踏まえ,対象地域に固有の発展の論理を見出す立場を徹底した。単純な比較を厳に排したのである。そして,大学院ゼミでは厳密な史料批判を求める叱声が響いた。
教育者としては,その講義は常に韜晦に満ちていて学生には難解であったが,人物は繊細かつ快活で,接したどの学生にも《ちょうえいさん》と親われた。草創期の教育学部において,鈴木朝英名誉教授のように家族を伴って札幌に暮らす教授は稀であり,学生の都合でいつ研究室を訪ねてもいつでも会える,学生・職員との距離が小さい「人間くさい」《ちょうえいさん》であった。
(教育学研究科・教育学部)
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