このたび,本学関係者の次の8氏が平成12年秋の叙勲を受けました。
各氏の長年にわたる教育・研究等への功績とわが国の学術振興の発展に寄与された功績,あるいは医療業務等に尽力された功績に対し,授与されたものです。
各氏の受章に当たっての感想,功績等を紹介します。
(総務部総務課)
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○岡 島 秀 夫 氏
この度,叙勲の栄誉を受け,真に光栄に存じます。推薦の衝にあたってくださった方々に心から御礼申し上げます。
学生時代,本学農学部農芸化学科の第一講座で,今なお矍鑠(かくしやく)として活躍しておられる恩師,現日本学士会員石塚喜明先生に土壌肥料学研究の手ほどきをご教示いただき,爾来(じらい)その分野の道を歩むことになりました。しかも1968年には思いがけなくも,石塚先生が創設された本学の土壌学講座に招かれました。
それまで,東北大学農学研究所に奉職し,主に養水吸収などイネの栄養生理の研究に従事してきましたので,微力ながらその経験を生かして,土に育つ作物の目を通して土壌の研究をしようと考えました。
具体的には根が土に直接接している土壌溶液の動態に焦点を置いて,土が作物の要求に応じて養水分を供給する仕組みの解明を試みました。しかし,時々刻々変化する土壌溶液の実体を定量的に捉えることは,極めて難しいものでした。幸い佐久間敏夫本学名誉教授,波多野隆介教授始め多くの共同研究者のご協力により,その巧みな美しい仕組みを垣間見ることが出来,土の働きにすっかり魅了されてしまいました。そしてその仕組みを農業に生かす手立てに想いを馳せながら,思い出多い北大生活を過ごすことができました。
この機会に,師に恵まれ,同輩に恵まれ,後輩に恵まれて教育・研究に携わる機会を与えられた幸せを改めて噛みしめ,ご指導,ご支援いただいた皆様に心から御礼申し上げます。
略 歴 等 |
生 年 月 日 | 大正13年2月22日(76歳) |
出 身 | 北海道 |
昭和22年9月 | 北海道帝国大学農学部農芸化学科卒業 |
昭和22年6月 | 厚生省東京衛生試験所助手 |
昭和24年5月 | 東北大学農学研究所助手 |
昭和30年3月 | 東北大学農学研究所講師 |
昭和36年3月 | 農学博士(北海道大学) |
昭和39年4月 | 日本土壌肥料学会賞 |
昭和43年4月 | 北海道大学農学部助教授 |
昭和45年4月 | 北海道大学農学部教授 |
昭和45年4月
昭和61年3月 | 日本土壌肥料学会評議員 |
昭和49年4月
昭和51年3月 | 日本土壌肥料学会北海道支部長 |
昭和54年2月
昭和56年1月 | 文部省学術審議会専門委員 |
昭和57年4月
昭和59年3月 | 日本土壌肥料学会北海道支部長 |
昭和58年4月 | 北海道大学農学部長 |
昭和57年7月
昭和59年10月 | 日本学術会議農業科学研究連絡委員会委員 |
昭和62年3月 | 北海道大学停年退官 |
昭和62年4月 | 北海道大学名誉教授 |
平成元年4月 |
北海道櫻井産業学園理事
道都短期大学学長 |
平成元年9月
平成6年5月 | 北海道農業フロンティア研究会会長 |
平成3年4月 | 道都短期大学部学長 |
平成9年3月 | 道都短期大学部退職 |
平成9年4月 | 道都短期大学部名誉教授 |
功 績 等
岡島秀夫名誉教授は,大正13年2月22日北海道に生まれ,昭和22年9月北海道帝国大学農学部農芸化学科を卒業,同年6月厚生省東京衛生試験所助手に採用され,同年12月同試験所厚生技官を経て,同24年5月東北大学農学研究所助手に転任し,同30年3月同講師,同43年4月北海道大学農学部助教授,同45年4月同教授に昇任し,農芸化学科土壌学講座担任となり,同56年8月から同58年4月まで同大学評議員,同58年4月から同62年3月まで同大学農学部長および同大学評議員を併任し,同62年3月停年により退職,同年4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。その後,平成元年4月北海道櫻井産業学園理事および道都短期大学学長に就任し,同3年4月組織改変により道都大学短期大学部学長となり,同9年3月に退職,同年4月道都大学短期大学部名誉教授の称号を授与されました。
この間,同氏は永年にわたって,東北大学,北海道大学,道都大学での教育に努め,また作物生産と土壌肥沃度について,水稲の栄養生理に関する研究,水稲根群の生理機能に関する研究,土壌溶液に関する研究,土壌の養水分供給に関する研究を幅広く行ってきました。
東北大学農学研究所においては,1950年代のわが国の稲作の生産性向上のために,稲の栄養生理学的研究を展開しました。低位生産性水田では還元状態になりやすく,そのために発生する硫化水素により根の養水分吸収が阻害されることが原因であったが,その程度が稲の栄養状態により大きく変わり,十分な肥培管理を行うと,稲の根の酸化力が強まり硫化水素発生を抑制し,生産性が向上することを見出しました。
このことから,さらに根群と地上部生育の相互関係に関する研究を行い,まず,根群は分化発生するさまざまな年齢の異なる活力をもつ根の集まりであるが,その根群全体の生理機能は,構成根それぞれの地上部との関係と,構成根相互の相補的関係のもとに動的に発現していることを明らかにしました。そして,さらにこの機能が,根群の発達に対応する体内の栄養状態の変化に依存して生じる相対的機能であることを明らかにしました。そのために植物生育は究極的には,根群土壌の養水分環境に大きな影響を受けることを明らかにしました。
それらの成果に基づき,北海道大学農学部では,土壌からの養分供給の場である土壌溶液の濃度組成の解析を行い,養分供給のストックである固相と土壌溶液の関係を,容量因子と強度因子の関係として描き出しました。さらに,実際の根への養分供給には,土壌溶液から根への養分の移動速度が重要であることも明らかにし,容量因子と強度因子そして速度因子の3者が土壌の根への養分供給能を決定することを明らかにしました。
また1980年以降における過剰施肥の問題に対して,作物が吸収できずに土壌中に余った栄養塩の地下水や河川への流出を検討し,土壌中の粗大な孔隙により予想より早く汚染が生じる可能性が高いことを明らかにしました。
これらのことから,個々の圃場における土壌診断,作物栄養診断が生産性の維持と環境の保全に欠かせないものであることを明らかにしています。
それらの業績のうち,「水稲根の栄養生理機能に関する研究,とくに窒素栄養を中心にして」に対して,昭和36年3月北海道大学から農学博士の学位を授与され,さらに同39年4月日本土壌肥料学会賞を受賞しました。
同人は,特に北海道大学農学部では,土壌学講座教授としての教育と研究のほか,農学部長および評議員として,大学改革に取り組み,今日の学部と大学院における教育研究体制の基礎を作り,同大学および同大学農学部の発展に尽力しました。
学外においては,昭和45年4月から同61年3月まで日本土壌肥料学会評議員,同49年4月から同51年3月までと同57年4月から同59年3月まで同学会北海道支部長,同54年2月から同56年1月まで文部省学術審議会専門委員(科学研究費分科会),同57年7月から同59年10月まで日本学術会議農業科学研究連絡委員会委員,同59年11月から同60年7月まで同会議土壌肥料科学研究連絡委員会委員を歴任し,広く我が国農学の教育研究の発展に尽力するとともに,同55年6月から同57年1月まで北海道公害対策審議会委員,同59年1月から同62年3月まで北海道科学技術審議会委員を歴任し,地域の科学技術,産業振興の指導にも大きく貢献しました。またアメリカ,インド,中国などの大学,研究所を数多く訪問し,研究活動を通して国際交流にも力を注ぎました。さらに平成元年9月から同6年5月まで北海道農業フロンティア研究会会長に就任し,地域における産官学の共同研究を推進しました。
以上のように,同氏は,昭和22年9月に北海道帝国大学を卒業以来永年にわたって,教育者,研究者として優れた多くの業績をあげ,学術の振興,人材の養成,大学行政および地域社会振興,国際交流に多大な貢献をなし,その功績はまことに顕著であります。
(農学研究科・農学部)
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○木 下 誠 一 氏
このたび叙勲の栄に浴し,大変な光栄であります。恩師故吉田順五先生はじめ,これまでにお世話になりました先輩,後輩の皆様に深く感謝したいと思います。
私は,昭和22年に北大理学部物理学科を卒業して,故郷小樽で高校(現潮陵高校)の教官をしていたのですが,昭和25年に先輩の小島賢治先生のおすすめで,低温科学研究所の助手になりました。以来37年間低温科学研究所にお世話になりました。吉田順五先生の指導をうけて,霧,積雪の硬度,積雪の薄片作り,積雪の力学特性,凍上などについて,研究を重ねてきました。この頃は雪氷学の黎(れい)明期ともいえる時代で,研究の展開がいつも新鮮で非常にやりがいがあったと思います。昭和39年凍上学部門が新設されるに伴い,部門主任教授になり,以来凍上の研究に専念してきました。昭和47年には凍上の現場観測を目的に苫小牧演習林内に凍上観測室が作られ,研究が飛躍的に進んだように思います。この頃から人工的に土を凍らす凍結工法,低温液体(LNG)の地下貯蔵にともなう周辺地盤の凍結の問題が出てきて,全国的に土の凍結の研究が展開されるようになりました。昭和60年には国際地盤凍結シンポジウム(ISGF)が札幌で開かれ,国内外の学者を招いて,盛大に行うことが出来ました。私はその時の実行委員長をつとめさせていただきました。また土の凍結の地球上における極限ということで,永久凍土の調査を企画し,シベリア,アラスカ,カナダに数度にわたり,海外学術調査をしました。これが現在福田正己教授を中心とする北大内のユーラシア研究グループへとつながっているようで大変心強く思います。昭和55年から6年間低温科学研究所の所長をつとめましたが,昭和59年に中曽根首相が北大に訪れ,低温研を見学され,低温研のなかで,教官,学生との懇談会がもたれました。低温研の建物の内外がものものしい警備陣で囲まれ,大変であったことが思いだされます。退官後,現在紋別にありますオホーツク流氷科学センター(科学博物館)に関係して,流氷についての科学知識の普及につとめています。青少年の理科ばなれが問題の今日,大事なことと思っています。
終わりに,21世紀にむけ北海道大学の益々の発展を祈念します。
略 歴 等 |
生 年 月 日 | 大正13年2月16日 |
出 身 | 北海道 |
昭和22年9月 | 北海道帝国大学理学部物理学科卒業 |
昭和22年11月 | 東和ゴム株式会社入社 |
昭和23年5月 | 北海道立小樽高等学校講師 |
昭和24年4月 | 北海道公立学校教員に任命 |
昭和25年3月 | 北海道大学低温科学研究所文部教官 |
昭和35年5月 | 北海道大学低温科学研究所講師 |
昭和36年5月 | 理学博士(北海道大学) |
昭和38年2月 | 北海道大学低温科学研究所助教授 |
昭和39年4月 | 北海道大学低温科学研究所教授 |
昭和41年10月 | 日本雪氷学会学術賞受賞 |
昭和50年4月
昭和51年3月 | 土質工学会土質基礎工学ライブラリー23.編集委員長 |
昭和52年6月
昭和59年5月 | 日本雪氷学会北海道支部長 |
昭和55年4月
昭和61年4月 | 北海道大学低温科学研究所長・北海道大学評議員 |
昭和55年4月
昭和62年9月 | 国立極地研究所評議員 |
昭和57年4月
昭和58年3月 | 土質工学会土質基礎工学ライブラリー23.編集委員長 |
昭和57年4月
昭和59年3月 | 土質工学会・凍土の力学的特性に関する研究委員会委員長 |
昭和59年2月
昭和63年1月 | 学術審議会専門委員(科学研究費分科会) |
昭和59年4月
昭和60年8月 | 国際地盤凍結シンポジウム開催委員会委員長 |
昭和59年7月 | 国際雪氷学シンポジウム実行委員長 |
昭和59年10月 | 北海道新聞社文化賞(科学技術賞)受賞 |
昭和61年10月 | 日本雪氷学会功績賞受賞 |
昭和62年3月 | 北海道大学停年退官 |
昭和62年4月 | 北海道大学名誉教授 |
昭和62年4月
平成6年3月 | 北星学園大学教授 |
平成元年4月 | 北海道立オホーツク流氷科学センター所長(初代)(現在まで) |
平成元年10月 | 土質工学会功労賞受賞 |
功 績 等
木下誠一氏は,昭和25年より37余年にわたり,北海道大学低温科学研究所に在職し,雪氷学および地盤工学の研究に努められました。
研究の領域は広範多岐に及んでおり,研究経歴の前半には積雪物理学,特に力学的性質の研究を行いました。また後半では,土や地盤の凍結とそれに伴って発生する凍上の機構の研究を展開いたしました。積雪の力学的性質については,雪粒同士が相互に連結し,空間的に三次元網目を形成した構造であり,これが時間経過とともに変化することで,力学的な性質も変化する過程を明らかにしました。この研究に関連して,積雪の衝撃に破壊実験を多数行い,それらの成果に基づき,野外で積雪の強度を決定する方法と装置「木下式積雪強度計」を開発しました。これは,雪崩の予知や道路積雪の滑り予測など,幅広く応用され,現在も土木や関連する現業機関で使用されております。また積雪の三次元的空間構造を解明するために,積雪試料をアニリンで固定し,それを薄片化して顕微鏡下で解析する新たな手法を開発しました。この研究業績に対して,昭和41年度日本雪氷学会学術賞が授与されました。積雪力学の研究の過程で,同氏によって開発された新たな研究手法は,いわば今日の雪氷学の基礎を成すものであり,その業績は高く評価されております。
昭和39年に低温科学研究所に凍上学部門が設置され,木下氏はその部門主任として,新たな雪氷災害関連の研究領域の推進に努力されました。苫小牧演習林内に凍上観測室を設置し,野外の条件下での凍上の発生機構に関する実験的研究を実施しました。凍上現象は,土の凍結過程でそのなかの水分が,凍結線(0℃近傍)に吸い寄せられることで,凍土中の氷が析出し,その結果体積膨張を引き起こすことで,地面が隆起することがあります。そのため北海道のような寒冷地域では,道路に亀裂が発生したり,あるいは建造物に損害を与える凍上災害の原因となります。従って凍上機構の解明は,理学的な見地のみならず,土木工学的見地からも,その解明が望まれております。こうした理学と工学にまたがる学際的な視野から,木下氏は多くの研究プロジェクトを官学民との協力で推進いたしました。その一例が,液化天然ガスの地下式貯蔵の建設指針の提案があります。この課題に対して,木下氏を委員長とする建設指針策定の委員会が,通産省指導の基に置かれ,多くの研究成果に裏付けられて,具体的な提案がなされました。以降,この液化天然ガスの地下貯蔵タンクは,首都圏を中心に多数建設され,安定したエネルギー供給を確立するにいたりました。
最近問題となっている地球環境の温暖化が,北極圏の永久凍土に与える影響について,昭和42年には,当時その立ち入りが制限されていたシベリア地域での現地海外調査を実施しました。その後アラスカ・極地カナダでの永久凍土調査を行い,地球環境変動との関わりでの永久凍土調査の先駆けとなりました。
大学院教育においても,理学研究科地球物理学専攻で多くの大学院生を受け入れ,またそうした大学院生の博士号授与にいたる指導を行いました。
学外の活動としては,昭和52年より59年まで日本雪氷学会北海道支部長として,学会の発展に努力され,これに対して昭和61年に日本雪氷学会功績賞が授与されました。また一連の凍上現象に関する研究成果に対して,昭和59年北海道新聞社文化賞が,さらに平成元年土質工学会功労賞が授与されました。
以上のように,木下氏は雪氷学,凍上学の基礎的分野において多くの優れた研究業績を挙げ,わが国の学術上の進歩に貢献してこられました。それと共に後進の指導育成に尽力し,雪氷災害対策にも力を発揮してこられました。その業績はまことに顕著なものであります。
(低温科学研究所)
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○有 田 隆 一 氏 
この度の秋の叙勲にさいし,その光栄に浴すことの出来ましたのは,仕事仲間の心からの協力や諸先輩,同僚そして多くの教職員の方々の永年にわたる御指導と御支援のたまものと心より御礼申し上げます。
昭和23年大学卒業後,北大に参ります迄の間は,戦後米国からの薬学視察団の勧告により生まれた京大薬学部の薬剤学講座で,新しい薬学のありかたを真剣に議論し考えながら,思うままに自由に研究させていただきました。そしてその間の研究により今日の生物薬剤学の方向性を形造ることが出来たものと自負しております。
2000年の歴史をそのまま残している古都京都から新しい活気溢れる北の都札幌に移ってきたのは昭和40年でした。春には一度に咲き競う多くの花々,秋には全山紅葉の美しさに感動すら覚えました。そして黄金色に輝く銀杏並木の下を散策したことが懐かしく,今でも昨日のことの様に思い出されます。
赴任して参りました薬学部では薬剤学講座担当教授として私の今まで行ってきた研究を始めたのですが,ここでは初めての研究分野でもあり,多少の苦労はありましたものの幸い多くの人に恵まれ,それなりの研究成果を上げることが出来ました。
昭和53年に医学部附属病院の薬剤部に新たに教授職が出来ました。その時まで私が薬剤部長を併任しておりました関係上,その担当として薬剤部から移り,医学部の教授会のメンバーとなりました。
ここでは薬剤部の業務の指導や整理に多くの時間を割きながらも,多数の人材を得ることが出来,さらに臨床そして基礎からも多くの支援を得て,大きく研究を発展させることが出来ました。そしてこの分野の研究では常に北大が先端を走ってまいりました。
また研究室からは多くの人材を世に送り出す事が出来ましたことも,私にとりましてこの上ない大きな喜びでありますとともに,皆様方の暖かい御支援のおかげと感謝しております。
終わりに,私を育てて頂いた北海道大学の益々の発展を祈ってやみません。
略 歴 等 |
生 年 月 日 | 大正12年7月17日(77歳) |
出 身 | 大阪府 |
昭和23年3月 | 京都帝国大学医学部薬学科卒業 |
昭和23年4月 | 京都大学医学部附属医院医員 |
昭和24年6月 | 京都大学医学部附属病院助手 |
昭和31年6月 | 薬学博士(京都大学) |
昭和32年12月 | 京都大学医学部助教授 |
昭和35年4月 | 京都大学薬学部助教授 |
昭和40年5月 | 北海道大学薬学部教授 |
昭和53年4月 | 北海道大学医学部附属病院教授 |
昭和62年3月 | 停年退官 |
昭和62年4月 | 北海道大学名誉教授 |
昭和62年4月
平成2年3月 | 武庫川女子大学薬学部教授 |
平成2年4月
平成5年3月 | 武庫川女子大学大学院薬学研究科教授 |
功 績 等
有田隆一氏は,永年にわたり学生の教育,研究指導にあたられ,多くの研究者,医療従事者等を養成され,大学研究機関,診療機関をはじめ各界に優秀な人材を送り出されました。
同氏の研究分野は医薬品の化学的微量定量法の開発と医薬品の生体内動態の研究全般にわたっており,これらを通じて我が国の薬剤学の創設に参画され,医療との関連性の面から同分野の発展に大きく貢献されました。特に生物薬剤学の学問的体系の確立と発展に果たされた役割は大きく,これらは今日の臨床薬理学,薬物治療学及び医療薬学などに取り入れられ,発展の基盤となっております。その中でも医薬品の吸収と排泄に関する研究は,その成果として厚生省の新薬製造承認に際しての必要な研究資料として提出が義務付けられるまでになり,医薬品の有効性・安全性を裏付ける一基準を確立されたことは特筆されるものであります。
また,化学療法剤をはじめとする多くの薬物の生物薬剤学的研究は国の内外で高く評価されその研究内容と実験方法は,いち早くアメリカ合衆国に導入され,現在,医学・薬学の世界的な研究の一つの流れとなっており,同氏による著書「生物薬剤学」は,この分野における我が国最初の著書として今日まで広く用いられることとなり,中華人民共和国で翻訳され,この分野における最初の外国図書として同国の医学・薬学教育の教科書,参考書として繁用されております。これらの研究成果は世界の学会の注目を集めることとなり,昭和40年社団法人日本薬学会奨励賞,昭和58年社団法人日本病院薬剤師会病院薬学賞を受賞されました。学会活動としては,社団法人日本薬学会の評議員,理事並びに日本化学療法学会の評議員を務め,これらの学会の発展に寄与するとともに,社団法人日本病院薬剤師会の理事を永年務められ,病院薬剤部の運営と医薬品の適正使用並びに薬剤師の卒後教育等に尽力されました。
学内においては,医学部附属病院薬剤部長として病院の管理運営に参画されるとともに,学生部委員,大学院委員,入学試験委員,留学生会館委員等を務められ,大学行政の円滑化に尽力されました。また,武庫川女子大学では,大学院薬学研究科博士課程の新設にも中心的役割を果たされ,同研究科の設置と発展に尽力されました。
学外においては,学術審議会専門委員(科学研究費分科会)として学術振興に貢献されるとともに,薬剤師国家試験委員として薬剤師教育の向上と資格審査の適正化を図られ,我が国の薬学教育・薬剤師教育に対する指針の作成に尽力されるとともに,北海道地方薬事審議会委員,札幌市洗剤検討委員会委員を歴任され,地域の医療,衛生等の向上に貢献され,これらの功績により昭和61年北海道社会貢献賞(薬事功労者)を受賞されました。
以上のように,同氏は終始,教育と自らの研究推進及び研究指導を通して,我が国の薬学に,医療に直結する新たな学問分野を構築されるとともに,新薬製造承認の際の有効性・安全性の確立,地域社会の医療,衛生等の向上に尽力され,その功績は誠に顕著なものであります。
(医学部附属病院)
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○岡 澤 養 三 氏
今般,文化の佳日にあたり,図らずも叙勲の栄を忝(かたじけな)く致しましたことは,誠に身に余る光栄と存じ,内心忸怩(じくじ)たるものがございます。
これ偏(ひとえ)に御指導,御鞭撻を賜りました多くの方々のご厚情の賜物(たまもの)と改めて深く感謝致します。
顧みれば,昭和16年3月北海道帝国大学予科農類に入学して以来,昭和62年3月停年退官まで,約半世紀にわたり北大のお世話になりました。
昭和20年,戦争も終りやっと自由な空気を吸えるようになった時,農学部の農業生物学科に進学できましたが,これがつい昨日のように思われます。
昭和23年4月,卒業し生物学科植物生理学講座の副手として奉職しました。その頃は恩師の故田川隆教授が復員したばかりで,食料不足の真っ只中にあり,毎日芋やカボチャで飢えを凌いでいた状況でした。帰任早々の先生は“これからの北海道は馬鈴薯だ”と御指摘になり,その後,教室は一貫してこの作物に対する生態生理学研究を続けてきました。当時,お米は冷害続きでしたが,皮肉なことに,こんな年ほど馬鈴薯の出来が良く,実験材料に事欠くことがありませんでした。
しかも,材料の残りは貴重な食料として有難く頂き,新たな元気を取り戻し,また実験を続けたことを記憶しております。この芋の生育には,日照,温度など環境条件の好適な組合わせが必要であり,北海道の気象条件が非常に良く,馬鈴薯の生育に適合しており,美味しい芋が沢山生産されました。しかし,これらの条件も一寸くるうと二次生長のような生理障害を起こし,売り物にならない瘤状芋を作ります。このように,生態生理学の研究対象として極めて優れており,この芋ができるメカニズムを知ることは極めて興味ある問題でした。そこで,少ない研究費のもとでしたが,この作物の器官培養,組織培養から細胞培養等,当時としては珍しい研究ができ,極めて恵まれた研究環境の下で伸び伸びと仕事できたのは誠に幸せでした。
このように過ごしているうちに,昭和62年3月となり停年を迎えました。この間多くの教室員や院生諸君の多大の御協力により,一定の成果を挙げることが出来ましたのは,誠に有難いことと痛感しております。
従って,この叙勲の栄誉は私個人としてよりも,教室全員に与えられたものとしてお受け致し,感謝の気持ちを表したいと存じます。
略 歴 等 |
生 年 月 日 | 大正12年7月23日(77歳) |
出 身 | 東京都 |
昭和23年3月 | 北海道大学農学部農業生物学科卒業 |
昭和23年7月 | 北海道大学農学部副手 |
昭和23年11月 | 北海道大学農学部文部教官 |
昭和26年3月 | 北海道大学農学部助手 |
昭和28年9月 | 北海道大学農学部助教授 |
昭和35年12月 | 農学博士(北海道大学) |
昭和40年9月
昭和59年10月 | 植物化学調節研究会評議員 |
昭和45年4月 | 日本作物学会賞 |
昭和47年4月
昭和63年3月 | 日本作物学会評議員 |
昭和48年4月 | 北海道大学農学部教授 |
昭和56年8月
昭和60年8月 | 北海道大学農学部附属植物園長 |
昭和56年1月
昭和57年12月 | 日本植物学会北海道支部会会長 |
昭和57年4月
昭和59年3月 | 日本作物学会紀事編集委員会委員長 |
昭和62年3月 | 停年退官 |
昭和62年4月 | 北海道大学名誉教授 |
平成7年4月 | 北大植物園後援会会長 |
功 績 等
岡澤養三名誉教授は,大正12年7月23日東京市に生まれ,昭和23年3月北海道大学農学部農業生物学科を卒業後,同7月北海道大学農学部副手として農業生物学科に採用されました。同23年11月文部教官に任命され,同24年5月北海道大学農林専門部を兼務し,同26年3月農学部助手を経て,同28年9月助教授に昇任,同35年8月アメリカ合衆国コロラド大学に留学,同36年8月帰国後,同48年4月教授に昇任し,農業生物学科作物生理学講座担任となり,その間同56年8月から4年間にわたり農学部附属植物園長を務めた後,同62年3月停年退職し,同4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。北海道大学退職後は,昭和62年4月より植物バイオテクノロジーによる地域産業発展のためにボランティア活動として民間研究者の研究指導等を行い,また,平成7年4月には北方植物資源の保全活動を援護する目的で北大植物園後援会を設立し会長を務め,今日に至っています。
この間同氏は,永年にわたって,作物生理学の教育,研究に努め,特に北海道の畑作物を対象とする植物資源の多様性並びに発育生理に関する幅広い研究を展開,啓蒙活動に率先して活躍し,その中でも高等植物の無菌組織培養方法の確立と馬鈴薯の発育生理学に関する研究は,国際的にも高く評価されています。
同氏の専門は作物生理学に関する基礎的研究で,その初期の研究論文「馬鈴薯の塊茎形成に関する生理学的研究」に対し,昭和35年12月北海道大学から農学博士の学位を授与されました。これは一連の基礎的研究である馬鈴薯の生理,形態学的研究に始まり,その発育と塊茎形成との関係を栄養条件や環境条件あるいは植物生長調節物質との生理的学的協関機作として解明し,馬鈴薯の耕種,貯蔵に数々の新知見をもたらしました。特に,馬鈴薯は短日,夜間低温の条件において塊茎形成物質を発現し,地下茎へと情報の伝達がなされ,地下茎茎頂次頂部の細胞分裂と肥大により塊茎形成をみます。これらの形態生理学的な研究業績により,昭和45年4月に日本作物学会賞を授与されました。その後,主として北海道の主要畑作物の除草剤や植物生長調節物質の作用機作の解明,植物組織培養,細胞培養による植物体の再分化,不定芽形成,不定胚形成及びプロトプラストからの植物体再生等に関する研究や馬鈴薯の塊茎形成を誘導する情報物質の抽出精製と活性の検定に関する基礎的研究とその研究指導に従事し,それらの成果は多数の業績として発表されました。また,作物生理学の基礎を確立するとともに,ウイルスフリーの茎頂組織培養,人工苗条増殖培養,馬鈴薯マイクロチューバーの試作など植物組織培養技術の進歩発展に寄与しました。
学内においては,農学部作物生理学講座担当教授としての教育研究のほか,昭和56年8月から4年間にわたり農学部附属植物園長として活躍し,特に,植物園内の植物群落における生態学的展示を重視し,湿生植物園,樹林庭園,高山植物園などの整備に尽力するとともに,教育,研究における植物園の使命達成のため,北方民族植物園,エンレイソウ実験園などの分科園を充実させました。更に,大温室の改築,熱帯降雨林や砂漠乾燥帯植物などの展示物の改善等植物園の一般公開に努力し,北大植物園創基百年事業をも企画実施するとともに,植物科学教育についての市民啓蒙に大いに貢献しました。また,本学教職課程委員会委員,学生部委員会委員,学生相談委員会委員を歴任し,学生教育と大学行政に大いに貢献しました。
学外においては,岐阜大学,弘前大学,北海道教育大学の非常勤講師として作物生理学,農業薬剤学等の教鞭をとり,他大学学生の教育,指導にも尽力しました。また,昭和40年9月から同59年10月まで植物化学調節研究会(現植物化学調節学会)評議員,同47年1月から同58年12月までと同61年1月から同62年12月まで日本植物生理学会評議員,同47年4月から同63年3月まで日本作物学会評議員,同56年1月から同57年12月まで日本植物学会北海道支部会会長を歴任するとともに,日本作物学会においては同57年4月から2年間にわたり紀事編集委員会委員長を務め,これら関連学会の発展に尽力しました。さらに,昭和53年には札幌で第6回日本植物組織培養シンポジウムを主催し,日本植物組織培養学会(現日本植物細胞分子生物学会)の設立と国際植物組織培養シンポジウムの開催に寄与しました。
以上のように,同氏は,多年にわたり学術振興,教育研究,人材養成のみならず,ボランティア活動として植物園後援会を設立し,北方植物資源の保全を援護するとともに,バイオテクノロジーの先駆者として地域産業発展のための研究指導と啓蒙にも多大の貢献をなし,その功績はまことに顕著であります。
(農学研究科・農学部)
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○棚 井 敏 雅 氏 
このたびの秋の叙勲に際して受賞の栄を戴きましたことは,まことに光栄に思います。永年にわたりご指導戴いた学内外の諸先輩,ご協力・ご支援戴いた多くの方々のお蔭と深く感謝しております。また,とくに推薦の衝にあたって下さった方々に心からお礼申し上げます。
私は昭和21年に東大理学部の大塚弥之助教授のもとで新生代層位学を専攻し,卒業後も研究室に残りました。終戦直後のことでしたので燃料資源開発のために,東北地方や北海道の炭田や油田調査の機会を多く与えられました。これが私の一生の研究方向を決めることになりました。その後,通産省の地質調査所燃料部を経て,昭和31年春に北大理学部に赴任し,地質学鉱物学科の燃料地質学講座に31年の間お世話になりました。
我が国では明治初期から燃料資源探査の長い歴史があって,研究分野も多岐にわたります。昭和46年に講座を担当して以来,とくに含炭層と含油層の形成過程の堆積学,石炭・石油の根源生物の成育環境の解明のための古生物学を,講座の研究の中心課題としてきました。そして,北日本における含炭層と含油層としての第三系の堆積史と生物変遷史の確立に,些か貢献できたと考えています。また,これらの研究・教育の過程で,石炭・石油地質学の研究者や地質技術者,堆積学の研究者を多く世に送り出すことができました。私個人の研究としては,日本の主要な第三紀石炭資源に関連して,新生代植物群の解析にとくに力点をおいてきました。1964年第10回国際植物学会議(エディンバラで開催)の古植物学関係の討論会に招待されて,学位論文の大要を紹介できたことが,それ以後の私の研究の大きな転機になりました。アジア地域との比較材料を求め,北アメリカ,ヨーロッパ,南アメリカ中部から最南部,オーストラリアの各地へ度々出かけ,それぞれの第三紀化石群との比較検討を進め,多くの研究成果を公刊できました。
理学部本館と南側のエルム林は,北大キャンパスの中で最も美しい風景の一つです。この恵まれた環境で,30年余も研究生活を送ることができたことを感謝しています。最後になりましたが,各学部や研究科がさらに充実して,21世紀に向けて北海道大学が一層発展することを祈念しています。
略 歴 等 |
生 年 月 日 | 大正12年8月19日(77歳) |
出 身 | 愛知県 |
昭和21年9月 | 東京帝国大学理学部地質学科卒業 |
昭和22年9月 | 東京帝国大学理学部副手 |
昭和23年1月 | 東京帝国大学大学院中退 |
昭和23年4月 | 東京大学理学部副手 |
昭和24年6月 | 東京大学理学部助手 |
昭和26年10月 | 工業技術庁通商産業技官 |
昭和31年4月 | 北海道大学理学部助教授 |
昭和36年2月 | 理学博士(東京大学) |
昭和47年8月 | 北海道大学理学部教授 |
昭和62年3月 | 停年退官 |
昭和62年4月 | 北海道大学名誉教授 |
功 績 等
棚井敏雄氏は,永年にわたって燃料地質学講座を主宰し,石炭地質学と古植物学の教育,研究に務め,多数の優秀な地質学者・地質技術者を育て上げました。また,石炭を來在する新第三紀の地層群についても広汎に研究し,日本の炭田の開発に貢献しました。学内の行政的な部面についても,大学院委員会委員をはじめ,北海道大学公開講座委員会,文部省在外研究員候補者選考委員会,放送教育調査委員会,図書館委員会などの委員を歴任し,大学の発展に尽くしました。また,非常勤講師として,東京大学・京都大学・東北大学・九州大学・筑波大学・熊本大学・北海道大学工学部等に出講しております。
学会にあっては,日本古生物学会・日本鉱山地質学会・東京地学協会の評議員を歴任し,昭和57年2月からの日本鉱山地質学会北海道支部長と,昭和60年2月からの日本古生物学会の会長をそれぞれ2年間努め,また,昭和54年1月から61年1月まで,ユネスコ,国際生物科学連合(IUBS)傘下の由緒ある組織である,国際古植物学研究機構(IOP)の日本代表を努められました。さらに,昭和43年6月から平成8年5月までの28年間にわたって,オランダのElsevierから出版されている国際学術誌「古植物学・花粉学評論(Review of Paleobotany and Palynology)」の編集委員も努められました。
学外にあっては,文部省学術審議会専門委員,日本学術会議の古生物学研究連絡委員会委員,通産省関係では,炭田探査審議会,石炭鉱業審議会,鉱業審議会,石油審議会の各専門委員又は委員を努め,工業技術院地質調査所の調査員を兼ねられました。また,夕張新炭鉱の事故に際しては,事故調査委員会委員となりました。さらに,札幌鉱山監督局の深部保安技術検討部会の委員も努め,新エネルギー開発機構の石炭資源開発基礎調査委員会に参加されました。北海道開発庁の地下資源調査員を兼ねたこともあります。また,北海道の鉱業振興委員会,総合開発委員会の委員でもありました。このように,同氏は,国内石炭鉱業の振興と北海道経済の進展に大きく貢献し,地域社会の発展にも寄与されました。
同氏は,白亜紀および新生代古植物群の研究で顕著な功績を残されており,特に,被子植物化石について,多数の論文・報文を発表し,その中には293種におよぶ新種の提唱も含まれています。また,東アジアおよび北アメリカのカエデ属化石について,葉微細脈の比較形態学的手法を用いた分類学的検討を行い,カエデ属の系統進化を明らかにするとともに,分布変遷との関連を抽出することに成功しました。同様に,南北両半球のブナ科植物化石などを取り上げて東アジアにおける現世温帯森林の起源と発達を考究しました。これらの成果は系統進化と植物地理を融合させた研究として注目され,国の内外で高く評価されています。さらに,我が国の植物群が,第三紀,ことに新第三紀(2400-180万年前)においてどのような変遷をとげたかを詳細に研究されました。この成果は,日本列島の古気候変動の証拠となるもので,極めて重要な貢献であります。この研究成果は学会において高く評価され,昭和41年1月東宮御所にて,皇太子殿下(今上天皇)に「第三紀植物群の変遷史」についてご進講されました。
同氏は,古植物学の発展に尽くした功績を認められて昭和54年1月には日本古生物学会より学術賞(学術奨励金)を受賞されました。昭和61年5月には,新エネルギー開発機構の日中石炭共同探査調査団の団長として,中華人民共和国中部地域において炭田開発適格地域の調査選定を行われました。また,昭和44年の第11回国際植物会議(米国,シアトル),昭和56年の第13回国際植物会議(オーストラリア,アデレード),昭和62年7月の第14回国際植物会議(ドイツ,ベルリン)において,招待講演も行われています。
以上のように,同氏は,多年にわたり,学術研究,後進の育成,日本のエネルギー開発,北海道における地域社会および大学行政に多大な貢献をするなど,その功績は,まことに顕著であります。
(理学研究科・理学部)
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○正 置 富太郎 氏 
このたび,はからずも叙勲の栄に浴し身に余る光栄に存じます。また,推薦の労を取って下さった方々には心からお礼申し上げる次第です。
1947年に北大農学部水産学科を卒業して,間もなく助手として奉職し,新制大学発足と共に学科がそのまま水産学部に移り,1987年までの40年間,海藻の研究と教育にたずさわって参りました。その間,肺と心臓の手術をしましたが,再び健康を取り戻すまでは,恩師をはじめ同僚の先生方や学生諸君に大変迷惑をおかけしましたにも拘らず暖かく接して下さって退職まで職務を全うすることが出来ましたことを深く感謝している次第です。
研究は主として,紅藻サンゴモ類を対象としました。そのうちでも特に無節サンゴモ類は,わが国では古くから水産上の大問題である「磯焼け」と関連して注目され,これまでも調べられたことはありましたが,不明な点が多く,詳細な解明が求められておりましたので,まず種名を明確にすることから始めました。当時この方面の研究者は世界的にも少なかったのですが,その方々とも接触をはかり,更に10ヶ月間ノルウェー国で膨大な量のタイプ標本を詳しく検討する機会にも恵まれ,更に北海道教育大学の秋岡英承教授と協力して,日米科学協力のプロジェクトを2回組み,北海道沿岸を中心として無節と有節の両サンゴモ類を調べ,外国産種との比較も出来,種名は勿論,分布や生態も明らかにすることが出来ました。その後,サンゴモ類に興味をもつ優秀な院生諸君が他大学や海外からも加わり,更に詳しく成果をあげて,退官まで楽しく研究生活を過ごすことが出来ました。これひとえに多くの方々が支えて下さった賜物と存じております。
最後に,北海道大学の益々の発展をお祈りいたします。
略 歴 等 |
生 年 月 日 | 大正12年9月15日 |
出 身 | 北海道 |
昭和22年10月 | 北海道大学農学部文部教官 |
昭和28年4月 | 北海道大学水産学部文部教官 |
昭和30年3月 | 北海道大学水産学部講師 |
昭和34年10月 | 北海道大学水産学部助教授 |
昭和42年5月 | 北海道大学水産学部教授 |
昭和62年3月 | 停年退官 |
昭和62年4月 | 北海道大学名誉教授 |
功 績 等
正置富太郎氏は,永年にわたって藻類に関する教育と研究に専念され,多くの学生を薫陶し,有意な人材の育成を図られました。研究面においては,紅藻の無節サンゴモの分類と生態学に関する研究を主とされました。この内,分類学的研究の面では日本各海域から採取した標本から形態学的観点で研究を進められ,更にノルウエー,フランス,アメリカの研究機関に滞在され,そこに保存されている基準標本を詳細に比較検討されました。この研究により,当時日本では不明であった多数の種を確定すると共に新種を発見し,当該植物群の分類体系を確立され,日本では非常に遅れていた当分野の研究を世界的レベルにまで引き上げられました。また,生態学的研究の面では,寒暖両流の影響を受ける北海道周辺海域の分布・生育状況と種の組成を詳細に調査され,植物地理学的研究分野で多大な業績を残されました。この業績はその後の無節サンゴモに関する研究の規範とされており,特に無節サンゴモと磯焼け現象との関係を解明するための示唆を与え,磯焼け対策への基本的な資料となっております。
学内の管理と運営面においては,水産学部附属臼尻水産実験所長として,同施設の充実と発展に尽くされ,さらに,地域社会との交流を深めることに腐心し,今日,地域に密着し,地元の要望にも対応しうるようになった実験所の基礎を築かれました。
学外にあっては日本藻類学会の幹事,評議員,編集委員を務められ,創設間も無い学会を軌道に乗せるべく奮闘されました。さらに,国際藻類学会では評議員として学会の発展に寄与され,日本での藻類学のレベルが高いことを世界に示されました。
以上のように,同氏は我国の藻類,特に無節サンゴモの分類,分布,生態に関する教育者・研究者として優れた業績を挙げ,学部,大学院では幾多の人材を育て,学術の進歩と教育に貢献した業績はまことに顕著であります。
(水産科学研究科・水産学部)
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○後 藤 寛 治 氏 
この度,叙勲の栄に浴し,誠に光栄に存じます。一重に,これ迄ご指導を頂いた先輩諸氏,ご協力下さった多くの方々のお陰であり,感謝している次第です。
私は,終戦後復学して,農学部作物育種学教室に所属し,卒業論文のテーマは,イネの着色に関する遺伝でした。
昭和25年に,静岡県三島市に新設された国立遺伝学研究所の研究員になり,ムギ類品種の分化機構に関する研究などに従事しました。
ここでは,初代所長の故小熊捍先生と2代目所長の故木原均先生,育種理論に関するセミナーを指導して下さった故田中義磨先生が,農学部の大先輩であり,また,所属した部の部長と室長を務めておられたのは,作物育種学教室の先輩(故人)でした。
その他全国各地から参集した研究員とも交流することができ,きわめて恵まれた環境の下で研究に専念した日々でした。
留学先は,アイオワ州立大学農学部で,トウモロコシの育種理論を中心に研究しました。
帰国後,北海道立農業試験場に新設された大豆育種指定試験地で,ダイズの育種を担当し,良質なダイズ品種の育成を進め,さらに,農水省北海道農業試験場に新設された草地開発部で,イネ科牧草の育種を担当し,採草・放牧兼用のオーチャードグラスとトールフェスクの品種育成に関与しました。
昭和45年に,北大に帰って農学部食用作物学講座を担当することになりましたが,学部学生は,目的意識の明らかな者が多く,大学院では,個性的で資質に恵まれた学生に出会い,これらの学生の協力を得て,各種作物の生産性の解析や遺伝資源の評価に関する研究を展開することができました。
研究の場所や組織が変わり,対象とした作物も多様でしたが,所期の研究を長期に渡って継続できたことは幸いでした。
21世紀を迎えるに当たり,北海道大学が基礎研究の分野で躍進されますよう,祈念しております。
略 歴 等 |
生 年 月 日 | 大正12年7月5日(77歳) |
出 身 | 北海道 |
昭和22年9月 | 北海道帝国大学農学部農学科卒業 |
昭和22年9月 | 北海道農業試験場勤務 |
昭和25年1月 | 国立遺伝学研究所研究第3部文部教官 |
昭和31年7月 | 農学博士(北海道大学) |
昭和32年12月 | 北海道立農業試験場十勝支場大豆類第一育種指定試験地主任 |
昭和39年11月 | 農林省北海道農業試験場草地開発部牧草第2研究室長 |
昭和45年4月 | 北海道大学農学部教授 |
昭和47年4月
昭和63年3月 | 日本作物学会評議員 |
昭和55年1月
昭和61年12月 | 日本作物学会北海道支部長 |
昭和61年4月
昭和63年3月 | 日本作物学会副会長 |
昭和62年3月 | 北海道大学停年退官 |
昭和62年4月 |
北海道大学名誉教授
東京農業大学客員教授 |
平成元年4月 | 東京農業大学生物産業学部教授 |
平成7年4月 | 東京農業大学客員教授 |
平成11年3月 | 東京農業大学退職 |
功 績 等
後藤寛治名誉教授は,大正12年7月5日北海道札幌市に生まれ,昭和22年9月北海道帝国大学農学部農学科を卒業,直ちに北海道農業試験場に勤務し,同25年1月国立遺伝学研究所研究第3部文部教官に任命され,同28年1月同研究所生理遺伝部,同29年12月同研究所応用遺伝部,同31年4月同研究所応用遺伝部第2研究室長心得を経て,同32年12月北海道立農業試験場十勝支場大豆指定試験地主任に転じ,同36年8月同支場豆類第一育種指定試験地主任となり第二試験地を兼務し,同38年7月同支場豆類第一育種科長を経て,同39年11月農林省北海道農業試験場草地開発部牧草第2研究室長に採用されました。その後同45年4月北海道大学農学部教授に転任し,農学科食用作物学講座担任となり,同62年3月31日停年退職し,同4月北海道大学名誉教授の称号を授与されました。北海道大学退職後,直ちに東京農業大学客員教授に就任し,平成元年4月東京農業大学生物産業学部教授を経て,同7年4月再び同学部客員教授となり,同11年3月退職し,今日に至っています。
この間同氏は,食用作物及び牧草を対象にその遺伝・育種学,並びに生理・生態学に関する幅広い研究を展開し,対象作物,研究分野も多岐にわたっています。
国立遺伝学研究所においては,主としてムギ類の品種生態について研究を行い,オオムギの在来種の混系性と地方系統の遺伝的構造を明らかにするとともに,コムギに発生する異型を研究し,これらを取りまとめた論文「Genetic analysis of varietal differentiation in cereals」に対し,昭和31年7月北海道大学から農学博士の学位を授与されました。また,コムギについて多数の選抜試験を行い,選抜の場の理論を確立して,育種におけるその意義を指摘しました。このほか,ナスの量的遺伝に関する研究では,ポリジーン支配形質の解析手法を提示し,世界的に高く評価されました。
北海道立農業試験場十勝支場においては,ダイズの耐冷性及びシストセンチュウ抵抗性についてその機作を解明し,抵抗性遺伝子の導入を試みました。また,農林省北海道農業試験場においては,牧草について草収量に関する大規模な実験を行い,そのデータに基づき適正な評価方法を確立しました。両試験場在任中,同人が手掛けた品種は,大豆11品種,オーチャードグラス2品種,トールフェスク2品種,コムギ1品種に及んでいます。
北海道大学農学部在任中は,マメ類,ムギ類,ジャガイモ及び牧草類の乾物生産特性を比較作物学的観点から解明し,育種と栽培法の両面に改善の方策を提示しました。また,得られた知見をもとにジャガイモ及びフェスク属の牧草で,栽培種と近縁種の交雑を行い,バイオマスの著しく高い系統を作出し,育種学,作物学の両分野において多くの業績をあげ,その基礎理論の確立をはかる一方,自ら品種の育成を手掛け,我が国の作物生産の向上にも大きく貢献しました。
また,食用作物学講座担当教授として,学部学生,大学院生の教育・研究に尽力し,有能な研究者を養成して,その多くは研究機関,大学において活躍しました。さらに,学生部委員会委員,学生相談委員会委員,外国人留学生委員会委員等を務め,大学の管理運営に尽力するとともに,昭和59年8月から同62年3月まで北海道大学評議員を歴任し,大学行政にも貢献しました。また,退職後は東京農業大学において,学生の教育に専念され,優れた人材の育成に努めました。
学外においては,昭和39年4月から同61年3月まで日本育種学会幹事,同47年4月から同63年3月まで日本作物学会評議員,同55年1月から同61年12月まで同学会北海道支部会会長,同61年4月から同63年3月まで同学会副会長を務め,両学会の発展に寄与するとともに,アメリカ合衆国,オランダ,ソビエト連邦,アフリカ及び東南アジア諸国で開催された種々のシンポジウムや研究会に出席し,学術の国際交流,農業の技術指導に尽力しました。また,第13期(昭和60年7月〜同63年7月)と第14期(同63年7月〜平成3年7月)の日本学術会議会員(第6部所属)に選出され,地域農学研究連絡委員会委員長,遺伝資源研究連絡委員会委員長,二国間学術交流委員会委員を務めるとともに,学術審議会専門委員(科学研究費分科会)を務め,我国における科学技術に関する審議に参画し,その振興に寄与しました。さらに,北海道開拓審議会委員,北海道農政審議会委員,北海道種苗審議会委員,同会長,農林水産省農産園芸局現地調査員として地域産業の発展にも貢献しました。
以上のように,同氏は,育種学,作物学の優れた研究者として我が国の学術の進歩に多大の貢献をするとともに,教育者として有能な人材を養成し,関連学会の発展並びに地域社会の振興に多大な貢献をなし,その功績はまことに顕著であります。
(農学研究科・農学部)
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○土 門 恭仁子 氏
この度の叙勲受章の報は思いがけなく,惑っております。
私は,昭和33年北大病院に採用され,平成7年退官まで34年間,患者の栄養管理業務に従事させて頂きました。顧みますと,奉職当時は戦後12年余り,国民病とまでいわれた結核はまだ十分に駆逐されておらず,また成人病や食事療法という言葉も一般に耳慣れない時代でした。入院患者の食事基準も一般成人食2,400Kcalの高エネルギーで,治療食は心臓,高血圧症,腎臓などの塩分制限食が中心でした。栄養士法は他の医療職に比較して歴史が浅いこともあり,“栄養”の分野は一般に光が当らない存在でした。その後,医学,病態栄養学の飛躍的な進歩によって社会環境を背景に糖尿病,肥満,動脈硬化症など生活習慣病が増加し,加えて高齢化社会を迎えて慢性疾患に対する正しい食生活と運動による疾病の予防,コントロールなどの意義が重要視されるに至り,管理栄養士制度が誕生し,管理栄養士の役割も時代の変遷に応じて高度な知識と技術が必要となりました。電算化されても大学病院は重症で特殊な症例が多く,試行錯誤で研究を重ね,個別対応食に苦心しました。
厨房は新・改築で3回移転を経験し,永年の念願であった栄養管理室設置を実現させて退官でき,後輩の活躍をみる時感慨深いものがあります。仕事を通して多くの貴重な体験をさせて頂きましたこと,栄養指導を実施した患者が確実に回復し,感謝のお手紙を頂いたこともあり懐しく思い出されます。
在職中大過なく過させて頂き,又この度の叙勲の栄誉は,上司,先輩,同僚,後輩,その他関係各位の暖かい御指導と御厚情に支えられての賜と厚く御礼申し上げます。叙勲の栄誉の重みをかみしめ,今後も精進して参る所存でございますので,従前に増してご指導を賜ります様お願い申し上げます。北海道大学のますますのご発展を祈念申し上げ,お礼のご挨拶にかえさせて頂きます。
略 歴 等 |
生 年 月 日 | 昭和10年3月4日(65歳) |
出 身 | 樺太本斗郡 |
昭和31年3月 | 天使女子短期大学卒業 |
昭和33年4月 | 北海道大学医学部附属病院臨時作業員 |
昭和35年6月 | 北海道大学医学部附属病院技術補佐員 |
昭和36年4月 | 北海道大学医学部附属病院技術員 |
昭和36年9月 | 北海道大学医学部附属病院文部技官 |
昭和47年8月 | 北海道大学医学部附属病院業務課栄養士 |
昭和55年9月 | 北海道大学医学部附属病院医事課主任栄養士 |
平成6年7月 | 北海道大学医学部附属病院医事課栄養管理室長 |
平成7年3月 | 停年退職 |
功 績 等
土門恭仁子氏は,永年にわたり医学部附属病院の患者の栄養管理に携わられ,日進月歩する医学,病態栄養学のなかで食事療法の占める重要性に鑑み,病院内におけるチーム医療の一員として,積極的に関連学会への参加,研鑽を重ねられ,食事療法による治療効果について尽力されました。
同氏は,本院に栄養管理システムの電算化をいち早く導入され,業務の正確,迅速,かつ合理化を図るとともに,院内医師を中心とする栄養委員会の設置に際しては,自ら委員として他部門との連絡調整,特に病棟と厨房との連帯を密にされ,患者に対して嗜好調査を行うなど,適時適温給食の実施に向け患者サービスの改善に努力されました。また,医療法の改正等により,管理栄養士の位置付けが確立された際には,栄養管理室設置に関する要望書を作成され,平成5年4月,医事課に栄養管理室の設置を実現させ,病院職員の意欲向上を図るとともに病院の管理運営にも力を発揮されるなど病院の充実,発展に大きく貢献されました。
特に,特別治療食の治療効果判定は,患者の病態に応じた適切な個別対応食と栄養指導によって得られることから,医師及び同僚栄養士の協力のもと食事療法の占める重要性に鑑み,患者個人各々に適応した食事とその喫食を高めることを,治療に結びつく最大のポイントとする「治療食基準」を作成され,第一版から第三版へと改正を重ね発行されるとともに後輩及び同僚栄養士と協力され,高度化する医療現場における栄養管理業務の向上に貢献され,これらは,道内及び道外病院において栄養管理の指導手引として広く活用されております。
同氏は,集団治療を目的とする北海道小児糖尿病サマーキャンプの栄養管理にボランティアとして参加され,子供逹やその母親逹へ糖尿病の自己管理についての教育,指導に尽力され,このボランティア活動の業績に対し,北海道小児保健研究会より,同氏の所属する「北海道つぼみの会」に永井賞が授与されました。また,栄養療法研究会代表,関連学会委員として,後輩栄養士の教育指導にあたられるなど,職務に精励した同人の誠実性,責任感,強調性等は,他栄養士の模範となるものであり,日本栄養改善学会,社団法人日本栄養士会,北海道栄養食糧学会から研究成果と学会発展の寄与に対し表彰されるとともに,昭和62年11月,永年における食生活の改善指導,地域住民の健康保持増進への貢献に対し北海道知事から北海道社会貢献賞を受賞されました。
以上のように,同氏は永きにわたり栄養管理者として大学病院の基本理念を基に,治療,教育,研究の分野に尽力され,その功績は誠に顕著なものであります。
(医学部附属病院)
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※氏名はインターネットで表記可能な文字を使用しております。 |