総 長 告 辞
学士学位記並びに大学院修士学位記授与式 |
総長 丹 保 憲 仁
|
北国の春は,何度迎えても心に何かを萌えさせる季節です。とりわけ,4年又は6年の大学生活を終えて,学士や修士の学位を得て,人生の次の段階に進もうとしている諸君には生涯忘れることの出来ない春の日々であろうと思います。諸君が小学校入学いらい積み重ねてきた十数年余の努力の成果として,此処に1,277人の諸君に修士,2,355人に学士の学位を授与することが出来ることを欣快に思います。こののち,クラーク会館で400人の諸君に博士の学位を授与いたします。今日に至るまでの諸君の学業を支えて下さった,近親・知己の方々のお慶びはいかばかりのものかと思われ,ご同慶の至りに存じます。
諸君はこの新しい21世紀に本学を巣立っていく最初の卒業生です。良く知られているように「卒業」という言葉は,米国の諸大学やケンブリッジやダブリン大学などでは「COMMENCEMENT」と言われます。ご承知のように「始まり」という意味であります。諸君は人生のある段階で,学業という分野である成果を得た証として学士または修士の学位を得たわけですが,社会人としての具体の人生はこれから始まるわけです。それ故に,アメリカなどでは「COMMENCEMENT」「始まり」という言葉が選ばれるのであろうと思います。今日的に言って,「卒業」という言葉よりも良く事柄の本質を表していると思います。本学でも,学位授与という言い方で,諸君が「ある事柄」について,「ある段階」を経たことを証するのであります。
それでは何が一段落し,何が始まるのでしょうか。諸君が歩いてきた道については経験の上でなにがしかの意見を自身で纏めることができるでしょうが,これから始まることについては殆んど解らないわけですからいささかの外部からの助けがいるようにも思います。といっても,私には定まった見解を申し上げるほどの学識が有るわけではありませんので,このように考えてみてはという私見を申し上げて参考に供したいと思います。
「文明」と「文化」ということをキーワードとして,「学校」と実「社会」を考えてみましょう。「文明」は手順論であって,このような手順に依ればこのような結果が得られる,あるいは得られるはずであるという「普遍性」を重要なキーワードとする人間の知の営みであろうと思います。別な表現を取れば様々な空間が持つ個々の「文化」の一つ(又は少数)が普遍性を持つところまで多くの人々に受け入れられるに至った,「手順論」としての約束事であろうかと思います。現代の最も代表的文明は「近代西欧文明」であり,「近代科学とヒューマニズム」を基底とし,キリスト教文化を下敷きに,世界60億の人々の大半に普遍的文明として受け入れられ,人類の現在の繁栄を導いたものといえるでしょう。それに大きく影響されつつも,異議申し立てを続ける「イスラム文明」圏と言うべきものが有り,異なる文化を下敷きにして普遍化した今ひとつの文明であろうと思います。中華文明という大きな規範の中に日本も長い間ありましたが,現代ではその規範は歴史の中にとけ去りつつあるような気もいたします。
現代世界の卓越文明となった,近代西欧文明の核をなす概念は科学であり,精密化された立証的方法論を多くの局面に展開し,手順論としての普遍性を獲得しようと努力し,自然界における人の能力を極端なものにまで高めてきました。現代は科学を速やかに実用化し普遍的活用を計る,科学技術主導型の世界であります。先導深化する科学技術に対応して人間集団の管理手法までも,社会科学という名の普遍性を持った手順論として,不可解なる人間集団を対象にして様々な学問的努力が続けられています。近代文明の根幹をなす科学という方法論,極言すれば近代文明の心臓部は,その手順の明解さと再現性の確かさを求めるために扱う問題を単純化しなければなりませんでした。科学・技術の細分化・デパートメント化が必然的に進行し,その上に作り上げられる産業や行政のシステムも,その基盤となる高等教育も縦割化が進行することになります。
いずれにしても,近代科学の支配する文明が,個別の営みを拡大し,その総合的成果として人類総体の繁栄をもたらし得たのは,個々の営みの拡大を総体として受け入れるだけの余裕が未だ地球に有ったためであろうと思います。何度かの大きな戦争があって,国々が覇権を争いつつ大きな損耗を人類に及ぼしたにもかかわらず,未だ人類は成長と繁栄を近代文明の下に求め続けたのが20世紀であったと思います。20世紀末に至り人類は60億人にまで増え,地球の動物の総質量の四分の一をも占めるまでになり,資源・エネルギーの粗放な消費限界につき当たり,成長の限界をあらゆる場面で認識するにいたりました。アイザック・ニュートンに始まるといっても良い物理学的思考に基づく近代文明の単純成長指向の先に人類の未来はないことを認識するようになってきました。地球環境制約の時代の到来です。
話しが少しくどくなりました。話しの始まりは,諸君が学んだものは何であったかということであり,学士・修士の学位を授与する大学は何かということであったと思います。簡単過ぎる言い方で,問題表現かも知れませんが,学校で習ったこと,もしかしたら諸君が自分で学習したことを極言すれば,近代文明という普遍の中で,ある分野を「おさらい」したに過ぎないのがこの4年や6年の研鑚であったのかも知れません。然しそれは真摯に学んだ諸君の人生にとっては,小さいことでないと思います。その先にあることが具体の始まりで有り,学んだことの意義が発現するのはこの先のことなのだと思うからです。全てのことを真に総合的に知ることなど神様以外にできるはずがありません。諸君は普遍的な近代文明の一分野に接近し,まともに学習して,その第一段が一応終わったということであると思います。それ故に,今日ここに「始まりの日」「COMMENNCEMENT DAY」を迎えたということになるのだろうと思います。別な表現で言えば文明のある部分を自らのものとし,他の部分を同じ文明のオプションとして学ぶ潜在能力を得たのだと思います。「一芸に秀でたものは,万芸に通ずる」ということは本当のスペシャリストは様々なことができるであろうということです。
諸君がこれから社会に出ていくと,予想外の様々なことに遭遇し,それを解決していかねばならないでしょう。諸君は科学技術が主導する近代文明という普遍の中で,畳の上の水練をやってきたわけです。研究者として学問を続ける人は,本当に水の中に入って,具体に泳ぎ始めなければならないわけで,その専門とする泳ぎ方で世界記録を目指さなければなりません。実社会へ出ていく人は,海か河か解りませんが,畳の上での水練を応用して様々な状態を泳ぎ切らなければなりません。畳の上でしっかりと学んだとしてもそれだけで泳ぎ切れるわけでは有りません。畳の上で獲得した知識を基に場に応じた応用動作をするのが知恵で有ろうと思います。知恵を学校で組織的に教えたり習ったりすることは殆んど不可能です。大学院も博士後期課程ぐらいまで行くと「師の後ろ姿を見て学ぶ」という古くからの学問の仕方が出来るようになるでしょう。師が優れた人で有ればそれに越したことはないのですが,反面教師もまた師でありましょう。
学校システムは,文明の普遍を学ぶところでありそれ以上でも以下でもありません。諸君が帰属している集団が普遍として受け入れている約束事を,様々なレベルで身につけるだけです。そこから先は,「文明」という普遍事項にかかわる問題でなく,個々人もしくは限定された集団の生き方の問題であり,敢えていえばそれは「文化」の問題であろうと思います。文化にも相当の普遍性と歴史を持つ限りなく文明に近いものも有れば,個人の信条や趣味に近いものまで様々です。かつて普遍的な文明であったものが,文化としてのみ伝わっている場合もあり,現在は未だ文化といったレベルのものであってもそれが新しい文明にまで成長普遍化していくものも有るでしょう。
学校で学んだ現代の普遍,近代文明の価値を実社会で生かしていくためには,「文化のレベル」の研鑚が個々人に求められると思います。逆もまた真であり,文明の基本を学ばずに,個々の文化を結実させることは不可能に近いことであろうと思います。同じ学問を高校・大学で習っても,一生の到達点に様々な差ができるのは,能力の問題でもなく,努力の大小でもなく,その人の備える個性,とりわけ文化性に関わる問題が少なくないと思います。創造性,人柄,風格,誠実さなどの人として重要な特性は,学校教育で文明の仕組を学んだだけではなかなか獲得できないものであり,人の文化性に関わる事柄と思います。昨今の指導層の人物の厚みの無さ,教師の無力感,マスコミの軽薄さなどは,学校教育に過剰に知的な面をゆだねた戦後日本の間違いの縮図であろうかと思います。個々に育んで行かねばならない固有の「文化」の裏打ち無しに,文明の平均的手順論のみを普遍として学び,それのみを社会の規範として墨守してきた戦後社会の大きな欠陥であろうと思います。和魂洋才,仏教的文化,大和の心,キリスト教的文化,アイヌ文化等々大きな文明になったものもあり,そうでないものもありますが,人を人たらしめた様々な文化があり,個々人のレベルで息づいて文明を支え育んできたのではないでしょうか。
諸君がこれから社会を生きていくとき,学校で学んだ普遍的手順論の部分についての例題演習の成果をこれから実社会で生かすも殺すも,諸君が文化のレベルでの個性を自身で育て,学習の成果を実社会に応用し続けることが出来るか否かにかかっているように思います。「普遍的な文明の約束事の理解」と「個性あふれる文化のレベルの学習」とが常に並行して必要であろうと思います。後者を教養という人もおります。近代社会の成長が地球の容量限界につきあたって,近代文明という成長型の産業社会が行き詰まり,新たな文明を求めて,文明の普遍そのものの書換が必要とされています。新文明の種となるのは新たな文化の創成であり,新文化が新文明としての普遍に至るまでには,その有効性の証明と人々の同意の獲得という壮大で長い新しい道のりを歩かねばなりません。地球環境制約の時代の人類のより良い生き方を求めての努力の始まりが今日であります。諸君はまさにその担い手として膨大な国費を費やしてこの大学で学んできたわけです。
近代を形作った典型的手順論である自然科学も,物理学的発想から生態学的発想へ,さらには生命体そのものの理解と応用へと展開し,科学文明の普遍的基盤も大きく変わろうとしています。文化をその主題とする人文学も,人間集団の管理を技とする社会科学も,新しい科学技術を駆使する「ホモ・ハイテクノロジー」の変貌に遅れることなく,文化のレベルでの人の有りようを,後追いでなく学んでいかなければならないと思います。
諸君がこの大学でしっかりと学んだことは,諸君の未来への唯一最重要な足がかりで有り,その証として学士・修士の学位を授与するわけです。しかしながら,それはあくまでも近代文明下の普遍についての例題演習であり,それに加えての諸君自身の研鑚無しには早晩朽ち果てていくものです。諸君もすでに多くの死に体が世に転がっているのを見てきたと思います。日々の研鑚を諸君が一生に渉って続けて行くためにはその駆動力が必要です。それが,独りよがりのイデオロギーであったり,己の欲得であったり,低劣な野心であっては困ります。クラーク先生が残された「Boys,Be ambitious!」は文化のレベルの支え無しには容易にこの種の悪徳に転換します。「Be lofty ambitious! 」は文化を求めてそれを普遍にまで高めたいとする文明の創造者についてのものであろうと思います。このような混乱した時代にこそ,真の「高貴な野心」が存在し得ると思います。社会から身を引いた第三者的な評論者にならないで下さい。自らは真に働かず斜めに構えて皮肉に事柄を論評するような伝統をこの大学は持っておりません。転換が求められているこの時代に,個々の文化のレベルから新文明の普遍を創成する人物が諸君の中から出現することを祈って告辞と致します。
私事にわたりますが,昭和26年春北海道大学教養部理類に一年生として入学してから丁度50年,半世紀この大学にお世話になって,諸君らと一緒に私もこの春北大を去ります。諸君と同期の卒業ということになります。お互いに元気で,時代をつぐむ人々の中核となれるよう研鑚を続け,助け合って働きましょう。諸君の健康と努力の継続を祈ります。
これを以て,平成12年度学士・修士学位記授与式の総長告辞と致します。 |
|