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| 瀬戸内の海辺に育ったせいか、海を見ると心が躍る。とはいっても南のあの青い海だ。 沖縄に飛べば、見晴かす南海のブルーの広がりにわくわくする。反面、北の海、とりわけ冬の暗い海は苦手である。 とはいいつつも、物心ついたころからの釣りの味は忘れがたく、北海道に来てから海釣りから渓流釣りへと、ささやかな醍醐味を味わった。 ある日、突然インドネシア大学行きの声を国際交流基金からかけられたとき、二つ返事でOKしたのも、南の海への魅力をどこかに感じとっていたからだろう。 ジャカルタ沖、プラウプトリの小さな島での楽しいひととき、サンゴ礁の海を泳ぐ色とりどりの魚群には、思わず息をのんだ。スラヴェシ島での南十字星は、いまもくっきり目にやきついている。 さて、そんなことを考えながら、もう長い間取組んでいる『特命全権大使米欧回覧実記』(全一〇〇巻、五編五冊、明治十一年刊。岩波文庫五冊。以下『回覧実記』と略称)は、海への関心をどんな形で示しているか、繙いてみた。 『回覧実記』は、明治初年の岩倉使節団の報告書である。五十名に垂んとする維新の実力者を含む一行は、近代日本の国づくりをめざし、ほぼ一年十か月の間、米欧十二か国を回覧した。 往路は太平洋、帰路はスエズ運河、紅海、インド洋、マラッカ海峡を経て、東南アジアに思いをはせ、中国沿岸に立ち寄りながらの帰国だから、航海や海への記述は相当にある。 しかし、使節団の目的は、あくまでも国づくりへの模索にあったから、海への関心は、国益としての貿易の問題意識に貫かれている。 「貿易ノ道ハ、世界必要ノ務メタリ、地理ヲ講ジ、民俗ヲ察スル、最モ物産ニ注意シ、其原由ヲ繹ネ、進歩日進ヲ計ラザルベカラザルナリ」((五)三二八頁、濁点、平仮名ルビは引用者。以下同) と。そして、「天然ノ富ハ、山ニアル」が、「人為ノ富ハ海ニアルナリ」(同、一六三頁)という。 この海の「人為」は、「世界産物ノ流通」への対応を指すが、それには海路と陸路とがあり、それぞれ体の動脈と静脈とになぞらえている。「今ヨリ生意ヲスゝメ、国益ヲ興スニハ、世界ノ地理形勢ヲ深ク観察セザルベカラズ」(同、一六九頁)と提言しているのだ。 開国間もない当時の日本は、まだ外国貿易にはさほど留意をしていないとみている。「各国域ヲ異ニシテ、生意従テ異ナルハ、天ヨリ貿易ノ利ヲ生民ニ与ヘテ、相競ヒ相励マシムル所ニテ、深ク注意セザルベカラザルナリ」(同、三〇一頁)というのである。 それはつぎのような現象になっていた。 日本にはヨーロッパからの舶来品をみ、「西洋人ヨリ誘啓」されて、「争フテ欧洲ニ赴キ、而テ印度南洋ハ、眼孔中ヨリ脱去シタリ」と。いわゆる「脱亜入欧」の現状から、アジアへの目の欠落をいかに克服するか、『回覧実記』はその必要性を強調する。そのためには「地理物産」を記したこの『回覧実記』のようなものの「森出」こそが、「日本富強ノ実」を挙げるもとになると力説しているのである(同上)。 だが、明治十年代半ば以降、日本はこの報告書を忘れ去り、ひたすら「脱亜入欧」へと走った。そのいきつくところが何であったかはここで述べるまでもあるまい。その意味で、『回覧実記』をいま読み直すことは、二十一世紀へ立ち向かう日本をあらためて考えるひとつの手立てになるのではないだろうか。 |
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