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一九一一年東北帝国大学農科大学(北海道大学の前身)を卒業した後、農科大学・農学部の農業生物学教室の教員となり、一九三〇年に理学部が創設されると同学部動物学科教授に転じた。その後、理学部長を務めたほか、厚岸臨海実験所、低温科学研究所、触媒研究所(触媒化学研究センター)設立に尽力し、それぞれの初代施設長も務めた。現在も使用されている厚岸臨海実験所の建物の設計には小熊の意見が採り入れられている。 研究者としては昆虫学、細胞学、遺伝学の分野で多くの業績を残したが、中でも「蜻蛉複眼の組織学的研究」(一九一九年)や、木原均(北海道帝国大学農学部卒業、のちに京都大学教授)と共同で行なった「人類の染色体に関する研究」(一九二二年)は独創的な研究として高く評価されている。その後、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の創設にも奔走し、北大退官後に初代所長を務めた。 また、滞欧中には絵画を収集したり絵筆をとったりしているほか、オペラ劇場通いもしている。一九三七年に建築家田上義也が中心となって札幌新交響楽団(作曲家早坂文雄も結成時にティンパニ奏者として籍を置いている)が結成された際には後援会長を務めている。 小熊は常に科学的な目を失わず、学問の新たな可能性を見通すことのできる鋭敏な研究者であったが、同時に芸術の世界に遊ぶ技倆をも合わせ持つ慧眼の士であった。
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北海道大学百二十五年史編集室編集員 井上高聡 |
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