Clark's Spirit 同窓生は語る


1971年 農学部(農学科)卒
環境省自然環境局長

小野寺 浩
Onodera Hiroshi
自然再生、そして世界遺産

 初めて札幌を出たのが大学を卒業した昭和46年、出来たばかりの環境庁に48年に入った。もちろん確信犯などではなく、「魔が差して」に近い。しかし役人生活も30年になるのだから、人生はわからない。

 私の役人人生を要約すると、「現場」と「計画」に尽きると思う。環境省の自然環境局(当時は自然保護局)は国立公園行政を中核として発展してきた経緯があり、特に若いうちは現場に放り出す。「現場」はこれがホントに現場で、小屋みたいな事務所で一人っきりで仕事をする。都合8年ほどやりましたね。「計画」の方は、とにかく計画課という名の付いたところばかりで仕事をしてきた。係長から補佐まで自然保護局の計画課、昭和60年前後の3年間国土庁に出向したがこれも計画課で、戦後4番目の全総計画を作った。平成に入って鹿児島県に出向したが、これも屋久島環境文化村構想なる計画づくりが中心、行き掛けの駄賃で世界遺産登録までやらされた。つい1年前までの計画課長時代は、「生物多様性国家戦略」という自然環境保全長期計画の策定だったし。

 霞ヶ関の役人は多いが、この仕事ほどドラスティックに職場環境が変わる職種も珍しいだろう。いまの私の部屋は霞ヶ関でもっとも高層ビルの最上階26階にあるが、つい5年前までは阿蘇カルデラのど真ん中、人口1万の町で仕事をしていた。こうした現場経験は役人としては(特に霞ヶ関では)じつに強味ですね。

 仕事上は北海道どころか北にはトンと縁のない生活だったが、最終局面?に至って急に故郷の仕事が増えてきた。釧路、サロベツ湿原の自然再生事業、知床の世界遺産登録である。自然再生はまったく新しい公共事業だし、知床も単なる看板掛けではなく、世界に向けてどういう新鮮なメッセージを送ることができるかがテーマであり、楽しみである。


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