特集 北大のキャンパスから水と緑のまち札幌へ
サクシュコトニ川と北大の地底世界

文学研究科 助教授


小杉 康
Kosugi Yasushi

 「パリの地下にはもうひとつのパリがある…」V・ユーゴー著『レ・ミゼラブル』のなかの有名な一節です。「もうひとつのパリ」とはもちろん下水道のことです。北大札幌キャンパスの地下には1つどころか2つの地底世界が埋まっています。ここでは、かつて札幌キャンパスの中を流れていたサクシュコトニ川やセロンペツ川とその地底世界とが密接に関わり合っていたことを紹介いたしましょう。


       2つの地底世界
 札幌キャンパスを1〜2メートル掘り下げると、おおよそ1000年ほど前の擦文文化の遺跡に到着します。さらに1メートルほど掘り進むと続縄文文化の遺跡が顔をだしてきます。今から約2000年くらい前のものです。実は、札幌キャンパスのほぼ全域は遺跡として指定されており、K39遺跡とK435遺跡の2つの遺跡名で呼ばれています。そのためにキャンパス内で建設や土木の工事を行う際には必ず、遺物や遺構の有無を確認するための発掘調査を行わなければならないのです。「サクシュコトニ川再生計画」にともなう土木工事に際しても、その発掘調査は実施されています。しかし全域が遺跡に指定されているからといって、どこを掘っても遺物などが発見されるわけではありません。K39遺跡とK435遺跡と呼ばれるものの正体は、たくさんの遺跡が密集した「遺跡群」というものなのです。そしてそれらたくさんの遺跡は雑然と集まっているだけではなくて、そこには一定の規則性があります。それはかつて札幌キャンパスの中を流れていたサクシュコトニ川とセロンペツ川、及びそれらの前身である埋没小河川に沿うようにして分布している点です。続縄文文化と擦文文化の人々は共にサクシュコトニ川との深い結びつきのなかで生活を展開していたのです。

写真1 札幌キャンパスの地下にはほぼ全域にわたって、バー・コードのような縞模様の地層が堆積しています。人文・社会科学総合教育研究棟のエントランス・ホールには、その真下に堆積していた地層の「剥ぎ取りオブジェ」が展示してあります。(写真はゲストハウス地点。矢印1は約1000年前の擦文文化の文化層。矢印2は約2000年前の続縄文文化の文化層。)

       地下九尺は続縄文の世界
 2001年の春から秋にかけて、人文・社会科学総合教育研究棟の新営工事に先だって発掘調査が行われました。地下2〜3メートルにおいて続縄文文化の集落の跡が発見されました。しかもそこには5枚にも重なった文化層が存在したのです。文化層とは人々が生活を繰りひろげた昔の地面です。当時はサクシュコトニ川の流路が今日ある場所に未だ定まっていませんでした。〈往時、人々は秋になって河川を遡上するサケやマスを集中的に捕獲するために、この場所に季節的に訪れていました。毎年繰り返される遅い春の雪解けによる洪水に見舞われ、土地は徐々に高まってゆきます。次第に周囲よりもだいぶ高まったその場所では、1年間を通しての居住が可能となり、恒久的な竪穴住居や墓地をともなった集落がいとなまれるようになったのです。〉本州や九州では水稲耕作が本格的に開始された弥生文化の頃の出来事です。

写真2 人文・社会科学総合教育研究棟地点で発掘された続縄文文化の竪穴住居址。竪穴の周囲には低い土手がめぐり、入り口は柄鏡の柄のように突出していて寒冷地に適応した構造になっている。

       地下六尺は擦文の世界
 1981〜82年にかけて学生寄宿舎「恵迪寮」建設の際に発掘調査された遺跡は、その名も「サクシュコトニ川遺跡」と命名されたものです。擦文文化の2枚の文化層が確認されました。サクシュコトニ川の流路もほぼ定まり、その周囲には竈を備え付けた竪穴住居が数軒建てられ、川中には杭を打ち込んだ定置漁具(アイヌ語で「テシ」と呼ばれるものに類似する)も設置されていました。発見された「夷」あるいは「奉」の異体字として判読されるヘラで刻した文字をもつ土師器からは本州との強いつながりがうかがえます。また、雑穀類の栽培も行われていたことが明らかになりました。本州では平安時代にあたり、律令体制下の政治的・文化的な影響を多く受けながらも、独自な文化を展開させていった人々の生活の痕跡です。

写真3 サクシュコトニ川地点から出土した刻書のある土師器。刻書の文字を「夷」の異字体で蝦夷を表すと解釈するか、神に奉る意味の「奉」の略字と読むかで議論が分かれる。東北北部から擦文文化の集落へ搬入されたものであろう。

       フィールドからのメッセージ
 現代の高度化した土木工学の技術をもってすれば、サクシュコトニ川規模の小河川であるならば一旦消滅したものを「再生」するのは容易いことなのでしょう。あるいはまったく新しい河川を創成することさえ可能なのです。植生の復元ももちろん可能でしょう。ただし、人々はそこで本当に憩うことができるでしょうか。川には固有の形成史があり、人との関係においてももうひとつの歴史をもっています。そのような時間の深みがあってこそ、その再生された川に私たちは足を向け、しばし憩い、また思索するのではないでしょうか。大学キャンパス内に再生される川はそうあってほしい─考古学の現場からのメッセージです。


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