【対談「総長が訊く」】

「ナイス・トライ!」を合言葉に、
未来ある子どもたちの夢への挑戦を支え、
ともに成長していくことで北海道に貢献する


ゲスト
田中 賢介
学校法人田中学園 理事長

およそ20年もの間、日本プロ野球及びメジャーリーグベースボールの選手としてファンを魅了し、グラウンドを駆け抜けた田中賢介氏。現在では、学校法人田中学園及び社会福祉法人田中学園福祉会の理事長として、保育園、幼稚園、小学校に通うこども達の心を育んでいる。
比類なき大学を目指して改革を進める寳金清博総長が、田中氏にその半生やキャリアの転換、そして教育への情熱がどのように未来の可能性を広げていくのか、その思いなどを伺った。




野球選手という夢の実現、練習と努力の日々

寳金 学園の理事長のみならず、多方面でお忙しいと思います。


田中 すべてを全力でやっているのですが、仕事の中での割合としては、理事長としては70%、それから日本ハムファイターズの選手育成が20%、残りはプロ野球の解説者といった感じです。

寳金 ご出身は福岡県の筑紫野市と伺いましたが、野球との出会いについて教えてください。

田中 野球をしていた兄の影響で、小学校2年生から始めました。毎日のように野球をしていて、プロの世界に入ってからもそうですが、休日にどこかへ出かけるといった経験は少なかったですね(笑)。

寳金 高校はスポーツの強豪校として有名な東福岡高校でしたね。

田中 甲子園には、2年生の春と夏、3年生の夏と、3回出場しました。
 当時、監督に「将来は何になりたいのか」と聞かれて、「プロ野球選手」と答えると、そのための目標を設定してくれました。辛かったですけど、頑張れたのはその目標に向かって導いてくれたおかげです。

寳金 1999年のドラフトで日本ハムファイターズに入団して、プロ野球選手としての道に進まれました。レギュラー定着まで6年余りの時を経ていて意外でした。その間、別の道を考えることはありませんでしたか。

田中 プロ野球選手の平均的な現役期間は7年程度で、僕は7年目でレギュラーになったので結構ギリギリでした。下積みは長かったと思います。
 ただ、チャンスはあると信じていました。特に打つ方に関しては。あとは守る方をどうにかすればと考えていました。


寳金 レギュラーになってからは、ファイターズが特に強さを実感する時期でしたね。

田中 2006年にレギュラーになり、その年に初めて優勝。それから10年ちょっとは本当に黄金時代でした。5回のリーグ優勝と2回の日本一を全て経験しているのは僕だけなんです。

寳金 プロ野球の世界でレギュラーの座を維持するための練習方法やメンタル面について、工夫されたことをお聞かせください。

田中 野球は基本的にいたちごっこです。相手の先を行かないと負けてしまいます。僕は、未来予測をして、大胆に行動することを意識していましたね。だからこそ、結果が出ている時に、思い切って変えてみるということを実践していました。
 特に試合中は未来予測の塊です。打席に立って、直球が来るのか、変化球が来るのかを割り切れる人と割り切れない人がいます。その点、僕は得意だったかもしれません。


新たな挑戦、メジャーリーガーを目指す道を選択

寳金 どのような理由でメジャーリーグに挑戦したのですか。当時は様々な選択肢があり、人生の分かれ道だったと思いますが。

田中 自分の性格のせいか、常にチャレンジしていたいんですよね。そして、ちょっと飽きっぽいところもあるんです(笑)。レギュラーとして続けていけるという感覚はあったんですが、それだけでは何か物足りないと感じることもあって・・。
 その一方で、将来や生活を考えると、やっぱりファイターズに残るべきかとも思いました。かなり悩みましたね。それでも、アメリカに行きたいという思いが勝って、マイナーリーグでの契約を決めました。貯金を切り崩す生活でしたが、アメリカで挑戦したいという気持ちが強かったんだと思います。


寳金 メジャーリーグに挑戦して得たものも多かったのではないでしょうか。

田中 現実は辛いことの方が圧倒的に多かったです。人生には波があります。右肩上がりの人生を歩んでいる時に、逆に波の下に自ら飛び込むことで、実はその波に乗っていけるのかなとも思います。
 そういう意味でも、メジャーへの挑戦という大きな決断は、やっぱり良かったと思いますね。

寳金 その点はとても重要だと思います。北大で言えば、クラーク先生の「Boys, be ambitious」は、単なる口上ではなかったと思います。クラーク先生の人生そのものだったからこそ、人々は共感して、ついてきたんだと思います。学園の教育理念や3つの児童像「Challenge(挑戦)、Collaboration(協働)、Contribution(貢献)」 についても、理事長のアメリカでの経験が大きな影響を与えたのではないかと思います。


北海道への思い、セカンドキャリアの決断

寳金 アメリカから日本に戻る時には、ファイターズに戻りたいという気持ちが強かったのでしょうか。北海道への思いも影響したのでしょうか。

田中 いつかは北海道に戻ってくるつもりでした。アメリカで引退を考えていましたが、体も元気でしたし、またファイターズでプレーできる機会が得られたので、戻るタイミングは良かったです。
 僕は球団が北海道に移転してからレギュラーになったので、生まれは福岡ですけど、北海道で育った印象が強いです。アメリカに行く時も、温かい声援をいただきました。移転当初はチームが負けることも多くて、人気もあまりありませんでしたが、強くなるにつれてどんどん人気球団になっていきましたね。みんなで築き上げた一体感は今も心に残っています。

寳金 今日、一番伺いたかった質問は、プロ野球選手の第二の人生についてです。様々なパターンがあると思いますが、教育分野への転身という選択肢はあまり耳にしたことがありません。


田中 教育をビジネスとは考えていませんでした。60歳ぐらいになったら園長として子ども達に囲まれる生活を思い描いていて、誰にも相談せず、ほぼ一人で計画を立てました。
 最初は幼稚園や保育園を設立しようとしましたがうまく進まなくて、その後、学校法人を取得できたので、小学校を開設しようとしました。だけど、どうやって申請するかもわからなくて、何度も道庁に足を運びましたが、「さすがに一人では書類を書けませんよ」と言われてしまって、行政書士の協力を得て進めることとなりました。
 そんな中、ご縁があって立命館慶祥との連携が実現して、限られた資金で開設に必要なギリギリの規模と面積を確保し、現在の場所で開校することができました。

寳金 札幌に私立小学校をというアイデアは、前例のない発想かもしれませんね。

田中 札幌は公立が圧倒的で、私立をつくるのは型破りなことだったかもしれませんが、札幌にも私立の小学校が必要だと考えていました。進学先がないという声も聞いていたので、解決するチャンスがあると思っていました。
 幼児教育や初等教育が大切だと考えていて、今では、小学校だけでなく、認定こども園、幼稚園、保育園も運営しています。描いていた目標に近づけたのではないかと思っています。


「世界に挑戦する12歳」を北海道から

寳金 理事長として、どのような小学校を目指し、どういった教育を展開していきたいかを教えてください。

田中 技術的な面では、英語とICTに重点を置いていて、学力についても確実に実を結んでいると感じています。次に、心の面では、「学ぶを、しあわせに。」を建学の精神に、新しい自分に出会えるよう、何歳になっても挑戦し続けるというマインドを持つことが、人生を良い方向に導くことになると子ども達には伝えています。合言葉は「ナイス・トライ」です。

寳金 理事長自身がずっと「ナイス・トライ」の人生を歩んできたからこそ、その姿勢が子ども達にも伝わっていると思います。
 それでは、今後の夢や展望について教えてください。

田中 20年経った時に子ども達が北海道のリーダーとなって活躍してほしいというのが願いです。かつて、ソフトバンクが野球界に参入して、大きな変革をもたらしたように、本校も飛び抜けていかなければいけないし、前例を作っていく学校でありたいと考えています。
 学校の規模は大きくありませんが、その分、大胆な挑戦ができます。現在、地方自治体とも連携し、英語や学習支援などの活動も行っています。こういったことも積極的に行っていきたいと考えています。


寳金 プロ野球選手を育てることと、子ども達を育てることの共通点と違いはどういったことでしょうか。

田中 基本的に一緒だと思っています。現状では、プロ野球も小学校も積み上げ式の指導が多いです。一方で、できない壁を克服するという逆算的な指導はあまり行われていません。どちらも重要ですが、そのバランスが非常に大切です。
 もう一つ共通して重要なのは、技術的な面だけでなく、将来の人生をどのように歩んでいけるかです。キャリアが終了してからも生き抜く力を育てることと未来への教育をするということは同じことだと思います。

寳金 理想の将来像から逆算して、するべきことを考えるバックキャストの発想ですね。
 最後に、北海道大学へのメッセージをお願いします。

田中 毎年、ワールドデーというイベントを開催しています。様々な国の方々を招待する中に北大の留学生も参加してくれていて、2日間ほど子ども達と過ごしてもらっています。
 北大は北海道の中心的存在ですし、北大がやるから他もついてくるということが多いと思います。突破力が未来を作っていくと思うので、世界の北大として新たな未来を切り拓いて、突き抜けていってほしいと思います。

寳金 横並びで進もうとすると、周りのペースに合わせなければなりません。未来を切り拓くためには、前に出ていく人が必要だと思います。北海道大学が先頭に立って突き抜けていきたいですね。お互いに「世界に挑戦する人材」の育成を頑張りましょう。
 本日はどうもありがとうございました。

北海道大学総長
寳金 清博
HOUKIN Kiyohiro

1954年、北海道出身。北海道大学医学部卒業。医学博士(北海道大学)。1979年北海道大学医学部附属病院等に勤務。米国カリフォルニア大学デービス校客員研究員等を経て、2000年北海道大学大学院医学研究科助教授、2001年札幌医科大学医学部教授、2010年北海道大学大学院医学研究科教授に就任。2013年北海道大学病院長・北海道大学副理事、2017年北海道大学病院長・北海道大学副学長を歴任し、2020年10月から現職。
学校法人田中学園 理事長
田中 賢介
TANAKA Kensuke

1981年、福岡県出身。1999年プロ野球ドラフト会議2位指名で東福岡高等学校から日本ハムファイターズに入団。2006年からレギュラーに定着し、5度のリーグ優勝、2度の日本一に貢献。2013年アメリカMLBに挑戦しサンフランシスコ・ジャイアンツと契約、同年7月メジャー昇格。アメリカでプレーを続けた後、2015年北海道日本ハムファイターズに復帰、2019年現役引退。日米通算1,634試合出場、ベストナイン二塁手部門6回、ゴールデングラブ賞5回獲得。2020年学校法人田中学園の理事長に就任。2022年4月学校法人田中学園 田中学園立命館慶祥小学校開校。


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